幼馴染の夫は妹との子供を引き取り、2人の子として育てるよう言った。 10年彼女は双子の世話に追われ、その間冷たい夫からはほぼ無視をされ、子供たちからもいつの間にか嫌われて、最終的に棄てられた。 初恋に敗れ、身内に裏切られ、彼女は死ぬ間際この結婚を後悔した。 そして彼女は、過去へと戻ったことを知った。 愛していても報われないどころか殺されるなら、もう自分を偽るのはやめよう。 「君、変わったね」 「ぶりっ子はやめたの。悠一、別れましょう」 子供の頃、お転婆で自由な彼女に惹かれた気持ちを思い出し、彼は前世と違って彼女を囲い込もうとしてきた。 「雪乃、愛してるよ」 「ご冗談」 彼女は綺麗に微笑った。
view more「死んじゃえ」
ゆっくりと閉じられていくドアの隙間から見えた息子の顔には嫌悪が浮かび、その口から信じられないような言葉が出て、青褪めた那須川雪乃(なすかわゆきの)は伸ばした腕を静かに下ろした。
冬の時季、誰も使わない別荘に忘れてきた大事なものを取りに行きたいとねだられ、父親に怒られたくないからと誰にも告げずに母子2人だけで訪れてみれば、建物裏にある物置小屋に閉じ込められた。
「陽斗(はると)!お願いっ、開けて!」
叫んでも、聞こえてきたのは遠ざかる子供の足音だけだった。
10年間我が子当然に大切に育ててきた息子の仕打ちに、雪乃はただ呆然と涙を流した。
どうしてっ…。
ちょうど1年くらい前、なぜか急に子供たちの彼女への態度が変わった。
夏休みを利用して、夫であり父親の那須川悠一(なすかわゆういち)の海外出張について行ったあの頃から、目に見えて冷たくなった。
「うるさい」「あっち行って」「僕(私)の物に勝手に触るな」
数え上げたらきりが無いほど数々の暴言を吐かれ、時には強く叩かれたりもした。
雪乃はなんとなくその理由を察してはいたが、それでも10年という絆を信じていた。
はぁ…。ママ、ママって、あんなに可愛かったのになぁ…。
ドアを叩きすぎて手は腫れ、叫びすぎて声が枯れ、毛布一枚ない粗末な小屋の寒さに体力も奪われ、とうとう雪乃は床に倒れ込んだ。
悠一…。
雪乃は夫の姿を思い描き、その冷たい表情とまるで熱のない口調を思い出して微かに嘲笑った。
こんな結婚、しなきゃよかった…。
そう後悔しながら、彼女の意識は徐々に暗闇へと沈んでいった…。
そしてー
「ーき乃っ、雪乃!」
小声ではあるがそのきつい口調に、藤堂雪乃(とうどうゆきの)はハッ…と意識を覚醒させた。
なに…。何なの、これ…?
ザワザワとした喧騒と静かなBGMが彼女の耳に触り、それと同時に目の前に立つ男を見て、雪乃は反射的に一歩後退った。
周りを見回すと着飾った家族が心配そうに自分を見ていて、雪乃はここがどこで、今何をしているのか理解した。
ただ、理解したからといって到底信じられることではなく、彼女の唇は微かに震えた。
「藤堂雪乃っ、早くしろっ」
「……」
そう急かされて、彼女は向かい合って立つ2人の横に困ったような顔で微笑う神父さまを見た。
指輪交換、ね…。
あぁ~、なんで誓っちゃったかなぁ…。
できれば永遠の愛を誓う前、できればこの結婚式の前に覚醒めたかった……。
あからさまにガッカリと肩を落とす花嫁に、新郎の那須川悠一は苛立った。
「早く手を出せ!」
はぁ〜。仕方ない…。
ため息をついた雪乃は左手をだらんと前に出した。
悠一はそれを掴んで、そのほっそりとした薬指にぎゅっと無理矢理指輪をはめ込んだ。
それから「んっ」と自らの手も新婦に向かって差し出し、嫌そうな表情をする彼女に早くしろと言わんばかりに、また改めて「ん!」と突き出した。
雪乃は本当にしぶしぶ…という感じで悠一に指輪をはめたが、その時突然、彼女の胸に後悔の波が押し寄せて来た。
「ったく…指輪の交換くらいで、何をそんなにもったいぶってんだか…っ」
悠一の文句を聞きながら、雪乃は呟いた。
「やだ…」
「は?なんだって?」
「やだって言ったの!」
そう叫んで、雪乃は徐ろに薬指にはまった結婚指輪を外そうとしだした。
「おい!」
悠一は慌てて彼女の手を掴み、サッと神父の方を見た。
「おいっ、さっさと宣誓しろ!」
「やだやだやだやだ!神様お願いぃーっ。こんなの認めないで!」
「雪乃!!」
この急なドタバタで結婚式はめちゃくちゃだった。
でも雪乃の必死な抵抗も懇願も虚しく、2人の婚姻は一応成立したのだった。
控室にてー
「どういうことなんだ!?」
那須川悠一は目の前のテーブルをバンッ!と叩いた。
「お前は結婚をなんだと思ってんだ!?遊びじゃないんだぞ!」
そう怒鳴っても、ウェディングドレスを脱いだ藤堂雪乃は平気そうに、その唇を尖らせてぶつくさ文句を言った。
「だって、いやだったのよ」
「なに!?」
ふんっとそっぽを向く雪乃に、悠一は怒りで目眩がしそうだった。
自分との結婚が嫌だった?なにを言ってるんだ、この女は!
