Masuk義兄を救うため、温井紬(ぬくい つむぎ)は長谷川慎(はせがわ しん)と結婚した。隠れた夫婦として三年。体の関係はあっても、心が通うことは一度もなかった。 余命宣告を受けたその日のこと。夫は愛人と夜空に花火を打ち上げ、二人きりで祝杯を挙げていた。出所したばかりの義兄も、別の女を抱きしめたまま「生涯でたった一人の運命の人」と世間に公表する始末だ。 普段は冷たく、人の心など知らない男たちが、揃いも揃って恋人を高らかに披露する光景――それを見て、紬はようやく悟った。もう待つ意味なんてない、と。 離婚届に判を押し、仕事も辞めた。家族とも完全に縁を切った。 それから紬は、ずっと胸に秘めていた夢を解き放つ。周囲から「所詮は専業主婦」と嘲笑われていた彼女が、気づけば科学技術分野の最高峰へと駆け上がっていた。 ところが、ある日突然、紬の隠していた正体と余命わずかな病が世間に知れ渡ってしまう。 自由気ままだった義兄は、目を真っ赤に腫らして懇願してきた。「紬、頼む。もう一度だけ『お兄ちゃん』って呼んでくれないか」 あれほど冷酷だった慎も、今度は狂ったように縋りついてくる。「紬、俺の命をやる。だから、どうか俺を置いていかないでくれ……」 でも、紬の心はもう動かない。 遅すぎる愛ほど、安っぽいものはないのだから。 そんなもの――今さら、欲しいとも思わなかった。
Lihat lebih banyak人々はようやく悟ったのだ。世羅など、彼にとって最初から何でもなかったのだと。理斗の心を本当に奪っていたのは、今や賀来の妻となった、あの笑美なのだと。見かねた聖也が何度か笑美の元を訪ね、理斗のことを一度でも会ってやってくれないかと頼み込んだこともあった。だが、笑美の返事は毎回同じだった。「あの妹さんが、喜んで彼を慰めてくれるんじゃないのか?」その冷徹な言葉に、聖也は完全に言葉を失うしかなかった。理斗はおよそ三ヶ月もの間、荒れた日々を送った。そしてついに退役を申請し、西京市にある支社へと腰を落ち着けることを選んだ。少しでも、笑美の近くにいられるように。当然、その不穏な話は承一の耳にも入り、彼は穏やかではいられなかった。承一は数日かけて、家での笑美の様子をじっくりと観察した。笑美は相変わらず毎日よく食べてよく眠り、承一に対しても、以前の幼馴染のような遠慮のない調子で接している。かつての恋人が近くに来たという動揺など、微塵もない。ただひとつだけはっきりしているのは——笑美は、理斗の動向などもう微塵も気にしていなかった。誰かから理斗の噂が耳に入っても、「ふーん」と生返事をするだけだ。笑美自身も、自分のこういうところは紬に少し似ているかもしれないと思っていた。自分に釣り合わない人間のために、いつまでも長く沈み込んだりはしない。一番後腐れのない選択をして、一度決めたら過去を振り返らず迷わず前に踏み出す。ひとつのことに執着して自分をすり減らしたりはしないのだ。理斗が今どこで何をしていようと、笑美は完全に平然としていられた。本当に、完全に手放したのだ。徹底的に傷ついた果てに、彼女は新しく生まれ変わった。でも……笑美は手元から視線を上げ、少し離れた場所にいる承一をちらりと見た。彼は航空宇宙工学の分厚い専門書を手にしているが、さっきから何度も同じページをめくるばかりで、一向に二ページ目へと進まない。しかもよく見れば、本をさかさまに持っている。明らかに、理斗が西京市に移ってきた件で気が散っているのだ。笑美は、手元のチョコレートバーをかじった。この数ヶ月、二人は夫婦として「愛を育んでいる」最中だった。だから、夫婦らしい親しい仕草は、まだない。なにしろ長年の「親友」から突然夫婦へと転換したのだ。それ
もし理斗が本気で調べたなら、すべてが露見する……世羅は必死に落ち着こうとした。しかし、とっさの動揺は隠しきれるものではない。理斗は実は、ただ鎌をかけただけだった。だが、世羅がその一瞬に見せた致命的な動揺を、理斗は見逃さなかった。笑美が言ったことには、一言の嘘もなかった——それが完璧に証明されたのだ。これ以上の答えはもう必要なかった。今になって、ついにすべてがはっきりとつながった。世羅が、笑美を理斗から引き離したのだ。三年という月日をかけて仕組んで、ついに二人の仲を完全に引き裂いた。それに気づいた瞬間、理斗の目は抑えきれない怒りで赤く染まった。世羅を見下ろす眼差しには、むき出しの憎悪だけが宿っていた。「……世羅、お前のやり方は反吐が出る。俺に何もしてこなかったあいつを、そこまで貶めておいて、それで俺に好かれると本気で思ったのか?」身をかがめ、涙を滲ませて怯える世羅の顔に近づいた。以前は、この涙がいつも理斗を動かしてきた。笑美への「罪滅ぼし」という理斗の心理を、彼女は巧みに利用してきたのだ。だが今の理斗の目には、ただ凍りついた冷酷な光だけが残っていた。世羅の顎をつかみ、骨が砕けそうなほど力を込める。「お前にその資格はない。ドブ鼠みたいなお前は、あいつの足元にも及ばない!」今日、理斗は完全に壊れていた。かつての同情も、後ろめたさも、もはや跡形もなく消え失せていた。残ったのは、煮えたぎるような怒りだけだった。そうやって世羅にすべての責任を押し付けるしか、笑美に対する耐え難い罪悪感を少しでも和らげる方法がなかったのだ。わかっていた。自分自身が「面倒を避けて逃げ続けなければ」、事態はここまで悪化しなかった。理斗もまた、笑美を一番近くで傷つけ続けた一人だったのだ……世羅が悪人だというのなら、自分は一体何なのか。「お兄ちゃん……違うの、誤解してる。私がどれだけあなたを大切に思ってるか、わかってるでしょ……」世羅は心底慌てていた。今の理斗は、まるで別人のようだった。完全に壊れてしまっている。笑美を永遠に失った痛みが、彼を極端で凶暴な男に変えてしまったのだ。理斗は冷酷に言い放った。「お前は悪人だ。そしてお前の母親は共犯者だ。清水家の財産を少しでも横取りしようと、娘を俺に近づけようと画策した。
