Se connecter「今の彼氏は、あんたなんかより百倍素敵な人よ!」 結婚直前に裏切られた朱里は、プライドを守るためレンタル彼氏での復讐を決意。だが当日、業者は現れず、絶体絶命の朱里がとっさに捕まえたのは息を呑むほど美しい男だった。 彼をホストと勘違いし復讐を成功させ、勢いで一夜を共にするが……翌朝、衝撃の真実が待っていた。 彼は業界の頂点に君臨するホテル王・九龍湊。 「君を婚約者役として雇いたい。月額300万。住む場所は僕の家だ。ただし、あの夜のことは『業務外』だ」 レンタルしたはずが、まさかの逆雇用!? 冷徹な契約と身体の熱が交錯する、嘘つきな二人の溺愛契約ラブストーリー!
Voir plus人生には三つの坂があるという。上り坂、下り坂。そして――「まさか」の坂。
結婚式のスピーチで使い古されたその言葉が、これほど鋭利な刃物となって私の喉元に突きつけられる日が来るなんて、想像さえしていなかった。 私、茅野朱里(かやのあかり)、二十五歳。 職業、ブライダルコーディネーター。 一生に一度の晴れ舞台を演出し、誰よりも近くで「幸せ」の形を作り上げるプロフェッショナル。それが私の誇りであり、アイデンティティだった。 けれど、運命の脚本家はあまりに悪趣味で残酷だ。 まさか、私を裏切って別れた元彼と、彼を横から奪い取ったかつての親友に、自分たちの結婚式を担当してくれと笑顔で懇願されるなんて。 それは三流ドラマの脚本家ですらボツにするような、滑稽で救いようのない「まさか」だった。時計の針を、三ヶ月前――私が人生のどん底へと突き落とされた、あの日へと戻そう。
私の職場である高級ブライダルサロン『Felice Luce(フェリーチェ・ルーチェ)』。
柔らかなダウンライトが照らす打ち合わせスペースは、未来への希望に満ちたカップルたちの幸福な空気で満ちていた。その一角で、私は全身の血液が逆流するような悪寒と戦っていた。 「あ、朱里。久しぶり……だね」 気まずさを隠そうともせず、しかしその瞳の奥に明らかな優越感を滲ませて手を挙げた男。 三ヶ月前、「他に好きな人ができた」というありきたりな理由で、一方的に私を切り捨てた元彼、拓也だ。 「朱里、元気だった? 私たち、今日はどうしても朱里に『お願い』があって来たんだ」 拓也の腕に甲斐甲斐しく絡みつき、悪気のない子供のように屈託なく笑う女。 大学時代、私の部屋に入り浸り、服も化粧品も、悩み事さえも共有し合った親友――美咲。 二人の左手薬指には、これ見よがしに揃いのプラチナリングが嵌められている。サロンの照明を反射して鋭く光るその輝きが、私の網膜を焼き切るように痛い。 (……久しぶり、なんてよく言えるわね) 拓也が「好きな人」と言った相手が美咲だと知ったのは、別れの直後だった。 それだけではない。共通の知人からの情報で、二人が私と付き合っていた半年前から、すでに肉体関係を持っていたことも知っている。私の誕生日に「仕事が忙しい」と嘘をついた拓也が、美咲のマンションへ消えていった夜があったことも。私が美咲に恋愛相談をしていた時、彼女が心の中で私を嘲笑っていたことも。 すべて知っている。 けれど、目の前の二人は、私がその事実を知らないと信じ込んでいる。「可哀想な、何も知らずにフラれた元カノ」だと、私を見下しているのだ。 「……で、何の用? 私、これから新規のお客様のアテンドが入っているのだけれど」 喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。 テーブルの下で組んだ両手は、指先が白くなるほど強く握りしめられている。爪が掌に食い込む鋭い痛みだけが、煮えくり返りそうな怒りを辛うじて繋ぎ止めていた。 ここで泣き叫び、テーブルの水を浴びせかけてやれば、どれほど楽だろう。 だが、それはできない。私はプロだ。この『Felice Luce』のチーフコーディネーターとしての矜持が、無様な醜態を晒すことを許さなかった。 そんな私の必死の理性などお構いなしに、二人は信じがたい爆弾を投下した。 「それで……朱里。俺たち、結婚することにしたんだ」 「そうなの! それでね、朱里にお願いがあって。