로그인流れすぎた血のせいだろうか、彼の手はもう、あの頃のような温もりと厚みを失っていた。「……ばか女。まだ死んでない。泣くなよ。お前が泣くと、俺が苦しくなる」耳元でその弱々しい声を聞いた瞬間、胸の奥にあった重い石がようやく静かに落ちた。あの日から、私は片時も彼のそばを離れなかった。視界は少しずつ回復して、見える範囲も広がっていった。でも――私は炎には言わなかった。彼を驚かせたいのだ。けれど、彼の退院の日。私の視界は完全に暗闇に閉ざされた。「あさ……あさみ、だい……じょうぶだ。俺は……お前を……嫌ったりしない」私は拳で彼の胸を叩き、鼻水まじりに笑った。「もし私を嫌ったりしたら、あなたのそばに最後まで残ってくれる女なんて、この世界のどこにもいないんだからね!」「そ、そうだな……朝美ちゃんは俺の……いちばんだ」あの戦争のあと、炎は私の勧めで東洋との協力を決断した。彼が資金を出し、東洋が技術を提供し、ガルリヤ国のような南半球の国々を東洋の保護国として支援することになった。そして私はある家族の集まりで、初めて知った。なぜ彼が自分の支配下にある大都市を離れるまで、戦火の地・ガルリヤに留まり続けたのかを。彼は静かに言った。「……俺の母親は、五十年前にこの地に足を踏み入れた最初の国境なき医師だった」まるで安っぽい恋愛小説のような話だった。彼の父は母を力ずくで奪い——その結果、炎が生まれた。だが同時に、父は知ってしまった。その女には東洋に家族があり、すでに二人の子どもがいたことを。嫉妬に狂った父は最愛の人を――自らの手で殺した。幼い炎の心に残ったのは、「母は自分を捨てた」という記憶だけ。だから彼は憎んだ。母を、そして東洋の女を。……それでも彼は結局、父と同じだった。東洋の女を愛してしまったのだ。時間は静かに過ぎていった。養女は一人前になり、養子は医学界で名を馳せる外科医となった。私はただ、車椅子の上で静かに息をしていた。穏やかに、そして笑みを浮かべながら。夢の中で、私は炎に会った。彼はやはり、あの場所で私を待っていた。「待たせたね、菅野さん」「いいや。お前なら、どれだけ待ってもいい」――番外編――私が息を引き取ったあと、手から滑り落ちた一枚の便箋が白髪の男の足
「でも……もう、いらないの」私は彼に握られて痛む自分の手を引き抜いた。表情は穏やかで、声も静かだった。けれど、彼はまだ諦めようとしなかった。そして、私がずっと前に捨てた虎のぬいぐるみを、無理やり手の中に押し込んできた。「朝美ちゃん、見て。この虎、俺がゴミ捨て場で見つけてきたんだ。ちゃんと縫い直した。ほら、俺たちの関係だって同じさ。修復できる。きっと元に戻れるんだ!」狂気に近い声に、私は胸の奥まで締めつけられた。本当は、彼を傷つける言葉をそのまま吐き出すつもりだった。でも、結局その言葉は喉の奥で消えた。私は深呼吸して、気持ちを整え、できるだけ穏やかな口調で言う。「徹也、あなたが言ったように、一回目の人生の私たちを見たのなら分かるはずよ。この人生で私たちはもう二度と交わらないの。お互いを干渉しないこと――それが一番の贈り物なの。分かってくれる?」徹也は首を振り、次の瞬間、私を強く抱きしめた。まるで、私を自分の体の一部にしてしまおうとするかのように。「違う、そんなはずない。お前を連れて帰る。国に帰れば全部忘れられる。俺はお前だけを愛して、お前を守る。菅野炎なんかより、百倍でも千倍でも、一万倍でも幸せにしてみせる。だから……一緒に帰ろう!」「そういう問題じゃないの!」私は全身の力を振り絞り、彼を突き飛ばした。そして、点滴スタンドを手探りで掴み、見えない相手に向かって振り回した。「私たちはもう終わったの!あなたが陽菜のために、何度も私の信頼を踏みにじった時に。私の痛みをえぐって、『お前なんか愛される価値もない』って言った時に、もう全部――終わってたのよ!」私の顔に浮かぶ怒りと拒絶の色を見て、一瞬でも引くかと思った。だが彼は違った。すべての過ちを陽菜のせいにし始めたのだ。かつて命より大事にしていたはずの女を今は狂ったように罵り、否定していた。その姿を見て、私は彼女のために――少しだけ涙が出そうになった。やがて、徹也は疲れたように黙り込む。しばらくの沈黙のあと、病室の扉が閉まる音がした。私はようやく肩の力を抜き、点滴スタンドをそっと元に戻した。だがその瞬間――獣のような気配が、突然私の上に覆いかぶさってきた。体が押し倒され、服が乱暴に裂かれる感触——恐怖と無力感が瞬時に私を飲み込ん