イライラと歯軋りし、悠一はドカッと椅子に座った。
ふふっ
そんな時、場違いに響いた微笑い声にギロリと視線を向けた。
「なにが可笑しいんですか、母さん?」
「だって…」
答えながらも、彼女は笑いが止まらないようで、ふふふっと目を細めていた。
「母さんっ」
「ごめんなさい?だって、昔の雪乃さんを思い出しちゃって…っ」
「……」
悠一は黙って一つ息をついた。
「おばさま…」
雪乃は恥ずかしそうに頬を染め、ちらりと悠一の方を見た。
確かに、今『完璧な令嬢』と世間で言われている藤堂雪乃は、かつて子供の頃それとは程遠いお転婆な女の子だった。
両家の祖母同士が姉妹ということもあって昔から付き合いがあり、雪乃と悠一も幼い頃から顔見知りだった。
再従兄弟という間柄、割と頻繁に顔を合わせてはいたが男女だったからか、単に性格上か、そこまで親しくしてはいなかった。
悠一は那須川家唯一の後継者として小さい頃から厳しく育てられていたし、友人として付き合う相手も好きに選べる状況ではなかった。
それに比べて藤堂家は比較的自由な家風で、令嬢としての教育も最低限恥をかかない程度、という感じだった。
初めて会った時、悠一は大人たちが食事を楽しんでいるその横で静かに本を読んでいて、その姿は子供とは思えない落ち着き払ったものだった。
一方、雪乃は3歳下の春奈(はるな)と手を繋ぎ、那須川家の広大な庭を散歩中迷子になっていた。
不安で泣き出した妹を慰めながら歩く姿を窓から見た悠一が、執事に声をかけ、迎えに行かせたのだった。
あちこち歩き廻ったのだろう…うっすらと汗をかき、乱れた髪の毛に葉っぱを付けて「ありがとう」とはにかんだ笑顔にドキンと胸が鳴ったことを憶えていた。
悠一は目の前で柔らかそうな頬を膨らませ、拗ねているようにそっぽを向く雪乃を見て、確かに子供の頃を思い出すな…と微かに微笑った。
それを横目で見た雪乃が「なによ?」と言うのに、「いや…」と目元を緩めた。
春奈は実は、ケンは失敗すると思っていた。あんなに真面目な男に誘拐なんて、そんな大胆なことできるわけがない。いざとなったらビビって失敗するに決まってる。そんなリスクは負えない。だから、彼は捨て駒にした。春奈はケンがアルバイトをするBarで、昔の知り合いに会った。それは父親が不動産で成り上がった小金持ちの河本賢也(こうもとけんや)で、彼は一言で言うならクズだった。顔はまぁまぁ整っていたが、その性格の悪さが滲み出て、あまり好感の持てる人物ではなかった。賢也はお金に物を言わせて女を取っ替え引っ替えし、〝遊んで飽きたら捨てる〟を繰り返していた。令嬢たちの間でも悪評が立っていて、彼の父親は出自にコンプレックスでもあるのか、しきりに彼と令嬢を見合わせようとしていたが、全て惨敗していた。彼の方でも大人しいだけの令嬢には興味がないのか、そんな事には全く頓着せず、日々遊び人のように過ごしていた。だがある時、「彼の子を身籠った」と言ってきた女が2人同時に現れ、さすがの彼の父親も怒りに震え、彼をしばらく家から追い出したようだった。それを彼は、まるで長期休暇でも貰ったかのようにA国に来てまた遊び倒し、とうとう父親から一切の送金を止められたのだった。そんな頃、春奈は彼と再会し、彼の現状を聞いて、ある計画を思いついたのだった。「なぁ、あいつ、そろそろ仕掛けたかな?」「さぁ…」春奈は気怠げにそう言って、いつものカクテルに口をつけた。ケンが出国してから、思った通り監視が厳しくなった。それがわかっていたから、春奈は賢也に「あまり自分に近づくな」と言っていた。理由もきちんと説明してやったのに、バカな賢也は気にせず話しかけてくる。だから最近、彼女はホテルに閉じ籠もった生活をしていた。賢也にも自分からの連絡を待つように言い、なるべく接触しないようにしていた。全てはこの計画を成功させる為なのだ!わざと両親と言い争いをしてケンに取り入り、彼を出国させて雪乃をつけ狙わせる。悠一が彼に注意を向けて、計画を失敗した彼に処罰を与えている隙に、今度こそ本当に狙うのだ。その為には、お金の為ならなんでもするような人間が必要だ。しかも、頭が悪ければ尚良い。それが、河本賢也の役割だった。彼は今、父親のせいでお金に困っている。プラス、彼はスリルのある遊びに飢えている。こんなに
