LOGIN「今の彼氏は、あんたなんかより百倍素敵な人よ!」 結婚直前に裏切られた朱里は、プライドを守るためレンタル彼氏での復讐を決意。だが当日、業者は現れず、絶体絶命の朱里がとっさに捕まえたのは息を呑むほど美しい男だった。 彼をホストと勘違いし復讐を成功させ、勢いで一夜を共にするが……翌朝、衝撃の真実が待っていた。 彼は業界の頂点に君臨するホテル王・九龍湊。 「君を婚約者役として雇いたい。月額300万。住む場所は僕の家だ。ただし、あの夜のことは『業務外』だ」 レンタルしたはずが、まさかの逆雇用!? 冷徹な契約と身体の熱が交錯する、嘘つきな二人の溺愛契約ラブストーリー!
View More「……来ない」
元彼と、元親友の披露宴開始まで、あと十五分。 私が五万円で雇ったはずの“隙のない恋人”は、まだ式場のエントランスに現れなかった。 シャンパンゴールドのドレスの下で、背中を冷たい汗が伝う。スマートフォンは沈黙したまま。充電は、とっくに切れている。 あの重い扉の向こうでは、私を裏切った二人が、きっと笑っている。 (彼氏はどうしたの? まさか、嘘だったの?) そんな声まで聞こえた気がして、喉の奥がひゅっと狭くなった。 私、茅野朱里(かやのあかり)、二十五歳。職業はブライダルコーディネーター。 誰かの一生に一度の幸福を整えるのが仕事なのに、よりによって今日は、自分を裏切った元彼と親友の結婚式に、偽物の婚約者を連れて乗り込むはずだった。 こんな馬鹿げたことになったのは、三ヶ月前。私が人生のどん底へ突き落とされた、あの日からだ。 私の職場である高級ブライダルサロン『Felice Luce(フェリーチェ・ルーチェ)』。 柔らかなダウンライトが照らす打ち合わせスペースは、未来への希望に満ちたカップルたちの幸福な空気で満ちていた。その一角で、私は全身の血液が逆流するような悪寒と戦っていた。 「あ、朱里。久しぶり……だね」 気まずさを隠そうともせず、しかしその瞳の奥に明らかな優越感を滲ませて手を挙げた男。 三ヶ月前、「他に好きな人ができた」というありきたりな理由で、一方的に私を切り捨てた元彼、拓也だ。 「朱里、元気だった? 私たち、今日はどうしても朱里に『お願い』があって来たんだ」 拓也の腕に甲斐甲斐しく絡みつき、悪気のない子供のように屈託なく笑う女。 大学時代、私の部屋に入り浸り、服も化粧品も、悩み事さえも共有し合った親友――美咲。 二人の左手薬指には、これ見よがしに揃いのプラチナリングが嵌められている。サロンの照明を反射して鋭く光るその輝きが、私の網膜を焼き切るように痛い。 (……久しぶり、なんてよく言えるわね) 拓也が「好きな人」と言った相手が美咲だと知ったのは、別れの直後だった。 それだけではない。共通の知人からの情報で、二人が私と付き合っていた半年前から、すでに肉体関係を持っていたことも知っている。私の誕生日に「仕事が忙しい」と嘘をついた拓也が、美咲のマンションへ消えていった夜があったことも。私が美咲に恋愛相談をしていた時、彼女が心の中で私を嘲笑っていたことも。 すべて知っている。 けれど、目の前の二人は、私がその事実を知らないと信じ込んでいる。「可哀想な、何も知らずにフラれた元カノ」だと、私を見下しているのだ。 「……で、何の用? 私、これから新規のお客様のアテンドが入っているのだけれど」 喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。 テーブルの下で組んだ両手は、指先が白くなるほど強く握りしめられている。爪が掌に食い込む鋭い痛みだけが、煮えくり返りそうな怒りを辛うじて繋ぎ止めていた。 ここで泣き叫び、テーブルの水を浴びせかけてやれば、どれほど楽だろう。 だが、それはできない。私はプロだ。この『Felice Luce』のチーフコーディネーターとしての矜持が、無様な醜態を晒すことを許さなかった。 