Masuk「お兄ちゃんは、もう大丈夫よ」遼一の目がある前では、遥は本当のことを言う勇気がなかった。彼の怒りを恐れて、ただそう取り繕ったにすぎない。だが、心の奥底では、ほくそ笑んでいた。明日香が樹のことを尋ねた。それはつまり、樹をまだ忘れられないという証拠だった。そしてきっと、樹のほうも同じはずだ。今でこそ息も絶え絶えで意識もないが、それは明日香が帰ってくるのを、ただ待ち続けているからではないか。「そう……何ともないなら、よかった」明日香は、長年胸の奥につかえていたものがようやく消えたような気がした。遼一はまず、遥を自宅まで送った。遥は本当は、彼に一晩泊まっていってほしかった。だが、怒りを買うのが怖くて、笑顔でこう言うしかなかった。「明日香ちゃん、今度はうちに遊びに来てね。ちゃんともてなすから」「うん」明日香はそれだけ答えた。車のドアが閉まった瞬間、空気が一変した。遼一は牙をむく狼のように豹変し、明日香の顎を乱暴に掴んだ。「……何年経っても、まだ忘れられないのか?明日香。俺が優しすぎたせいで、俺の前で平気であいつの話ができるようになったんだな」明日香は彼の怒りの光を宿した瞳を真正面から受け止めながらも、その表情は驚くほど平然としていた。「だったらどうするの?この車の中で私を辱める?それとも、また樹をどうこうするつもり?あなたのやり方は、昔から汚くて卑劣ね」「そんなこと言われても、俺が何もできないと思ってるのか?忘れるな。お前の今あるすべては、誰が与えたものなのかを!」「それをありがたがるとでも思う?」明日香は、まるで可笑しいものでも見るように口角を上げた。「いいか、もう一度あいつの名を口にしたら、もう一度、あいつに苦痛を味わわせてやる。息の根を止めてやってもいい。明日香、お前は今も、そしてこれからも、俺に依存して生きるしかないんだ」スプレンディア・レジデンスへ連れ戻された明日香は、再び閉じ込められた。今度は、家から一歩も外に出ることを許されなかった。それどころか、遼一の目の届く範囲から離れることすら許されず、会社に行く時でさえ、常に彼の傍に置かれた。やがて、遼一と遥がウェディングフォトを撮り終えると、メディアはこぞってセイグランツ社と桜庭グループの縁組を報じた。セイグランツ本社ビ
清風山の山頂は非常に高く、息をのむような夕日が広がっていた。夕焼けの光が明日香の体に降り注ぐ中、ボディガードが遼一からの電話を受け、そっと彼女のそばに寄った。「……明日香様、社長がお話があるそうです」明日香は携帯を受け取り、耳に当てた。「何か用?」r「早く帰ってくれ。心配するから。歩いて下山するのは危険だ、ロープウェイに乗って、いい子にしててくれ、わかった?」遼一の声には、かすかに柔らかい響きが混じっていた。しかし明日香が返事をする間もなく、電話の向こうから遥の声が重なる。「遼一、ウェディングドレスを着替えたの。あと最後のワンセット撮れば終わりよ」明日香は即座に電話を切り、ボディガードに携帯を返した。「帰るわ」「明日香様、ロープウェイはあちらです」忠告するボディガードに、明日香は返事をせず、ひたすら山を下り続けた。山麓に到着する頃には、空はすっかり夜の帳に包まれ、足元の道はかろうじて見える程度。後ろを歩くボディガードたちはひやひやしながら、携帯のライトを点け、次々と道を照らしていった。「明日香様、少し休みましょう。社長はもう向かっていらっしゃいます。このまま歩き続けるのは危険すぎます」言い終わるか終わらないかのうちに、山を登る方向から光の波が迫ってきた。大勢の人々が強力な懐中電灯を携え、次々とやって来たのだ。やがて遼一が険しい顔で明日香の前に歩み寄り、何も言わずジャケットを脱いで彼女の肩にかけた。「次にまたこんな無茶をしたら、家でじっとしてろ。どこにも行かせない」明日香は、遼一が来るとは思っていなかった。この時間なら、彼は遥と一緒にいるはずだったのだ。遼一が彼女の体に触れると、全身が冷え切っていることに気づいた。彼は身をかがめ、明日香を横抱きにすると、本来なら2時間かかる道のりを、わずか1時間余りで下山した。車に乗り込むと、明日香は遥の姿も目にした。遥はすぐに温かいお茶を注ぎ、差し出した。「体を温めなさい。こんな寒い日に歩いて下山するなんて危険すぎるわ。私も遼一も、とても心配していたのよ」明日香は自ら遥の隣に座り、温かいお茶の入ったカップを両手で包み、立ち上る湯気を見つめながら言った。「もう次はないわ」遥は明日香が着ている遼一のジャケットに目をやり、一瞬不快な色を浮かべたが、