雪乃はとりあえず、青年を事務所の応接スペースにあるソファへと運んでもらった。そこへ寝かせてもらうよう伝えると、なぜか男は雑に青年を扱い、雪乃を困惑させた。「ご苦労さま。もう帰ってもいいわよ」「いえ、こちらに控えております」男はきっぱりと言った。雪乃はそう聞いて、まぁ、いいか…と頷き、それならと男にコーヒーを出し、支度をする為に自室に戻ることを伝えた。「また後で来ますね。え…と。名前を訊いてもいいかしら?」「……田中です」田中さん…。たぶん偽名ね。いいけど。「じゃあ、田中さん。朝食は済まされました?」「お気遣いなく。ありがとうございます」「……」取りつくしまがない。もう、いいわ。雪乃はため息を一つついて、事務所を後にした。田中はコーヒーを一口飲んで、フッと笑った。ボスの奥さまは、なんだか可愛らしい人だな…。自分のような者にコーヒーを出して、名前まで訊いてくれる。おまけに朝食の心配までしてくれるなんて…。そんな人、見たことない。彼はチラッと向かいのソファに寝かせた青年を見て、苦笑した。自分が狙ってた相手に助けられたなんて…。目を覚ましたらどう思うだろうな。しかし…〝保険証〟か…。そのおかしさに、ついククッと肩を震わせて笑ってしまった。あの女とは大違いだ。田中は、いつかの那須川グループ本社ビルの地下に、春奈を閉じ込めた時もそこにいた。あの女は泣くか喚くばかりで、本当に鬱陶しかった。しかも自分たちのような者を徹底的に見下していて、奥さまのように、普通に声をかけることすらしなかった。ボスの見る目は正しい。そう思って、田中は満足げにカップを置いた。一方、雪乃は。自室に戻ると、麻衣と友香に『諸事情により、本日事務所閉鎖』とメッセージを送った。麻衣からは訳を尋ねる返信があったが、面倒だったのでまた明日にでも話すことを伝え、浴室に入った。そしてシャワーを浴びて部屋に戻ると、今度は悠一からのメッセージが届いていた。『気を失っていても、2人きりにはならないように』とあった。「……」なにこれ。雪乃は濡れた髪を拭きながら、返信した。『親切なボディーガードさんがいるから、大丈夫よ』そう送って、手早く髪を乾かし、着替えて簡単にサンドイッチを作り、下へと降りた。雪乃の返信を受け取った悠一は、口をへの字に曲げて、今彼女に付
「あの…大丈夫ですか?」朝のジョギングの帰り道、雪乃は道端で蹲っている青年に声をかけた。そこは木陰になっていて、彼の黒一色の服装ではなかなか目につきにくいところだったが、偶然にも雪乃は吹いた風に被っていたキャップを飛ばされ、追いかけた先で気がついたのだった。「あの…?」青年は額に脂汗をかき、とても苦しそうにお腹を押さえていた。「病院に行きますか?」「……っ」青年の前に屈んでそう問いかけるが、痛みの為か返事をもらえず、雪乃は困った。声をかけた以上、このまま知らん顔はできない。でも見たところ外国人っぽいし…。病院に連れて行っても大丈夫かな?医療費とか沢山かかったら、かえって迷惑かけちゃうかも……。雪乃は悩んだ末、もう目の前がマンションだった為、とりあえず中に連れて行って休ませることにした。「うち、このマンションなんで。中で休んでください。腹痛の薬もあると思いますし…」「あ、ありがとう…」それだけ言って、青年はぐったりと気を失ってしまった。え?……どうしよう…。私一人じゃあ運べないし…。そう思って、ポケットからスマホを取り出した。トゥルルルル…トゥルルルル…なかなか相手が出ない。今日は来てないの?もう!普段、用もないのに来てるくせに!雪乃はイライラと唇を引き結んだ。その時ー『雪乃』耳から身体を震わせる深い声音が応答した。「き、今日はマンションに来てる?」