LOGIN「今の彼氏は、あんたなんかより百倍素敵な人よ!」 結婚直前に裏切られた朱里は、プライドを守るためレンタル彼氏での復讐を決意。だが当日、業者は現れず、絶体絶命の朱里がとっさに捕まえたのは息を呑むほど美しい男だった。 彼をホストと勘違いし復讐を成功させ、勢いで一夜を共にするが……翌朝、衝撃の真実が待っていた。 彼は業界の頂点に君臨するホテル王・九龍湊。 「君を婚約者役として雇いたい。月額300万。住む場所は僕の家だ。ただし、あの夜のことは『業務外』だ」 レンタルしたはずが、まさかの逆雇用!? 冷徹な契約と身体の熱が交錯する、嘘つきな二人の溺愛契約ラブストーリー!
View More「……拓也?」
金曜の夜、ホテルラウンジの奥で、私の声だけがひどく小さく響いた。 丸いテーブルには、まだ氷の溶けきっていないグラスが二つ。低く流れるジャズと、カトラリーの触れ合う音。大人ぶった静けさの中で、三年付き合った恋人は、私の親友の腰を当たり前のように抱いていた。 相手は、美咲だった。 大学の頃からの親友。私の部屋で深夜まで恋バナをして、同じコンビニのプリンを半分こして、泣きながら「朱里がいてくれてよかった」と言った、あの美咲。 二人は、キスをしていた。 偶然、唇が触れた。そんな言い訳はできない。肩の寄せ方も、指の絡め方も、私と目が合った瞬間にほどけた距離も、全部があまりに慣れていた。 私だけが知らない時間の匂いがした。 「朱里……?」 拓也の顔から、さっと血の気が引いた。 美咲は一瞬だけ目を見開き、それから、泣きそうな顔を作った。昔なら、私が一番弱かった顔だ。美咲がそういう顔をすると、いつも先に折れるのは私だった。 「違うの、朱里。これは……」 「何が違うの?」 指先は震えていた。けれど涙は出なかった。悲しいよりも先に、胸の底が冷たくなっていく。怒りは、熱いものだと思っていた。違った。本当に傷ついた時、人は何も感じられなくなる。 「……私の誕生日に、仕事だって言った夜も、美咲の部屋にいたわけ?」 拓也が答えない。 美咲の唇が、ほんの少しだけ引きつった。 謝罪ではない。ばれた、という顔だった。 ああ、そう。 私が馬鹿だっただけなんだ。 恋人の嘘も、親友の優しさも、都合よく本物だと信じていた。 「私が相談していた時、楽しかった?」 「朱里、やめて。ここ、人が見てるから……」 「人前だから困るの?」 私の声は、自分のものではないみたいに低かった。 「私の前では、困らなかったくせに」 拓也が立ち上がった。 「朱里、俺が悪かった。でも、美咲を責めるのは――」 その一言で、もう十分だった。 私ではなく、美咲を庇うのだ。 三年間の最後に、拓也が選んだのは、やっぱり彼女だった。 「もういい」 喉の奥が詰まった。これ以上ここにいたら、二人の前で泣いてしまう。 「別れて。二度と、私に連絡しないで」 「待てよ、朱里。話を――」 「聞きたくない」 伸ばされた手を避け、バッグを掴んだ。 美咲が、か細くすすり泣く声を出した。 まただ。美咲はいつも、都合が悪くなると先に泣く。 私は踵を返した。 背中に拓也の声が追いかけてくる。美咲の小さな嗚咽も聞こえた。けれど振り返らなかった。 泣くのは、家に帰ってからでいい。 ここで崩れたら、あの二人の物語の中で、私はただの惨めな脇役になる。 それだけは、死んでもごめんだった。◇
その夜、家に帰ってから、私は洗面台にしがみつくようにして泣き崩れた。