彼の寄付と避難民の受け入れに、人々は感謝の言葉を惜しまなかった。その時になって初めて、私は気づいた。ここにいる子どもたち――いや、全員の胸元に、「S」と刻まれた小さなバッジがついているのだ。誰かが私に教えてくれた。このバッジは私のパスポートと同じ意味を持つのだと。どこにいても、必ず誰かが彼らを故郷へ連れ帰り、守ってくれる。子どもたちに囲まれて、ぎこちない笑みを浮かべている炎の姿を見た瞬間、なぜか私は顔が熱くなった。彼と視線が交わったその瞬間、胸の奥で何かが自然と芽生えた気がした。――あの夜は私が生まれ変わってから、一番心の底から笑った夜だった。私はたくさん飲んで、たくさん喋って、何度も炎の手からローストチキンを奪い取った。多分、また見間違いかもしれないけれど――炎が一瞬、私に顔を寄せ、唇を重ねようとした気がした。その瞬間、私は本気で願った。どうか、時間がこのまま止まってほしい、と。けれど、人生は残酷なものだ。――砲弾がどの方向から飛んできたのか、もう分からなかった。ただ覚えているのは炎が私をしっかりと抱きしめ、一歩も動かなかったということだけ。女たちの悲鳴、子どもたちの泣き声が耳の奥で響き、私のすぐ傍では護衛たちが次々と倒れていく音がした。まるで、体に鉄槌を叩きつけられているようだった。私は泣きながら彼に叫んだ。「放して!私は医者よ!あの人たちを助けなきゃ!」けれど返ってきたのは、彼の強く、揺るぎない拒絶だった。「だめだ。今のお前は医者じゃない。お前は――俺の愛する人だ。俺の務めはお前を守ることだ」私が言葉を発する間もなく、銃弾が彼の背中を貫いた。けれど、私には一滴の血も届かなかった。その時になってようやく気づいた。彼は、私の知らないうちに防弾ベストを私に着せていたのだ。温かい血が私の頭の上から伝い落ちていく。――この瞬間、私は初めて怖くなった。この二ヶ月しか知らない男が、本当にこのまま死んでしまうのが怖かった。胸の奥で声が響いていた。もし彼が死んだら、この世界で私を愛してくれる人はもう誰もいない、と。彼の体温が少しずつ消えていくのを感じながら、私は何もできなかった。ただ泣き叫び、神にすがるように祈るしかなかった。けれど、彼の呼吸が弱ま
「そいつの毛を一本でも抜いたら、お前を国境なき医師団の基地に戻してやる!」「本当ですか?」彼の言葉を最後まで聞く前に、私は食い気味にそう言った。その瞬間、高台からは罵声とため息が入り混じったざわめきが起こった。金髪で碧眼の連中にとって、手足も華奢で、しかも片脚を引きずっている東方の女である私はただ死にに行くだけの存在にしか見えないだろう。だが、どうでもよかった。誰が私が命懸けであの熊と戦うつもりだと言った?炎は下に立つ女の自信ありげな表情を見つめ、胸の奥で奇妙な感情を覚えていた。期待――彼女が勝つことへの。そして、もし本当に死んでしまったらどうしよう、という焦燥。鉄の檻の鍵が開いた瞬間、黒い熊は獲物を求めて猛然と私に突進してきた。炎はそのあまりに残酷な光景を見たくなくて目を閉じ、心の中で私の無事を祈る。だが、いつまで経っても肉が裂ける音も、悲鳴も聞こえてこなかった。代わりに、会場全体がどよめきに包まれた。私は地面に落ちていた石を素早く拾い、熊のいくつかの急所に正確に投げつけたのだ。その爪が私に届くわずか一センチの距離で、巨体は静かに地に伏した。私は熊の背に足を乗せ、毛を一本引き抜き、それを炎の方へとふっと吹きかけた。だが、さっきまでの動きで体力を使い果たしていた。脚の傷も再び裂け、ローストチキンを口にする前に私は意識を失った。――気のせいだろうか。倒れる瞬間、私は確かに誰かの腕の中に落ちた。木の香りがして、それは炎と同じ匂いだった。炎は腕の中で眠る女を見下ろし、口元が思わず緩んだ。「……よかった。お前が勝って」そのわずかな笑みが、闘技場を一瞬で騒然とさせた。八大家族がざわめき始める。「どうした?菅野様、今……笑ったか?」「急げ、最上級の宝石を探せ!未来の王妃様への贈り物だ!」二十年以上炎に仕えてきた執事でさえ、口ひげを撫でながら目を細めて呟いた。「坊っちゃん……こんなに楽しそうなのは、本当に久しぶりですな」もちろん、私はそんなこと何も知らなかった。彼らの親切や賞賛は、私が熊を倒した勇敢さに圧倒されたせいだと思っていた。私はただほっとしていた。炎の専属医師として過ごす間、ガルリヤ国では一度も戦火が起こらなかったからだ。けれど、彼は少しずつ
