昔からプログラミングが大好きだった黒磯由香里は、念願のプログラマーになった。 しかし現実は厳しく、続く時間外勤務に翻弄される。 ある日、チームメンバーのひとりが鬱により退職したことによって、抱える仕事量が増えた。それが原因で今度は由香里の精神がどんどん壊れていく。 総務から産業医との面接を指示され始まる、冷酷な精神科医、日比野玲司との関わり。 日比野と関わることで、由香里は徐々に自分を取り戻していくお話。
Lihat lebih banyak「黒磯!! 一昨日メンテしたスマホ向けパズルゲーム!! 形の違うピース同士をくっつけても消えるってクレームが殺到しているぞ!!」
「えぇ!?」プログラマーとして働いている私、黒磯由香里。情報専門学校を卒業後してこの会社に入り、気づけば10年経っていた。31歳、まだまだ現役。
小学生のころからパソコンが大好きで、与えられた古いパソコンで簡単なゲーム作りをして遊んでいた。自分の打ち込んだコードが画面上で動くのが、ただただ楽しかった。
高校は商業科を選んだ。その中でも情報コースを選んで、プログラミングをいっそう極めた。情報処理の先生には「ホワイトハッカーだな」と笑われたこともある。ちょっと照れたけれど、それ以上に嬉しかった。
——とにかく、プログラミングのことがずっと〝大好き〟だった。
この好きな気持ちを、仕事にできたらどれほど最高だろうか。
そう思って進学した情報専門学校では、誰よりも夢中で勉強した。資格も取ったし、コンテストや大会なんかにも出た。作品もたくさんつくって、とにかく実績を積んだ。
その甲斐あって、大手ゲーム開発会社に第一志望で内定。
内定通知書を見たとき、飛び跳ねながら喜びの感情を爆発させた。
——これで私の人生は安泰だ。
入社が決まったあの日、私は心の中でそう叫んでいた。そして入社してからも、本気でそう思っていた。
……入社して、5年目くらいまでは。
「おら、みんな! 緊急メンテだ!! 直るまでは絶対に帰さないからなっ!!」
現在、時刻は19時32分。
今夜22時から放送される歌番組に、私が長年推しているアイドルグループが生出演する。しかも、新曲を披露するらしい。
リアタイできるの、久しぶりだなって——昨日から、すこしだけワクワクしていた。
だからこそ、落胆も大きい。
放送が始まるまで、あと2時間半。その間にメンテナンスが終わる可能性は、限りなくゼロに近い。
思わず溜息が漏れる。
私は握っていた拳をゆっくりとほどき、天井を見上げた。
——これも、プログラマーの使命か。
終わりの見えない、パズルゲームの緊急メンテナンスが始まった。
◇
《この前メンテしていたのに、またメンテ!?》
《緊急メンテは草。詫び石はよ》 《今日ログインしてーねのに! 運Aはログイン補償を絶対に用意しろよ!》 緊急メンテナンスのさなか、ほんのわずかな休憩時間。私はスマホを取り出し、140字で呟けるアレでエゴサをしていた。やらなければいいのに、ついやってしまう。自分から心を削りにいくスタイル。
現在は0時16分。すでに日付が変わっていた。
22時に生出演したアイドルグループは、予定どおり新曲を初披露したらしい。国内トレンド1位にもなっていて、タイムラインには動画やスクリーンショットが溢れている。
「……」 ——誰かが上げた動画なんて、見たくない。リアルタイムで観たかった。タイムラインを見ながら、ネット友達と感情の共有をしたかった。
それができなかった事実が、やけに悔しくて。私は無言でアプリを閉じた。
今の修正進捗は20%弱といったところか。終わりはまったく見えない。
このパズルゲームの担当チームは4人。そのうち1人が私。
私は閉じたはずのアプリを再度開き、エゴサで心をすり減らす。残りの3人は天井を仰ぎながら、黙ってシミの数を数えていた。
