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SUZU ne
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SUZU ne의 작품

もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

愛されないまま十年。孤独に死んだ私は、結婚前に戻っていた。 だから決めたのです。もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません。 ……そう誓ったのに、前世では私を見向きもしなかったはずの侯爵様が、今世ではなぜか私を逃がしてくれません。 遅すぎた後悔なんて要りません。そう思っていたのに。 これは、愛を言葉にできなかった冷徹侯爵と、今度こそ自分の人生を選びたい令嬢の、やり直しの執愛ロマンス。
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Chapter: 第2話 巻き戻った朝の誓い①
 通して、と言ったあとで、リリアーナはすぐに後悔した。 喉の奥がひどく乾いている。掌は冷たいのに、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。胸の中で心臓が速く鳴っている。控えめな足音が廊下を近づいてくるたび、前世の最後に聞いた、あの重く静かな足取りが耳の奥で重なった。 逃げたい。 扉の向こう側へ背を向けて、窓から庭へ降りてしまいたい。そんな衝動が一瞬、幼稚なくらい鮮明に浮かんだ。けれど、もう子どもではいられない。逃げるにしても、まずは現実を見なければならなかった。彼が本当に前世と同じ男なのか。あの涙が、死の間際の錯覚ではなかったのか。そして、自分はこの婚約から、本当に降りられるのか。 ノックは二度、控えめに鳴った。「失礼いたします」 家令の声に続いて扉が開く。先に入ってきたのは伯爵家の使用人で、その背後に、黒い影がひとつ立っていた。 リリアーナは息を止めた。 セドリック・ヴァレンティアは、前世の記憶と寸分違わぬ姿でそこにいた。艶のない黒髪。整いすぎて冷たく見える面差し。高く通った鼻梁。薄い唇。人を射抜く蒼灰色の瞳。朝の光の中にいてもなお、彼だけが夜を連れてきたように見える。 ただ一つだけ、違っていた。 その目が、彼女を見た瞬間に、はっきりと揺れた。 ほんのわずかだ。父や継母なら気づきもしないほど短い乱れ。けれど十年、その冷えた横顔ばかり見てきたリリアーナには分かった。彼は今、驚いている。あるいは安堵している。喪ったものをもう一度見つけた人間のように。 そんな顔を、する資格があなたにあるの。 胸の底で、鋭いものがきらりと光る。 父が慌てたように立ち上がった。「侯爵様。わざわざご足労いただき、恐悦至極に存じます。本来であれば応接間へご案内すべきところ」「構わない」 低い声。短く、無駄がない。前世と同じ響きだった。だがその後、彼は父ではなく、真っ直ぐにリリアーナへ視線を向けた。「急な訪問で申し訳ない。体調が優れないと聞いた」「……少し、朝から気分がすぐれなかっただけです」 自分でも驚くほど、声が細かった。 セドリックは部屋の中央まで進み出たが、それ以上は近づかなかった。距離を測っているようでもあり、うかつに触れれば壊れるものを前にしているようでもあった。黒手袋を嵌めた指先が、ほんの僅かに強張っている。「顔色が悪い」「ご心配には及びま
최신 업데이트: 2026-06-10
Chapter: 第1話 もうあなたの花嫁にはなりません⑤
