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第8話 謝れ

作者: 花崎紬
入江紀美子は手元の仕事を片付け終えた頃、まだ時間があったので、彼女はカバンを持って出社した。

エレベーターを出ると、森川晋太郎と狛村静恵の姿が見えた。

「入江さん、もう体は大丈夫なの?」

静恵は心配そうな口調で話しかけてきた。

「大分よくなったわ。心配かけてごめん」

紀美子は晋太郎の顔を見ずに静恵に答えた。

「いいのよ、あなたが早く治れば、社長のお仕事を肩代わりできるんだから」

そう言いながら、静恵は長い髪を耳の後ろにまとめ、わざと耳たぶのホクロを見せつけてきた。

「社長、後でお食事に行くとき、入江さんも連れて行きましょうか?」

「いい、彼女はやるべきことがある」

晋太郎は冷たく返事した。

そう言って、晋太郎は静恵の腕をとり、エレベーターに乗った。

紀美子は空気を読んで一歩下がり、何事もなかったかのような顔で二人の横を通っていった。

午後8時。

紀美子はまとめ終わったスケジュールを晋太郎に送った。

疲れで割れそうな頭を揉みながら会社を出ると、杉本肇が少し離れた所に立っていた。

「晋様に、入江さんを家まで送れと言われました」

「大丈夫よ、自分で帰るから」

紀美子は断った。

「入江さん、ちょっと話したいことがあります」

「なに?」

紀美子は無気力そうに尋ねた。

「晋様が、入江さんの体調が良くないので使用人を雇いました。その人が今、ジャルダン・デ・ヴァグで待っています」

晋太郎は一体何をしようとしているのだろう、と紀美子は眉を顰めた。

自身の憧れの人と一緒にいながら、私を手放さない。

紀美子は心の中であざ笑った。

自分はあの女と共に晋太郎に仕えるほど下賤ではない。

彼女は再び断ろうとしたが、肇は声を低くして言った。

「入江さん、狛村さんの身分はまだ確定していませんので、ご自分の為にも、もう少し抗ってみませんか?」

「杉本さん、この世の中、感情なんかより、お金のほうがずっと重要だわ」

紀美子は嘲笑気味に肇に言い放った。

話を終わらせ、紀美子は肇の傍を通って帰っていった。

「晋様、入江さんはジャルダン・デ・ヴァグに帰らないと断ってきました」

肇は軽くため息をつき、後ろの席に座っていた晋太郎に報告した。

晋太郎は唇をきつく噛みしめ、その様子は威圧感があった。

「ならばもう永遠に帰ってこなくていい!明日あいつの荷物を全部捨て、できるだけ遠くへ消えてもらえ!」

「……はい」

翌朝。

紀美子はノックの音で目が覚めた。

疲れが溜まった体でドアを開けると、肇が大きな段ボールを手に、入り口の外で待っていた。

紀美子は暫く黙ってから、無言に肇が持ってきた段ボールを受け取った。

「おもてなしできるものがなくてごめんね」

紀美子は荷物を片付けながら淡々と肇に言った。

肇は何か言おうとしていたが、紀美子は待たずに冷たくドアを閉めた。

「晋様、入江さんのお荷物を返してきました」

ジャルダン・デ・ヴァグに戻ってきた肇はソファに座ってコーヒーを飲んでいる晋太郎に報告した。

晋太郎は返事せず、コーヒーカップを置いて手元の契約書を開いた。

「社長、入江さんの住むところですが…」

肇は我慢できず、晋太郎に尋ねた。

話が終わらないうちに、晋太郎の携帯電話がいきなり鳴り始めた。

彼は携帯をスピーカーフォンにすると、静恵の爽やかな笑い声が聞こえてきた。

「今日の昼ご飯は外に行かないで。私が美味しいお料理をご馳走するわ」

「何を作った?」

晋太郎の眼差しは幾分と優しくなった。

その二人の会話を聞くと、肇は紀美子が戻ってこなくてよかったのかもしれないとさえ思った。

「狛村静恵の身元を洗い出せたか?」

電話を切り、晋太郎は肇に尋ねた。

「狛村さんの養父母に連絡が取れましたので、もうすぐ情報が入ってくるはずです」

晋太郎は眉を顰めた。

静恵は、子供の頃に自分を助けたことを細かく覚えているが、性格が彼の記憶の中のものとは随分違った。

彼女はこれまでに何があったのだろう、と晋太郎は気になっていた。

……

翌日、MK社。

紀美子が秘書室に入ると、窓越しに1人で晋太郎の事務所に座っている静恵の姿が見えた。

静恵も丁度こちらを眺めていたので、二人は目が合った。

彼女は目に少し笑みを浮かべ、テーブルの上の弁当箱を持って紀美子の事務所に入ってきた。

「入江さん、この間の面接のこと、そろそろ忘れてもらえないかしら?」

「人の作品を盗んだのに、恥ないの?」

紀美子は彼女の顔を見て問い詰めた。

「話を逸らさないで!」

「今、この場で跪いて謝りなさい!」

静恵は上から目線で言った。

「そんな約束をした覚えはないわ」

紀美子はあざ笑いをして返事した。

「へえ、たかが性欲発散の道具の分際で、随分と気が強いじゃない。残念だけど、その強がりは私から見れば、一銭の価値もないわ。あなたは金の為なら自分の体をも売る下賤な女でしかない。そんなあなたが、私に跪いて謝ることは、当たり前でしょ?」

紀美子は晋太郎の前では確かに卑賎だが、静恵の前では決して違う!

「狛村さん、言葉に気をつけなさい。でないと、たとえあんたが森川社長の女だとしても、容赦しないわよ!」

紀美子は冷たく静恵に注意した。

「はっ?あんた、売春婦のくせに、私に説教をする立場?」

静恵の話が終わると、紀美子は迷わず彼女の顔にビンタを入れた。

「あなた、よくも私の顔を殴ったわね!」

静恵は打たれて赤く腫れた顔を押さえながら叫んだ。

「さっき注意したはずだわ、言葉に気をつけなさいって」

紀美子の肌白い顔に霜が被っていた。

静恵は全力で紀美子に反撃しようとした時、横目で既に入り口の前まで来ている晋太郎が見えた。

そしてすぐ、静恵は一瞬でぽろぽろと涙をこぼした。

「入江さん、私はただお弁当を持ってきてあげただけなのに、何でいきなり殴ってくるの?」

静恵はわざと声を高くして悲鳴を上げた。

彼女の声は、見事に晋太郎の注意を引いた。

静恵のその打たれた手形が残っている頬を見て、晋太郎は一瞬で黙り込んだ。

彼は大きな歩幅で秘書室に入ってきた。

静恵の傍まで来ると、彼は眉を寄せながら彼女の顔を見つめた。

「どういうことだ?」

晋太郎の声は怒気を帯びていた。

「晋太郎さん、私はただ入江さんに食べ物を持ってきただけなのに、いきなり顔をビンタされたんです」

静恵は涙をこぼしながら晋太郎の懐に飛び込んだ。

「入江さんに、食べ残しを持ってきて自分を侮辱した、とまで言われたのよ…」

「静恵にそんなことをするなど、その度胸はどこから来たんだ?!」

晋太郎は怒鳴って紀美子を問い詰めた。

紀美子は怒りを押さえながら、嘘まみれの静恵を睨んだ。

彼女が説明しようとした途端、また晋太郎の怒鳴りが聞こえてきた。

「静恵に謝れ!」
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