名前を呼ばれない妻〜地獄の義家族ごと捨て去り、五人の子を置いて既婚初恋と禁断の愛に堕ちる〜

名前を呼ばれない妻〜地獄の義家族ごと捨て去り、五人の子を置いて既婚初恋と禁断の愛に堕ちる〜

last update최신 업데이트 : 2026-08-17
작가:  なつめ최근 업데이트
언어: Japanese
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37챕터
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夫の両親と同居し、五人の子どもを育てながら、スーパーでフルタイム勤務を続ける御厨紬。家でも職場でも尊厳を奪われ、食卓には彼女の席さえない。頼れる実家もなく、夫は家庭を顧みない。そんなある日、レジに立つ紬の前へ、かつて家族の命令で手放した初恋の人が現れる。彼もまた、幸せとはほど遠い結婚生活の中にいた。

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1화

登場人物

御厨 紬(みくりや・つむぎ)

38歳。旧姓は久世。五人の子どもを育てる主人公。

身長157センチ。もともとは細身で端整な顔立ちだったが、慢性的な睡眠不足と栄養不足により、頬がこけている。長い黒髪は美容院へ行く余裕がなく、自分で切って一つに結んでいる。手は洗剤と水仕事で荒れ、腕には火傷や引っかき傷が絶えない。

我慢強く、料理、家事、介護、家計管理をすべて高い水準でこなす。観察力と記憶力に優れているが、幼少期から「姉なのだから我慢しなさい」と教え込まれ、自分の苦しみを訴えることができない。弱いのではなく、抵抗する権利そのものを奪われてきた女性。

雨宮 律(あまみや・りつ)

38歳。紬の中学時代の恋人であり、現在は紬の双子の妹・華怜の夫。

身長182センチ。黒髪を短く整え、仕事では落ち着いたスーツ姿を崩さない。インフラ系コンサルティング会社の事業部長で、年収は約一千万円。社会的には仕事のできる温厚な男性として評価されている。

冷静で責任感が強い反面、誰かを見捨てることへの罪悪感が強い。妻の暴言、金銭的搾取、暴力、自傷行為、自殺をほのめかす言動に長年支配されている。手や額に小さな傷があるが、周囲には不注意でできたものだと説明している。

御厨 卓臣(みくりや・たくおみ)

40歳。紬の夫。

身長180センチ。外見には気を配り、年齢より若く見える。勤務先や取引先では気前がよく、家族思いの夫を演じている。夜の店や女性関係に多額の金を使い、家族十人分の食費と生活費として紬へ渡す金は月五万円だけ。

家庭内では紬を名前で呼ばず、「お前」「あんた」で済ませる。金銭、言葉、性行為を支配の手段として使い、紬が拒絶すると妻としての義務を果たしていないと責める。

雨宮 華怜(あまみや・かれん)

38歳。紬より九分遅く生まれた双子の妹。旧姓は久世。律の妻。

身長162センチ。柔らかな焦げ茶色の髪と華やかな顔立ちを持ち、服装や化粧にも金を惜しまない。幼少期に難病を患ったため、家族から過剰に守られて育った。

人前では愛嬌があり、儚げで甘え上手。しかし親しい相手には激しい感情をぶつけ、要求を拒まれると暴言、器物破損、自傷行為などに及ぶ。姉が大切にしているものほど価値があると感じ、幼い頃から紬の持ち物や人間関係を欲しがってきた。

御厨 八重(みくりや・やえ)

67歳。紬の姑。

家事や育児に独自の基準を持ち、どれほど紬が働いても決して認めない。毎食八品以上を要求しながら「品数が少ない」と責め、昨日は薄いと言った料理を翌日には濃すぎると罵る。

紬を嫁ではなく、家族全員へ無償で奉仕する使用人だと考えている。熱い茶や食事を投げつけることもあり、その後始末まで紬に強いる。

御厨 繁政(みくりや・しげまさ)

71歳。紬の舅。

表立って八重を止めることはなく、二人きりになると紬の身体へ触れたり、関係を迫ったりする。拒まれると「この家に置いてもらっている分際で」と態度を一変させる。外では寡黙で穏やかな老人を装っている。

