「お嬢様、何かあったら、必ず私に電話しんさいねぇ」まさか、この広い別荘に一人で暮らすことになろうとは......思わず背筋に薄ら寒いものが走る。遼一は俯いたまま、黙々と料理を口に運んでいた。だが、明日香が目の前を通り過ぎると、手にしていた箸を音もなく置き、低く呟いた。「夜、帰りを待ってる」明日香はゆっくりと足を止め、振り返らぬまま言葉を返す。「いいわ。ここが気に入ったのなら、あなたに譲る」もはや、今後遼一が誰を連れて帰ろうとも、自分には関わりのないこと。そう心の中で切り捨てた。遼一には、彼女がどこへ向かうのか分かっているはずだった。しかし、止めることはできない。今の彼には、藤崎家と正面から渡り合えるだけの力など、まだ持ち合わせていないからだ。田中が直々に迎えに現れたのは、明日香にとって意外の極みだった。藤崎家における田中の地位は、外部の者ですら一目置くほどのもの。その人物が自ら足を運んだのだ。明日香はほぼ一ヶ月ものあいだ、家で虚ろに過ごしていた。だが、決して何もしていなかったわけではない。彼女の出展した絵画は、すでに賞を獲得していたのだ。彼女にとって、それは小さくも確かな、再出発の兆しだった。長らく電源を落としていた携帯を充電し、ようやく電源を入れると、画面には無数の不在着信が浮かび上がった。その中には、海外からの一本の電話も含まれていた。見覚えのない番号だったが、その番号をアカウントIDとするメールボックスには、異国の風景を写した幾枚もの写真が届いていた。ロシアの街角の広場で、群れ飛ぶ鳩がパンくずをついばむ光景。そしてもう一枚。足元に鳩がとまり、白く長い指が差し出したパンを啄んでいる写真。顔が映ることのない写真ばかりだったが、明日香にはすぐに分かった。淳也だ、と。彼が去った三日後から、写真は途切れることなく届き続けていた。言葉を交わすことは一度もなかった。けれど画面の向こうで、彼に届くはずのない場所で、明日香は小さく呟いた。「ありがとう」その想いがあったからこそ、彼女は絶望の中に細い希望の光を見出すことができたのだ。やがて車は藤崎家の本家に到着した。車を降りた瞬間、使用人たちが彼女の姿を見て一様に微笑み、急かすように彼女を樹のいる別荘へと導いた。「明日香さん、蓉子様が首を長くし
新しい防犯ドアに交換されてから、数日が過ぎた。遼一は外に出ることもなく、まるで南苑別荘に根を下ろしてしまったかのようにそこへ居座り続けていた。会社にも戻らず、あたかもここで明日香と真っ向から張り合うつもりでいるかのようだった。明日香はほとんど階下に降りてこない。もしも降りてきて彼の姿を見かけようものなら、すぐさま踵を返して部屋へと戻ってしまう。その日、芳江が戻ってきて昼食の支度をしていた。週末で、学校は休み。珠子が南苑別荘へ帰ってきた。彼女が食卓に座ると、芳江はすでに二人分の食器を余分に並べていた。「遼一さん、ここに泊まっていらしたんですか?どうして教えてくれなかったんですか!......私も今日、ここに泊まっていいですか?」珠子は瞳を輝かせて問いかける。遼一は二人分の食器を見やり、低い声で命じた。「明日香を呼んで、食事に来させろ」芳江は困ったように眉をひそめ、声を落とした。「お嬢様は......他の人と一緒に食事はせんとおっしゃいまんね」その言葉に、遼一の目に鋭い光が走った。圧に押された芳江は、思わず首をすくめる。「......私はただ、お嬢様のご意向をお伝えしとるだけなんじゃ」珠子が口を開いた。「遼一さん、明日香はいつまでこんな状態を続けるつもりなんでしょう?担任の先生からも、私に『明日香を学校に戻すよう説得してほしい』と言われています。私もそう思います。ただの試験じゃないですか。学校に戻れば、またいくらでもチャンスはあるはずです。六組は進度が速いですから、もし戻らなければ本当に追いつけなくなってしまいます。遼一さんからも説得してください。このままでは彼女、本当に駄目です」「自分のことに集中しろ。明日香のことは俺が説得する。食事が済んだら、すぐに帰れ」思いがけない言葉に、珠子は呆然とした。帰れと言われるなど、夢にも思わなかったのだ。だが、帰りたくなかった。胸の奥には、彼女なりの私心があった。その一番の理由は、遼一と明日香を二人きりにしておきたくなかったから。自分こそが彼の恋人なのだ。たとえ明日香がもう遼一を想っていないのだとしても、やはり気分のいいものではなかった。「遼一さん、私はあなたと一緒にいたいんです。心配しないでください、邪魔にはなりません。私にできること