 部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知ったところで、苦しくなるだけなのに。 胸の前で手を組むと、指先が少し冷たかった。手袋をしていないと、こうしてすぐに手が冷える体質だったことを思い出す。前世では、冬になると指先が白くなり、何度も暖炉にかざした。それを一度だけ、セドリックが見ていたことがある。何も言わなかった。ただ、翌日から書斎にだけ、よく燃える薪が優先的に運ばれるようになった。 あれは偶然だったのだろうか。 ああ、駄目。 そうやって細部を拾い集めてしまうから、私は十年も期待してしまったのだ。 リリアーナは目を閉じ、深く息を吸った。春先の空気は少し湿っている。庭土の匂い。開ききらない蕾の青い匂い。遠い厨房からは煮込みの香りも漂ってくる。生きている。今ここにいる。まだ何も始まっていない。 ならば終わらせられる。 始まる前に。「エマ」 「はい、お嬢様」 控えていた侍女がすぐに応じる。リリアーナは振り返り、できるだけ穏やかに告げた。「便箋と封蝋を用意して」 「お手紙を?」 「ええ。すぐに」 「かしこまりました」 エマが机へ文具を整えていく。その音を聞きながら、リリアーナは自分の鼓動を数えた。一つ。二つ。三つ。やはり早い。怖いのだ。こんな手紙一通で何かが変わるとは思えない。父に握り潰されるかもしれない。侯爵家に届く前に止められるかもしれない。それでも、何もしないよりはいい。 前世の自分は、何もしなかった。 黙って頷き、家のためだと自分に言い聞かせ、与えられた未来へ進んだ。だから今度は、最初に声を上げる。聞き入れられなくてもいい。私は望んでいないと、まず自分で自分に証明するために。 椅子に腰
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Chapter: 第1話 もうあなたの花嫁にはなりません④
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本当に。お姉様、よかったですわね。もうお気にかけていただいているのかもしれません」 マリアンヌの言葉に、食堂の空気がかすかに甘くなる。将来有望な縁談に浮き立つ家族の気配。リリアーナだけが、その場から薄く剥がれたような気分で座っていた。 お気にかけて。 そんなこと、前世では一度もなかった。少なくとも、彼女に見える形では。 最後に泣いたからといって、過去が塗り替わるわけではない。けれど、もし今ここで彼が前世と違う行動を取り始めているのだとしたら、それは偶然ではないのかもしれない。あの涙と何か関係があるのかもしれない。 だとしても。 だとしても、それで何になるの。 リリアーナはカップを手に取った。紅茶の表面から立ちのぼる湯気が、頬にやわらかく触れる。ベルガモットの香り。昔は好きだった香りだ。だが前世では、義母が毎朝同じ香りの紅茶を好んだせいで、途中からこの匂いを嗅ぐだけで胃がきりきりした。 今も、少しだけ胃が縮む。「お父様」 呼びかけると、父が怪訝そうに見た。「なんだ」 「もし……もし私が、この婚約を望まないと言ったら、どうなさいますか」 一瞬。 本当に一瞬だけ、部屋の音が死んだ気がした。 マリアンヌの手が止まる。継母の微笑みが固まる。父は数秒、娘が何を言ったのか理解できない顔をし、それからゆっくりと新聞を卓上に置いた。「……なんだと?」 「仮定の話です」 「そのような仮定に何の意味がある」 「意味はあります。私の意思を確認したいのです」 自分でも驚くほど、声は平坦だった。感情をぶつければ、すぐに未熟だと切り捨てられる。泣けば、婚約前の気まぐれと
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Chapter: 第1話 もうあなたの花嫁にはなりません③
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ行き、同じ沈黙の中で十年を削って、最後にはあの冷たい石畳の上で死ぬのだ。たとえ最後に彼が泣いたとしても、その涙一つで帳消しになるほど、自分の孤独は軽くない。 思い出してはいけないような気もした。それでも、死の間際の彼の顔が焼きついて離れない。蒼灰色の瞳に浮かんでいた絶望。自分の名を呼ぶ声。頬に落ちた熱い雫。 なぜ。 どうして、そんな顔をしたの。 あなたは私を愛していなかったでしょう。 その問いが胸の奥で疼き、腹の底を熱くした。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。