大庭 岩蔵(おおば・いわぞう)

92歳。八重の実父。

寝たきりに近く、食事、排泄、着替え、清拭の介助が必要。介護サービスを利用することを八重が嫌がるため、実際の介護は紬一人に押しつけられている。

認知機能の低下から介助を拒み、紬を引っかく、突き飛ばす、粥を投げるなどの行動がある。家族はその負担を理解せず、怪我をさせられた紬の方を責める。

久世 静江(くぜ・しずえ)

66歳。紬と華怜の実母。

病弱だった華怜を溺愛する一方、風邪ひとつひかなかった紬に対し、「華怜の健康まで奪って生まれた」と信じ込んでいる。紬が苦境を訴えても、「あんたがだめな妻だから」と切り捨てる。

久世 隆(くぜ・たかし)

68歳。紬と華怜の実父。

妻へ逆らうことを避け、家庭内の問題には我関せずを貫いてきた。紬が犠牲になっていると分かっていても、静江の機嫌を損ねないために華怜だけをかわいがる。

五人の子ども

御厨 凌雅(りょうが)

17歳。長男。父親の言葉遣いと価値観を強くまねている。苛立つと壁を殴り、紬の弁当を「貧乏臭い」と突き返す。

御厨 茉白(ましろ)

15歳。長女。周囲の目を極端に気にし、母親を見下すことで自分は家の中で弱い側ではないと思い込もうとしている。

御厨 颯真(そうま)

13歳。次男。冷笑的で、家族が紬を辱める様子を面白がる。スマートフォンで撮影し、兄妹へ見せることもある。

御厨 結莉(ゆうり)

10歳。次女。姑や年上の兄妹の言葉をまねて紬へ命令する。善悪よりも、家の中で誰に従えば自分が怒られないかを基準にしている。

御厨 湊人(みなと)

7歳。末っ子。まだ母親へ甘えたい気持ちを持つが、家族にからかわれるため人前では紬を遠ざける。兄たちが見ていない時だけ、紬のそばへ来る。

職場関係者

織部 奈津子(おりべ・なつこ)

49歳。スーパーのレジ主任。

新人や立場の弱い従業員へ仕事を押しつける。紬には早出、残業、急な勤務変更を強い、ミスがなくても客の前で謝罪させる。

鴨志田 修平(かもしだ・しゅうへい)

