LOGIN国境なき医師団の申請が通ったあと、私は市立病院の院長職を竹下陽菜(たけした ひな)に譲った。 それを聞いた親友は、私のことを思って怒ったように言った。 「あなたが行っちゃったら、川口くんとの縁なんて自分で断つようなものよ」 私は穏やかに微笑んだ。 「私はただ、彼をずっと想い続けてきた人のところに返してあげるだけよ」 前の人生で、私と川口徹也(かわくち てつや)は界隈で知らない者のいない、憎み合う夫婦だった。 彼は、私が陽菜の代わりに国境なき医師団へ行かなかったせいで、彼女が感染して死んだと恨んでいた。 あれほど陽菜を愛しているのなら、どうして私の両親に「一生面倒を見る」と約束できたのかと、私はその偽善さと滑稽さを恨んでいた。 七年の結婚生活で、私たちが互いに最も多く口にした言葉は「ろくな死に方をできないよ」だった。 だが銃弾が飛び交う戦場で、心臓を撃ち抜かれた彼は最後の力で私を抱きかかえるようにして庇った。 「迎えはもう手配した……掃射が止んだら走れ。いいか……必ず生きろ……」 意識が遠のく中、彼はかすかな声で呟いた。 「この一生でお前を守った……だから来世では……もう出会わないように。 陽菜……いま行くよ……」 けれど、上空から落ちた爆弾は私に逃げる間すら与えず、私たちをまとめて吹き飛ばした。 次に目を開けたとき、私は結婚前夜に戻っていた。 徹也。今回の人生は、私があなたの願いを叶えてあげる。
View More流れすぎた血のせいだろうか、彼の手はもう、あの頃のような温もりと厚みを失っていた。「……ばか女。まだ死んでない。泣くなよ。お前が泣くと、俺が苦しくなる」耳元でその弱々しい声を聞いた瞬間、胸の奥にあった重い石がようやく静かに落ちた。あの日から、私は片時も彼のそばを離れなかった。視界は少しずつ回復して、見える範囲も広がっていった。でも――私は炎には言わなかった。彼を驚かせたいのだ。けれど、彼の退院の日。私の視界は完全に暗闇に閉ざされた。「あさ……あさみ、だい……じょうぶだ。俺は……お前を……嫌ったりしない」私は拳で彼の胸を叩き、鼻水まじりに笑った。「もし私を嫌ったりしたら、あなたのそばに最後まで残ってくれる女なんて、この世界のどこにもいないんだからね!」「そ、そうだな……朝美ちゃんは俺の……いちばんだ」あの戦争のあと、炎は私の勧めで東洋との協力を決断した。彼が資金を出し、東洋が技術を提供し、ガルリヤ国のような南半球の国々を東洋の保護国として支援することになった。そして私はある家族の集まりで、初めて知った。なぜ彼が自分の支配下にある大都市を離れるまで、戦火の地・ガルリヤに留まり続けたのかを。彼は静かに言った。「……俺の母親は、五十年前にこの地に足を踏み入れた最初の国境なき医師だった」まるで安っぽい恋愛小説のような話だった。彼の父は母を力ずくで奪い——その結果、炎が生まれた。だが同時に、父は知ってしまった。その女には東洋に家族があり、すでに二人の子どもがいたことを。嫉妬に狂った父は最愛の人を――自らの手で殺した。幼い炎の心に残ったのは、「母は自分を捨てた」という記憶だけ。だから彼は憎んだ。母を、そして東洋の女を。……それでも彼は結局、父と同じだった。東洋の女を愛してしまったのだ。時間は静かに過ぎていった。養女は一人前になり、養子は医学界で名を馳せる外科医となった。私はただ、車椅子の上で静かに息をしていた。穏やかに、そして笑みを浮かべながら。夢の中で、私は炎に会った。彼はやはり、あの場所で私を待っていた。「待たせたね、菅野さん」「いいや。お前なら、どれだけ待ってもいい」――番外編――私が息を引き取ったあと、手から滑り落ちた一枚の便箋が白髪の男の足
「でも……もう、いらないの」私は彼に握られて痛む自分の手を引き抜いた。表情は穏やかで、声も静かだった。けれど、彼はまだ諦めようとしなかった。そして、私がずっと前に捨てた虎のぬいぐるみを、無理やり手の中に押し込んできた。「朝美ちゃん、見て。この虎、俺がゴミ捨て場で見つけてきたんだ。ちゃんと縫い直した。ほら、俺たちの関係だって同じさ。修復できる。きっと元に戻れるんだ!」狂気に近い声に、私は胸の奥まで締めつけられた。本当は、彼を傷つける言葉をそのまま吐き出すつもりだった。でも、結局その言葉は喉の奥で消えた。私は深呼吸して、気持ちを整え、できるだけ穏やかな口調で言う。「徹也、あなたが言ったように、一回目の人生の私たちを見たのなら分かるはずよ。この人生で私たちはもう二度と交わらないの。お互いを干渉しないこと――それが一番の贈り物なの。分かってくれる?」徹也は首を振り、次の瞬間、私を強く抱きしめた。まるで、私を自分の体の一部にしてしまおうとするかのように。「違う、そんなはずない。お前を連れて帰る。国に帰れば全部忘れられる。俺はお前だけを愛して、お前を守る。菅野炎なんかより、百倍でも千倍でも、一万倍でも幸せにしてみせる。だから……一緒に帰ろう!」「そういう問題じゃないの!」私は全身の力を振り絞り、彼を突き飛ばした。そして、点滴スタンドを手探りで掴み、見えない相手に向かって振り回した。「私たちはもう終わったの!あなたが陽菜のために、何度も私の信頼を踏みにじった時に。私の痛みをえぐって、『お前なんか愛される価値もない』って言った時に、もう全部――終わってたのよ!」私の顔に浮かぶ怒りと拒絶の色を見て、一瞬でも引くかと思った。だが彼は違った。すべての過ちを陽菜のせいにし始めたのだ。かつて命より大事にしていたはずの女を今は狂ったように罵り、否定していた。その姿を見て、私は彼女のために――少しだけ涙が出そうになった。やがて、徹也は疲れたように黙り込む。しばらくの沈黙のあと、病室の扉が閉まる音がした。私はようやく肩の力を抜き、点滴スタンドをそっと元に戻した。だがその瞬間――獣のような気配が、突然私の上に覆いかぶさってきた。体が押し倒され、服が乱暴に裂かれる感触——恐怖と無力感が瞬時に私を飲み込ん