泣いて、吐いて、水を飲む。少し落ち着いたと思えば、また涙が戻ってくる。夜明け前の部屋は薄青く、床に落ちたバッグの中でスマートフォンだけが何度も震えていた。 拓也からの着信。 美咲からのメッセージ。 『誤解なの』 『ちゃんと話したい』 『朱里を傷つけるつもりはなかった』 傷つけるつもりはなかった。 あれほど便利で、残酷な逃げ道を、私はほかに知らない。 傷つけた事実は、そのままなのに。 週が明けた月曜の朝。私はいつも通り、黒のパンツスーツに袖を通した。 コンシーラーで目の下の赤みを消し、鏡の前で口角を上げる。笑え。仕事に持ち込むな。そう言い聞かせても、胃のあたりはまだ重かった。 私は、茅野朱里。二十五歳。 高級ブライダルサロン『Felice Luce(フェリーチェ・ルーチェ)』のチーフコーディネーターだ。 誰かの一生に一度の幸福を整える。それが、私の仕事だ。 たとえ、自分の幸福が粉々になったばかりでも。「じゃあ、更新します。今日も、明日も。たぶん、喧嘩した日も」「たぶん?」「その時の湊の態度次第かな」「厳しいな」「妻なので」 そう言うと、湊の目がわずかに揺れた。 妻。 その言葉を、彼はまだ時々、新しい宝石を掌に乗せたみたいに受け取る。大切で、少し怖くて、でも決して手放したくないものを見る目で。「……もう一度」「え?」「今のを、もう一度言ってほしい」「妻なので?」「違う。いや、それも悪くないが」「悪くないんだ」「朱里」 少し拗ねたような声に、私は負けた。「更新します。今日も、明日も」 湊の表情が、ゆっくりほどけた。 その顔を見たら、胸の奥がいっぱいになって、私は続きを言えなくなった。 湊は私の手を引き寄せた。距離が、静かに縮まる。シトラスと、温室の湿った土と、白い花の匂いが混ざる。「朱里」「はい」「愛している」 何度聞いても、慣れない。 でも、もう逃げない。「私も、愛してる」 答えた瞬間、湊の腕が私を包んだ。抱きしめる力は強い。けれど、苦しくはない。彼の肩越しに、白い花が夜の空気を吸って、ほんの少し揺れていた。 あの頃の私は、復讐のために完璧な恋人を探していた。 五万円で雇ったはずの恋人は来なくて、代わりに現れたのは、月額三百万円の契約を平然と差し出す、どうしようもなく傲慢で、不器用で、孤独なCEOだった。 最悪の嘘から始まった。 見栄も、誤解も、契約も、傷もあった。 それでも、全部を否定しなくていい。 あの夜の私が、間違えて掴んだ手。 その手を、今の私は、自分の意思で握っている。「人生には、上り坂と下り坂と、まさかの坂があるって言うわよね」 自分でも少し唐突だと思いながら、私はそう言った。 いい時もあれば、悪い時もある。そして、思いもしなかった出来事に足元をすくわれる時がある。誰かに裏切られることも、五万円
平然としているけれど、耳の先が少し赤い。 私は紙をそっと持ち上げた。 第一条。 乙は甲に、毎月三百万円を請求しない。 第二条。 甲は乙を、金額で買おうとしてはならない。 第三条。 互いの仕事を尊重すること。忙しさを言い訳に、相手の手を離さないこと。 第四条。 喧嘩をした場合、契約解除ではなく、話し合いによる更新協議を行うこと。 第五条。 上記の条項にかかわらず、甲は乙を生涯溺愛する。「……第五条だけ、湊の願望では」「義務だ」「自分で自分に課す義務?」「問題があるか」「問題というか、重い」「今さらだな」「開き直りましたね」「君が僕を選んだ時点で、ある程度は諦めてもらうしかない」「夫婦の誓いで、それ言う?」「本音だ」 あまりに真剣な顔で言われて、私は笑ってしまった。 笑った拍子に、目の奥が熱くなる。 この人は、どこまでも不器用だ。契約から始まった傷を、契約という形で冗談に変えようとしている。嘘をなかったことにするのではなく、笑って振り返れる場所まで、私ごと連れていこうとしている。「あれ。サイン欄、ないんですけど」「ある」 湊が紙の下を指さす。 そこには、小さくこう書かれていた。『署名欄は不要。毎日、互いを選ぶことをもって更新とする』 喉の奥が、きゅっと鳴った。 ひどい。 こんなの、笑うしかないのに。 泣くしかない。「ずるい」 やっと出た声は、少し震えていた。 湊は、困ったように眉を下げる。「泣かせるつもりではなかった」「たぶん、毎回そう言ってる」「反省はしている」「改善は?」「……努力する」「今の間、ものすごく気になるんだけど」「できると言い切るほど、僕はできた人間じゃない」 低い声が、そ