「玲司さん?」「ふふ……作ろう、一緒に。君となら、どんな料理だってきっとおいしくなる」 そのまま抱きしめた彼女の頭にそっと顔を寄せると、あたたかくて柔らかな香りがした。 涙がこみ上げるのをごまかすように、そっと彼女の髪にキスを落とす。 このぬくもりを、守っていきたい。 今、この瞬間に改めて誓う。 一生をかけて、彼女の心と命を守ると——「……あの、卵は何個ですか?」「2個」「了解ですっ!」 まるで新婚夫婦みたいなやり取りだなと思いながら、笑って彼女の背中に手を添える。 こんな未来が、あの時の彼女に想像できていただろうか。 すくなくとも、僕はずっと願っていた。 彼女がもう一度笑えるようにと、ただそれだけを。 鍋を火にかける彼女の後ろ姿を見つめながら、もう一度、そっと名前を呼んだ。「……由香里」「はい?」「愛してる」 僕の言葉に驚いたようにこちらを振り返った彼女は、すぐに頬を真っ赤に染めた。「えっ、えっと……わ、私も、愛してます。あの、えっと、卵……混ぜますね」 あたふたしながらボウルをかき混ぜる姿が、あまりにも愛おしくて、胸がいっぱいになる。 これが、人生をかけて守るべき〝愛おしい人〟なんだと、何度でも胸に刻みたくなる。 もう一度、背後からそっと抱きしめる。 彼女はすこし驚きながらも、抵抗せずに身を預けてくれた。「……ねえ、由香里」「生きてくれて、ありがとう」「……」 そっと彼女が顔を上げ、戸惑いながら僕を見た。 目が潤んでいる。声が震えている。「……れ、玲司さん……その……」「うん」「……こちらこそ、ほんとうにありがとうございます」 言い切った後、彼女は恥ずかしそうに顔を隠した。 その表情が可愛くて、僕は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。「隠さなくてもいいのに」 冗談まじりに笑いながら、もう一度キスを落とす。 彼女の肩にそっと顔を埋めて、深く、深く、呼吸を重ねた。 彼女は〝生きている〟。 心も、笑顔も、すべてがここにある。「……君の命は、僕が守る」 小さく呟いた言葉は、彼女の耳に届いたかどうかわからない。 それでも構わなかった。 これから先、どれだけの時間が過ぎても。 どんな困難があったとしても。 ずっとそばで支えていくと、何度でも誓える。 僕の人生をかけて、大切な彼女を守り
黒磯由香里、31歳。 過労による精神的疲弊。 感情の希薄化。 情緒不安定。 自殺未遂。 緘黙症。 ——好きな仕事に、殺されかけた真面目な女性。 同情していたわけではない。 ただ、彼女のことがどうしても気にかかった。 何度か面談を重ねるうちに、自然と〝守りたい〟と思うようになっていた。 彼女が自殺未遂を起こした日のことは、今でもはっきりと覚えている。 体の奥が、冷たく、そして震えるような感覚に襲われる。 患者が本気で死のうとした——初めての経験だった。 これまで多くの社員と面談をしてきた。 「死にたい」「生きている意味がわからない」そう口にする者は多かった。 だが、実際に命を絶とうと行動した者は、ひとりとしていなかった。 唯一、彼女だけがほんとうに〝死のうとした〟人だった。 ——それでもやはり、同情からではなかった。 僕は単に、彼女をただ守りたかった。 それだけだった。◇「日比野先生」「ん?」「医師会からご連絡です。あのゲーム会社の産業医を外れる手続き、正式に完了したそうです。他の派遣先が決まり次第、また書面でのご連絡になるとのことです」「……そうか。ありがとう」 ようやく——終わった。 やっと、あの会社から手を引くことができる。 彼女がいたシステム部は、地獄のようだった。 月に100時間を超える残業。 産業医として何度も是正を訴えてきたが、会社は〝形式上の対応〟をするだけで、何ひとつ変えようとはしなかった。 心が壊れた社員は、面談を受けさせればそれでいい。 ……あの企業のスタンスは、まさにそれだった。 僕の元へ来る頃には、みんな壊れ切っていた。 ——彼女もそのひとりだった。 でも、もう彼女をあの場所に戻すつもりはない。 いや、二度と、あんな顔をさせたくない。◇「由香里、ジャスティス。ただいま」「玲司さん、おかえりなさい」「にゃーん!」 玄関を抜けてリビングへ入った瞬間、ふと焦げ臭い匂いが鼻をついた。 慌てて鞄を床に置き、小走りでキッチンへ向かう。「……焦げてる?」「あっ、玲司さんっ……ごめんなさい……!」 慌てた声と共に現れた由香里は、手にフライパンを持ち、目を伏せている。「玉子焼きを作ってみたんですけど、ちょっと……焦げちゃって……」 皿に盛られた黒い物体は、かつて玉子