理斗はその場に崩れ落ちるように、床に座り込んだ。まるで、体の中から全部を抜き取られてしまったかのようだった。一方、聖也は外の車の中で、途方もなく長い時間を待ち続けていた。日が暮れても一向に理斗が出てこない。心配になり、車を降りて敷地内へ入ると、そんな光景が目の前に広がっていた。聖也の顔色が変わった。こんなにも無惨に壊れた理斗の姿など、これまで見たことがなかった。あれほど恵まれていた男が、これほどみじめな姿を晒すことになるとは。「理斗?どうしたんだ?」聖也が駆け寄り、声をかけた。だが、理斗の耳にはもう何も届いていないようだった。赤く血走った目は焦点が合わず、ただ虚空をぼんやりと見つめている。彼はずっと、ここで一人で座り込んでいたのだ。笑美は、出てこなかった。その現実が、今の彼のすべてを物語っていた。聖也はこれ以上もたもたしていられず、力任せに理斗を引き起こし、強引に外の車へと連れ出した。車のドアの前まで来たとき、理斗が突然狂ったように抗い始めた。「行かない!俺は帰らない!笑美はまだ俺を許してないだけで、今はただ怒ってるだけで……!」完全に理性を失い、取り乱していた。聖也は気が気でなくなり、理斗の胸ぐらを掴むと思い切り拳を叩き込んだ。「目を覚ませ!彼女がただ感情的になってるだけなら、あんな大勢の前で大ごとにするわけないだろうが!世間全員に知れ渡ったんだぞ!彼女は、お前との間に戻る退路を一切残さなかったんだよ!」しかも、事態は恋愛問題だけでは済まない。理斗の実家である清水家は完全に顔に泥を塗られた。進行中だったいくつかの大きな取引も今日だけで白紙になり、株価にまで影響が及び始めている。影響は広範囲に及び、もはや個人の小さな問題では片付けられない規模だった。これから片づけなければならない泥沼の事後処理が山ほどあるのだ。その事実が、再び理斗の心を刺し貫いた。全身を痙攣のように震わせたまま、彼は立ち尽くした。わかっている。自分でも痛いほどわかっているのだ。自分はただ——この耐え難い現実から逃げているだけなのだと。聖也が深くため息をついた。「理斗、俺たちは大人なんだから、自分がしでかしたことの責任は取れ。子どもでもわかる話だぞ」その言葉が、理斗の心の奥に眠っていた何かを揺り起こ
笑美は小さく息を吐き、理斗を避けるように一歩退いた。「遅すぎるんだよ。何もかも、もう手遅れなんだ、理斗。私はあなたに、いくらでもチャンスをあげた。無数のチャンスを。でも私はいつだって、あなたの『第一順位』じゃなかった。あなたは心のどこかで、私がどんな扱いをされても、最後には全部受け入れると思い込んでいた。……あなたを愛していた頃の私に、あなたは甘やかされすぎたんだよ。理斗、人の感情は変わるものなんだ。あなたが何度も世羅を選ぶたびに、あなたには私の悲しみが見えていたはずだ。でもあなたは『後で処理する』という道を選んで、見えないふりをした。自分が間違っていることもわかっていた。でも、私が愛しているから、どんな思いも自分の中で消化してくれると高を括っていた。……全部わかっていたのに、あなたはただ、私のことを十分に大切にしなかっただけなんだよ」笑美は、理斗が自分を大切にしていなかったとは今でも思っていない。だが彼は、彼女の愛をあまりにも軽く見ていた。笑美の愛を利用して、面倒な問題を後回しにしてきたのだ。彼女の機嫌を取ることも、関係を守ることも。笑美はどうせ自分から離れないと確信していたから。その甘えが、何度も無神経に繰り返された結果だった。笑美の言葉を聞く理斗の顔が、さらに白く抜けていった。心の奥底でずっと見ないふりをしてきた、だが確かに存在していた自分自身の傲慢さが、白日の下に晒されたのだ。笑美を愛していながら、あまりにも自惚れていた。今さらになって気づくなんて。理斗は構わず、すがるような急いた声で弁明した。「世羅はあの年、雪山で怪我をしたんだ。それには、お前が絡んでいる。だから俺が責任を——」その言葉が落ちた瞬間、笑美の脳内で、バラバラだったすべてのピースがつながった。あの頃から、二人の関係が変わっていった本当の理由が、ようやくはっきりとわかったのだ。世羅が数年前に足に怪我を負ったことは知っていた。スキーリゾートの山の奥で事故があったと聞いていた。お見舞いに行こうとした笑美を、理斗はずっと頑なに止め続けていた。そして今、彼はこんなことを口走った。笑美は、震える声で言った。「……あなた、私が彼女を傷つけたと思ってるのか?」理斗は黙り込んだ。笑美はふっと空虚に笑った。自嘲なのか、何な
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