美希はその言葉を聞くなり、すぐさま介護士を制止した。「やめて!もし紗枝に話したら、私......あなたの前で死んでみせる」今の美希には、介護士を脅す手立てなど他になく、この一言にすがるしかなかった。しかし、その訴えに対し、介護士は怒りを露わにした。「でも、いつまでも紗枝さんを騙し続けるわけにはいきません。あなたが今こうして生き延びられているのは、すべて紗枝さんが与えてくれたもののおかげなんですよ。少しでも良心があるのなら、本当のことを話すべきです」美希には、介護士の言っていることが正しいとわかっていた。それでも、真実を口にする勇気が持てなかった。「......死ぬ前に話します」ぽつりとそう呟いた美希は、窓の外に視線を向け、それ以上なにも言わなかった。一方そのころ、紗枝の頭は混乱していた。ようやく牡丹別荘へ戻ると、鈴もすでに帰ってきていた。昨夜クラブに行ったときとは打って変わり、鈴はまたおとなしい少女のような服装に戻っていた。だがその頬には、かすかに指の跡が残っており、昨夜、梓がどれほど強く彼女を叩いたのかを物語っていた。「お義姉さん、お帰りなさい。昨日は友達のところで子どもの世話の仕方を教えてもらってきたんです。逸ちゃんのこと、ちゃんと面倒を見られるようにって。だから今日はちょっと遅くなっちゃいました。怒らないでくださいね?」鈴は無邪気なふりをして、にこりと笑った。紗枝はその言葉に、ふと疑問を抱いた。「あなたの友達にも、子どもがいるの?」「はい。友達はお義姉さんと同じくらいの年で、息子ももう四歳を過ぎてます」鈴は嘘をつくことなど、朝飯前といった様子だった。「ああ、それは大変だったわね」紗枝は口ではそう言いつつも、内心では彼女の言葉が嘘であることを見抜いていた。「いいえ、いいえ」鈴は、紗枝が簡単に騙されると思ったのか、さりげなく鼻に手をやった。そばでフルーツを食べていた逸之は、その仕草を見逃さなかった。「鈴さん、テレビで心理学者が言ってたんだけど、人が嘘をつくときって、クセみたいなのが出るんだって。さっきからずっと鼻を触ってるけど、もしかして嘘ついてる?」鈴は慌てて鼻から手を離し、「そんなことないよ?」とごまかしながら、手元のコップを取り、一口水を飲んだ。逸之は落ち着いた様子で彼女
昭子は一瞬、目を見開いたが、すぐに表情を整えて嘘をついた。「継母が癌になったって聞いたから......見舞いに来たの」「そうか?それなら俺も一緒に行こうか?」拓司は、彼女がどこまで平然と嘘をつけるのか、試してみたい気がした。昭子はすぐさま首を横に振った。「いいえ、もう寝てるの。邪魔しないであげましょう」「......わかった」今は争うときではないと悟った拓司は、それ以上は追及せず、車のエンジンをかけた。ゆっくりと病院の敷地を後にした。そのころ病室では、美希の脳裏に昭子の叫び――「私の母親は青葉さんだけ!」という言葉が、いつまでもこだましていた。頭の中は混乱していた。あの大人しくて優秀な娘が、他人を母と呼ぶなんて思いもしなかった。そのとき、紗枝が病室の扉を静かに開けた。やつれきった美希の顔には、かつての面影はほとんど残っておらず、虚ろな目だけが印象的だった。「少しだけ......二人きりにさせてもらえますか?」紗枝は介護士に静かに頼んだ。「ええ」信頼している様子で、介護士は頷くと部屋を出ていった。介護士が去ると、病室には静寂が訪れ、紗枝と美希だけが残された。紗枝はゆっくりと歩み寄り、椅子を引いてベッドのそばに腰を下ろした。「ひとつだけ、どうしても聞きたいことがあります」紗枝が口を開いた。しばらくの沈黙のあと、美希はようやく我に返り、涙をたたえた目で紗枝を見つめた。なぜだろう、急に胸の奥に、ざらついた後悔の念が湧いてきた。「お父さんの交通事故......あれ、あなたに関係があるんじゃないですか?」紗枝の声は静かだったが、言葉は鋭く、美希の胸に突き刺さった。雷に打たれたかのように、美希は即座に否定した。「何を言ってるの?あれはただの事故よ!」「本当に?でも調べたの。事故の前日に、車を使ったのはあなただけだった」紗枝の声には、苦しさと怒りが滲んでいた。「しかも......ブレーキパッドに異常があったこともわかったわ。あれは事故なんかじゃない!」紗枝の冷たい問い詰めに、美希は思わず息を呑んだ。驚きと恐怖が顔に現れた。「何ですって......?」まだ知らぬふりをするつもりらしかった。紗枝は視線を鋭くし、言い放った。「今さらとぼけるつもり?正直になって、本当のことを