52歳。スーパーの店長。

問題を把握しているが、面倒を避けるため見て見ぬふりをする。紬が反論しないことを利用し、欠員や苦情対応を集中させている。

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登場人物
御厨 紬(みくりや・つむぎ)38歳。旧姓は久世。五人の子どもを育てる主人公。身長157センチ。もともとは細身で端整な顔立ちだったが、慢性的な睡眠不足と栄養不足により、頬がこけている。長い黒髪は美容院へ行く余裕がなく、自分で切って一つに結んでいる。手は洗剤と水仕事で荒れ、腕には火傷や引っかき傷が絶えない。我慢強く、料理、家事、介護、家計管理をすべて高い水準でこなす。観察力と記憶力に優れているが、幼少期から「姉なのだから我慢しなさい」と教え込まれ、自分の苦しみを訴えることができない。弱いのではなく、抵抗する権利そのものを奪われてきた女性。雨宮 律(あまみや・りつ)38歳。紬の中学時代の恋人であり、現在は紬の双子の妹・華怜の夫。身長182センチ。黒髪を短く整え、仕事では落ち着いたスーツ姿を崩さない。インフラ系コンサルティング会社の事業部長で、年収は約一千万円。社会的には仕事のできる温厚な男性として評価されている。冷静で責任感が強い反面、誰かを見捨てることへの罪悪感が強い。妻の暴言、金銭的搾取、暴力、自傷行為、自殺をほのめかす言動に長年支配されている。手や額に小さな傷があるが、周囲には不注意でできたものだと説明している。御厨 卓臣(みくりや・たくおみ)40歳。紬の夫。身長180センチ。外見には気を配り、年齢より若く見える。勤務先や取引先では気前がよく、家族思いの夫を演じている。夜の店や女性関係に多額の金を使い、家族十人分の食費と生活費として紬へ渡す金は月五万円だけ。家庭内では紬を名前で呼ばず、「お前」「あんた」で済ませる。金銭、言葉、性行為を支配の手段として使い、紬が拒絶すると妻としての義務を果たしていないと責める。雨宮 華怜(あまみや・かれん)38歳。紬より九分遅く生まれた双子の妹。旧姓は久世。律の妻。身長162センチ。柔らかな焦げ茶色の髪と華やかな顔立ちを持ち、服装や化粧にも金を惜しまない。幼少期に難病を患ったため、家族から過剰に守られて育った。人前では愛嬌があり、儚げで甘え上手。しかし親しい相手には激しい感情をぶつけ、要求を拒まれると暴言、器物破損、自傷行為などに及ぶ。姉が大切にしているものほど価値があると感じ、幼い頃から紬の持ち物や人間関係を欲しがってきた。御厨 八重(みくりや・やえ)67歳。紬の姑。家事や育児に独自の基準を持ち
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第1話 八品でも足りない
 午前四時三十七分。 枕元の目覚まし時計が鳴るより先に、紬は目を開けた。 まだ闇の残る天井に、街灯の光が障子の桟を薄く映している。隣では卓臣が背を向け、重い寝息を立てていた。酒と整髪料の混じった匂いが、冷えた寝室の空気に淀んでいる。 時計の秒針が、四時三十八分へ移った。 その瞬間に電子音が鳴り、紬は一度目の音が終わる前に止めた。 誰かを起こせば、眠れなくなったと責められる。起こさなくても、朝食が一分遅れれば責められる。身体はもう、時計より先に怯えることを覚えていた。 布団を抜けると、足裏から畳の冷たさが這い上がった。昨夜、岩蔵の身体を抱えて寝具を替えた時に痛めた腰が軋む。 卓臣が寝返りを打った。 紬は息を止めたまま、音を立てぬよう襖を閉めた。 台所の灯りをつけると、白い蛍光灯が瞬き、流し台と紬の荒れた手を照らした。 右手の親指には深いひびが入っている。絆創膏は昨夜の洗濯で剥がれた。新しいものを使うのは惜しく、紬は指先へ薄くガーゼを巻き、その上から使い古した指サックをはめた。 米は、午前二時に洗って炊飯予約をしてある。 蓋を開けると、白い湯気が乾いた頬を撫でた。紬は五つの弁当箱へ米を詰める。凌雅には多めに、茉白には浅く。颯真の嫌う梅干しは避け、湊人の海苔だけは小さな星に抜いた。 冷蔵庫から、前夜に下ごしらえした食材を取り出す。