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第7話 稼ぎの効率がいいから

Aвтор: 花崎紬
「社長」

入江紀美子は疑惑を抱えながら森川晋太郎の前に来た。

「昨夜は何故帰ってこなかった?」

「体の具合が悪かったからです」

「具合が悪かった?口まで開けない状態だったか?まずは俺に報告することを忘れたのか?」

晋太郎は更に厳しい口調で問い詰めた。

「違います。薬を飲んで眠ってしまいました。わざと報告を怠ったのではありません。」

「本当に眠ってしまったのか?それとも、他の男と寝ていて報告をしなかったのか?」

晋太郎は無理やり目の中の怒りを抑え、声がますます冷たくなった。

「えっ?他の男って?」

紀美子は頭を上げて聞き返した。

「その質問、君ではなく俺がするものではないか?」

晋太郎は冴え切った目で紀美子を見つめ、挑発まじりに聞き返した。

「入江さん?」

まだ戸惑っていた紀美子は、優しそうな声が聞こえてきた。

その瞬間、紀美子は思い出した。

昨日晋太郎に電話を切られる前、塚本悟と話していた。

もしかして晋太郎が言っている男とは、悟のことか。

紀美子はこちらに向かって歩いてくる悟を見てから晋太郎の顔を覗いた。

そこから説明してもすでに遅かった。

悟は紀美子の傍で足を止め、針を抜いて血が垂れ続けている彼女の手を見た。

「血が出ている、この時間なら、まだ点滴は終わっていないはずじゃない」

それに気づいた紀美子は慌てて針の穴を手で塞いだ。

「ありがとう、あとで処理しておくから」

悟は自分の手を紀美子の額に当て、心配そうにため息をついた。

「熱はひいたようだけど、まだ静養が必要だ」

紀美子は晋太郎に誤解されたくないので、慌てて視線を逸らした。

「分かってる」

悟は仕方なく手をポケットの中に突っ込んで、ようやく隣で息を潜めている晋太郎に気づいた。

「患者さんは静養が必要です。話は後にしていただけますか」

悟は謙遜かつ礼儀正しい言葉遣いで注意した。

「医者が体温計ではなく、手を当てるだけで患者の体温を正しく測るなんて初めて見た」

晋太郎は冷やかしを言いながら、悟と目を合わせた。

「臨床の経験を活かせば、患者さんの時間を節約できることもありますので」

その会話を聞いた紀美子は緊張した。

彼女は、悟が自分の為に晋太郎に抵抗しているのは分かっていたが、晋太郎が決して大人しく人の話を聞く人間ではないとも分かっている。

帝都の誰もが、彼は冷酷無情の支配者だと知っている。

彼は、機嫌が悪ければ通りすがりのイヌでも蹴ってしまうような人間だ。

もし悟が本当に晋太郎の恨みを買ってしまったら、彼はその仕事を失う可能性が出てくる。

「塚原先生、この方は私の上司なの。ちょっと仕事の話があるから、先に仕事に戻ってて」

紀美子は慌てて悟に弁解した。

悟は視線を戻し、紀美子に頷いてその場を離れた。

アシスタントの杉本肇は流石に気まずいので、エレベーターの近くで待つことにした。

二人の間にどんよりした空気が漂っていたが、紀美子が先に口を開いた。

「社長…」

「そうすれば俺に同情してもらえる」

紀美子の話を最後まで聞かずに晋太郎は冷たい口調で割り込んだ。

「とでも思っているのか?」

彼は挑発的な目線で問い詰めた。

「何を言ってるの?」

紀美子は彼の話の意図が分からなかった。

晋太郎は自分より一回り小さい紀美子を見つめた。

その俊美な顔には寒気を帯びている。

「入江、可哀そうなふりをして同情を得ようとするなど、幼稚だと思わないか?それとも、お前は俺が払っている給料に不満があり、その医者と手を組んでタダで母の病気を治療してもらおうとでも企んでいるのか?」

晋太郎の話はまるで刃のように、紀美子の胸に刺さった。

彼女は自分が病気にかかったことも気づいていなかったのに、どう装えばいいのだろうか?