湊は、ようやくこちらを見た。黒い瞳の奥に、少しだけ悪戯めいた光がある。 CEOの顔ではない。九龍家当主の顔でもない。 私の夫の顔だ。「君に、見せたいものがある」 差し出された手を、私は見つめた。 初めて会った日、私はこの手を勝手に掴んだ。遅い、と怒鳴って、時給分働けと詰め寄って、人生で一番ひどい誤解をした。 今は、彼が差し出す手を、自分で選んで取る。「変なものじゃないでしょうね」「僕の信用は、まだその程度か」「前科があります」「契約書を燃やしたことか?」「それ以外にも色々」 湊は低く笑った。 私は彼の手を取った。 写真の中の私たちが、白い額縁の向こうから見送っている。血筋だけでは作れない家族。選び直した人たちの肖像。その前を通り過ぎて、私たちは温室へ向かった。 ◇ 夜の温室は、昼間とは別の場所みたいだった。 ガラスの天井越しに、月の光が薄く落ちている。白いマーガレットは眠っているように花びらを少し閉じ、葉の先には水滴が一粒ずつ残っていた。湿った土の匂いに、夜の冷えた空気が混ざっている。 あの朝、切られた花を拾い集めた場所。 奈々さんと航平さんの式を諦めたくなくて、膝を濡らしながら花を並べた場所。 今は、新しい苗が列を作っている。名札には、庭師さんの字と、志保さんの字が混じっていた。几帳面な線の隣に、少しだけ迷ったような線。見分けがつくようになった自分に、私は小さく笑いそうになった。「増えたね」「ああ。母さんと庭師が、勝手に増やした」 私は、思わず湊を見た。 母さん。 その呼び方が彼の口から自然に落ちたことに、少し遅れて胸が熱くなる。 湊は気づいたのか気づいていないのか、少しだけ眉を寄せた。「何だ」「ううん。いいな、と思って」「何が」「湊が、今の言い方を普通にしたところ」 彼は一拍、黙った。 そして、気まずそうに視線を苗へ戻す。「……聞
湊は、デスクの上で組んでいた指をほどいた。「表へ戻すつもりはない」 声は静かだった。冷たいというより、境界線を引くための声だった。「わかっている。本人も望んでいないそうだ」「望む、望まないの問題ではない。ただ……」 湊は少しだけ視線を落とした。「誰にも見られない場所で毎日働くなら、それはそれで意味がある。九龍の名前を言い訳にしないこと。それだけは守らせてくれ」 征司さんは、真面目な顔で頷いた。 その名前を聞いても、以前ほど胸がざわつかなかった。許したわけではない。ただ、彼の人生まで私が背負い続ける必要は、もうないのだと思えた。 完全な大団円なんて、たぶんない。傷つけた人が、ある日突然いい人になるわけでもない。傷ついた人が、すべてを水に流せるわけでもない。 でも、表舞台から離れた場所で、誰かが汗をかいて段ボールを運ぶ。その姿を美談にしないまま、ただ事実として置いておく。 それもまた、前に進む形なのかもしれない。 ◇ 婚姻届は、式の翌朝に提出した。 詩織姉が「不備があったら一生笑う」と言いながら同行し、湊が「一生は長すぎないか」と真顔で返し、私は区役所の窓口で笑いを堪えるのに必死だった。 受理印が押された瞬間、湊は何も言わなかった。 ただ、私の左手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。 あの紙切れ一枚で、私たちの気持ちが本物になったわけではない。けれど、嘘から始まった関係が、もう誰にも偽物とは呼べない形を得たのだと思うと、胸の奥が静かに熱くなった。 その日の夜、本邸に戻ると、湊は珍しくネクタイを緩めたまま、玄関ホールの写真の前で足を止めた。「また見てるの?」「悪いか」「悪くはないけど、毎回立ち止まるから、スタッフさんが掃除のタイミングに困っています」「困らせているつもりはない」「結果、困ってます」 湊は、少し不満そうに眉を寄せた。「……僕の家だ」「そういうところです」「見る権利くら
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