焼き鮭。だし巻き卵。かぼちゃの煮物。ほうれん草の胡麻和え。きんぴらごぼう。冷ややっこ。漬物。味噌汁。 三口の火で鮭を焼き、卵を巻き、味噌汁を温める。じゅ、と水分の弾ける音がして、昆布だしの匂いに鮭の脂が重なった。十人分の器が、狭い調理台から食卓の端まで埋まっていく。 包丁を握る手に力を入れた時、ひび割れた親指へ大根の汁が染みた。 紬は声を上げず、唇の裏を噛んだ。 痛みは、口に出せば大きくなる。この家で覚えたことの一つだった。 五時十二分、奥の部屋から壁を叩く音がした。 どん。どん。どん。 間を置かず、しゃがれた声が廊下を伝ってくる。「まだかあ! 飯は!」 紬は火を止め、粥と刻んだおかず、とろみをつけた味噌汁を盆へのせた。 冷えた廊下を急ぐたび、盆の上で椀の蓋がかすかに鳴った。 岩蔵の部屋には、薬と排泄物と古い畳の匂いが籠もっていた。九十二歳の岩蔵は、枯れ木のような腕を伸ばし、盆を睨みつけた。「遅
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第2話 十人で五万円
 ステンレスの器を洗い終えた頃には、台所の時計は七時を回っていた。 冷たい水に晒された指先は赤く腫れ、ひび割れた親指のガーゼには味噌汁の色が滲んでいる。紬は蛇口を締め、器を水切り籠のいちばん下へ伏せた。茶碗や汁椀と同じ高さへ置けば、八重に叱られる。犬のものを人間の食器と一緒にするな、と。 三年前に犬が死んでから、それを使っているのは紬だけだった。 背後を振り返る。 八重は岩蔵の部屋へ戻り、繁政も新聞を抱えて居間へ移っていた。束の間、台所には冷蔵庫の低い唸りだけが残っている。 紬は床へ落とされた白い封筒を、作業台の隅で開いた。 一万円札が五枚。 一度数えた金を、もう一度数える。重なった紙幣の端を親指で送り、五枚目まで確かめても、六枚目が現れることはなかった。 封筒の表には、金額も宛名もない。 紬は戸棚の奥から、小さな青い手帳を取り出した。表紙には油染みがつき、角が丸く潰れている。八重が台所を調べる時にも触れないよう、乾物を入れた缶の底へ隠しているものだった。 新しい頁に日付を書き、《生活費 50000円》と記す。 米。味噌。肉や魚。野菜。牛乳。十人分の食費だけではない。 洗濯洗剤、台所洗剤、石鹸、トイレットペーパー。子どもたちのノートや画用紙、集金袋へ入れる金。岩蔵の紙おむつ、清拭用の布、使い捨ての手袋。通院のたびに使うバスとタクシーの代金も、すべてこの五万円から出すよう言われている。 紬は頁の右側へ、必要な金額を一つずつ書いた。 紙おむつを二袋買えば、残りは四万円ほどになる。米櫃の底は見え始めており、味噌もあと三日分しかない。洗剤は水を足して使っているが、それも今夜までだろう。 凌雅が昨夜、模試の申込用紙を冷蔵庫へ貼っていた。 締切は金曜日。受験料六千八百円。 書き出した数字の下へ線を引く。何度足しても、五万円を越えた。 越えた分は、自分が食べなければよい。洗髪を一日おきにすれば、シャンプーも減らせる。通勤を歩きに変えれば、雨の日のバス代が浮く。 そうやって削れるものを探すたび、最後にはいつも紬自身しか残らなかった。 エプロンのポケットから、先ほどのカード利用票を取り出す。 四万八千六百円。 卓臣が昨夜一晩で使った金は、十人が一か月を暮らすための金と千四百円しか違わない。 利用票を青い手帳の頁へ挟み、紬は一瞬、指を止め
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第3話 お前と呼ばれる女