紀美子は拳を握り締め、できるだけ冷静さ保とうとした。

「社長は私にどう答えてほしいのですか?」

しかしその秘書として公式過ぎた反応は、却って晋太郎を更にイラつかせた。

彼は紀美子の方へ一歩近づき、鷲のような鋭い目で彼女の顔を見つめた。

「金が欲しいなら大人しく自分の仕事をこなせばいい。もし、俺達の契約が終わる前に他の男に絡み付いたりしたら、自分がどうなるか分かっているよな?」

「契約書にははっきりと書いているはずです。社長の憧れが見つかれば契約が終了となり、私も自由に恋愛できる、と」

紀美子は爪が掌に刻み込むほどきつく拳を握っているが、いたって冷静な口調で答えた。

紀美子は、今回初めて彼に反論してきつい言葉を発した。

男の巨大な体が迫ってきて、クランプのような指で彼女の顎を掴んだ。

「偉くなったな、入江」

紀美子は涙が出そうになった。

これまでずっと従順に仕えてきた自分が、たった一回だけの反論で、晋太郎をここまで怒らせるとは思わなかった。

「どうも」

彼女はあざ笑いをした。

「お前は、前倒しで契約を終了させたい、そうだろ?」

晋太郎は指の力を強めた。

「そうはさせない!」

そう言って、晋太郎は手を引いた。

これまで目の中にあった怒りが一瞬で嫌悪になり、彼は力一杯で紀美子を押しのけ、振り返らずにその場を離れた。

晋太郎にのけられ壁にぶつかった紀美子は、ゆっくりと壁から滑り落ち、勝手に涙がこぼれ落ちてきた。

気持ちを整理してから、紀美子は病室に戻った。

母に数時間付き合い、彼女は自分の家に帰った。

元の家は父に売られギャンブルの借金に当てられため、紀美子は今古い団地に住まざるを得なかった。

彼女には、もうこの60平米弱のボロ家しかなかった。

2階に上りドアを開くと同時に、酒の匂いが鼻にツンときた。

彼女は部屋の入口の前で、床に散らかった酒のビンを見て、無力にため息をついた。

部屋を片付け、パソコンの前に座ると、メッセージが届いていた。

「G、今回は遅すぎるよ。うちのボスがそろそろキレそうだけど!」

「ごめん、ちょっと最近忙しくて。もう三十分だけ待ってもらえる?」

メッセージに返信して、紀美子はデザイン稿の処理に没頭した。

彼女の大学時代の専攻分野は秘書学で、デザインはオプションの履行科目だった。

しかし、当時の先生にデザインの才能があると言われ、ここ数年はずっとデザインの仕事を副業としていた。

一つは報酬目当て、もう一つは自分のデザインの腕を磨く為だった。

相手はすぐにメッセージを返してきた。

「G、あんたはデザインの才能があるんだから、転職すればすぐに国際的で有名なデザイナーになれたのに、なんで森川などの下で働く?」

「稼ぎの効率がいいから」

紀美子は苦笑いをして返事した。

母親には毎月数百万円の治療費がかかるほか、父のほうも数千万の借金があり、彼女には選択の余地が残されていなかった。
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    「あんたはもう逃げられないわ。いつ私を解放してくれるの?」紀美子が尋ねた。「紀美子、私に二つだけ約束してくれないか?」悟は俯いて、掠れた声で言った。「私のできる範囲なら、約束するよ」早くそこを離れるために、紀美子は悟の話に合わせた。「ありがとう」悟は笑みを浮かべた。紀美子は彼の要求を待ったが、しばらく経っても悟は何も言わなかった。「約束って何?」紀美子が怪訝そうに尋ねた。「一つは後で教える」悟は再び立ち上がった。 そして、彼は彼女に向かって一歩ずつ近づいた。紀美子は緊張して椅子の肘掛けを握りしめた。「もう一つは、今夜だけ、私と一緒にいてくれないか、紀美子」悟は彼女の前で止まり、跪いて耳元で囁いた。「悟、変なことを言わないで」紀美子は目を見開いて彼を見た。悟は首を振った。「心配するな。ただ静かに眠って、そばにいてほしいだけだ」そう言うと、悟はそっと一本の針を取り出し、紀美子が気づかないうちに彼女の手のツボに素早く刺した。 「痛っ!」紀美子は手を引っ込め、恐怖に満ちた目で悟を見た。「何をしたの?」 「言っただろう。ただ一晩眠って、一緒にいてほしいだけだって」悟は冷静に答えた。その言葉と同時に、紀美子は急激な疲弊感に襲われた。彼女はまだ何か言おうとしたが、猛烈な睡魔に脳を支配され、次第に視界がぼやけていった。やがて紀美子はゆっくりと目を閉じ、横に倒れこんだ。悟は彼女の体を受け止め、腰をかがめてベッドに運んだ。階下。晋太郎が民宿に着くと、美月は車から飛び出して彼の元へ駆け寄った。 晋太郎が質問する前に、晴が先に詰め寄った。「彼女たちはどこにいるんだ?」 「佳世子さんは無事ですが、紀美子さんはまた部屋に連れ戻されました」美月は答えた。「森川社長、無闇に上るのは控えた方がいいでしょう。悟が部屋に爆発物を仕掛けている可能性がありますので、不用意に動けません」美月は晋太郎に向き直って忠告した。「偵察班を出せ」晋太郎は険しい表情で言った。「もう手配済みです」美月は答えた。「既に悟の部下の一人を排除しました」晋太郎はホテルの窓を見上げた。「奴はどの階にいるか特定できたか?」「3階です。廊下には悟の