紗枝はタクシーに乗り込むと、運転手に病院まで急ぐよう告げた。その背後では、拓司が会社へ戻るふりをしながらも、密かに紗枝のあとを追っていた。彼の眼差しには、ただならぬ事情を見届けようとする決意が宿っていた。一方、病院の一室では、昭子が一枚の協議書を握りしめ、美希を鋭く睨みつけていた。「どうしたら、私と縁を切ることに同意してくれるの?」その声は氷のように冷たく、容赦がなかった。美希は下腹部に激しい痛みを感じていたが、その肉体的な苦痛など、昭子から受けた心の傷に比べれば、取るに足らないものだった。「昭子、私はあなたの実の母親なのよ。どうしてそんな......縁を切りたいだなんて......」震える声に嗚咽が混じり、美希は訴えた。だが、昭子の表情には苛立ちが色濃く浮かび、感情を抑えきれなかった。「お願いだから......いい?私なんて、最初からいなかったことにしてちょうだい」その言葉は、美希の胸に深く突き刺さった。哀しみは、時として心の死に等しい。長い年月をかけて愛情を注いできた娘から、こんな仕打ちを受ける日が来るなど、美希には信じ難かった。「同意してくれたら、医療費も生活費も全部私が負担する。でも拒むなら......相応の措置を取らざるを得ない」昭子は淡々と、しかし確実に脅しを織り交ぜながら、追い詰めた。病室には、水を打ったような静けさが満ちていた。その頃、介護士は病室の外で、ようやく姿を見せた紗枝の到着を待ちわびていた。紗枝の姿を見つけるなり、すぐに駆け寄ってきた。「紗枝さん、やっと来てくれた。この妹さん、ちょっとひどすぎますよ。本当に......良心が犬に食われたとしか思えません。実の母親と縁を切るなんて!」介護士は憤りを隠さず、不満をぶつけた。紗枝は、心の中で自嘲していた。自分は正義の味方でも、誰かを救うヒロインでもない。ただの見物人に過ぎないのだと。無言で軽く頷くと、紗枝は素早く病室の扉へと歩を進めた。足音に気づいた美希と昭子は、一斉にドアの方を振り向いた。紗枝の姿を認めると、二人とも口をつぐんだ。「昭子、今日のことは聞かなかったことにするから、早く帰りなさい」美希は、紗枝に弱った自分を見られ、笑われたくなかった。その言葉に、昭子は今日が協議書に署名させる好機ではないと察し、拳
拓司は、吉田が紗枝を貶める言葉を口にした瞬間、目元に冷ややかな光を浮かべた。「そうですか?」穏やかな声で、しかしどこか底知れぬ響きを含んで問い返した。吉田は、拓司の雰囲気に異変を感じ取り、慌てたように笑みを作って言った。「冗談ですよ、冗談。むしろ、彼女みたいにちょっとした欠点がある美人って、逆に魅力があるって言うじゃないですか」吉田にとって、拓司は温厚で謙虚な後輩だった。啓司のような冷酷さとは無縁の存在だと信じて疑わず、言葉の選び方など気にかけたこともなかった。だが、拓司は彼の言葉を無視し、紗枝に目を向けて言った。「紗枝、先に休んでて」紗枝は少し戸惑いながら訊いた。「私、ここにいなくてもいいの?」「うん、いいよ」拓司は軽く頷いた。「わかった」紗枝もまた、吉田の不愉快な言葉をこれ以上聞きたくはなかった。彼女は踵を返し、休憩室へと向かった。そのとき、紗枝は知らなかった。彼女が姿を消した直後、ゴルフ場の外で悲鳴と、誰かが許しを乞う声が響き渡っていたことを。騒ぎを聞きつけた周囲の人々は、黒服のボディーガードたちに遮られ、内で何が起きているのかを知るすべもなかった。タカヒログループの社長――吉田は、今や地面に叩きつけられ、膝をつき、顔を地にこすりつけながら懇願していた。「す、すみません、黒木社長......あの子があなたの大切な女性だとは知らずに......軽率なことを言うべきではありませんでした。本当に、申し訳ありません!」拓司は、手にしたひしゃげたゴルフクラブをじっと見つめていた。表情には、冷淡な静けさしかない。やがてそのクラブを傍らに放り投げると、低く冷たい声で言った。「次はない」「はい......!」吉田はひたすら頭を下げ続けた。どうにかしてこの場をしのいだと思っていた。だが、その直後、数人のボディーガードに両腕をつかまれ、無理やり引きずり出されていった。そのころ、拓司は手を洗い終え、静かに休憩室の扉を開けた。紗枝は椅子にもたれ、まどろみに落ちかけていた。目を閉じ、呼吸はゆるやかに、安らかだった。拓司は、そんな彼女の姿を見つめ、そっと手を伸ばしかけた。その瞬間、紗枝が目を開けた。「終わったの?」不思議そうに尋ねるその声に、拓司は頷いた。「うん......眠い?」