 鍋の底で、粥が小さく息をしていた。 白い表面がふくらみ、音もなく割れて、湯気を吐く。紬は弱火に落とした鍋を木杓子でゆっくり混ぜた。米粒が潰れすぎないように、それでいて岩蔵が喉へ詰まらせない柔らかさになるように。 窓の外はまだ青暗い。 卓臣が出張へ持っていった車はなく、家の前の道にも人影はなかった。二階の寝室に彼はいない。それでも家の静けさが安らぎへ変わることはない。 昨夜叩かれた左頬は、夜が明けても熱を持っていた。口を開くと、噛み切った内側の傷が歯へ触れる。鏡を見れば赤みが残っていたが、長い前髪を下ろせば隠せる程度だった。 紬は小さな保冷剤を頬から外し、冷凍庫の奥へ戻した。 見つかれば、食べ物を入れるところへ汚いものを置くなと言われる。自分の顔へ使ったものを、八重が許すはずはない。 粥を椀へ移し、塩をほんの少しだけ振る。昨日は味がないと吐き出され、その前は塩辛いと椀を投げられた。何が正しい量なのか、もう紬には分からなかった。 盆の端には、ぬるめに冷ました番茶を置いた。 熱ければ怒り、冷たければ病人を殺す気かと怒る。指を浸して温度を確かめようとしたが、荒れた皮膚が触れれば不潔だと責められるのを思い出し、紬は手首へ椀の底を当てた。 火傷しない温度だった。 少なくとも、紬にはそう感じられた。 岩蔵の部屋の前へ立つ。 障子の向こうから、湿った咳が聞こえた。紬は一度息を整え、声をかける。「おはようございます。朝ご飯をお持ちしました」 返事はなかった。 障子を開けると、薬と汗の匂いが籠もった空気が顔へ触れた。岩蔵は布団へ半身を起こし、窓の方を睨んでいる。 紬は盆を畳へ置き、背中へ薄い座布団を差し込んだ。「お身体を少し起こしますね」「触るな」「このままだと、むせてしまいますから」「うるさい」 細い腕に予想外の力が入り、紬の手を振り払う。爪が昨日つけられた手首の傷を掠め、鋭い痛みが走った。 紬は顔を歪めそうになるのを堪え、岩蔵の身体が倒れないよう肩を支えた。「申し訳ありません」 謝りながら、なぜ自分が謝るのかを考える余裕はなかった。 胸元へタオルを当て、粥の椀を持つ。匙で少量をすくい、何度か息を吹きかけてから、岩蔵の口元へ運んだ。「熱くありません。少しだけ召し上がってください」 岩蔵は唇を固く閉じた。 匙が触れる直前、枯
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第4話 捨てられた弁当
 玄関の扉が、何かに当たって途中で止まった。 紬は肩へかけた鞄を押さえ、もう一度ゆっくり扉を押した。床の上で硬いものが擦れ、プラスチックの乾いた音が重なる。 身体を隙間へ滑り込ませると、たたきに五つの弁当箱が転がっていた。 桃色、水色、紺色、黄色、薄緑。 今朝、暗いうちから紬が米とおかずを詰めたものだった。包みは外され、結び目もほどかれたまま、靴の間へ無造作に放り出されている。「ただいま帰りました」 家の奥へ声をかけても、返事はない。 居間からテレビの音と、子どもたちの笑い声だけが聞こえた。 紬は買い物袋を床へ置き、一つずつ弁当箱を拾った。火傷した左腕へ袋の持ち手が食い込み、濡れたハンカチの下で皮膚がひりつく。手の甲を覆う絆創膏には、仕事中に滲んだ血が薄く透けていた。 桃色の箱を開ける。 茉白の弁当だった。 だし巻き卵が一切れ欠けているだけで、鮭もきんぴらも米も、そのまま残っている。朝にはまだやわらかかった米粒が固まり、海苔は湿って黒く縮んでいた。 水色の箱は颯真のものだった。蓋を開けた形跡すらなく、入れた時のままおかずが並んでいる。 紺色の箱には米粒が数粒貼りついているだけだった。凌雅は食べたのだろうか。そう思いかけた時、内側から生ごみのような酸っぱい臭いが上がった。中身をどこかへ捨て、空の箱だけ持ち帰ったのだと分かった。 黄色い箱も、ほとんど手つかずだった。結莉が好きだと言った甘いかぼちゃには、箸で突いた跡だけが残っている。 最後に、薄緑の箱を開ける。 湊人の弁当には、米の上へのせた星形の海苔だけがなかった。卵焼きの端が小さく欠け、ほかのおかずは残っている。 たったそれだけの痕跡に、胸の奥が痛んだ。 食べてもらえた嬉しさではない。 七歳の子どもが、兄や姉の目を気にしながら星だけを口へ運ぶ姿が浮かんでしまったからだった。 紬は五つの箱を重ね、買い物袋と一緒に台所へ運んだ。 流し台には、昼に使ったらしい皿とコップが山になっている。炊飯器の蓋は開け放たれ、しゃもじには乾いた米がこびりついていた。「あ、帰ってたんだ」 茉白がスマートフォンを片手に入ってきた。紬の持つ弁当箱へ目をやり、面倒そうに眉を寄せる。「弁当、玄関に置きっぱなしだったよ」「今、見つけました」「洗っといて。明日も使うんでしょ」 茉白は冷蔵庫を開け、