彼の寄付と避難民の受け入れに、人々は感謝の言葉を惜しまなかった。その時になって初めて、私は気づいた。ここにいる子どもたち――いや、全員の胸元に、「S」と刻まれた小さなバッジがついているのだ。誰かが私に教えてくれた。このバッジは私のパスポートと同じ意味を持つのだと。どこにいても、必ず誰かが彼らを故郷へ連れ帰り、守ってくれる。子どもたちに囲まれて、ぎこちない笑みを浮かべている炎の姿を見た瞬間、なぜか私は顔が熱くなった。彼と視線が交わったその瞬間、胸の奥で何かが自然と芽生えた気がした。――あの夜は私が生まれ変わってから、一番心の底から笑った夜だった。私はたくさん飲んで、たくさん喋って、何度も炎の手からローストチキンを奪い取った。多分、また見間違いかもしれないけれど――炎が一瞬、私に顔を寄せ、唇を重ねようとした気がした。その瞬間、私は本気で願った。どうか、時間がこのまま止まってほしい、と。けれど、人生は残酷なものだ。――砲弾がどの方向から飛んできたのか、もう分からなかった。ただ覚えているのは炎が私をしっかりと抱きしめ、一歩も動かなかったということだけ。女たちの悲鳴、子どもたちの泣き声が耳の奥で響き、私のすぐ傍では護衛たちが次々と倒れていく音がした。まるで、体に鉄槌を叩きつけられているようだった。私は泣きながら彼に叫んだ。「放して!私は医者よ!あの人たちを助けなきゃ!」けれど返ってきたのは、彼の強く、揺るぎない拒絶だった。「だめだ。今のお前は医者じゃない。お前は――俺の愛する人だ。俺の務めはお前を守ることだ」私が言葉を発する間もなく、銃弾が彼の背中を貫いた。けれど、私には一滴の血も届かなかった。その時になってようやく気づいた。彼は、私の知らないうちに防弾ベストを私に着せていたのだ。温かい血が私の頭の上から伝い落ちていく。――この瞬間、私は初めて怖くなった。この二ヶ月しか知らない男が、本当にこのまま死んでしまうのが怖かった。胸の奥で声が響いていた。もし彼が死んだら、この世界で私を愛してくれる人はもう誰もいない、と。彼の体温が少しずつ消えていくのを感じながら、私は何もできなかった。ただ泣き叫び、神にすがるように祈るしかなかった。けれど、彼の呼吸が弱ま
「そいつの毛を一本でも抜いたら、お前を国境なき医師団の基地に戻してやる!」「本当ですか?」彼の言葉を最後まで聞く前に、私は食い気味にそう言った。その瞬間、高台からは罵声とため息が入り混じったざわめきが起こった。金髪で碧眼の連中にとって、手足も華奢で、しかも片脚を引きずっている東方の女である私はただ死にに行くだけの存在にしか見えないだろう。だが、どうでもよかった。誰が私が命懸けであの熊と戦うつもりだと言った?炎は下に立つ女の自信ありげな表情を見つめ、胸の奥で奇妙な感情を覚えていた。期待――彼女が勝つことへの。そして、もし本当に死んでしまったらどうしよう、という焦燥。鉄の檻の鍵が開いた瞬間、黒い熊は獲物を求めて猛然と私に突進してきた。炎はそのあまりに残酷な光景を見たくなくて目を閉じ、心の中で私の無事を祈る。だが、いつまで経っても肉が裂ける音も、悲鳴も聞こえてこなかった。代わりに、会場全体がどよめきに包まれた。私は地面に落ちていた石を素早く拾い、熊のいくつかの急所に正確に投げつけたのだ。その爪が私に届くわずか一センチの距離で、巨体は静かに地に伏した。私は熊の背に足を乗せ、毛を一本引き抜き、それを炎の方へとふっと吹きかけた。だが、さっきまでの動きで体力を使い果たしていた。脚の傷も再び裂け、ローストチキンを口にする前に私は意識を失った。――気のせいだろうか。倒れる瞬間、私は確かに誰かの腕の中に落ちた。木の香りがして、それは炎と同じ匂いだった。炎は腕の中で眠る女を見下ろし、口元が思わず緩んだ。「……よかった。お前が勝って」そのわずかな笑みが、闘技場を一瞬で騒然とさせた。八大家族がざわめき始める。「どうした?菅野様、今……笑ったか?」「急げ、最上級の宝石を探せ!未来の王妃様への贈り物だ!」二十年以上炎に仕えてきた執事でさえ、口ひげを撫でながら目を細めて呟いた。「坊っちゃん……こんなに楽しそうなのは、本当に久しぶりですな」もちろん、私はそんなこと何も知らなかった。彼らの親切や賞賛は、私が熊を倒した勇敢さに圧倒されたせいだと思っていた。私はただほっとしていた。炎の専属医師として過ごす間、ガルリヤ国では一度も戦火が起こらなかったからだ。けれど、彼は少しずつ
reviews