誰も牧野に答えを教えてはくれなかった。彼は人を使って調べようとしたが、それが梓にばれたら怒られると思い、躊躇していた。啓司は今日、病院で検査を受けた。だが、体には何の異常も見つからず、ただ記憶だけが戻っていなかった。澤村も病室を訪れたが、ため息ばかりをついていた。「......本当に、頭が痛いな」そう呟いた澤村に、啓司はどこ吹く風といった様子だった。「啓司さん、まだ帰る気はないのか?奥さんは妊娠中なんだよ」今や澤村は、紗枝のことが頭から離れず、啓司を縛りつけてでも自宅に連れ戻したい思いに駆られていた。「彼女に渡した金で、妊娠に必要なことはすべて賄えるはずだ」啓司は冷ややかにそう言い放った。そしてふいに顔を上げ、牧野に向き直った。「今日、鈴から何か連絡はあったか?」しばらく沈黙したままの牧野だったが、ようやく我に返った。「いえ......これから電話してみます」そう答えると、スマートフォンを手に取り、病室を出ていった。戻ってきたときには、短く一言。「出ませんでした」啓司はそれ以上、何も聞こうとはしなかった。だが澤村は、今日の二人の様子がどこかおかしいことに気づいていた。まるで心ここにあらず、といった風情だった。「牧野さん、家庭内で何かあった?」半ば冗談交じりに口にしたその言葉に、牧野はピクリと反応し、冷たい目で澤村を睨んだが、答えようとはしなかった。澤村は、自分の勘がこれほど的中するとは思っていなかった。にわかには信じがたかった。まさか、あの堅物な牧野までもが、女に振り回されているとは。いや、俺は違う。もう女に執着するのはやめた。彼は心の中でそう言い聞かせることで、密かに安堵していた。黒木グループ本社ビル、最上階。昨夜、鈴が遊びすぎたせいか、朝になっても帰ってこなかった。そのため、紗枝はひとりで出社していた。万崎は当初、紗枝もほかの資産家の妻たちと同じく、形だけの出勤だろうと高をくくっていた。だが、紗枝は昨日のうちに会議資料の大部分に目を通し、分類と記録まで済ませていた。万崎は彼女への評価を改め、好感をさらに強くした。やがてドアがノックされ、万崎が入ってきた。「奥様、本日、拓司様に同行してお客様とお会いする予定だった秘書の木村さんが、体調を崩してお休みをいただきました。奥様に代
鈴は呆然と立ち尽くしていた。追いかけようと足を踏み出しかけたが、すでに梓の姿はどこにもなかった。影すら、残っていない。一方その頃、梓はすぐ近くに紗枝が停めておいた車に身を滑り込ませ、鈴があたりを見回す様子を車内から見つめていた。そしてようやく、胸をなで下ろした。「見事だったわ」紗枝が小さく感嘆の声を漏らした。「ありがとう」梓は淡々と答えた。袖をたくし上げ、掌を見下ろした。そこは赤く染まっていた。鈴を殴った時、どれだけ力を込めたかが如実にわかる。続いて、さきほどの録音データを取り出した。「全部、録れてる。あとで牧野に聞かせてやる。どんな言い訳をするのか、楽しみね」梓は静かに言った。「急がなくてもいいわ」そう言って紗枝が指さした先には、頬を押さえながら梓の姿を探している鈴の姿があった。鈴は次の瞬間、苛立たしげにスマホを取り出し、牧野に電話をかけようとしていた。けれども、ふと手を止めた。もし、牧野が本当に梓を愛していたら?彼が梓の味方についたなら、自分はただ損をするだけではないか。欲しいのは牧野じゃない。啓司だ。その思いが脳裏をよぎり、鈴は悔しさを噛み殺すしかなかった。時間を確認した鈴は、まだ少し遊べると踏み、地元最大の会員制ホストクラブへと足を向けた。店内では数人のホストを指名し、賑やかに飲み始める。しかし、鈴は気づいていなかった。ずっと誰かに尾行されていたことに。そして、その誰かは、もはや紗枝や梓ではなかった。妊娠中の紗枝には鈴の尾行は難しく、彼女は車内で体を横たえ、雷七に部下を付けさせて追跡と映像記録を任せていた。隣では、梓も眠りに落ちていた。だが、その表情は冴えず、牧野からの着信にも応じなかった。代わりに、短いメッセージを送った。【今日は女友達の家に泊まるから、帰らない】そのメッセージを見た牧野は落胆し、再び電話をかけるが、梓はやはり出なかった。そして、続けざまにメッセージが届いた。【梓ちゃん、どうして電話に出ないの?】【女友達の家で、もう寝てるから出られないの。起こしちゃ悪いでしょ】【わかった。じゃあ明日起きたら、必ず電話してね】それに対して、梓はもう返信を返さなかった。もちろん牧野には知る由もないが、その頃、梓は紗枝とともに巨大なキャンピングカーのベッドで静かに眠ってい