そんな私の必死の理性などお構いなしに、二人は信じがたい爆弾を投下した。 「それで……朱里。俺たち、結婚することにしたんだ」 「そうなの! それでね、朱里にお願いがあって。私たちの結婚式、朱里に担当してほしくて」 言葉だけなら、即座に断れたかもしれない。 けれど二人は、すでにサロンの上層部にも話を通していた。拓也の勤務先は、うちのサロンと提携しているホテルグループの大口顧客で、美咲の実家も紹介客を多く持つ家だった。 チーフである私が私情で突っぱねれば、担当変更だけでは済まない。店にも、後輩たちにも迷惑がかかる。そういう逃げ道のなさまで計算して、二人はここへ来たのだ。 時が止まった気がした。 呼吸の仕方を忘れた肺が、小さく悲鳴を上げる。 担当? この私に? 私の目を盗んで背徳の蜜を啜り合い、今また私の目の前で「真実の愛」の体現者のような顔で笑う、この裏切り者たちを? 私が、心を込めて祝福しろというの? 「やっぱり、朱里のセンスが一番だって、美咲とも話してたんだ。朱里なら、俺たちのこと一番わかってくれてるだろ? 一生に一度のことだし、信頼できる人に任せたくてさ」 拓也の言葉が、鼓膜を不快に撫でる。 信頼? 一番わかってる? どの口が言うのだろう。その薄っぺらい誠実さの皮を剥いで、中身の腐臭を嗅がせてやりたい。 ああ、そうだ。美咲は昔からそうだった。私が努力して手に入れたものは、何でも欲しがる。限定のコスメも、私の夢だったこの仕事も、そして、彼氏も。 奪うことでしか、自分の価値を確認できない哀れな生き物。 ふつふつと、腹の底からドス黒いマグマが湧き上がる。 それは単なる怒りではない。もっと粘着質で、重く、内臓を雑巾絞りにされるような屈辱だった。 ここで断れば、私は「未練がましく逃げ出した負け犬」になる。一生、あいつらの酒の肴にされる。 それだけは、死んでも御免だ。 「……いいわよ。喜んで」 顔を上げた瞬間、私はいつもの「ブライダルコーディネーターの微笑み」を顔に貼り付けていた。 唇の端を美しく上げ、目は優しく細める。鏡の前で何千回と練習した、営業用の仮面。 「ただし、条件があるの」 「え?」 「私、その日は別の結婚式にゲストとして招待されているから、担当プランナーとして当日仕切ることはできないわ。準備は手伝うけれど、当日はゲストとしてお祝いに駆けつける形になる」 一瞬、二人が顔を見合わせる。 「もちろん、私の『大切な人』と一緒にね」 「え、朱里……彼氏、いたの?」 拓也が鳩が豆鉄砲を食らったような顔で目を見開く。その間抜けな表情に、胸のすくような暗い快感が走る。「自分以上にいい男がいるはずがない」「朱里はまだ俺を引きずっているはずだ」という傲慢な自意識が透けて見えるようだ。 「当たり前でしょ。拓也と別れてから、ずっと熱烈にアプローチしてくれていた人がいて。もう、その人と婚約しているの」 一度口をついて出た嘘は、止まることを知らずに加速していく。 「拓也なんかより、百倍素敵な人よ。背も高くて、仕事もできて、お金持ちで……何より、嘘をつかない誠実な人」 嘘だ。全部、その場しのぎの真っ赤な嘘。 ズタズタに引き裂かれたプライドを、ボロボロの端切れで必死に繕っただけの虚勢。けれど、今の私にはこの「見えない恋人」だけが、自分を守る唯一の盾だった。 「そ、そうなんだ……。でも、よかった。朱里も幸せそうで」 美咲が心底ホッとしたように胸を撫で下ろす。その安堵の表情が、何よりも憎かった。私の「幸せ」を確認することで、自分たちの罪悪感を消し去り、正々堂々と幸せになろうとしているのだ。 ふざけないで。 絶対に、あんたたちの思い通りにはさせない。 こうして私は、自ら退路を断った。引き返すことのできない、断崖絶壁の淵へと。◇ 翌日、場所をホテルの奥まった相談室へと移し、相沢様ご本人の同意を得たうえで、必要最小限の関係者だけが同席するプラン提示の場が設けられた。 