ただ、ぐちゃぐちゃに絡まった感情の中心にあるものだけは分かった。 もうたくさんだ。 もう、あんな人生はいらない。「エマ、鏡を」 侍女が急いで手鏡を差し出す。銀の縁に小花の彫刻がある、見慣れた手鏡だった。そこに映った顔を見て、リリアーナはしばらく息を止めた。 若い。 本当に若い。 頬はまだ痩せこけておらず、目の下の影も薄い。睫毛は長く、翡翠の瞳は今よりずっと明るい色をしていた。蜂蜜色の髪は昨夜の眠りで少し乱れているものの、艶があり、痛みも少ない。唇は血色を保っていて、口元にはまだ「侯爵夫人らしい微笑み」の癖が刻まれていない。 知らない顔ではない。けれど、前世の終わりに近づくほど鏡の中にいた女とも違う。 これは、失う前の自分だ。 その事実に、胸のあたりがきゅっと縮んだ。「……戻れるのね」 思わず零れた声は、誰に向けたものでもなかった。エマが「お嬢様?」と首を傾げる。リリアーナは手鏡をゆっくり下ろした。「なんでもないわ」 戻れる。 人生も、選択も、たぶん。 ならば今度こそ、自
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Chapter: 第1話 もうあなたの花嫁にはなりません②
 窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりまとめた、小柄な侍女。侯爵家へ嫁ぐ時には「手のかからない侍女だけを連れていけ」と継母に言われ、連れていくことを許されなかった娘だ。泣きながら見送ってくれたその顔を、リリアーナはよく覚えている。今目の前にいるのは、まだ少し幼さの残る、十九か二十そこそこのエマだった。「……何日?」 「え?」 「今日は、何日……?」 問いながら、指先が震えた。エマは不思議そうに瞬きをして、それでもすぐに答える。「三月の十日でございます」 三月十日。 婚約調印の、四日前。 その数字が頭の中で形を結んだ瞬間、胃の奥がひっくり返るように冷えた。リリアーナは反射的に身を起こし、口元を押さえる。吐き気がこみ上げる。だが吐くものはない。空の胃がきしきしと縮むばかりだった。「お、お嬢様?」 「……水を」 「はい、すぐに」 エマが差し出したグラスを受け取ろうとして、リリアーナは自分の手を見た。 白い。 細い。 指の関節はまだ柔らかく、節くれ立っていない。侯爵夫人として社交に、帳簿に、書簡に追われていた頃よりも、ずっと若い手だった。右手の人差し指の付け根には、前世の終盤、ペンを握りすぎてできた硬い皮膚がない。左の薬指には、金の結婚指輪の痕すらない。 水を飲む。冷たい。透明で、ただの水だ。それだけなのに、喉を通るたびに涙が出そうになった。血ではない。薬草を煮出した苦い鎮静剤でもない。誰かの顔色を窺いながら飲み下す食後のお茶でもない。ただの水が、こんなにやさしいなんて。「顔色が悪うございます。奥様をお呼びいたしましょうか」 「……いいえ」 ほとんど反射でそう答えたせいで、声にわずかな鋭
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Chapter: 第1話 もうあなたの花嫁にはなりません①
 最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だった。花の盛りなどとうに過ぎたと周囲から言われる年齢ではあっても、死ぬには早すぎる。まだ見ていない春があり、まだ歩いていない庭があり、もう二度と着ることはないのだろうと思っていた薄青のドレスを、やっぱりもう一度着てみたかった。 けれど、その時の彼女はもう、何かを望むことに疲れきっていた。 侯爵夫人として十年。笑顔を求められ、沈黙を求められ、我慢を求められ、立っているだけの飾りとして在ることを求められた十年。誰かに「大丈夫」と言われたかった夜は数えきれないのに、その言葉は一度も与えられなかった。熱を出した朝も、誕生日の夜も、侮辱を飲み込んで笑った舞踏会のあとも、夫はいつも冷たかった。必要なことだけを告げ、必要以上には触れず、必要以上には見ない。 