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第5話 レジの向こうの初恋
 紬の指から、十円玉が滑り落ちた。 硬貨はレジ台の角へ当たり、甲高い音を立てて床へ転がる。銀色の脚のそばで小さく円を描き、やがて紬の靴へ触れて止まった。 後ろに並ぶ客の籠が、重い音を立てて台へ置かれる。 紬はすぐに拾わなければと思った。 けれど身体が動かなかった。「……紬?」 レジの向こうから、もう一度その名が落ちてくる。 聞き間違えるはずのない声だった。 低くなっている。少年だった頃の軽さは消え、長い年月を越えてきた男の声になっていた。それでも言葉の終わりにわずかに残る息遣いも、誰かを確かめようとする時の静かな響きも、紬の記憶にあるものと同じだった。 雨宮律。 中学時代よりも肩幅が広くなり、濃紺のスーツが長身へ隙なく馴染んでいる。短く整えた黒髪には乱れがなく、輪郭から少年の丸みは消えていた。 目元には、深い疲労が刻まれている。 眠れていない夜を幾度も重ねたような薄い影。穏やかだった瞳の奥にも、簡単には消えない翳りが沈んでいる。 それでも、律だった。 十五年以上見ていなくても、紬には一目で分かった。 一方で、律の目には確信と迷いが交互に浮かんでいた。 無理もない。 中学生だった頃の紬は、華怜と同じように頬へやわらかな丸みがあり、背中まで伸ばした髪には艶があった。制服の袖から覗く手にも、洗剤によるひび割れも、引っかき傷もなかった。 いまの紬は頬がこけ、長い髪を自分で切って一つに結んでいる。目の下には睡眠不足の影が残り、前髪の奥には卓臣に叩かれた赤みがある。 かつて知っていた少女と同じだと、顔だけで信じられないのは当然だった。 それでも律は、紬を見つけた。 胸の奥へ、忘れていたはずの風景が一度に押し寄せる。 放課後の昇降口。雨の匂い。二台並べて押した自転車。橋の上で風に飛ばされた紬の髪を、律が不器用な指で押さえてくれたこと。 校舎の階段で彼女を見つけるたび、律は必ず名前を呼んだ。 久世さんでも、姉の方でもなかった。 紬。 ただ一人だけを見つけるための、二つの音だった。 その声を、いまは華怜が聞いている。 思い至った瞬間、胸へ押し寄せたものが急速に冷えていく。 律は、双子の妹の夫だ。 紬には卓臣がいる。律には華怜がいる。たとえ目の前にいる男が、かつて家族の命令で手放した人であっても、ここで過去を口にすることは許
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第6話 妹の夫
 閉店を告げる音楽が止んでも、律の声だけが耳の奥に残っていた。 また来る。 紬は最後のレジを締め、売上票を所定の箱へ入れた。指先で紙を揃えるたび、手の甲の傷がひきつる。「御厨さん、ぼうっとしないで」 背後から奈津子に言われ、紬は肩を揺らした。「申し訳ありません」「床のモップがけ、まだ終わってないから。朝の不足の件でみんなに迷惑かけたんだし、それくらいやって帰って」「はい」 閉店後の店内は、昼間とは別の場所のように広かった。 照明を半分落とした売場へ、冷蔵棚の機械音だけが低く響いている。紬は重いモップを両手で押し、レジ周辺に残った泥や食品の欠片を拭き取った。 時計は退勤予定を三十分過ぎていた。 昼食を取れなかった胃は、空腹を訴える力さえ失っている。腰を伸ばすと目の前へ黒い点が散り、レジ台へ手をつかなければ立っていられなかった。 それでも、名前を呼ばれた瞬間だけが、妙に鮮明だった。 中学生の頃と変わらない声だと律は言った。 紬は誰にも見られないよう、唇を固く結んだ。 思い返してはいけない。 律は華怜の夫であり、自分は卓臣の妻だ。偶然顔を合わせ、客と店員として短い言葉を交わした。それだけのことだった。 作業を終えて更衣室へ入る。 制服の袖を脱ぐと、ハンカチの下で火傷の水疱が一つ破れていた。薄い液が皮膚を伝い、空気へ触れた途端、鋭く痛む。 紬は備えつけの水道で傷を冷やし、使いかけの絆創膏を貼り直した。薬箱は事務所にある。借りれば理由を聞かれる。朝の過不足に加え、怪我で仕事へ支障を出したと責められるのが怖かった。 