  • 会社を辞めてから始まる社長との恋   第1290話 もう君を傷つけたりはしない

    「美月さん、山田大河という技術者が紀美子さんを人質に取っています。奴らは銃を持っていますが、どうしますか?」少し離れた場所に立っていた二人の男は、彼らの会話を聞きながら、通信機を通じて美月に低い声で報告した。「騒ぎ立てる必要はないが、その場を離れるな。とりあえずは威圧感を与えるだけでいいわ。紀美子さんは私が何とかする」美月は周囲を見回して、指示を出した。 「了解です、美月さん」 二人のボディガードが座るのを見て、大河の緊張はさらに高まった。 彼らは晋太郎の部下に違いない。 一般人であれば、銃を持っている奴を見た途端に逃げるはずだ。悟はゆっくりと大河に近づいた。「大河、言うことを聞け、銃を下ろせ」 目が充血した大河は首を振った。「できません、社長……もう逃げられません。奴らがここにいるということは、外も囲まれているはずです」 「分かっているさ。だから、銃を下ろせと言っているんだ」 「社長……」大河は涙を浮かべた。「どうか生き延びてください。こんな女に惑わされて命を投げ出さないで!彼女は災いのもとです。俺が彼女を始末します!社長、生きて……」そう言い終わると、大河は銃の安全装置を外し、再び紀美子の額に銃口を向けようとした。その瞬間、彼の視覚には悟が銃を抜く姿が映った。「社長……」大河は動きを止め、驚愕して目を見開いた。「バン——」突然、ガラスが砕ける音が響いた。紀美子が慌てて振り向くと、顔に温かく湿った感触と強烈な血の匂いがした。背後からの拘束が弱まり、紀美子は大河が目を見開いたまま倒れるのを見た。銃弾は彼のこめかみを貫通し、傷口から血が止めどなく噴き出してきた。顔が青ざめた彼女の目を覆い、悟は最速で彼女を連れてエレベーターに乗り込んだ。ロビーに座っていた二人のボディガードはすぐに追いかけようとしたが、エレベーターの扉はすぐに閉まってしまった。「美月さん、奴らは上の階へ逃げました!」ボディガードの一人が報告した。「大河が手を出さなければ、こっちも動くつもりはなかったのに。困ったわ。部屋のカーテンを閉められたら、こちらの狙いは定まらない」「強行突破しましょうか、美月さん!」 「ダメだ!部屋に爆弾を仕掛けられたかもしれない。悟が危険