私たちの結婚式、朱里に担当してほしくて」 時が止まった気がした。 呼吸の仕方を忘れた肺が、小さく悲鳴を上げる。 担当? この私に? 私の目を盗んで背徳の蜜を啜り合い、今また私の目の前で「真実の愛」の体現者のような顔で笑う、この裏切り者たちを? 私が、心を込めて祝福しろというの? 「やっぱり、朱里のセンスが一番だって、美咲とも話してたんだ。朱里なら、俺たちのこと一番わかってくれてるだろ? 一生に一度のことだし、信頼できる人に任せたくてさ」 拓也の言葉が、鼓膜を不快に撫でる。 信頼? 一番わかってる? どの口が言うのだろう。その薄っぺらい誠実さの皮を剥いで、中身の腐臭を嗅がせてやりたい。 ああ、そうだ。美咲は昔からそうだった。私が努力して手に入れたものは、何でも欲しがる。限定のコスメも、私の夢だったこの仕事も、そして、彼氏も。 奪うことでしか、自分の価値を確認できない哀れな生き物。 ふつふつと、腹の底からドス黒いマグマが湧き上がる。 それは単なる怒りではない。もっと粘着質で、重く、内臓を雑巾絞りにされるような屈辱だった。 ここで断れば、私は「未練がましく逃げ出した負け犬」になる。一生、あいつらの酒の肴にされる。 それだけは、死んでも御免だ。 「……いいわよ。喜んで」 顔を上げた瞬間、私は完璧な「ブライダルコーディネーターの微笑み」を顔に貼り付けていた。 唇の端を美しく上げ、目は優しく細める。鏡の前で何千回と練習した、営業用の仮面。 「ただし、条件があるの」 「え?」 「私、その日は別の結婚式にゲストとして招待されているから、担当プランナーとして当日仕切ることはできないわ。準備は手伝うけれど、当日はゲストとしてお祝いに駆けつける形になる」 一瞬、二人が顔を見合わせる。 「もちろん、私の『大切な人』と一緒にね」 「え、朱里……彼氏、いたの?」 拓也が鳩が豆鉄砲を食らったような顔で目を見開く。その間抜けな表情に、胸のすくような暗い快感が走る。「自分以上にいい男がいるはずがない」「朱里はまだ俺を引きずっているはずだ」という傲慢な自意識が透けて見えるようだ。 「当たり前でしょ。拓也と別れてから、ずっと熱烈にアプローチしてくれていた人がいて。もう、その人と婚約しているの」 一度口をついて出た嘘は、止まることを知らずに加速していく。 「拓也なんかより、百倍素敵な人よ。背も高くて、仕事もできて、お金持ちで……何より、嘘をつかない誠実な人」 嘘だ。全部、その場しのぎの真っ赤な嘘。 ズタズタに引き裂かれたプライドを、ボロボロの端切れで必死に繕っただけの虚勢。けれど、今の私にはこの「見えない恋人」だけが、自分を守る唯一の盾だった。 「そ、そうなんだ……。でも、よかった。朱里も幸せそうで」 美咲が心底ホッとしたように胸を撫で下ろす。その安堵の表情が、何よりも憎かった。私の「幸せ」を確認することで、自分たちの罪悪感を消し去り、正々堂々と幸せになろうとしているのだ。 ふざけないで。 絶対に、あんたたちの思い通りにはさせない。 こうして私は、自ら退路を断った。引き返すことのできない、断崖絶壁の淵へと。◇
そして今日。
約束の、地獄の結婚式当日。 六月の陽射しが、容赦なく肌を焼く。 都内の一等地に佇む、白亜のゲストハウス。その重厚なエントランス前で、私は石像のように立ち尽くしていた。 今日の私(のドレス)は完璧だ。 この復讐劇のためにボーナスをはたいて新調した、シャンパンゴールドのパーティードレス。背中が大きく開いた大胆なデザインだが、上質なシルクが肌に吸い付くように馴染み、決して下品には見えない。早朝から馴染みのサロンでセットした髪は、一分の隙もなく艶やかにまとめられている。メイクも、姿勢も、纏う香りも。 すべてが、「幸せな婚約者」を演じるために計算し尽くされた完璧な武装。 ――ただ、もっとも重要な「武器」を除いて。 「……来ない」 乾いた独り言が、熱気の中に溶けて消える。 約束の午後一時を、もう十五分も過ぎていた。 あの日、大見得を切った手前、私は文字通り「拓也より百倍素敵な、完璧な彼氏」を用意する必要に迫られた。