LOGIN
颯太は、菫と出会った頃のことを思い出していた。当時の彼女は、まだ一介のアシスタントにすぎなかった。質素な服を着て、化粧っ気のない素顔には、白百合を思わせるような清らかさがあった。高級ブランドに興味を示すこともなければ、見栄を張ることもない。そんな飾り気のない雰囲気に、颯太は強く惹かれた。この人こそ運命の相手だと、本気で信じていたのだ。だが、菫はそんな颯太の想いを鼻で笑った。「お金に興味がない人間なんて、いるわけないでしょ?あなたにお金がなかったら、私が近づくわけないじゃない。そんなこと、本気で信じていたの?笑わせないで。あなたはここで一人、惨めに生きていけばいいのよ」彼女は乱れた服を整えると、そのまま部屋を出て行こうとした。この首の傷を見せれば、修司はきっと同情してくれる。うまくいけば、修司との関係も元に戻せるかもしれない。そんなことを考えながら扉へ向かった、その瞬間だった。扉を開けた菫の行く手を、二人の警察官が塞いだ。「1月15日に発生した藤原家への住居侵入および傷害事件の件で、あなたに容疑がかかっています。署までご同行ください」菫の顔色が、みるみるうちに変わった。「ち、違う……私、関係ない!」その背後から、颯太の怒鳴り声が響く。「お前か……!俺をここまで落ちぶれさせたのは、お前だったのか!母と枝里にまで手を出したのも、お前だったのか!」捜査が進むにつれ、事件の全貌は次第に明らかになっていった。犯行グループは、もともと藤原家に強い恨みを抱いていた。彼らの会社は颯太によって倒産に追い込まれ、両親はその衝撃で脳出血を起こして倒れた。すぐに病院へ運び込まれたものの、手術費も入院費も工面できず、家族は途方に暮れていた。菫はその窮状につけ込んだ。見舞いを装って彼らのもとを訪れ、治療費を渡す代わりに、すべては枝里が裏で颯太を焚きつけたせいだと吹き込んだ。そうして彼らの怒りを藤原家へと向けさせ、憎しみを煽っていった。それだけじゃない。藤原家に侵入する日時や場所まで、菫が細かく指示していたことも判明した。取調室でも、菫は声を枯らして容疑を否認し続けた。だが、動かぬ証拠の前では、どんな言い逃れも通用しない。犯行グループの供述。菫とのやり取りの記録。さらに、彼らへの送金記録――
やはり、私の予想は当たっていた。……兄の颯太が立ち上げた会社は、鳴り物入りで始動し、盛大なオープニングイベントまで催したものの、肝心の取引を申し出る企業はほとんど現れなかった。最初こそ、藤原家の名に敬意を払い、まずは小規模な案件から持ちかけようとする企業もいくつかあった。だが、颯太はそんな話には見向きもしなかった。それどころか、相手を鼻であしらうような態度で切り捨てた。「その程度の投資額で、よく俺に話を持ちかける気になったな」その言葉は瞬く間に広まり、やがて彼の会社に近づこうとする者はいなくなった。オフィスの空気は、日に日に重く沈んでいった。菫もまた、最初のうちは颯太を後ろ盾にして強気に振る舞っていた。だが、売り上げは立たず、経営は下り坂を転げ落ちていき、菫の表情にも次第に焦りが浮かぶようになっていった。「颯太……まずは、小さいところからでも始めてみたほうがいいんじゃない?一つでも形になれば、次にもつながるかもしれ……」菫がためらいがちにそう口にした瞬間、颯太は険しい顔でその言葉を遮った。「俺が失敗するとでも思ってるのか?菫まで俺を信じないのか?」血走った目で睨みつけられ、菫はひゅっと息をのんで、その場に立ち尽くした。唇がかすかに動いたものの、結局何も言えなかった。颯太の手元に残されていたのは、わずかな預金だけだった。残高は、たった50万円。その数字を見るたびに、眠れない夜ばかりが増えていく。そして、ある深夜。颯太はついにプライドをかなぐり捨て、かつて門前払いした相手に、あらためて連絡を取った。だが、返ってきたのはにべもない拒絶と、あからさまな嘲りだけだった。それを聞いた瞬間、颯太は手にしていたスマホを床へ叩きつけた。「くそっ……!どいつもこいつも……!」歯を食いしばるようにしてその言葉を絞り出した。だが、やり場のない怒りは少しも収まらない。今の彼には、もはや打てる手など何ひとつ残されていない。菫は床に散ったスマホの破片を拾い上げながら、颯太の怒鳴り声を黙って聞いていた。その瞳の奥で、熾火のような何かが静かに揺らいだ。菫は、藤原家が本気で颯太を見放したことを敏感に察した。彼女はすぐに、修司へと狙いを変えた。毎日のように甘いメッセージを送り続けた。だが、返事は一通として来な