だから、最後の最後に自分の前へ膝をついた黒衣の男を見た時、リリアーナはひどく不思議だった。「……リリアーナ」 低く、掠れた声。 雪の上に落ちる炭の欠片のような、重く暗い声だった。聞き慣れたはずの声なのに、こんなふうに震えるのを聞くのは初めてだった。黒髪が乱れている。いつも一分の隙もなく整えられているはずの襟元が崩れている。蒼灰色の瞳は見開かれ、その奥にあるものを、彼女はすぐには理解できなかった。 セドリック・ヴァレンティア。 冷徹侯爵。 彼女の夫。 その男が、血塗れの彼女を抱き起こしていた。抱き上げる腕が強すぎて、砕けそうなほどだった。けれどその強さの中にある震えが、逆に恐ろしかった。「医師を……いや、今さら、違う、馬車を回せ。灯りを寄越せ、誰か、早く!」 あの人が、こんな声を出すなんて。 リリアーナは薄れていく意
최신 업데이트: 2026-06-09
夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜行き先は老舗旅館。追いかけてきても、もう

夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜行き先は老舗旅館。追いかけてきても、もう

夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われ、杠澄乃は本当にその座を譲った。 ただし、譲ったのは夫の隣に置かれた名ばかりの椅子だけ。 家事、義実家の調整、社交、贈答、会社関係の裏方。誰にも見えなかった“妻の座の中身”をすべて置いて、澄乃は子どもたちを連れ、川辺の老舗旅館・水篝館へ戻った。 若旦那の匂坂伊織は、澄乃の過去を無理に暴かず、子どもたちごと受け入れた。 やがて澄乃は水篝館で働き、客室の花、朝餉の支度、湯上がりの茶、常連客への手紙、川辺の灯りを整えながら、少しずつ「ここにいていい」と思えるようになる 妻の座を譲った日から始まった澄乃の人生は、水篝館で家族と宿を育て、愛され、愛しきって、静かに満ちていく。
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Chapter: 妻の中の中身③
「今日の会食ですが」 澄乃は言った。 昌親は湯呑みを置きながら、面倒そうに目を細めた。「何だ」「料亭へ十時半までに最終確認を入れます。甲殻類の件は先方へ伝えてありますが、念のためお店にも再確認をしておきます」「まだやってなかったのか」 その言葉が、台所に落ちた。 澄乃は一瞬、手を止めた。 まだやってなかったのか。 昨夜のうちに一次確認は済ませてある。店側からの折り返しも受けた。ただ、当日の担当者にまで伝わっているかを確かめるだけだ。 そこまでして初めて、失礼が起きない。 澄乃は説明しかけて、やめた。 彼は、結果しか見ない。 問題が起きなければ「普通」。問題が起きれば「なぜ確認しなかった」。その間にある手間は、彼の目には映らない。「最終確認です」 澄乃は静かに言った。「ああ、そう」 昌親はそれ以上聞かなかった。 澄乃は味噌汁の火を止めた。 昌親はまだ台所に立っている。何か言いたげだった。昨夜のことか、瑠璃花のことか。あるいは、澄乃が思ったより普段通りに動いていることへの戸惑いか。 けれど彼は、何も言わなかった。 言葉を選ぶ労力を避けるように、湯呑みを持ったまま食堂へ向かった。 澄乃はその背中を見送った。 昨日までは、その背中を見て、今日の機嫌を測っていた。肩の下がり方。歩く速度。扉の閉め方。そういうものから、朝食の会話量を調整し、義父母の前で余計な摩擦が出ないよう気を配っていた。 それも、仕事だった。 誰にも名前をつけられなかった仕事。 食卓を整えると、義父がやって来た。 久世隆成は、昌親の父であり、会社ではまだ大きな影響力を持つ人だった。現社長ではあるが、実務の多くは昌親に移している。けれど取引先の多くは、いまだに隆成の顔を見て久世家を判断する。 七十近い年齢だが、背筋は伸びている。朝は新聞を広げ、食事に注文をつけるのが習慣だった。「味噌汁は薄くしすぎるなよ」 椅子へ座るなり、隆成は言った。「はい。香りを強めにしております」「香りで腹は膨れん」「卵焼きを少し多めにいたしました」 隆成はそれ以上言わず、新聞を開いた。 澄乃は椀を置きながら、義父の指先を見た。少しむくんでいる。昨日、塩気の強いものを口にしたのかもしれない。薬は飲んだはずだが、念のため朝の血圧を確認した方がいい。 これも、仕事。 