「専属医師なんて、菅野さん、他の名医をお探しになった方がいいですよ!」私が荷物を掴んで踵を返したその瞬間、弾丸が私の足元に撃ち込まれた。けれど、私はもう一度死んだ身だ。こんな脅し、今さら怖くもない。私は素早く身を伏せ、よく研がれた短刀を抜き、炎に突き刺そうとした。「東洋の女は、みんなそんなに無鉄砲なのか?」炎の目は冷ややかだったが、その瞳の奥には凍えるような冷気が宿っている。「度胸はあるな。だが――まだ足りん!」言葉が終わるか終わらないうちに、弾丸が私のこめかみをかすめた。焼けつくような痛みが全身を駆け抜け、手の中の短刀が地面に落ちて澄んだ音を立てた。それでもまだ足りないと思ったのか、炎は私の足に向けてもう一発撃った。致命傷ではなかったが、肉が裂けて骨がのぞくほどの深い傷が刻まれた。切れ長の美しい目には、私の恐怖と狼狽が映り込んでいた。その瞬間、私は思った。報道も、ニュースの記事も――彼を美化しすぎていたのだ。これは狼なんかじゃない。まさに地獄の猟犬だった。私は深く息を吸い、できるだけ冷静を装った。「菅野さん、私は特級院区から派遣された医師です。もし今日ここで私を殺したら――私の国が、あなたを放っておくと思いますか?」炎は手を上げ、私の顎を掴んで無理やり顔を上げさせた。「それで?ガルリヤ国では戦火が絶えん。医者が一人二人死ぬなど、よくあることだ。そんなことで俺を脅すとは……愚かだな」そう言って、彼は銃口を私の眉間に押し当てた。「祖国に伝えておこう。お前がどれほど勇敢だったか、とな」銃の中で弾がわずかに動く音がした瞬間、正直、私は怖くなった。一度死んだことがあるとはいえ、二度目はさすがにごめんだった。「待って!」私は反射的に彼の手を掴み、陽菜が徹也を手玉に取ったときの手口を真似した。涙を浮かべ、わざと甘く、挑発するように笑った。「菅野さん……あなたの言うとおりにします。専属医師になります」多分、私の演技があまりにも下手で呆れたのか、あるいは――炎がこういう女に弱いのか。まさか、あの人の目にほんのりとした照れが浮かんだように見えた。……そんなはず、あるのだろうか。その正体を確かめる間もなく、炎は部下を呼びつけ、私を部屋へ押し込んだ。医療箱だ
一時に、すべての護衛軍の銃口が徹也に向けられた。彼が衝動で取り返しのつかないことをし、軍人としての一生を棒に振るのを恐れるのだ。その光景に、陽菜の顔色は一気に青ざめた。まさか徹也が橋本朝美(はしもと あさみ)のためにここまでできるとは、思いもしなかったのだろう。彼女がまた芝居を打とうとしたその時――情報センターが突如、特級レッドアラートを鳴らした。「ガルリヤ国南区で戦火再燃、死傷者大幅増加!」「前倒しで出発した国境なき医師団は全員戦死。各地区は医師を増派し、ガルリヤ国へ支援に当たれ!」放送の冷たい声が響くのを聞いて、徹也は一瞬、現実感を失った。脳裏に浮かんだのは、一回目の人生で――彼と朝美が爆発に巻き込まれ、血肉が飛び散ったあの瞬間。違う……そんなはずがない。命よりも自分を大事にしてくれた朝美が、あっさり自分から離れるわけがない!軍人としてのプライドなど、もうどうでもよかった。徹也は拳銃を放り捨てると、そのままで部隊に申請し、軍装のまま軍用ヘリの操縦席に飛び乗った。私は前倒しで出発していたため、ガルリヤ国へ直行便がなく、中東で一夜を明かした。そのおかげで、あの戦火には巻き込まれずに済んだ。だが、現地に降り立った瞬間、目の前の光景が全身を震わせた。転がる死体、手足の欠損した負傷者、彼らは私を見ると弱々しく呻いた。だが一目で分かった――助かる見込みはなかった。私にできたのは彼女と腕の中の子に強力な鎮痛薬を渡し、死へ向かう僅かな時間だけでも痛みを和らげてあげることだった。集合地点へ着いた時には、もう夕暮れだった。ここは空港以上に血の匂いが濃かった。専用の医療服に着替えるや否や、黒服の護衛に両側を支えられ、手術室へと引きずり込まれた。手術台の男は血まみれだったが、私はひと目で分かった――彼こそが西半球の経済と制度を握る男、菅野炎(すがの えん)だった。実物を見るのは初めてだったが、彼についての伝説と手腕は熟知している。冷酷無情。アジアンでありながら東洋の女を徹底的に嫌う男。一回目の人生、陽菜も私と同じように彼の手術を担当させられた。だが技術不足と恐怖心から、弾丸を取り出す際に心臓の大動脈を切ってしまい、炎は即死した。事後、彼の護衛はすぐに陽菜を殺さなかった。