このまま歩き続ければ、足が不自由にならなくとも、もうまともには動けなくなるだろう。明日香が山頂へたどり着いた時には、すでに三時間近くが経っていた。山には仏に手を合わせる参拝客の姿がちらほら見え、住職は袈裟をまとい、黄金の巨大な仏像の下に静かに立っていた。明日香は蒲団の上に跪いたが、頭の中は真っ白だった。ここに来た時の「願い」はもう消え失せ、今の自分に何を祈ることができるのかさえ、分からなかった。家族の無事を願う?唯一の父親は、とうの昔に自分を見捨てて去ってしまった。友人たちの幸福を祈る?成彦たちは皆、順風満帆で、それぞれの夢を叶えている。では、愛する人と添い遂げることを願う?いいえ。今世では決して結婚しないと、すでに心に決めている。そう、今の明日香には「自分」しかいない。しかも、その「自分」も、そう長くは続かないかもしれない。他に、いったい何を願うことがあるだろう。健康と無事?自分は本当に、これからも息をして生きていけるのだろうか。「阿弥陀仏。またお会いしましたな、月島様」突然、住職が静かに声をかけた。明日香は少し驚いて顔を上げる。「え……私のことを覚えていらっしゃるのですか」「四年前にもお見えになりましたな。今日はお礼参りですか、それとも……また新たなお願い事かな?」住職は穏やかに尋ねた。ボディガードが明日香の手から線香を受け取り、香炉に立てる。明日香は跪いたまま、瞳に寂寥と戸惑いをにじませた。「以前は、ただ周りの人たちの健康と無事だけを願っていました。今、彼らはみんな元気に暮らしています。でも、ひとりだけ……今どうしているのか分からない人がいて。だから、この願いが『叶った』と言っていいのか、自分でも分からないんです。今回は、自分のために何かを願おうと思って来たのですが、いざ口を開こうとすると、願えるものなんて何もないことに気づいてしまいました」「阿弥陀仏……」住職は目を細めてうなずく。「月島様は、儂が何年も前にお会いしたある女性の参拝者によく似ておられる。その方は身重で、夫の無事と、まだ見ぬ子の息災を願っておられた。儂が『なぜご自身のためには祈らないのですか』と尋ねると、その方もあなたと同じように、心優しいお方だった」明日香は少しだけ表情を
これは、彼が唯一約束を守った瞬間だった。その夜、遼一は明日香に手を出さなかったが、長い時間、彼女の体に触れていた。翌朝、夜が明けても明日香はまだ眠り込んでいた。突然、下半身に鋭い痛みが走るが、すぐに消えた。明日香は唇を噛み締め、男の欲望を黙ってやり過ごす。全身の力が抜け落ちた後、遼一は彼女を抱き上げ、浴室で体を洗わせ、ベッドに戻した。明日香は疲れ果てて再び眠り、目が覚めた時には、もう隣に誰もいなかった。遼一がどんな薬を塗ってくれたのかは分からないが、しばらく眠った後、体の痛みは残るものの、下半身の痛みは完全に消えていた。明日香は服を着て、ふらつく足取りで部屋を出た。食卓には、遼一が用意した食事が並んでいる。明日香は適当に数口かき込み、正午の12時になると、お手伝いさんが掃除にやって来た。「旦那様は急なご用事でお出かけになりました。お嬢様もお出かけになってはいかがでしょう。こちらは旦那様がお残しになった現金です」お手伝いさんは、数十万円はあろうかという札束を差し出した。明日香は俯き、何も言わずにご飯をかき込み続けた。寝た後にお金を渡すなんて、遼一は自分を何だと思っているのだろう?寝たら金をもらえる女くらいに思っているのか?ご飯を半分ほど食べたところで、明日香は食欲を失った。清風寺。明日香はここを訪れたことがあった。かつてR国に行く前、最後に立ち寄った場所だった。家を出ると、やはり後ろにはボディガードがついていた。車で山麓に到着し、古びた門を見上げると、「清風寺」と黒墨で書かれた三文字が目に飛び込む。ただ、年月を経たためか、門の扁額は彼女が以前来た時ほど新しくはなかった。ボディガードが忠告する。「明日香様、頂上まで登られるのでしたら、ケーブルカーのご利用も可能です」明日香は首を横に振った。「いいえ、自分の足で登ります。そうすれば、仏様にお願いすることも、叶いやすくなるでしょう。もし歩きたくないなら、無理に付いて来なくても構いません」「明日香様、社長が申されるには、明日香様がどこへ行かれようとも、我々は片時も離れずおそばにいるべきだと」ボディガードは譲らなかった。山麓から山頂まで、山道はさほど険しくなく、合計9000段の階段が続く。当時も明日香は一段一段、こうして登ったのだ。