家に戻ってしばらくしてからのこと。 玲司さんが、ふとした顔で言った。「由香里、今日から一緒に寝よう」 「……え?」 その一言に、私は思わず目を瞬かせた。 そういえば、ここへ来てからというもの、私は用意された客間で寝ていた。 けれど、夫婦になった今、玲司さんの言うそれは、きっと自然な流れなのだろう。「……」 驚きとすこしの戸惑いを胸に抱えながら、玲司さんに導かれるまま寝室へと足を踏み入れる。 そこには、思っていたよりもずっと広く、ふかふかそうなダブルベッドがひとつ置かれていた。「君が来る前に買っておいたんだ。ちなみに……君が今まで使ってたシングルベッドは、僕のお古だよ」「……」 さらりと笑いながら告げる玲司さんに、思わず肩の力が抜ける。 やはりこの人は、抜け目がない。きっと私が困らないように、先回りしてくれていたんだ——そう思うと、胸がじんわりと温かくなった。「……由香里、おいで」 彼の言葉に小さく頷いて、私はベッドの縁に腰を下ろす。 そのまま背中をそっと押されるようにして、ベッドに横たわると、玲司さんが隣に滑り込んできて、優しくキスを落とした。「……っ」 目を閉じると、まぶたの裏がじんわり熱くなる。 彼の手が髪を梳いて、何度も唇を重ねてくる。穏やかで、丁寧で、愛情に満ちたキスだった。「由香里、愛してる」 「……玲司さん、私も」 唇を交わすたびに、胸の奥で何かがとろけていくようだった。 だけど、彼の手が私の身体をそっと撫ではじめた瞬間—— どくん、と心臓が大きく跳ねた。「……っ」 体がびくりと強張って、無意識に肩がすくむ。 怖い。知らない。どうすればいいのか分からない。 私のなかに、ふいに〝初めて〟の不安が波のように押し寄せた。「……っ、ごめん」 玲司さんの手が止まり、静かな声が降りてきた。 私はぎこちなく首を振る。「違うんです、私……経験がなくて……」 「……うん、わかってるよ。ごめん、急ぎすぎた」 玲司さんは私の頭をそっと撫で、ゆっくりと隣に寝転んだ。 そして、優しく背中から抱き締めてくれる。「今日は、こうして眠ろう。君が怖くないって思えるようになるまで……無理はしない」 その言葉に、心がじわりとほどけていく。「……ありがとう。ごめんなさい」 「謝らなくていい。
日比野先生——いや、玲司さんが持ち帰った1枚の紙は、まさかの「婚姻届」だった。 やることがとにかく早い彼の欄にはすでに記入が済まされていて、あとは私が書くだけという状態になっていた。 そして、あれよあれよという間に翌日。「今日、実は休み取ってあるから」 唐突にそんなことを言いながら、玲司さんは私の手を引いて役所に向かった。 その足で婚姻届を提出し、私は——「黒磯由香里」から、「日比野由香里」へと変わった。「……漢字、6文字」 「わかってたけど、名前長くなったね」 「ほんと、長いですね」 「敬語になってる」 「あ、はい」 「……」 まだ呼吸のように出てしまう敬語。 名前の変化も、立場の変化も、どうにも実感が湧かない。でも確かに、私は彼の妻になったのだ。日比野由香里——この字面だけが、まだすこしだけ、こそばゆい。「ねぇ、由香里。このままデートしようか」 「……え?」 「〝デート〟って、したことないでしょ、僕たち」 言われてみればその通りだった。 恋人らしい時間を飛ばして、私たちは夫婦になったのだ。 私は、ふと笑う。 デート。まるで学生のような響きが愛おしくて、頷いた。「する。デート、したい」 「ふふ、よかった」 玲司さんが嬉しそうに笑って、私の手を握ってくれる。 体温がじんわりと伝わってきて、そのぬくもりに、自然と顔がほころんだ。「行こう、由香里。今日はいっぱい遊ぼう」 「うん!」 そんなふたりのはじめてのデートは、何も決まっていない行き当たりばったりだったけれど、かえってそれが心地よかった。 最初に行ったのは動物園。ライオンを見て笑い合い、カピバラに癒される。 その後はカフェでランチ。お互いに料理を分け合って、「これ美味しいね」と言い合った。 午後にはゲームセンターへ寄り道して、玲司さんの得意な格闘ゲームで勝負——私は完敗だったけれど、それすらも楽しかった。 その後はショッピングモールでウインドウショッピングをして、クレープを買って半分こした。 全部が初めての経験だった。 仕事一筋だった頃の私には、想像もつかなかった〝誰かと過ごす休日〟。 その帰り道、電車に揺られていると、ぽろりと涙がこぼれた。「……由香里、泣いてるの? 無理しすぎた?」