当然、そんな都合の良い相手が身近にいるはずもない。私が頼ったのは、インターネットの海に漂う現代の闇――レンタル彼氏サービスだった。 『完璧な恋人、レンタルします』 藁にもすがる思いで予約したのは、業界でもトップクラスと評判の、時給五万円という破格の超高級キャスト。サイトのレビューには、「まるで王子様」「彼のエスコートで世界が変わった」「もう彼以外愛せない」と、信者めいた絶賛の言葉が並んでいた。 結婚資金としてコツコツ貯めていた定期預金を解約することに、迷いはなかった。金でプライドが買えるなら、安いものだと思った。今日一日、私を「世界一愛されている女」にしてくれるなら、全財産を失っても構わないとさえ思った。 なのに。その「五万円の王子様」が、現れない。 「どうしよう……っ」 じわり、と嫌な冷や汗が背筋を伝い、シルクのドレスを汚していく。 震える指先でクラッチバッグからスマートフォンを取り出し、祈るような気持ちで電源ボタンを押す。しかし、画面は無情な漆黒のまま沈黙を守っていた。 昨夜、不安と緊張から自宅で安ワインを空け、ネットの掲示板で「レンタル彼氏 ドタキャン」などという不吉なワードを検索し続けて寝落ちしたせいで、充電を忘れてしまったのだ。家を出る時には虫の息だったバッテリーは、ここへ向かうタクシーの中で力尽きた。 最悪だ。考え得る限り、最悪のシナリオ。 私のすぐ横を、着飾ったゲストたちが談笑しながら通り過ぎていく。幸せそうな笑い声。甘い香水の匂い。 あの重厚な扉の向こうには、私の人生に泥を塗った二人が、「可哀想な朱里」がひとりで惨めに現れるのを、今か今かと待ち構えているのだ。 もし、今ここで一人で会場に入ったら? (あら朱里、彼氏はどうしたの?) (もしかして、嘘だったの? やっぱり朱里には、俺しかいなかったんだな) 美咲の同情を装った優越感に満ちた目と、拓也の歪んだ自尊心を満たすようなニヤけた顔が、脳裏に鮮明に浮かび上がる。 吐き気がした。それだけは、絶対に嫌だ。 そんな屈辱を味わうくらいなら、このまま舌を噛んで死んだほうがマシだ。私のプライドは、もう限界まで張り詰め、悲鳴を上げている。 どうする? 逃げる? 仮病を使って、このまま家に帰る? いや、逃げたら負けだ。一生、あいつらに「負け犬」として笑われ続けることになる。自分の人生の主導権を、あんな奴らに渡したまま生きていくことになる。 でも、どうすれば――。 焦燥と屈辱、そして自分自身の愚かさへの激しい怒りで、視界が滲みそうになった。 その時だった――。私は息を呑み、湊の肩越しに門の方へと視線を向けた。 一台の黒塗りのセダンが、装飾の施された鉄の門扉をへし折りながら、庭園の敷地内に強引に突っ込んできた。車体はコントロールを失ったまま花壇の石組みに乗り上げ、鈍い衝突音と共に完全に停止する。 ボンネットがくの字にひしゃげ、フロントガラスには蜘蛛の巣のような無数の亀裂が走り、その隙間から真っ白な煙が噴き出している。 シュー、という冷却水の漏れる高い音が、夕暮れの空気に不気味に響き渡った。 焦げたゴムの匂いと、ガソリンの揮発する刺激臭が、風に乗って私たちの鼻腔を突く。 運転席のドアが、内側から何度か乱暴に蹴られ、ベキリという音と共に外側へ開け放たれた。「……逃がさんぞ、湊ォォォォッ! !」 喉の奥が裂けたような、人間の声帯から発せられているとは思えない濁った叫び声。 ひしゃげたドアの隙間から這い出してきたのは、仕立ての良かったはずの高級スーツを土と血で赤黒く汚し、銀色の髪を振り乱した龍一郎だった。 額から流れ落ちた血が、顔の右半分をべっとりと覆い隠している。見開かれた両目は極端に充血し、瞳孔が開ききって、焦点が全く定まっていなかった。 そして彼の右手には、護送車の警官から奪い取ったであろう、鈍い光を放つ黒い特殊警棒が、指の関節が白くなるほどの力で握り締められていた。「……朱里、志保さん。下がって」 湊が、私の肩を押し、完全に自分の背中側へと遠ざけながら、彼自身は一歩、また一歩と前へ出た。 雨上がりの深い森の樹皮を思わせる、静かで涼やかな彼特有の香りが、体温の上昇とともに濃く立ち上り、私の周囲のガソリンの匂いを少しだけ和らげる。 龍一郎は、右足を引きずりながら、ズリッ、ズリッと、石畳の上に血と泥の混じった黒い跡を残してこちらへ近づいてくる。「……俺の、九龍……。俺の、すべて……」 焦点の合わない目で宙を睨みながら、うわ言のように繰り返される呟き。 その口元からは、粘り気の
