「どうしよう!僕たち、お腹すいて死んじゃうの?」悠斗が床を踏み鳴らして騒ぎ出す。「大丈夫よ、死なないわ。お菓子があるから、それを食べましょ!」楓は慌てて宥めた。二人は食材との交換を諦め、お菓子で済ませることにした。悠斗はチーズボールの袋を開けると、むしゃむしゃと頬張り始めた。普段なら夕月に「5,6個まで」と制限されるお菓子を、思う存分口に運べる。楓も同じようにスナック菓子を片手に、「バリバリ」という音を立てながら楽しそうに食べている。そんな中、辺りに美味しそうな匂いが漂い始めた。他の家族がそれぞれ昼食の準備を始めたのだ。何人もの保護者が冬真に声をかけ、一緒に食事をしようと誘ってきた。だが冬真は全て断った。裏にある下心が見え見えだった。人の好意に縛られるのは御免だ――そう思いながら、打算的な連中の誘いを冷たく突っぱねた。「わぁ!」「すごーい!」歓声に誘われるように、悠斗は顔を上げた。声のする方に目を向けると、瑛優を囲むように子供たちが集まっていた。天野が鮮やかな手さばきでフライパンを操る様子に見入っている。青白い炎が一メートル以上も立ち上がると、子供たちは怖がりながらも興奮した様子で歓声を上げた。最高得点だけあって、食材も豊富に揃っていた。天野は次々と料理を繰り出す。まずはシロップを煮詰め、イチゴをバラの花びらのような形に切り分けていく。それにシロップをかけて氷砂糖イチゴを作り上げた。真っ赤なイチゴがまるで氷の中に閉じ込められた薔薇の花のよう。天野は瑛優に氷砂糖イチゴを持たせ、見ている子供たちにも配らせた。夕月は天野の様子を見て気付いた。いつもの控えめな態度とは打って変わって、料理の腕前を惜しみなく披露している。「量が多すぎないかな?」十人以上でも余りそうな量に、夕月は首を傾げた。「他の子供たちにも食べさせてやろうと思ってな」天野は包丁を動かしながら答える。「美味いもん食わせりゃ、悠斗の言うこと鵜呑みにして瑛優を仲間外れにしたりしないだろ」温かいものが夕月の胸の中に広がる。「もう皆、瑛優のことを尊敬してるわよ」先ほど瑛優が「涼おじさんが家庭科の授業をしてくれるんだって」と話していたが、天野は冷ややかに笑っただけだった。チャンスは自分で掴むもの――天野の腕
「ママ、瑛優ちゃんのおじさんのご飯も食べたい!」望月が小声で訴える。「だめ!」京花は茹でた青菜とブロッコリーの皿を望月の前に置いた。自慢の菜食児に育てた娘のスリムな体型を保つため、京花は望月の食事量を厳しく制限していた。瑛優は炒めた白菜と香ばしい揚げ出し豆腐の皿を持って近づいてきた。「望月ちゃん、これ食べて」「全部ベジタリアンだよ。お肉は一切入ってないの」瑛優は京花に向かって付け加えた。京花は疑わしげに箸で白菜と豆腐をかき回す。「油で炒めてあるのは体に悪いわ。それにタレだって太る原因になるのよ!」「食べさせてあげたら?」鳴が口を挟んだ。毎日茹でブロッコリーばかり食べさせられている望月を見るのも辛かった。京花は水で白菜と豆腐を何度も洗い流してから、ようやく望月に与えた。瑛優の周りに集まって楽しそうに食事をする子供たちの様子を見た名門夫人たちが、夕月に近寄ってきた。「これ、私が最近オープンしたヴィンテージブティックのショップカードよ。瑛優ちゃんと一緒に見に来てね。全額サービスするわ」「あら、夕月さん、今や著名人だもの。パーティーとかで素敵なジュエリー必要でしょう?うちに最近、スーパークリーンの宝石が入荷したの。デザインから加工まで、全部無料にさせていただくわ」次々と差し出されるショップカードを受け取りながら、夕月は周囲の奥様方からの質問攻めに遭っていた。どうしたら瑛優ちゃんのように子供が食事を楽しめるようになるのか、と。悠斗は友達が列になって座り、美味しそうに食べている様子を眺めていた。手に持った唐辛子スナックが、急に味気なく感じられた。でも、あんな貧乏くさい天野おじさんの料理なんか、食べたくもない。母の養父母だって貧乏人じゃないか。そんな人の作った料理なんか、絶対に口にしないぞ!あの料理を食べてる奴らの顔、全部覚えておこう。これからはもう、あいつらとは遊ばない!斎藤鳴が夕月の前を通りかかった時、夕月は声をかけた。「斎藤さん、前に話していただいたオームテックの件なんですが、考えた結果、入社を決めました」「夕月さん!それは素晴らしい決断です!」鳴の顔が喜びに満ちた。夕月は微かに口角を上げ、さも包み隠さずといった様子で続けた。「より高いポジションと給与を得るためには、会社に手腕を