赤茶けた色艶の長大なテーブルを挟み、白鳥真琴のチームと、こちら側が対峙する形になる。壁際には、先日のお茶会にもいた初老の役員たちが、相変わらず値踏みするような目を隠そうともせずに並んでいた。 相談室といっても、普段は高額顧客の成約前面談に使われる部屋だ。壁には淡い金色のクロスが張られ、棚には引き出物の見本が整然と並んでいる。けれど今日は、その上品さがかえって息苦しい。湯気の消えた紅茶の香り、革張りの椅子の軋み、誰かがボールペンをノックする小さな音。その一つひとつが、奈々様の人生を数字で裁くための合図みたいに聞こえた。「……資料を拝見いたしましたわ」 白鳥真琴は、手元のタブレットを細い指先でトントンと叩きながら、ふうとため息をもらした。 窓からの硬い陽射しが、彼女の白いスーツの肩口を冷たく照らしている。「相沢奈々様のご予算、参列者の規模。……正直に申し上げて、九龍の看板を立て直す題材としては、いささか小振りですわね。利益率も低く、広告効果も見込めません」 真琴は、隣に控えるスタッフへ視線を流した。広げられたのは、最高級のシルクやクリスタルを使った、別会場での少人数婚の華やかなパース図だ。「九龍に必要なのは、世間を圧倒する富裕層の婚礼ですわ。このように、騒動に怯えてキャンセルを申し入れてくる一般のカップルは、適正なキャンセル料をいただいて、相応しい別会場へご案内する。それが、お互いのためではありませんこと?」 息をするように、人を、式を、格付けしていく。 壁際の役員たちが、そうだ、と言わんばかりに深く頷くのが見えた。『白鳥さんの仰る通りだ。九龍ホテルの格式を戻すには、それなりの客を選ばねば』『手間ばかりかかって利益の出ない一般婚など、今の我が社には重荷でしかない』 手元のペンを握る指先が、白くなるほど強張る。 心の中のツッコミが、ふつふつと泡のように湧き上がってきた。 この人
剥き出しの刃のような言葉が、鼻先をかすめていく。 白鳥真琴の細い指先がこちらの胸元を示したまま、ぴたりと止まっていた。百合の香水が、ホワイエの澱んだ空気の中でいっそう鋭く香る。 負けた方が、このプロジェクトから降りる。 提示された条件は、単なる勝ち負けのゲームではなかった。ブライダルコーディネーターとしての居場所を、存在意義そのものを九龍から消し去るという宣告だ。 喉の奥が、からりと乾いた音を立てる。 周囲に集まった夫人たちの衣擦れの音が、さざ波のように小さく広がっては消えた。誰もが次の展開を期待して、熱を帯びた目を向けている。 背後に立つ九龍湊の気配が、僅かに変わった。 ウールの上着が擦れる微かな音が聞こえ、一歩前に出ようとする大きな靴音が床に響く。指先がこちらの腰の後ろへ回され、引き寄せようとする強い力が加わった。 それを、背中で押しとどめる。 大丈夫。 衣服の生地越しに伝わってくる男の高い体温が、緊張で強張っていた背骨を真っ直ぐに支えてくれる感覚があった。「受けます」 いつものプロの微笑みを、頬の筋肉を総動員して顔に貼り付ける。「この席は、名誉のための椅子じゃありません。お客様の一生に一度を預かる覚悟がある人間が座る場所です。……だから、受けます。その条件で、勝ちます」 白鳥真琴の切れ長の瞳が、僅かに細められた。 口元に張り付いた完璧な淑女の笑みが、ほんのミリ単位で歪む。「威勢のよろしいことですわね。……では、役員会の皆様。対象となるお客様の選定は、どちらが?」「こちらで用意してある」 後ろから、湊の低い、重厚な響きが割って入った。 指先が腰から離れ、デスクの上に置かれていたタブレット端末へと伸びる。画面が滑らかにスワイプされ、個人名を伏せた一つの案件概要が中央の円卓へと提示された。「直近で、我が九龍ホテルでの挙式を予定しながら、キャンセル、あるいは無期限延期を申し入れてきた案件だ。……ご本人の同意が取れた範囲で、後ほど共有する」