秘書の悲鳴のような甲高い声が、夕暮れの庭園に張り詰めていた静寂を、薄いガラスを叩き割るように切り裂いた。「龍一郎が……移送の途中で、護送車内で暴れて事故を引き起こし、逃走したと……!」 その言葉の輪郭を脳が正確に処理するよりも早く、私の右肩に、万力のような凄まじい力が加わった。 湊の指が、私の肩の骨を折れんばかりの強さで握り締めている。上質なスーツのウール生地越しに伝わっていた彼の手のひらの確かな熱が、一瞬にして、氷を押し当てられたかのような鋭い冷たさへと変貌するのを肌で感じた。「……逃走しただと? 警察は何をしている」 湊の声は、地を這うように低く、そして周囲の温度を数度下げるような、研ぎ澄まされた刃の響きを帯びていた。 秘書は額に大粒の汗を浮かべ、乱れたネクタイを握り締めながら、肩で激しく息をして言葉を継いだ。「し、護送車の警官が重傷を負い、現場は混乱しているようです。そして……現場の目撃情報と、付近の防犯カメラの映像から、龍一郎が向かっている方向が……」 秘書の怯えた視線が、私たちの背後にそびえ立つ、本邸の巨大な建物へと向けられた。「ここへ、向かっているというのか」 湊の静かな問いに、秘書は首を縦に激しく振った。「おそらく、そうかと……。彼はすでに完全に理性を失っていると、警察からの連絡がありました。湊様、危険です! 今すぐ屋敷の奥、内鍵のかかる安全な部屋へ避難を……!」 ザワワ、と。 冷たい西風が庭園の枯れ木を激しく揺らし、乾いた葉同士が擦れ合う、ざらついた音を響かせた。 西日が赤々と照らし出す石畳の上で、湊は私の肩を引いて、完全に自分の背中側へと私を隠すように立ち塞がった。「志保さん、朱里を連れて、屋敷の地下にあるワインセラーへ向かってください。あそこの重い扉なら内側から強固な鍵がかかる。警察が到着するまで、絶対に扉を開けないで」「湊、あなたはどうするつもり! ?
湊は私を振り返り、その大きな手で、私の指を力強く、そして優しく握り締めた。 彼の指先から伝わってくる、確かな脈動。「……終わったよ、朱里」 湊の低い囁きが、耳元で心地よく響く。 深く温かい、彼だけの落ち着いた香りが、勝利の余韻と共に、会議室の澱んだ空気を鮮やかに塗り替えていく。 龍一郎は、警備員たちに両脇を抱えられ、もはや声も出ないまま、ずるずると部屋の外へと引きずり出されていった。 彼の外した眼鏡が、床に落ち、朝陽を反射して虚しく光っている。 ◇ 総会が終わった後。 私たちは、夕暮れに染まり始めた本邸の庭園に立っていた。 西日が、手入れの行き届いた芝生を真っ赤に焼き尽くし、枯れた木々の長い影が、石畳の上に不吉な模様を描き出している。 志保さんは、華枝が愛した温室の前に立ち、その土の湿り気を指先でそっと確かめていた。「……ようやく、綺麗な空気が戻ってくるわね、湊」 志保さんの声は、夕闇に溶けるように穏やかだった。「ええ。……これからは、僕たちがこの場所を、本当の意味で『温かい家』に変えていかなければならない」 湊は私の肩を抱き寄せ、その体温を確かめるように引き寄せた。 私は彼の胸に頭を預け、遠くで鳴くカラスの声を、ぼんやりと聞いていた。 勝利のカタルシス。 けれど、その奥底には、華枝を失った深い悲しみが、沈殿した澱のように重く横たわっている。 湊の手が、私の髪をゆっくりとなぞった。 その指先の感触。 二十年間の嘘を暴き、真実を掴み取ったその掌は、驚くほど厚く、熱い。 その時。 本邸の門の外から、数台の黒塗りの車が、砂埃を上げてこちらへ向かってくるのが見えた。 志保さんが、鋭い目つきでその車影を見つめた。「……まだ、何かあるの?」 湊の身体が、再び戦闘状態へと強張る。 車が私たちの目の前で急停車し、中から飛び出してきたのは、