遼一は、ありとあらゆる手段を使って明日香に復讐するはずだった。そうでなければ、そもそもここに現れることなどあり得ない。彼にとっては、指一本動かすだけで、明日香が苦しみながら死にゆく姿を目の前で眺められるのだから。けれど、彼はそうしなかった。明日香が睡眠薬を飲んだ時には、抱きかかえてトイレに連れて行き、吐かせた。何日も口にしない日が続けば、自ら台所に立って料理を作り、強引に食べさせた。そして、自傷行為で心の痛みを紛らわせようとしたときさえ、彼はその手を止めることはなかった。それどころか、傷口に手当てまでしてくれたのだ。本来、そんな余計なことをする必要など、どこにもないはずだった。もし遼一が、もはや冷め切った彼女の心を知りながら、恋情めいたものを抱き始めたのだとしたら、明日香の前世でのすべての苦しみや、あの必死の思いは一体なんだったのだろう。明日香は、あれほどまでに彼を愛していた。最後の最後まで、ただ一目会いたいと、卑屈なほどに願い続けていたのに。けれど、彼女を待っていたものは何だった?書斎を出た後、中から大きな物音が響いたが、明日香は気にも留めなかった。怒る資格なんて、彼にあるはずがない。何様のつもりなのだろう。リビングに戻ると、電話線をつなぎ直し、防犯ドアの業者を探し始めた。さらに内側からしか開けられない補助錠をいくつも追加で注文した。冷蔵庫を開けると、彼が買ってきた食品をすべてゴミ箱に投げ入れた。それらは中村が届けたもので、あの薬を盛られた事件以来、明日香は遼一の用意したものを一切口にしなくなっていた。その後、自室に戻ると、窓もドアも隙なく閉め切った。芳江さんが帰ってきていたことで、つい気を緩めたのが間違いだった。そうでなければ、遼一が入り込む余地などなかったのに。さきほど遼一に言った言葉は、半分が真実で、半分は虚勢だった。だが、彼の前で自暴自棄な言葉を吐くたび、なぜか胸の奥にひどく甘美な快感が広がっていく。不思議なものだ。傷ついてきたのは、いつだって自分だったというのに。その頃、田中が病院に戻ってきた。「申し訳ございません、樹様。南苑別邸には誰もおらず、明日香さんはどうやらお見えにならなかったようです」病床に座る樹は、点滴の針を刺したままの手を膝に置き、病的に青ざめた顔をしていた。「出ていけ
明日香が彼を罵ろうとしたその時、机の上で突然、携帯電話の着信音が鳴り響いた。遼一の電話である。思わず視線を向けると、画面には「珠子」の文字。珠子からの電話だった。遼一はすぐに立ち上がり、電話に出るだろうと明日香は思った。彼には、通話中に決して他人を近づけさせない習慣があるのを知っていたからだ。前世で彼の妻だった頃でさえ、電話が鳴れば必ず席を外す必要があった。今の明日香も、彼と同じ空間に居続けることを望んでいなかった。だが遼一は、ちらりと画面を見ただけで応答の素振りすら見せない。明日香は知らぬふりをしてページをめくりながら、「出ないの?」と口にする。やがて十数秒で着信は途切れ、続けざまに二度目の呼び出し音が響いた。遼一はようやく電話を手に取る。その瞬間、彼の腕の力がわずかに緩み、明日香が腰を浮かせた刹那、椅子ごと後退した遼一が彼女をぐいと引き寄せ、完全に腕の中へ閉じ込めた。「これ以上逃げようとするなら、鎖で繋いで二度とどこへも行けなくしてやる」低い声が耳元に落ちる。「静かにしていろ。書類を片付けるまで」そう言うと、遼一は電話に応じた。「どうした?」受話口から、珠子の明るい声がはっきりと漏れ聞こえた。「遼一さん、今日会社に行ったんですけど、一緒に昼食をと思って。中村さんに聞いたら、いらっしゃらないって......」「ああ」遼一は短く答えた。「学校からの往復は大変だ。これからは会社に来るな。勉強に専念しろ」珠子は小さく笑った。「遼一さん、忘れてますね。数学オリンピックの二次試験に受かったんです。帝大に推薦入学できるから、もう受験の必要はありません。だから学業もそんなに忙しくないんです。これからは毎日、遼一さんと一緒に食事をしようと思って......最近お家に帰ってこないから、もっと一緒にいたくて」声にはかすかな寂しさが滲んでいた。「今は用がある。話は帰ってからだ」「遼一さん!」彼女の呼びかけを遮るように通話を切ると、懐に抱え込んでいた明日香を見下ろした。「何を考えている。まだ試験のことが気にかかるのか?」明日香は彼の腕を振りほどき、立ち上がった。「覚えていたんだ......」冷ややかな笑みを浮かべる。「あなたが私の数学オリンピックを台無しにしたように、今度は高校受験もさせな
