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第3話

作者: 皆無
「その女の名前は吉岡笙子。吉岡家の隠し子でね、どういうわけか逸人に執着して、なりふり構わず追いかけ回していたのよ」

友人は電話の向こうで、溜息をついた。「ありとあらゆる手を使ったわ。色仕掛けで誘惑したり、挙句の果てには薬を盛ったり……でも安心して。あなたの夫は、毅然と断り続けたそうよ」

安奈の口元に、冷ややかな皮肉が浮かぶ。拒絶したのは逸斗であって、私の夫ではない。

友人は興奮を抑えきれない様子で話を続けた。「どんな手段も通用しないと悟った笙子は、あろうことか自作自演の暴行事件を仕組んだのよ。逸人に自分を救い出させて、運命のヒロインを演じるつもりだったんでしょうね。

でも計算外だったのは、その日の逸人が別の道を通っちゃったこと。挙句の果てに、雇われた男たちが欲に目を眩ませて暴走し、狂言が本物の惨劇になっちゃったのよ。

その一件で彼女は完全に壊れてしまったわ。執拗に逸人に責任を迫るようになった。放火まで仄めかして脅迫したんだけど、結局は墓穴を掘って、自分の顔を無残に焼き爛れさせてしまったの。最後は見る影もなくなった自分の容姿に絶望して、自ら命を絶ったわ。

凄まじい話でしょう?噂を聞いた時は、この笙子って女は本物の狂人だと思ったものだけど……」

その後の言葉は安奈の耳には入ってこなかった。ただ、あまりの理不尽さに眩暈すら覚える。すべては笙子の自業自得ではないか。

それなのに逸人は、理非もわきまえぬ逆恨みで他人に責任をなすりつけ、あまつさえ自分にまで牙を向けている。彼は一体、どれほど狂おしく笙子を愛していたというのか。

心臓を締め付けられるような鈍い痛みに耐えかね、安奈は友人の話を遮って電話を切った。

午後、安奈は法務担当を呼び、株式譲渡の契約書を作成させた。一部の株を新たな名義へと移し替える。この会社は両親が遺してくれた形見だ。決して、このまま奪わせはしない。

夜、仕事を終えて会社を出た安奈は、路肩に停められたマイバッハに背を預けて立つ、スーツ姿の逸人を見て思わず足を止めた。

珍しく呆然としている彼女の様子に、逸人はふっと表情を和らげた。彼は穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ると、慈しむように身をかがめ、安奈の唇へそっと顔を寄せた。「今夜はパーティーがあるだろう? 忘れたのかい?」

安奈は身を引いて、その口づけを避けた。数日前、パジャマ姿でソファに丸まり、テレビを見ながら仕事の話をしていた時に約束したパーティーだ。

わずか数日の間に、世界は天地がひっくり返るほどの変貌を遂げていた。

逸人は彼女の拒絶に不満げな表情を浮かべ、なおも追ってこようとする。安奈は彼を無視して車に乗り込んだ。「仕事が立て込んでいて、忘れていたわ」

逸斗は一瞬だけ呆気に取られたように立ち尽くしたが、すぐに諦めたような苦笑を漏らした。彼は大人しく助手席へ回り、甲斐甲斐しく彼女のシートベルトを締めた。

「君のことだから忘れているだろうと思っていたよ。スタイリストをあちらで待たせてあるし、ドレスも数着取り寄せた。好きなものを選べばいい」

慣れた手つきで世話を焼く姿を見て、安奈の胸には細かな痛みと自嘲がこみ上げた。独りきりで天地が覆るような絶望に沈んでいるのは自分だけで、逸人は最初から最後まで、精巧な仮面を被り続けているのだ。