そこには、龍一郎が自身の損失を埋めるために、九龍の関連会社から私的に流用した三十億に及ぶ資金の、生々しい証拠が羅列されていた。「特別背任、横領、そして……二十年前の公文書偽造。……役満ですよ、叔父貴」「な、な……っ!」 龍一郎は、マイクを握り締めたまま、膝からガクガクと崩れ落ちた。 壇上のテーブルに、彼のバカラのグラスが当たり、パリン、という鋭い破砕音が響く。 その時だった。 龍一郎の傍らで、ずっと顔を青白くさせて震えていた剣吾が、突然、裏返った声を上げた。「……ぼ、僕は知らない! 全部、親父がやったことなんだ!」 会議室の全員の視線が、床に這いつくばる剣吾に集中した。 剣吾は鼻水を啜り、必死に湊の方へと膝行してくる。その高級なスーツは皺だらけで、かつての傲慢な態度は微塵も残っていない。「湊、頼む! 僕は脅されてたんだ! お前の実家の印刷所を潰す指示も、朱里ちゃんに偽証を迫ったのも、全部この親父が勝手に……! 僕は止めたんだ、何度も止めたんだよ!」「剣吾……貴様、何を……!」 龍一郎が信じられないものを見る目で、己の息子を睨む。だが、剣吾は狂ったように首を横に振った。「親父はもう終わりだ! 湊、これを見てくれ! 親父が隠してた裏帳簿のパスワード、僕がこっそりメモしてたんだ! これがあれば全部立証できる! だから、僕だけは許してくれ! ねえ!」 剣吾は震える手でスマートフォンを差し出し、湊に縋り付こうとした。その姿は、あまりにも醜悪で、生理的な嫌悪感を催すほどに惨めだった。 龍一郎は、わが子に背後から刺された衝撃で、もはや声も出ないまま、喉をヒューヒューと鳴らしている。かつての老紳士としての威厳は完全に瓦解し、そこにはただ、自らが育てた欲望の産物に裏切られた、惨めな老いさらばえた男の姿しかなかった。 湊は、足元で泣き叫ぶ剣吾を一瞥し、汚い泥に塗れた布切れでも見るような冷たい視線を
「……何を、する気だ」「お前が俺を刺せば、俺はあの女を徹底的に潰す」 剛造は、懐から数枚の写真をテーブルに放り投げた。 写真が滑り、湊の目の前で止まる。 そこに写っていたのは。 閑静な住宅街にある、古びた一軒家。朱里の実家だ。 そして、区役所の窓口で働く、彼女の姉、詩織の姿。 さらには、朱里が逃げ込んだあのアパートの周辺を、黒いミニバンがうろついている写真まであった。「……貴様」「世間の目は今、あの女を『金を騙し取った悪女』と
◇ スマートフォンの液晶画面から放たれる青白い光が、薄暗い部屋の中で私の顔を冷たく照らしていた。 詩織お姉ちゃんのアパート。 古いソファに膝を抱えて座り、私は画面をスクロールする指を止めることができなかった。『若き帝王のメッキが剥がれる時。愛人に貢いだ数億円のビル』『九龍グループ、株価暴落。トップの解任は不可避か』 ニュースアプリのトップに踊る、おどろおどろしい見出しの数々。 記事の本文には、事実の歪曲と悪意に満ちた憶測がびっしりと並べられている。 湊が会社の資金を私的流用したという根拠
◇ 仕事終わりのカフェ。 呼び出された詩織は、私が持参した雑誌と、麗華のSNS画面を見比べ、冷たいアイスコーヒーをストローで音を立てて啜った。「……なるほどね。真っ黒だわ」 彼女の感想は簡潔だった。 元区役所の広報課にいただけあって、著作権やコンプライアンスに関する知識はプロ級だ。その彼女が断言するのだから間違いない。「線のライン、素材の切り返し……偶然の一致で片付けられる確率は、隕石に当たって宝くじに当選するより低いわね」「どうしよう、お姉ち
見覚えのない、上質な和紙の封筒だ。 拾い上げ、裏返す。 封蝋の代わりに貼られたシールの端に、見慣れた、しかし見たくもない筆跡で、小さくイニシャルが記されていた。『S.K』 志保・九龍(Shiho Kuryu)。 継母だ。 なぜ、志保からの封筒がここに? やはり、朱里は志保と繋がっていたのか。 背筋が凍りつく。指先が震えた。 中を見てしまえば、僕たちの関係が本当に終わってしまう気がした。だが、見ないわけにはいかない。 僕は意を決して、封を開けた。 中から滑り
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