「だからこそ、傷ついたお客様の気持ちはわかります。家柄や格式で覆い隠しても、人は傷つく時は傷つく。そこからどう立ち上がるかを、私は現場で何度も見てきました」 周囲の夫人たちが、息を呑む気配がした。「白鳥様のブランドは、傷のない綺麗な夢を見せる場所なのだと思います。……でも、雨の日も、騒動の日も、人生にはあります。傷跡ごと立ち上がれる式を作る。それが、私の、そして九龍の『Imperial Vows』です」 真琴の口元から、完全に笑みが消えた。 彼女はカップを持つ指先に微かに力を込め、鋭い眼光でこちらを射抜いてきた。 その場の空気が、張り詰めた弦のように限界まで引き絞られる。 隣の役員席に座る九龍の役員たちも、息を潜めてこちらの出方を見守っている。「口先だけは、達者なようですわね」 真琴は、低く沈んだ声で言った。「ですが、ビジネスは理想論だけでは動きませんのよ。お客様がどちらを選ぶか、それがすべてですわ」「はい。そこは同じです」 私は、バッグの中から、もう一つの書類を取り出してテーブルの上に置いた。「だったら、実際のお客様で見ていただけませんか。……次の新規案件を題材に、私たちのチームと白鳥様で、どちらがお客様の心を動かせるか、プランで勝負させてください」 対決。 その単語が落ちた瞬間、ホワイエの空気が爆発したようにざわめき始めた。「まあ、対決ですって?」「白鳥さんのブランドに、そんな不躾な勝負を挑むなんて……」 背後で、湊が静かに立ち上がる気配がした。 彼は口を出さなかった。ただ、一歩後ろに立ち、誇らしげに、そしてすべてを買い戻すような圧倒的な信頼の目で、こちらの背中を見つめていた。 ウールの上着が擦れる音が、心強い味方の足音のように聞こえる。 真琴は、ゆっくりと立ち上がった。 白いレースの裾が、床を静かに擦る。 彼女は私との距離を縮め、息がかかるほどの至近距離で、覗き込むように目を細めた。 百合の香水が、再
「皆様、そこまでにして差し上げて。……彼女にも、それなりのご事情があったのでしょうから」 真琴の声は、鈴を転がすように涼やかだった。 けれど、その瞳の奥にあるのは、獲物の喉笛を狙うような冷徹な計算だ。「ただ……結婚式という神聖な場を、復讐の道具にしようとしたことは、少々感心いたしませんわね。私どもの『Swan Bridal』では、そのようなお客様は、お断りしておりますの」 夫人たちの間に、クスクスという上品な、けれど残酷な笑い声が広がる。 真琴は、ゆっくりとこちらに顔を向け、切れ長の目を細めた。「九龍ホテルの新しい婚礼事業……たしか『Imperial Vows』とおっしゃいましたかしら。責任者が『契約』や『レンタル』や『お金』の匂いをまとった方では、格式あるお客様が不安に思われるのも無理はありませんわ」 ラベリング。 私の過去を、最も下品で、最も品格のない言葉に置き換えて、上流層の意識べっとりと刷り込んでいく。 周囲の視線が、まるで重い石のようになって体中にのしかかってくる。 呼吸が、うまくできない。 喉の奥がひゅっと狭くなり、貼り付けていた営業スマイルが、凍りついたように動かなくなる。 たしかに事実だ。私はあの時、お金でプライドを買おうとした。間違えて、無様な醜態を晒した。 その傷口を、大衆の面前で何度も何度も、綺麗な爪で抉られているような屈辱。 下を向きそうになった、その時だった。 衣服のポケットの中で、スマートフォンが短く、鋭く震えた。 ビクリと肩を揺らし、周囲の目を盗んで画面を点灯させる。 表示されたのは、姉の詩織からの、一行だけの短いメッセージだった。『値札をつけられたなら、請求書で殴り返せ』 徹底的なリアリスト。区役所仕込みの、容赦のない姉の毒舌。「泣いてる暇があったら、慰謝料ふんだくる計算しなさい」といういつもの決め台詞が、脳裏を鮮烈に駆け抜けた。 ――そうだ。 私は、何のためにここに立っているの。
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