ソファに座る私の前で、先生は鞄の中から小さな紙袋と、紺色の小箱を取り出した。 そして、私の目の前で片膝をつき、小箱をそっと開ける。「黒磯由香里さん。僕と結婚してください。僕は君を、必ず幸せにします」 その言葉とともに、指輪が露わになる。 大きすぎるほどのダイヤモンドが、柔らかな光を反射して、部屋に静かに煌めきを落とした。「……っ」 言葉よりも先に、涙が零れた。 喜びに、驚きに、そして不安に――心が揺れすぎて、呼吸の仕方すらわからなくなる。 ほんとうに、私なんかが……この人の隣に立っていいのだろうか。そんな思いが胸を締め付けた。 けれど、そんな私の迷いを、先生は見抜いていた。「……ふふ」 先生は涙を指でそっと拭い、私の頬を両手で包み込むようにして微笑む。「今、〝自分では釣り合わない〟とか考えてるでしょ?」 「……え」「僕は君がいいんだよ、黒磯さん。君じゃなきゃダメなんだよ。迷う理由、ある?」 「だって、私……」 「僕のこと、嫌い?」 「ち、違います! そんなわけ、ありません……」 その瞬間、先生はまたくすっと笑って、指輪をそっと手に取った。 そして、なんのためらいもなく、私の左手の薬指にそれを嵌める。 ――ぴたりと、指に馴染んだ。 こんなにもぴったりなサイズを、いつの間に測ったのだろう。 戸惑いと感動がいっぺんに押し寄せて、思わず小さく息をのんだ。「うん、よく似合う。僕のこと嫌いではないなら、素直になってよ」 「……あ、ありがとうございます。ふ、不束者ですが、よろしくお願いいたします……」 消え入りそうな声でそう言った瞬間、先生はふっと吹き出して、私の体を抱き上げた。 軽々と持ち上げられて、驚きの声がつい漏れ出る。「ふふっ、こちらこそ。これからもよろしくね、黒磯さん」 目の高さが揃う。 そのまま先生が顔を寄せてきて、そっと唇を重ねた。優しい、やわらかいキス。 頬に、こめかみに、額に――降り積もるような温もりに包まれて、私はまた涙が止まらなくなった。「……ねぇ、黒磯さん。今日で〝先生〟呼びは終わりにしようか」 「えっ……?」 思わず固まる私に、先生は笑いながら言葉を継いだ。「僕も〝黒磯さん〟って呼ぶのは、もうおしまい。これからはお互い名前で呼び合おう」
会社を退職してからというもの、私は日比野先生の家で、驚くほど穏やかな時間を過ごしていた。 元のアパートから荷物をすべて運び終え、契約も解除し、もう戻る場所はない。でも、不思議と寂しくはなかった。むしろ、ここが自分の居場所なのだと、じわじわと実感していく日々だった。「ジャスティス、おいで」「にゃーん」 先生の愛猫ジャスティスは、今ではすっかり私に懐いてくれている。 私の心の動きに敏感に反応し、沈んでいるときはそっと隣に寄り添い、ぴたりと体をくっつけてくれる。先生が不在の間も、まるで代わりに「見守っているよ」とでも言うように、そばを離れないその仕草に、何度も救われた。 退職した翌日、私は先生に通帳を差し出した。 入院費や引っ越しの諸費用を差し引いても、まだ数百万円は残っている。それを、すこしでも先生に返したいと思ったからだ。けれど――『そのお金は、君のこれからのために使って。今までできなかったことを、これから取り戻していくんだ。生活費の心配なんてしなくていい』 先生はそう言って、静かに通帳を突き返してきた。 その表情にいっさいの迷いはなく、ただひたすらに私を思っての言葉なのだとわかって、胸が熱くなった。「……さて」 アパートから持ってきたデスクトップパソコンは、リビングの片隅に置かせてもらった。 その場所が今、私にとっての〝秘密基地〟になっている。 久しぶりにパソコンを立ち上げて、プログラミングを再開したのだ。あんなに好きだったのに、いつの間にか遠ざけていたこと――今はそれを、すこしずつ取り戻すように向き合っている。 ひとり静かにキーボードを叩く時間が、愛おしい。 自分のペースで、無理をせず、純粋に楽しいと思えることに取り組めているという実感が、こんなにも心を満たしてくれるなんて。私はようやく、自分自身を取り戻しつつあるのかもしれない。 画面に集中していたその時――「ただいま、黒磯さん」「わっ!」 あまりに夢中になっていたせいで、先生の帰宅にまったく気づかなかった。 慌てて振り向くと、先生は微笑みながら近づいてきて、そっと私の頭を撫でてくれた。「先生、おかえりなさい……すみません、集中し過ぎてました」「ふふ、いいことだよ。何してたの?」「あ、これ……ゲームを作っていたんです」 私は自分の作業画面を先生に見せた。 ま
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