「この世のすべてが、あなたの思い通りになるわけじゃない。たとえ今の地位にいるあなたでも!」明日香の声は震えていた。「愛人ごっこをしたいなら、喜んで付き合う女はいくらでもいる。私より綺麗で、若い子たちが山ほどね。私で暇つぶしするのはやめて。私には付き合いきれない!無理やり従わせて、あなたの慰み者になんてさせない!もしあなたが遥さんと結婚するなら、心から祝う。末永くお幸せに、子宝に恵まれ、子や孫に囲まれますようにってね!」そう言うと、明日香は踵を返して自室に戻り、力任せにドアを閉め、内側から鍵をかけた。突如、頭に激しい痛みが走り、明日香は耐えきれずベッドサイドのテーブルから薬を数錠取り出して飲み込む。胸の鼓動が早まり、次の瞬間、視界が暗転し、そのまま床にへたり込んだ。髪をかきむしりながら痛みに耐え、目眩が過ぎ去るのを待った。居間の外のバルコニーでは、遥が十数回電話をかけた後、ようやく遼一が出た。「要件があるなら早く言え」「お母さんが私たちのためにスタジオを予約してくれたの。明日、屋外でウェディングフォトを撮るんだけど、いくつか場所を選んでみたから、あなたの都合はどうかなって……」遥の声は恐る恐るで、機嫌を取るような響きがあった。遼一は俯いて煙草の灰を弾いた。「明日は無理だ。用事がある」「でも、中村さんにも聞いたし、あなたのスケジュールも確認したけど、明日はお休みじゃない?」遥は慌てて言葉を重ねた。「遼一、お母さんがカメラマンも手配してくださったの。衣装も、メイクさんも予約済みなの。断らないで、お願い?」かつて、遥はその界隈で扱いにくいことで有名だった。横暴でわがまま、気まぐれで自分勝手。しかし今、その面影は微塵もなく、塵芥のように卑屈になっていた。まるでかつて必死に遼一を引き留めようとした明日香の姿そのものだった。遼一の周りには常に女性が絶えなかった。たとえ彼が最も落ちぶれた時でも、頷きさえすれば、彼の容姿のためにすべてを投げ出す権力と財力を持つ女性は幾らでもいた。だが遼一には、女から欲しいものを奪うことを潔しとしない矜持があった。「明日の住所を送っておけ」遼一は短くそう言うと、電話を折った。遥は望外の喜びに声を弾ませた。「わかった!明日、南苑の屋敷の入り口で待ってる!」「いらん。住
明日香はそっと彼の手を振りほどき、立ち上がってダイニングテーブルの前に腰を下ろすと、無言のままご飯をよそい、遼一の前に差し出した。ここ数日、明日香はずっと遼一の望むように振る舞ってきたが、それはあくまで「妻」という役を演じているだけに過ぎなかった。「今日の料理、少し塩辛いな。次はもう少し控えめでいい」「うん」明日香は淡々と返事をし、数口だけご飯を口に運んだ。だが実際には、この料理を作ったのは彼女ではない。遼一が帰宅する少し前、アパートの管理人に作らせたものだった。遼一はそのことに気づく様子もなく、当然のように箸を進めていた。「明日、俺は休みなんだ。山でも登りに行かないか?清風寺ってところがいいらしい。参拝するとご利益があるんだと」「あなた、そういうの信じない人じゃなかった?」明日香は思わず目を見開いた。遼一の口からそんな言葉が出るのは、滅多にないことだった。遼一は魚の骨を丁寧に取り除き、ほぐした身を彼女の茶碗にそっとのせた。「この数日、仕事で忙しくてさ。ちゃんと構ってやれなかったから、気分転換くらいさせてやりたいと思って」明日香はその魚に手をつけず、ただ小さく頷いた。「うん」彼女が応じたのは、彼と一日中二人きりで過ごすのを避けたかったからだった。二人きりになれば、彼が何をするかなど考えずとも分かっていた。わずかな会話のあと、再び沈黙が落ちた。重い静寂を破ったのは、唐突に鳴り響いた携帯の着信音だった。画面には見覚えのない番号が表示されている。遼一は無表情のまま通話を切ったが、三十秒も経たぬうちに再び着信があった。今度は迷わず電源を切った。「結婚式、もうすぐでしょ。忙しくないの?」沈黙を破ったのは明日香だった。「俺が家にいて、お前と一緒にいるのは不満か?」遼一の声音には、わずかに挑発の色が混じっていた。明日香は答えず、ただ俯いた。自分の言葉が届く相手ではないことを、誰よりも彼女自身が分かっていた。「あなたはいずれ遥さんと結婚して、子どもを作るんでしょ。遅かれ早かれ、あの人のところへ戻るはずよ。私は、せいぜいあと半月しかここにいない。あなたたちが結婚したら、私は出ていくわ。今日、田崎教授のスタジオから電話があって、手伝いに来てほしいって頼まれたの。引き受けたわ。教授のところには