  • 会社を辞めてから始まる社長との恋   第1289話 どこかでやり直そう

    「大河さんからいろいろ聞いた」紀美子は優しい口調で、悟のそばに座った。「全ての恨みを捨てて、どこかでまたやり直そう」悟は大河を一瞥し、明らかに不満げな視線を向けた。「君もついて来てくれるか?」紀美子は悟の浅褐色の、澄み切った瞳を見つめた。これほどの苦難を乗り越えたとは信じ難いほどの、純粋な眼差しであった。彼には彼の事情があるが、彼女にも許せないことがあった。悟を去るように説得することは、彼女の最大の譲歩だった。「それができないのは分かっているでしょう?晋太郎は私を探すのを諦めないわ。一生ビクビクしながら生きていきたいの?」紀美子は言った。「君がそばにいてくれれば、私はどうなっても構わない」悟はそう言いながら、紀美子の手に触れようとした。しかし、紀美子はとっさに手を引っ込めた。悟の手は空中で止まり、数秒間硬直した後、静かに下ろされた。「紀美子、もうこれ以上言わなくていい。君がここに少しでも長くいてくれるだけで十分だ」悟は紀美子に言った。「そして大河、お前の気持ちは分かるが、彼女を脅す必要はない」大河は一瞬呆然とした。「しかし、社長……」「もうこれ以上言うな」悟は言った。「もう十分に話したはずだ。これ以上説明しても無駄だ。お前は大海と行け」大河は納得いかず、まだどう説得しようか考えていたその時、民宿の入り口から二人の男が入ってきた。大河はその二人の体格から、彼らは訓練を受けた者たちだとすぐに分かった。彼らは普段着を着ていたが、明らかに危険なオーラを帯びていた。大河は視線を紀美子に移し、いきなり彼女を掴んだ。その急な挙動に、紀美子も悟も反応できなかった。次の瞬間、大河は悟の目の前で、再び銃を紀美子のこめかみに突きつけた。「大河、紀美子を放せ!」悟の表情は一気に冷たくなった。「嫌です!」二人の男は足を止め、険しい表情で大河を見つめた。「社長、奴らが来ました。この女を人質にして逃げましょうよ!社長もこの女を連れていきたいでしょう?俺が無理やり連れていきます!」「大河!」悟は怒声を上げた。「お前、そんなことをして何の得がある?そう簡単に彼女を連れ去れるとでも思うのか?私は強要ではなく、彼女自身の意思でついて来てほしいんだ!」「社長!

  • 会社を辞めてから始まる社長との恋   第1288話 こんなにも不公平

    大河は一歩ずつ紀美子に迫ってきた。「社長があいつらに手を出したのは仕方がなかったんだ!本当は社長だってそうしたくなかった!あの忌まわしい父親さえいなかったら、社長だって子供の頃からお前たちと同じように過ごせた!あいつに脅迫されなかったら、彼は一生消えない傷を負わされずに済んだんだ!」「社長が最も惨めだった頃のこと、お前は知らないだろうけど、俺はよく知っている!俺は社長の資料を調べ、昔の監視カメラの録画映像も観たからな。社長は毎日のように殴られ、ドブ川の汚水をぶっかけられるどころか豚や犬の餌を食わされそうになっていた。いかがわしい女を呼び寄せ、社長の体をボロボロになるまで弄んだこともあった!社長は一人でその時期を耐え抜いたんだ!あんなことをされたら、誰でもあいつらを恨むのは当然だ。」「確かに社長の手によって多くの人の命が失われた。だが彼は、正当な理由がなければ絶対に命を奪ったりしない!社長が、自分の医療技術でどれだけの人を救い、どれだけの家庭を助けてきたかわかってるのか?俺と外にいる運転手の大海も、社長の助けがあってここまで来られたんだ!社長は資金援助だけでなく、生きる希望を与え、病気を治し、薬を提供してくれた!あんな素晴らしい人間に、なぜ世界はこんなにも不公平なんだ?」大河が怒りに震えながら吐き出した言葉を聞いて、紀美子は完全に呆然とした。彼の話からすると、悟に関してまだまだ知らないことがたくさんあるらしい。いや、知らなかったわけではない!聞いていたとしても、自分の同情を引くための嘘だと思い込んでいたのだろう。本人が話すのと、他人から聞かされるのとでは全く印象が違う。「悟に話がしたいと伝えてくれる?できるだけ早く、彼を説得してみるから」「お前のような女、何を考えてるかわかったもんじゃない!」大河は紀美子の話を遮り、いきなり彼女の襟首をつかんだ。彼は紀美子を拘束しながら、拳銃を彼女のこめかみに突きつけた。紀美子は全身が硬直したが、それでも冷静さを保ち、交渉を続けようとした。「私を殺したら、悟があんたを許すと思う?」落ち着いて話すのは通じない。紀美子は強気に出るしかなかった。「怒られるのはわかってる。俺は殺されても構わない。社長の命さえ救えればそれでいい!」「私が死んで、彼は一人で生きようとすると思