私服へ着替え、長い髪を結び直す。 名札を外すと、《御厨 紬》の二文字が掌へ収まった。 律が見つめていた文字だった。 紬は名札をロッカーの内側へ伏せ、扉を閉めた。 従業員口を出ると、夜の冷気が火照った頬へ触れた。 駐輪場は建物の裏手にある。古い蛍光灯が数本並んでいるものの、一番奥は光が届かず暗い。紬の自転車は、錆びた金網のそばへ停めてあった。 鞄から鍵を取り出しながら歩き、途中で足を止める。 街灯の下に、人が立っていた。 濃紺のスーツ。黒い革の鞄。背の高い輪郭。 律だった。 店で買った袋はもう持っていない。両手をコートのポケットへ入れず、身体の横へ下ろしている。紬を待っていたことを隠す様子はなかった。 胸
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第7話 姉なんだから
第7話 姉なんだから『運命の再会みたいで気持ち悪いね、姉ちゃん』 耳に当てた電話から、華怜の笑い声がこぼれた。 高く、軽く、鈴を転がすような声だった。その底に硬い刃が潜んでいても、向けられた者にしか分からない。 紬は台所の流し台の前に立っていた。夕食に使った十人分の食器は、洗っても洗っても水切り籠からあふれ、曇った窓には黄色い照明がぼんやり映っている。背後では冷蔵庫が低く唸り、蛇口の先から落ちた雫が、一定の間を置いてステンレスを打った。 ぽつり。 その音を聞いた瞬間、紬の指先から温度が失われた。 川面に落ちる冬の雫。枯れた葦を渡る風。薄い手袋をした十五歳の手に残っていた、もう一人の体温。 華怜が何かを話している。けれど言葉は遠ざかり、紬の目の前には、二十三年前の夕暮れが冷たい息を吐きながら立ち上がった。 あの冬、川沿いの道には雪こそなかったが、土手の草は白く霜をかぶっていた。 紬と律は、自転車を押して歩いていた。二人の通う中学校から家へ帰るには、商店街を抜ける道の方が近い。それでも週に二、三度、わざわざ遠回りをして川まで来た。 スカートの裾が風に鳴った。律の自転車の前籠には、図書室で借りた橋の写真集が入っていた。「また橋の本?」 紬が尋ねると、律は少し気まずそうに前籠を見た。「同じのじゃない。これは海外の橋」「違いがあるの?」「あるよ。形も、使ってる材料も。ほら、川幅とか、地盤とか、その土地で全部変わるから」 普段は言葉の少ない律が、好きなことを話す時だけ、わずかに早口になる。紬はその変化が好きだった。自分の知らない話でも、声を聞いているだけで胸の内側が静かに温まった。「律は、橋を造る人になるの?」「橋だけじゃないけど。水とか、道とか、止まったら困るものに関わりたい」「難しそう」「紬ならできるよ」「私の話じゃないでしょう」「何でも覚えるの、早いから」 あまりに迷いなく言われて、紬は返す言葉を失った。 家では、できることは紬がより多くを引き受ける理由にしかならなかった。けれど律は、何かを背負わせるためではなく、ただ彼女を認めた。「私は……」 紬は川を見た。枯れ草の向こうで、細かな波が夕日を砕いていた。「ちゃんと働けたら、それでいいかな」「何の仕事?」「分からない。家のこともしなくちゃいけないし」「家のこと
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第8話 夫婦の義務
 洗面台の水から引き上げた上着は、紬の腕に重く垂れ下がっていた。 押し洗いを繰り返したせいで、金木犀の香りはほとんど消えている。代わりに湿った布と洗剤の匂いが、狭い洗面所へ冷たくこもっていた。「聞こえなかったのか」 戸口に立つ卓臣の声が低くなる。 紬は上着を傷めないよう両手で水を押し出した。絞ることのできない厚い布から、濁った雫が洗面台へ落ちていく。「これを干したら、岩蔵さんのおむつを替えてきます。そのあとでもいいですか」「先に来い」「でも、もう交換の時間を過ぎていて」「俺より、あの爺さんの方が大事なのかよ」 卓臣が鼻で笑った。酒を含んだ息が、数歩離れた場所からでも届いた。「そういう意味では……」「言い訳すんな。待たせるなよ」 彼は踵を返した。