会場に着くと、二人はまず控え室に向かった。ドレスはすべて安奈の好みに合わせて選ばれており、彼女は適当な一着を手に取った。

メイクを終え、ドレスに着替えて更衣室から現れた安奈を見て、逸人の瞳に感嘆の色が走った。「安奈、君は本当に美しい。君を妻にできたことは、俺の人生で最大の幸運だよ」

その言葉は、まるで真実の愛であるかのように甘く響いた。安奈はそっと視線を落とし、瞳の奥に宿る皮肉を覆い隠した。

パーティーが始まり、二人は手を取り合って入場し、挨拶回りを始めた。

やがて二人は、安奈にとって極めて重要な取引先の田中亮宏(たなか あきひろ)の前で足を止めた。礼儀正しく言葉を交わしていたが、会話が弾むにつれ、亮宏がふとした拍子に笙子の話題を口にした。

「葉山社長、お二人の仲睦まじいお姿を拝見していると、ふと藤原社長をかつて追い回していた女性を思い出しましてね。あの吉岡家の隠し子ですよ。

まったく、あれはとんだ狂女でした。藤原社長も、そんな人間に付きまとわれて災難でしたな。きっと相当嫌っておられたのでしょう?」

逸人の顔から笑みが消えた。しかし、亮宏は空気を読まずに続ける。「藤原社長が彼女を拒絶した理由が今ならわかります。あの狂った女は、葉山社長の足元にも及びませんからな」

逸人の腕を組んでいた安奈は、彼の筋肉が岩のように硬く強張るのを感じた。その怒りが、すでに沸点を超えていることは明白だった。

胸を突き上げるような不穏な予感に、安奈は慌てて亮宏の言葉を遮ろうと口を開きかけた。

だが、それよりも早く、逸人が突如として激昂した。目の前の亮宏を蹴り飛ばして、陰惨で恐ろしい声を絞り出した。「笙子のことを、貴様ごときが軽々しく口にするな」

彼は亮宏の上に馬乗りになり、機械的にその顔を殴りつけ始めた。その瞳は凍てつくように冷たく、狂気に満ちている。

「彼女が誰に劣るかなど、貴様に言われる筋合いはない。ところで、外で囲っている愛人たちのこと、奥方はまだ知らないだろう?俺が直々に教えてやってもいいんだぞ」

安奈はその光景を目の当たりにし、顔面蒼白になった。亮宏は会社にとってとても重要で、失うわけにはいかない。

「逸人!」

震える声で叫ぶが、今の逸人の耳に届くはずもない。安奈は彼を引き剥がそうと前に出たが、彼は煩わしそうに彼女を突き飛ばした。「どけ!」

ハイヒールを履いていた彼女はバランスを崩し、背後のシャンパンタワーへと倒れ込んだ。無数のグラスが轟音と共に崩れ落ち、安奈は割れたガラスの山の上に倒れ伏した。膝や肘、体中の至る所に鋭い痛みが走る。

遠のく意識の中で、彼女はかつて自分を守ってくれた逸人を思い出していた。あの時は自分を助けるために命さえ懸けてくれたのに、今は……

瞳の奥に、深い自嘲が滲む。かつての慈しみはすべて幻に過ぎず、この無残な光景こそが、目を背けようのない真実なのだ。

会場の人々は好奇の目を向けて遠巻きに二人を眺め、ひそひそと交わされる陰口が、安奈の耳に冷たく突き刺さる。

「どういうことかしら。藤原社長は笙子を嫌っていたはずじゃなかったの?彼女が死んでから愛に目覚めたとでもいうの?」

「そのようね。でなければ、あんなに我を忘れて暴れるはずがないわ。葉山社長との仲睦まじい姿も、結局はただの演目だったってわけね」

握りしめた拳に、ガラスの破片が深く食い込んでいく。うつむいたままの安奈は、まるで衆人環視の中で服を剥ぎ取られ、路頭に晒されたかのような屈辱に震えていた。これほどまでに無惨な辱めを受けたことは、人生で一度としてなかった。

その間も、逸人は周囲の目など一顧だにせず、なりふり構わず亮宏を殴り続けている。心臓を抉られるような思いで、安奈は血の滲む地面に手をつき、這いつくばるようにして立ち上がった。一歩、また一歩と会場を後にする彼女の足跡には、痛々しい鮮血が点々と残されていた。

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