田中が南苑別荘へと駆けつけたが、応答はなく、人の気配すら感じられなかった。まさか、このような結果になるとは思ってもいなかった。さらに携帯電話も繋がらない。彼は知らなかった。当の本人が二階の部屋にいて、明日香がただ応答しなかっただけだということを。今の明日香の状態では、とても外へ出られるはずもなかった。遼一もまた、部屋で彼女の一挙手一投足を監視していた。明日香は声を発することさえできず、おそらく誰かを避けるようにして沈黙を守っていた。二人の間に横たわるものは、一言二言で説明できるような単純なものではない。遼一は歩み出てケープを手に取り、彼女の肩へとそっと掛けると、そのまま背後から抱き寄せた。明日香の首筋から鎖骨にかけて、鮮明な痕がいくつも刻まれている。それが誰の仕業か、言うまでもなかった。彼女は淡い色のセーターを纏い、ゆったりとした襟元からは華奢な肩がのぞいている。粗い指先がそこを撫でながら、低い声が囁いた。「前にも言ったはずだ。あいつは......お前にふさわしくないと」そう告げて頭を垂れ、軽く唇を触れさせた。明日香の表情は、氷のように冷ややかだった。「彼がふさわしくない?じゃあ、あなたはふさわしいとでも言うの?忘れないで。もし珠子さんが、私たちの関係を知ったら......彼女がどう思うか!バレたくないなら、いい加減にして」襟を掴んで引き寄せ、彼を突き飛ばすと、背を向けて立ち去ろうとする。だが遼一は、まるで膏薬のように離れず、すぐに彼女を横抱きにして、これまで誰一人入れたことのない書斎へと連れ込んだ。そして、自らの膝に明日香を座らせた。「何するの、部屋に戻るわ」彼の腕が腰を締め付け、身じろぎすら許さない。「少し静かにしていろ。そうすれば戻してやる。さもなければ......今ここでお前を抱く」その一言で、明日香は息を呑み、動きを止めた。遼一はパソコンに向かい、電子メールの処理を続けていた。画面に映し出されているのはロシア語の羅列で、明日香には一文字も理解できない。彼は退屈そうにしている彼女に気づいたのか、本棚から一冊の本を抜き取り手渡した。「やることがないなら、本でも読め。分からないことがあれば俺に聞け」その本を見た瞬間、明日香の顔色が変わった。手渡されたのは、英語の古典官能小
千尋は、自分の知っていることを田中に語った。二人とも心の底では察していた。ここまで事態を動かすことができるのは、明日香しかいない。かつて、樹と明日香が共にいる光景を彼らは目にしていた。あの時、樹は明日香の前でだけ、不器用ながらも笑みを浮かべていた。病に倒れ、絶望の淵にあった彼を救い出したのは明日香だった。そして今回もまた、彼を救えるのは彼女以外にいない。結ばれた縁は、それを結んだ者にしか解けない。樹が過去を捨て、全てを成し遂げたのも、すべては明日香のためだった。いつの日か、明日香がその想いに気づいた時、きっと理解するだろう。田中は重々しい声で告げた。「今回は......明日香はそう簡単には心を翻さないでしょう。もし蓉子様が自ら足を運び、直接説得なさらなければ、樹様にはもう望みがありません。東条さん、ご安心ください。樹様は無事です」何があろうとも、藤崎家ただ一人の後継者に万が一があってはならない。千尋は深く頷いた。「社長のことは田中さんにお任せします。私は会社に戻り、処理すべき案件がありますので」「ええ、承知しました」樹が意識を失っている今、会社を導く者が必要だった。決断を下す者がいなければ、株主たちは再び騒ぎ立て、混乱は避けられない。――悪夢。――炎。――爆発。「樹......別れましょう」「......」「あなたは私に何を与えてくれるの?」「......」「最初から最後まで、私はあなたを騙していたの。何も持たないあなたと共にいる理由なんてどこにあるの?結婚?口先だけの約束?それともベッドの上で囁く言葉?」「......」「目を覚ましなさい!分からないの?私はずっとあなたを予備として扱ってきたの。呼べば来て、追えば去る――ただの犬よ。私が優しくしたのは、従順な犬が欲しかったから。まさか......私があなたみたいな人を本気で好きになると思った?」轟音。車が衝突し、崖から転げ落ちる。濃い白煙が立ちのぼり、視界は真紅の血で染まっていく。樹は繰り返し見続けた悪夢からようやく目を覚まし、見上げた白い天井を前にして、これが夢だったのだと悟った。「目が......覚めました!若様、ついに!」「すぐに医師を!」三十秒も経たぬうちに医師と看護師が駆け込み、迅速に検査が始まった