최신 업데이트: 2026-06-10
Chapter: 妻の中の中身②
 親族の慶弔予定は、昼までに見直す。 来週、昌親の従姉の子が入学祝いを迎える。金額は義母の見栄に合わせなければならないが、相手の家に負担を感じさせない書き方が必要だった。さらに、遠縁の叔母の法要が近い。昌親はほとんど会ったことがないと言うが、義父の世代には重要な付き合いだ。欠席するなら、供花と手紙の文面を整えなければならない。 澄乃は、鍋の中で小さな泡が立ち始めるのを見た。 それらは、毎朝の中に紛れ込んでいた。 家事。 そう呼ばれていたもの。 けれど、今こうして一つずつ並べてみると、それは単なる炊事や掃除ではなかった。栄養管理、予定調整、社交実務、秘書業務、贈答管理、親族間の火種の処理、会社の体裁の補助。 名前を変えれば、いくらでも仕事になるものだった。 それなのに、久世家では全部「妻だから当然」の中へ入れられていた。 湯が沸く直前で火を弱め、鰹節を入れる。ふわりと出汁の香りが立つ。澄乃はその香りを吸い込みながら、少しだけ目を伏せた。 当然。 その言葉は、便利な箱だった。 妻だから当然。嫁だから当然。家にいるのだから当然。気づいた人がやればいい。あなたはそういうのが得意でしょう。澄乃なら分かってくれるでしょう。澄乃は怒らないから大丈夫でしょう。 たくさんの言葉が、今朝の台所で静かに形を変えていく。 それは感謝ではなかった。 依頼ですらなかった。 ただ、澄乃の時間を誰かのものとして扱うための、柔らかな命令だった。 土鍋の蓋の隙間から、白い湯気が上がり始めた。 澄乃は蒸らし時間を確かめ、魚を焼き網へ置いた。皮の表面に薄く火が入り、じり、と小さな音がした。魚の脂が落ちる匂いに、出汁と米の香りが混じる。いつもの朝の匂いだった。 この匂いを、昌親は覚えているだろうか。 たぶん、覚えていない。 そこにあるのが当然のものは、人の記憶に残りにくい。 食卓を整える前に、澄乃は壁の時計を見た。六時十五分。昌親が起きてくるまで、まだ少しある。 その隙に、台所の隅に置いてある小さな帳面を開いた。 表紙には「家事覚え」とだけ書いてある。以前、義母から「あなたは細かく書きすぎるわね」と笑われたものだ。澄乃はその言葉に合わせ、ただの覚え書きのような題名にした。 だが、中身は覚え書きというには多すぎる。 月別の献立傾向。義父の血圧の変動と食事内容
최신 업데이트: 2026-06-10
Chapter: 妻の座の中身①
翌朝、澄乃は五時二十分に目を覚ました。 目覚ましが鳴るより、十分早かった。寝室の障子の向こうはまだ薄暗く、夜の名残が畳の端に沈んでいる。掛け布団の中には人の温もりがない。昌親は昨夜、書斎から戻らなかった。 珍しいことではなかった。 仕事が立て込んでいる時、気まずい話のあと、あるいは自分の都合の悪い沈黙を朝まで持ち越したい時、昌親は書斎の長椅子で眠る。最初の頃、澄乃はそれを心配して毛布を持っていった。首を痛めないよう枕を置き、朝には温かい味噌汁を少し薄めに仕立てて、胃に負担がかからないようにした。 今思えば、あれも癖だった。 相手が何も求めていなくても、先に整える。嫌われないように。責められないように。自分が役に立つことで、そこにいてもよい理由を作るように。 澄乃は、しばらく天井を見つめていた。 古い木目の中に、黒く細い節がある。嫁いできた最初の夜にも、眠れずにその節を数えたことを覚えている。あの時は、自分はこれからこの家の人間になるのだと思っていた。慣れない屋敷、硬い空気、義母の視線、昌親の曖昧な優しさ。怖さはあったが、それでも努力すれば居場所ができると信じていた。 七年経って、澄乃は知った。 努力だけでは、居場所にならない場所がある。 役目だけが増え、名前だけが薄くなっていく場所がある。 布団の中で、澄乃はゆっくりと息を吐いた。