廊下を踏む足音に迷いはなく、洗面所の引き戸がその振動でかすかに鳴った。 紬は濡れた上着を見下ろした。袖から落ちた一滴が、手の甲にある引っかき傷を伝う。洗剤が染み、皮膚の奥まで細い痛みが走った。 時計は午前零時二十一分を指していた。 四時間後には米を研ぎ、だしを取り、五人分の弁当を作らなければならない。洗濯機の予約を入れて、台所の床を拭き、岩蔵の体位も変える。明日は特売日で、スーパーへいつもより三十分早く入るよう奈津子に言われていた。 一つずつ思い浮かべると、胸の内側が狭くなった。疲れていると訴えるだけの言葉が、喉まで上がっては消えた。 紬は上着を物干しへ掛け、タオルで挟むように水気を取った。それから岩蔵の部屋へ急いだ。 襖を開けると、排泄物と薬の匂いが澱んでいた。岩蔵は浅い寝息を立て、布団から出た手を小刻みに震わせている。起こさないよう布団をめくったが、身体へ触れた途端、濁った目が開いた。「何する」「おむつを替えますね。すぐ終わりますから」「触るな」 振り上げられた爪が、同じ手の甲を掠めた。紬は息を呑んだが、手を引けばシーツまで汚れる。腕を避けながら身体を横へ向け、手早く新しいものへ替えた。 廊下の向こうから、壁を叩く音がした。「おい!」 卓臣だった。「今、行きます」 答えた声は岩蔵の寝息より小さかった。 汚れたものを袋へ入れ、手を洗う。石鹸の泡が傷へ入り、呼吸が途切れた。水で流しても痛みは残り、指を曲げるたび皮膚が引きつれる。 寝室へ向かう途中、湊人の寝ている部屋か
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第9話 雨のバス停
 閉店を告げる音楽が途切れた頃、雨は屋根を叩く音だけで会話を遮るほど強くなっていた。 紬は最後のレジを締め、釣銭を数え直した。二千円の不足を押しつけられた日から、どれだけ急かされても三度確認するようになっていた。「御厨さん、まだ終わらないの?」 奈津子が腕時計を見ながら、苛立った声を飛ばした。紬より先に制服を脱ぎ、雨避けの薄いコートまで着ている。「すみません。あと一分だけ」「あなたの要領が悪いせいで、こっちまで帰れないんだけど」 金額は合っていた。紬はレジ鍵を封筒へ入れ、日付を書いた。 奈津子は大きくため息をつき、踵を鳴らして事務室を出ていった。 清掃を終えた時には、閉店から四十分近くが過ぎていた。昼から何も食べていない胃が縮み、右手首の痣は袖の下で脈打っていた。 更衣室で靴を履くと、中敷きの下の名刺が足裏へかすかな硬さを伝えた。それでも紬は取り出さず、靴紐を結んだ。 従業員口を開けた途端、風に煽られた雨が顔へ吹きつけた。 駐輪場の蛍光灯は、降り込む雨の向こうで白く滲んでいた。紬は鞄から古い透明傘を出し、骨の曲がった部分を指で直してから開いた。 自転車の前籠には、吹き込んだ雨水が溜まっていた。布で拭こうとして、後輪の形がおかしいことに気づく。 完全に潰れていた。 しゃがみ込み、指先でタイヤの側面を確かめる。ゴムには真っ直ぐな切れ目があった。小石や釘を踏んだ穴ではない。刃物を差し込んだような傷が、黒い表面を斜めに裂いていた。 紬の背中を、雨とは別の冷たさが這った。 後輪の下には、外された空気栓の蓋が置かれていた。偶然とは思えなかった。 従業員口から奈津子が出てきた。車の鍵を手にし、紬を見るなり眉をひそめる。「何してるの。早く帰ってよ」「自転車のタイヤが切られています」「パンクでしょ」「切り口があります。防犯カメラを確認していただけませんか」 言い終えるまでに、呼吸が浅くなった。 誰かへ確かめてほしいと頼むだけで、身体は叱られる準備を始める。紬は濡れた指を握り、奈津子の返事を待った。「今から?」「映像が消える前に、店長へ連絡だけでも」「大げさねえ」 奈津子は傘を傾け、潰れた後輪を一瞥した。しゃがんで傷を見ることさえしなかった。「嫌われるようなことをしたんじゃない?」 胸の奥が小さく縮んだ。「心当たりはありませ
last update최신 업데이트 : 2026-07-27
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