  • 会社を辞めてから始まる社長との恋   第1287話 殺されても構わない

    悟の部屋を出て、大河はしばらく躊躇ってからエレベーターに乗り込んだ。三階に着くと、彼は紀美子の部屋の前へと歩み寄った。「お前一人で来たのか?社長は?」佳世子を見張っていた大海は不審そうに尋ねた。「社長に内緒で来た」そう言って、大河は殺意に満ちた視線を紀美子の部屋のドアに向けた。「お前、何をする気だ?」大河の視線に気づいた大海は尋ねた。「この女さえいなければ、社長はきっと俺たちと一緒に逃げてくれる!」大河は歯を食いしばって言った。「大海、お前は社長が命を落とすのをただ見てるつもりか?こんな女のせいでよ!」「どういう意味だ?」大河は今の状況を説明した。「どんな事情があろうと、社長の命令なしでは彼女に手を出してはならん!彼女はお前に何の恨みもないだろ!」「恨みがないだと?」大河は問い詰めた。「もし社長が本当に行かなかったら、社長の言う通りに俺達だけで逃げるのか?」大海は黙り込んだ。「いや……社長は俺の家族を六年も面倒見てくれた。この恩は命をかけても返しきれない」「だから社長を連れて逃げないと、俺たち全員がこの女のせいで殺されるんだ!」大河は警告した。「たとえそうだとしても、彼女を殺しちゃいけない。彼女は社長が最も愛した女だ。もし殺したら、社長はどうなる?」大海は依然として反対した。「時間が全てを癒やしてくれるはずだ!」大河は言い放った。「俺は、たとえ社長に恨まれ、殺されても構わない!」そう言い残すと、大河はドアを押し開け紀美子の部屋に入った。その時、背後からドアが開く音がした。二人の会話を聞いていた佳世子が、我慢できずに部屋から出てきたのだ。「部屋に戻れ!」大海は慌てて振り返り、彼女を遮った。「紀美子に手を出すなんて、許さないわよ!」佳世子は焦って横を見ながら叫んだ。「紀美子!早く逃げて!この二人があんたを殺そうとしてるわ!!紀美子!!」佳世子は身を乗り出しながら叫び続けた。部屋の中では、紀美子が驚いた様子で入ってきた男を見つめた。そして外から聞こえる佳世子の叫び声に耳を澄ませた。大河が速足で近づいてくるのを見て、紀美子はすぐに布団を蹴り飛ばし、ベッドの反対側に立った。「何をする気?」彼女は警戒しながら大河に問いかけた

  • 会社を辞めてから始まる社長との恋   第1286話 もう私のことは構うな

    「お父さん、悟の車の位置がわかった!前僕たちが泊まってたホテルだ!」晋太郎は早急に電話を切り上げ、立ち上がって佑樹の元へ駆け寄り、パソコンの画面を見た。確かに、以前宿泊していたホテルだ。「悟ってやつは本当に計算高い。父さんが監視役を引き上げた途端、そこを選んぶだなんて。父さんをバカにしてるの?それとも、父さんがそこを狙わないと踏んだのか?」「今はそんなことを言っている場合じゃない。すぐに人を送って状況を確認させる」晋太郎は美月の携帯に電話をかけた。「森川社長、何かご指示ですか?」美月はすぐに応答した。「前の民宿だ。佑樹が悟の車の場所を突き止めた」美月は佑樹がこんなに早く手がかりを見つけ出したことに驚いた。彼女は携帯を持ちながら、隣でまだコードを打ち続ける技術者たちに目をやった。こいつら、子供二人にも及ばないのね!口元を少し歪ませながら、美月は心の中でそう思った。「わかりました、すぐ偵察班を向かわせます」電話を切ると、晋太郎もテーブルの上の車の鍵を手に取った。「父さんも行くの?」佑樹が声をかけた。「母さんが悟の手中にいるんだ。ここに座っていられない」晋太郎は頷いた。「俺も行く!」晴は慌てて立ち上がり、晋太郎の側へ歩み寄った。「佳世子は抑えられてるし、俺もじっとしていられない」「分かった」晋太郎は佑樹を見た。「お前と念江はここで大人しく待っていろ。何かあったらすぐに電話しろ。ボディガードも外で待機させておく」「わかった。父さん、必ず母さんと佳世子おばさんを助けてきて!」今回の民宿への移動では、晋太郎は多数のボディガードを分散させて配置した。しかし、どれだけ慎重に行動しても、大河の監視網から逃れることはできなかった。ホテル。大河は再び悟のもとへ駆けつけた。「社長、もうここはバレています!晋太郎の手下がすでに向かってきています!」しかし、座って茶を飲んでいた悟は、大河の言葉にも大して動揺を見せなかった。「彼女が行きたがらない」声は淡々としていたが、悟の心は万本の針で刺されるように痛み苦しくなっていた。「社長!命あっての復讐です!女なんかより、自分の命の方が大事じゃないんですか!」「大河、行くならお前と大海だけで行け。もう私のことを構うな

  • 会社を辞めてから始まる社長との恋   第1285話 みっともない死に方

    紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪

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