胸が痛むほどではない。ただ、内側に冷たい石が置かれているようだった。昨日、応接間で聞いた言葉が、遅れて身体の中に沈んでいる。 妻の座を譲ってください。 その言葉を思い返しても、涙は出なかった。 代わりに、頭の奥が妙に冴えていた。 澄乃は起き上がった。布団から出た瞬間、朝の冷気が足首を撫でる。五月とはいえ、早朝の久世家はひんやりとしている。古い屋敷は日中こそ陽を含むが、朝は湿気と冷えが床から上がってくる。 身支度を整え、髪を低くまとめる。 鏡に映った自分は、いつもとほとんど変わらなかった。淡い色の部屋着。薄く結んだ唇。表情を大きく動かさない目。久世家の朝に馴染んだ、静かな嫁の顔だった。 けれど、鏡の中の目だけが違った。 昨夜までの澄乃なら、今日の朝食をどう乗り切るかを考えていた。昌親が不機嫌にならないように。義父母に余計な心配をかけないように。汐見瑠璃花の話題をどう避けるか。もし出た場合、どう受け流すか。
최신 업데이트: 2026-06-10
Chapter: 妻の座を譲れと言われました⑤
「私は、器ではありません」 澄乃は言った。 瑠璃花の瞳が揺れる。「何でも入れておけるものではありません」 その声は、少しだけ低かった。 昌親が目を見開く。 澄乃自身も、自分の声の温度に気づいていた。怒鳴ってはいない。だが、今まで久世家の中で出したことのない硬さがあった。 瑠璃花は唇を噛みかけ、すぐにやめた。爪を傷つけるのを恐れたのかもしれない。彼女は両手を膝の上で握った。「でも、澄乃さんは大人ですよね。私たちのこと、ちゃんと分かってくださるって、昌親さんも」「瑠璃花」 昌親が初めて彼女の名を強く呼んだ。 瑠璃花は肩を震わせた。 その声には、澄乃を庇う響きはなかった。ただ、余計なことを言うなという苛立ちがあった。瑠璃花はそれを敏感に感じ取り、口を閉じる。 澄乃は、そのやり取りを見ていた。 昌親は誰の味方でもない。 自分の立場が悪くならない方へ、ただ身体を傾けているだけだ。 それも、もう分かった。「お話は、分かりました」 澄乃は座卓に手をつき、ゆっくりと姿勢を正した。 畳に触れた指先は、冷たかった。だが、背筋は自然に伸びた。「妻の座は、汐見さんへお譲りします」 瑠璃花が息を飲む。 澄乃は昌親を見た。「ただし、それは私がこの家に残り続けるという意味ではありません」 昌親の表情が変わった。「何を言っている」「そのままの意味です」「少し冷静になれ」「冷静です」 澄乃は、これ以上ないほど冷静だった。 胸の奥は冷え、手先も冷え、目の前の二人の顔が不思議なほどはっきり見えている。瑠璃花の唇の端に残る焦り。昌親の目元に浮かぶ狼狽。座卓に置かれたカップの跡。畳に落ちた細い髪の毛。開いた障子の隙間から入り込む湿った風。 全部が、鮮明だった。「私は、妻の座を譲ります」 澄乃は繰り返した。「けれど、私自身をこの家に残しておく理由はありません」 昌親が唇を開いた。 だが、言葉が出てこない。 彼はきっと、そこまで考えていなかったのだ。瑠璃花を正式な相手として置きたい。けれど澄乃には、これまで通りどこかで家を整えていてほしい。そんな都合のよい曖昧さを、無意識に残していた。 澄乃は、その曖昧さを断った。 静かに。 確実に。「待て」 昌親の声が低くなる。「いきなり出ていくような話ではないだろう」「いきなりではありま
최신 업데이트: 2026-06-09
Chapter: 妻の座を譲れと言われました④
 朝食。洗濯。掃除。夫の世話。義父母への気遣い。そういう、表に出やすいものだけだろうか。 それとも、何も見えていないのだろうか。「必要なことは、分かる範囲でまとめておきます」 澄乃は言った。 瑠璃花は目を輝かせた。「助かります。私、こういう家のことってまだ慣れていなくて。でも、細かすぎると逆に分からなくなってしまうので、簡単で大丈夫です」 簡単。 澄乃は内心で、その言葉に薄く触れた。 簡単にできると思われていたのだ。 七年分の労働が。気遣いが。記憶が。先回りが。怒られないために削ってきた眠りが。感謝されないまま積み上げた手間が。 簡単でいいものとして、受け取られようとしている。 