動揺を隠すように急いで問うと、悠一はクスッと微笑って言った。『行ってない。なんだ?寂しくなったのか?』「違うわよ!」何なの、この男!?自惚れてんじゃないわよ!雪乃は、少し赤くなった顔を歪めて言った。「いないならいいわ!じゃあね!」『待て』「?」強い口調で制されて、タップしかけた指を思わず止めた。『何かあったのか?』「?いいえ?」ただ人手が欲しかっただけだ。雪乃はそれだけ答えると、通話を切った。目の前で人が気を失っているのだ。長話をしている暇はない。仕方ない…。雪乃は気合を入れて、倒れている青年の頬を叩いた。「すみませんっ。起きてください!」パシンッと結構強めに叩いても、彼は目を覚まさなかった。う〜ん…駄目か〜。どうしようかと考えていると、ふいに後ろから声をかけられた。「奥さま」振り返ると、一人の屈強な男が立っていた。「私で良ければ、
数日前、悠一はある1つの報告を受けていた。A国に遣った、藤堂家…特に春奈の動向を監視する者たちからのものだった。その者たちが報せるには、春奈はA国で数日過ごしただけで癇癪を起こし、両親と仲違いをして別荘を出て行ってしまい、とある若い男と接触したというのだ。その日はその男の部屋に泊まり、どうやら関係を持ったようなのだが、2〜3日もすると男はチケットを取り、出国したということだった。男は〝ケン〟と呼ばれる、春奈が常連の店のアルバイトらしく、普段は真面目に働く至って普通の青年らしかった。送られてきた男の写真を見た時に抱いた感想は、「あの女が好きそうな顔だな」というだけのもので、特に危険な感じは受けなかった。だが次の日、雪乃に付けていたボディーガードから受けた報告で、男〝ケン〟が彼女の前に現れたことを知り、これが春奈の仕業だと理解した。「いかがいたしましょうか」同じく報告書に目を通していた真木は、悠一の目に怒りの火が宿るのを見てため息をついた。まったく、あの女も懲りないな…。今度こそ、見逃してはもらえないだろうな…。真木は自業自得だと思いながらも、悠一がどこまでやるつもりなのか心配していた。「社長ー」「まだだ。こいつが何をするつもりなのか、はっきりするまでは手を出すな」確かに、ケンは他国の人間だったこともあり、手を出すにしても迂闊に証拠などは残せない。国際問題に発展するようなことは、避けるべきだ。まずは彼の身内や友人などを調べて、どの程度の付き合いなのか、仮に彼が行方不明になったとして、どのくらい捜そうとするのか…。つまり、どの程度〝騒ぐのか〟を調べる必要があった。「かしこまりました」真木は頭を下げて悠一のオフィスを後にし、早速A国で懇意にしている情報屋へ連絡を取った。そして、監視者へは春奈への監視の強化を指示した。何かあっても絶対に逃げられることのないよう、一時も目を離さず、24時間態勢で監視に臨むよう伝えた。以前のように彼女に同情したり、籠絡されたりするような者が出ないよう、今回は厳選した人事だったが、お互いがお互いを見張れるように2人一組で行動する事を、改めて指示した。次の失態は、真木自身の失脚にも繋がりかねない。悠一は、信頼を裏切る者に容赦がない。これまで真木はそれに応えてきたからこそ、今の地位を築けているのだ。もち
ケンは物陰に隠れて、藤堂雪乃を見ていた。春奈が見せてくれた写真の彼女よりも何倍も美しく、好ましい感じだった。写真の彼女は確かに美しく、たおやかで、それでいてその瞳に聡明さが窺えた。一方、今目にしている彼女はとても溌溂としていて、瞳は太陽の光を受けてきらきらと輝いている…という感じで、全体的に強く、靭やかに見えた。ケンは実際に彼女を初めて目にした時、混乱した。本当に彼女が人の夫を奪ったのか?春奈が言うには、自分たち姉妹は子供の頃から元夫、悠一のことが好きで、姉の雪乃はいつも彼女と悠一が仲良くするのを邪魔していたらしい。それを両親にいつも注意されて不貞腐れていたのだが、ある時悠一の祖母を味方につけて婚約を交わしてしまったと言うのだ。