兄は両親に向かって、荒い口調で言い放った。「もういい。頭を下げる必要なんかない。こんな家、こっちから願い下げだ。菫、行くぞ」私は顔を背けた。吐き気がする。あんな白々しい茶番、もう見たくない。前世、私が死ぬ間際、兄は同じことを何度も口にしていた。「菫の遺書には、全部お前が仕組んだことだって書いてあった。わざと俺を呼び戻して、菫をひとりにしたところで手をかけたってな。菫を死に追いやったのもを追い詰めたのも、お前だ」前世の私は、彼がただ菫に惑わされているだけだと思っていた。けれど、今なら分かる。兄は、すべての元凶が自分だと、どうしても認めたくなかったのだ。それだけじゃない。兄はずっと、私に死んでほしいと思っていた。私さえいなくなれば、気が楽になれる――そう信じていたのだ。「待て」父が不意に、冷え切った声で言った。「出て行くなら、藤原家のものには一円たりとも手をつけるな」兄は言葉を失った。まさか父がここまで突き放すとは、思ってもみなかったのだろう。「父さん……」「出て行け!」父は怒鳴り、兄の言葉を遮った。兄は菫の肩を抱いたまま、振り返りもせず病室を出ていった。「藤原家?ふん。俺がいなきゃ、こんな家に価値なんてない。後継者になるのは俺だ。どうせそのうち、お前たちの方から頭を下げて迎えに来ることになる」病室は再び静まり返った。母は塞ぎ込んだまま、父もほとんど何も言わなかった。二人とも、兄のことでひどく心を痛めているのが分かる。「お母さん、心配しないで。私が何とかするから」私は母の手を握り、静かに言った。母は少し安心したように微笑んで、私を見つめた。「枝里、本当に頼もしくなったわね」父は、一度口にしたことを必ずやり遂げる人だ。兄からは、ほどなくしてすべての役職を解かれた。会社の公式サイトでは、私が後を継ぐことが正式に発表され、父は自ら取締役会を開き、その決定を正式に対外発表した。一方で、兄はあっという間に会社から切り離された。兄のクレジットカードは止められ、これまで当然のようについていた送迎もなくなった。藤原家の屋敷にも戻れなくなった兄は、やむなく急ぎで借りた高級マンションに身を寄せるしかなかった。兄の怒りは、もはや隠しようもなかった。彼は会う相手ご
兄はすぐに私を指さし、怒りを露わにして言い放った。「俺のせいじゃない!今回のこと、全部枝里の仕業だ。菫に嫉妬して、俺と菫の邪魔をするために、強盗が押し入ったなんて嘘まででっち上げたんだ!」「もういい!」母が鋭い声で遮った。「よくそんなことが言えるわね!たった一人の女のために、家族の安全を少しも顧みないなんて……!颯太、あんたには本当に失望したわ」病室に駆けつけた私は、そこで初めて事情を知った。母は怪我を負ってからも、何度も兄に電話をかけていた。けれど、何度かけても、兄は出なかった。そのうえ、意識が朦朧とする中、侵入者が兄に電話をかけたことまであった。母は、その通話の内容を聞いてしまったのだ。――「殺したいなら勝手に殺せばいい。俺は今、菫と流星群を見てるんだ。邪魔するなよ。ほんと、いい迷惑なんだ」実の息子にそこまで冷たく突き放されて、母の心もすっかり冷え切ってしまったのだろう。兄は顔をしかめたが、それでも自分は悪くないと言わんばかりに言い返した。「そんな都合のいい偶然があるかよ。俺が菫を連れて家を出た直後に、侵入者が押し入るなんてありえるか?母さん、枝里に騙されるな!あれは自演だ。俺を陥れるために仕組んだ芝居に決まってる!」その歪んだ理屈と、揺るぎない思い込みには、呆れて言葉も出なかった。この期に及んで、私が自分や母の命まで危険にさらしてまで、こんな真似をしたと本気で思っているのか。私は母の手を握り、そっと手の甲をさすった。少しでも落ち着いてほしかったのだ。母の顔色は青白く、呼吸も荒い。兄の言葉にひどく怒っているのが、はっきりと伝わってきた。「そんな子に育てた覚えはない!」母は声を震わせ、悲しげな目で兄を見つめる。「たった一人の女のために、妹も母親の私も切り捨てるの?颯太、もう本当に失望したわ……」その言葉に、兄は激昂した。羞恥と怒りに顔を歪め、声を荒らげた。「母さん、何言ってるんだよ!俺が母さんを見捨てるわけないだろ!母さんまで枝里に丸め込まれたのか!先に言っとく。あいつをこの家に置くなら、俺は出ていく。あいつを海外へ追いやらないなら、俺は親子の縁を切るからな!」彼は強気な態度を崩さず、脅しを隠そうともしなかった。きっと、こう考えているのだろう。自分は