それでも澄乃は、笑みを崩さなかった。「承知しました」 昌親が、少し安堵したように背もたれへ身を預けた。「澄乃」「はい」「そうやって落ち着いて話してくれるなら助かる。俺も、できるだけお前に不利にならないように考える」 できるだけ。 澄乃は、その曖昧な言葉を聞いた。 不利にならないように。 まるで、彼が与える側であるかのような言い方だった。傷つけた側が、傷ついた者へ恩を着せるための柔らかい布。そういうものを、昌親は無意識にいくつも持っている。 以前の澄乃なら、ありがとうございますと答えていたかもしれない。 だが、今は違った。「具体的なことは、改めて書面で確認させてください」 昌親の顔から、安堵が消えた。「書面?」「はい。今後のことを曖昧にはできませんので」 瑠璃花が不安そうに昌親を見る。 昌親は眉を寄せた。「そこまでしなくてもいいだろう。家の中の話だ」「家の中だけの話ではありません」 澄乃は穏やかに言った。「婚姻に関わることですから」 その言葉に、昌親は押し黙った。 瑠璃花は、妻の座という言葉を口にした時ほど晴れやかな顔をしていなかった。座だけが欲しかったのに、その座の足元に冷たい床があると知り始めたような顔だった。 澄乃は、座卓の上のカップを見た。 昌親のカップは空になっている。いつもの澄乃なら、何も言われなくても紅茶を注ぎ足していた。会話の切れ目、相手の喉の渇き、室温、次に口を開く人。そういうものを読んで、自然に動いていた。 その手が、今日は動かなかった。 昌親が空のカップへ目を落とす。 そして、澄乃を見る。 そ
최신 업데이트: 2026-06-09
Chapter: 妻の座を譲れと言われました③
 朝五時半に起きて、義父の血圧と前日の食事量に合わせて味噌汁の塩分を調整すること。義母が機嫌を損ねる前に電話を入れ、通院の車を手配し、薬の残数を確認すること。昌親の会食相手の苦手な食材を覚え、手土産の格を相手ごとに変えること。親族の席順を間違えれば、十年前の不和まで掘り返されること。贈答の花を一つ間違えるだけで、会社の信用に薄い傷がつくこと。 そうしたものを「家のこと」と呼ぶ。 呼ばれてしまえば、誰でもできる雑用に見える。 澄乃も、そう思おうとしてきた。 妻なのだから当然だと。嫁なのだから当たり前だと。昌親が外で働けるように、自分が見えない部分を整えるのは役目なのだと。 けれど、その役目の中身を、この二人は知らない。 知らないまま、座だけを欲しがっている。「汐見さん」 澄乃は言った。 瑠璃花が、背筋を伸ばす。「あなたは、妻の座が欲しいのですね」 瑠璃花は一瞬だけ戸惑った。 その言い方が、彼女の思い描いていた甘やかな勝利と少し違っていたのだろう。それでも彼女は頷いた。「はい」「久世家の嫁として、昌親さんの妻として、義父母のこと、家のこと、親族のこと、会社関係のお付き合いも含めて、引き受けるおつもりなのですね」 瑠璃花の視線が、ほんの少し昌親へ流れた。 昌親は目を合わせない。 澄乃はそのわずかな流れを見逃さなかった。 瑠璃花の望んでいるものは、責任ではない。選ばれた女という立場だ。けれど、立場だけが宙に浮いていることはない。必ず、それを支える仕事がある。 それでも瑠璃花は、負けたくないのだろう。 小さく顎を上げた。「もちろんです。最初は分からないこともあると思いますけど、昌親さんと一緒に覚えていきます」 昌親の指先が、また膝を叩いた。 一緒に覚える。 彼は何を覚えるつもりなのだろう。 自分の母が何時に電話をかけると機嫌がよいかも知らない。父の薬がどの引き出しに入っているかも覚えていない。取引先の妻たちが、どの茶会で誰と揉めたかも知らない。会社の祝い花の札に、どの肩書を入れてはならないかも知らない。 澄乃が教え、整え、見えない場所で直してきたから、彼は知らないままでいられた。 その無知を、澄乃はずっと守ってきた。 今、それをやめるのだと思った。「そうですか」 澄乃は頷いた。 瑠璃花の表情が明るくなる。 昌親は
최신 업데이트: 2026-06-09
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