話を聞いた時、とんでもない女だと思った。さぞかし意地悪で、傲慢な女に違いない!そう思っていた。でも、実際の彼女は……。ケンは躊躇していた。春奈から、「夫のことはもう諦めたけれど、子供の頃からの意地悪や今回のことに対する仕返しがしたい」と言われた時は〝よし、協力してやろう!〟と思った。それが、彼女をちょっとだけ誘拐して怖がらせ、悠一からお金をせしめてやろう…という内容でも、雪乃が実家を破産させて、両親まで困窮させていると聞いたから、手伝ってもいいと思ったのだ。春奈は言った。「悠一はすっごくお金持ちだから、欲張りさえしなければお金を払って解決する方法をとるわ」と。「お金持ちって…どれくらい?」そう訊いたのは単純に興味があったのと、身代金の金額の、境界線の見当をつけたかったからだ。「う〜んとね。とにかくすごいお金持ちよ。想像がつかないくらい。だからね、このくらいなら……」と、こっそりと耳元で囁かれた金額に驚いて、思わず生唾を飲み込んでしまった。「そ、そんなに…?」「うん。いい話でしょう?」にっこり笑ってそう言う春奈に、ケンは焦った。「もしかして、君もすごいお金持ちなのかい?」彼はそんな環境に身を置いたことがなく、関わり合いになることを恐れた。だが、彼女は平然と答えた。「以前はね。でも、言ったじゃない。お姉ちゃんに破産させられたって。今は見る影もないわ」「……」「無理ならいいのよ?諦めるから…」弱々しげにそう言われて、ケンは頭の中が酷く混乱した。「いや…」「大丈夫よ。他の人をあたって
「春奈!もういい加減にしろ!」バシッという音が玄関ホールに響き渡った。「なによ!殴ったわね!?」春奈は一瞬にして赤く腫れ上がった頬を手で押さえ、キッと父親の藤堂真を睨みつけた。A国ー。那須川悠一が唯一残してくれた別荘で過ごすうち、その露骨に監視される生活や、今までと違い買い物も満足にできず、欲求が満たされない毎日に春奈のイライラが頂点に達し、とうとう地団駄を踏みながら喚き散らした。「もう嫌!!こんな生活耐えられない!お父さんたちは平気なの!?」「春奈……」母親の小夜子は眉根を寄せ、真はその唇を捻じ曲げた。こんな生活にしたのは誰なんだ。張本人が何を言ってるんだ!真は胃の底がグツグツと煮えたぎり、最近特に痛み出して最早薬無しでは生活できないほどだった。「春奈…元々はここも処分されるはずだったのよ?それを残してもらえたんだからー」「バカ言ってんじゃないわよ!私がサインしたからここを残してくれたのよ!?今があるのは!私の!おかげなの!」「……」勘違いも甚だしいが、これ以上何を言っても無駄だろうと、真はため息をついて頭をゆっくりと振った。小夜子はただその目に涙を浮かべて、哀れそうに娘を見つめた。その2人の態度に、春奈の怒りが爆発した。「もういい!!私、出て行くから!」「春奈!!」急いで娘の腕を掴んだ妻が思い切り振り払われてよろけたのを見て、真は一気に青筋を立てた。「勝手にしろ!その代わり、何があっても責任は取らんからな!!」去っていく後ろ姿に怒鳴りつけたが、帰ってきたのは「フンッ!」という嘲りだけだった。「あなた……」打ちひしがれたように縋り付く妻に、真は言った。「もう諦めなさい…。あの娘は、もうどうしようもない。育て方を間違えたとしか言えん」「……」涙を流して立ち去ってしまった娘を思い、小夜子はがっくりと肩を落とした。一方真は、この事態を悠一に知らせなければならない事に、また胃が痛む思いだった。けれど、黙っている訳にはいかない。黙っていても監視者が報告するだろう。ここで口を閉ざせば、次はどんな処罰が待っているかわからない。そんなのは御免だ!真は雪乃を頼りにしていた。この娘が悠一をなんとか宥めてくれれば、自分たちの再起もあり得るのだ。今はそれを待って英気を養う時だ!真はぐっと唇を噛み締め、腕の中の妻を休ませ
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