菫はすかさず兄の胸に身を寄せ、涙声で泣き出した。「やめて……私のせいで二人がこんなふうになるの、嫌だよ……」兄は振り返るなり、鋭い目で私を睨みつけた。その顔には、隠しきれない嫌悪が浮かんでいる。「菫はちゃんと人の気持ちを考えられるし、あれだけ気を遣ってくれてたんだ。少しは感謝したっていいくらいだ!それなのに、なんでお前はあんな態度しか取れないんだ。今すぐ菫に謝れ!」兄は私の手首を乱暴に掴むと、そのまま容赦なくベッドから引きずり落とした。治療したばかりの左脚に激痛が走り、傷口が開くんじゃないかと思うほどだ。不意を突かれて膝をつき、冷たい床に手をついた。頭の奥で、甲高い耳鳴りが響く。兄は険しい顔のまま、冷たく言い放った。「立て。菫に謝れ」私は嗤うように兄を見返した。胸の奥で渦巻く怒りに、理性が焼き切れそうだ。「兄さん、教えてよ。彼女なんて、少し前までただの他人でしょ。どうして私を踏みつけにしてまで、彼女を庇うの?私は兄さんの実の妹なのに!」兄は私を見下ろしたまま、口元だけで皮肉っぽく笑った。「実の妹?」私は一瞬、息を呑んだ。「枝里。お前は昔からそうだ。いつだってお前が上で、俺はその下だった。藤原家の長男は俺なのに、気づけば何もかもお前が先だった。父さんの目も、期待も、何もかもお前に向いてたんだよ!」兄の声はさらに冷たさを増し、吐き捨てるように続けた。「そんなお前を、どうやって妹として見ろっていうんだ。けど菫は違う。ちゃんと人の気持ちを考えられるし、俺の気持ちだって分かってくれる。それに比べてお前はどうだ。昔から上から目線で口を出して、何かあるたびに俺を馬鹿にしてきた。女のくせに社長にまでなって、その上俺の仕事にまで口を出してくる。そのくせ、家族のための縁談一つ受けようともしない。俺の友人がお前を望んだんだ。黙って頷けばそれで済んだ話だろ。まさか修司に何か期待してるのか?あいつがお前を本気で愛してるわけないだろ」胸の奥がすうっと冷えていった。私がこれまで積み重ねてきたものも、兄との絆だと信じてきたものも、兄には何ひとつ届いていなかった。兄が私に向けていたのは、嘲りと憎しみだけだったなんて、信じたくなかった。幼い頃、父は仕事に追われていた。母の関心も、病弱な兄
手術室の明かりは、まだ消えていない。閉ざされた扉の向こうで何が行われているのか、私には何ひとつ分からない。拳を握りしめたまま、扉の前に立ち尽くしている。全身がこわばり、少しでも気を抜けば、その場に崩れ落ちてしまいそうだ。背後から、重い足音が近づいてくる。修司だ。修司は私の脚に目を落とし、低い声で言った。「枝里、そのけが……せめて診てもらえ。君が治療を受けてる間、ここは俺が見てる。真澄おばさんのことは、何か分かったらすぐ伝えるから」「いい加減にしてよ」振り返った私は、血走った目で修司を睨みつけた。「母をあなたなんかに任せられるわけないでしょ」修司の顔がさっと青ざめた。何も言い返せず、苦しげに黙り込んだ。それでも修司は私のそばを離れず、兄の颯太に電話をかけた。早く戻れと、焦りを隠さない声で告げる。静まり返った廊下に、電話の向こうの兄の苛立った声がやけにはっきり聞こえた。「お前まで枝里の嘘に付き合ってるのか。あいつは昔からそうだろ。俺を帰らせたくて、また話を盛ってるだけだ」修司は声を荒らげた。「いいから早く帰ってこい!本当に誰かが侵入したんだ。真澄おばさんも枝里も怪我をしてる!」兄は鼻で笑った。「分かったよ。菫と流星群を見終わったら帰る。それに、枝里だって死ぬような怪我じゃないんだろ」そのまま通話は切れた。修司はすぐにかけ直したが、返ってきたのは無機質なアナウンスだけだった。胸の奥に、失望すら湧かなかった。あんな兄に、とっくに期待なんてしていない。そのあと修司は医者を呼び、私は手術室の前で応急処置を受けた。左脚は骨折していた。ほかにも何か所も傷めているらしく、腫れも痛みも増していくばかりだ。あんな脚でよくここまで来られたものだと、今さらながら思う。修司が何度もこちらを見ているのは分かっている。悔いを滲ませた目をしていたけれど、今の私にはどうでもいい。ただ、手術室の扉だけを見つめている。日付が変わる頃、ようやく手術室の明かりが消えた。やがて疲れた顔をした医師が現れ、搬送が早かったことが幸いでした、と告げた。ただ、今後しばらくは無理を避けて、静養が必要になるという。その言葉を聞いた瞬間、私は顔を覆い、こらえきれずに泣いた。お母さんは助かった。そう思った瞬間、