夕月が感謝の表情を見せると、鳴の心は羽のように舞い上がった。「橘グループのCTOを断って、オームの下働き?どこまで馬鹿なんだ」突然、背後から低い声が響いた。夕月は振り向き、冷ややかな視線を冬真に投げかける。「あら、冬真さん。死んでも成仏できないタイプ?幽霊みたいにつきまとうのは、やめていただけます?」つきまといを指摘された男は、かえって強気な態度を見せた。「たまたま通りかかっただけだ。思い上がるな。言っておくが、藤宮テックを手土産に差し出したところで、オームが経営陣に引き入れるわけがない。外資は所詮、桜国人同士の醜い争いを見て楽しむだけだ」「オームテックって、本当にそうなんですか?」夕月は鳴に問いかけた。鳴は冬真を怒らせたくない一方で、夕月には是非とも入社してほしかった。「オームの幹部は皆、教養の高い優秀な方々です。フレンドリーで私たちにも親切で……私も経営陣との会話をとても楽しませていただいています」複数の幹部と親しい様子――夕月は鳴の様子を注意深く観察した。どこか不自然な雰囲気を感じずにはいられない。「橘社長、もう離婚されたんですから。夕月さんが橘グループに入らないと決めたことは、受け入れた方が……」鳴は宥めるように言った。喉に魚の骨が刺さったような不快感。冬真には、こんな男に慰められる覚えなどない。跪いて自分の頬を叩き、京花の前で尊厳を踏みにじられることも厭わなかった男。実の娘に橘の姓を名乗らせ、自分の血筋さえ捨て去った男。冬真の目には、鳴はとうに男としての資格を失っていた。それなのに夕月は、こんな男と手を組むことを選び、橘グループを拒絶する。「お似合いの仲間じゃないか」冬真の声に冷酷な嘲りが滲む。「田舎から這い上がってきて、必死に橘家に食い込もうとした者同士」その言葉に鳴の表情が一変した。六年間、田舎者のレッテルを必死に剥がそうとしてきた。それなのに、これだけの人前で、このような屈辱を……「橘グループより良い職場なんて、二度と見つからないさ」冬真の言葉には絶対的な確信が込められていた。「橘家で7年も過ごしたおかげで、もう遠回りはしないわ。これからは一直線」夕月は穏やかな笑みを浮かべる。冬真の表情が氷のように凍りついた。強がっているだけのはずだ。その時、観光用の二人乗りカートが
星来を連れてきた先生は夕月に説明を始めた。「橘星来くんは本園に籍があり、この間のカウンセリングでとても良い成長を見せています。野外活動に参加してみない?と聞いたら、快く承諾してくれまして。藤宮さんのことを、とても慕っているようですね」瑛優も寄ってきて、星来に挨拶を交わした。星来に会うと、瑛優はまるで蓋を開けた宝箱のように、自分の日々の出来事を細々と星来に話して聞かせるのだった。瑛優の話によると、また夕月と一緒に毎年恒例の親子イベントに参加するのだという。今回のイベントは今までと違って、瑛優のパパとママは離婚して、ママだけが付き添いで参加することになったそうだ。瑛優は星来に、料理の上手なおじちゃんも誘ったけど、競技のルールが分かるかどうか心配だと打ち明けた。星来は自分から瑛優の手を取った。遅れずに来られて良かった。頭脳戦なら、自分が力になれるはずだ。先生は星来と瑛優が手を繋ぐ姿を見て、驚きを隠せなかった。普段、星来は人との接触を極端に嫌がり、毎日接している心理カウンセラーでさえ、触れようとすると即座に身を引いてしまうのに。先生は柔らかな笑みを浮かべ、「藤宮さん、星来くんをよろしくお願いします。彼も楽しい午後を過ごせることを願っています」一方その頃、悠斗は首を傾げたまま、困惑した表情で「僕、知らないよ。星来くんのお母さんのこと」と呟いた。星来と瑛優が手を繋ぎ、夕月の傍らに寄り添う姿は、まるで本当の家族のように見えた。悠斗は居心地の悪さを覚えた。自分の場所が、星来に奪われたような気がして。楓は足を組んでポテトチップスを口に運びながら、「きっと星来くんのお母さんの素性があまりにもアレだから、橘博士は隠しているんでしょうね」そう言いながら、悠斗の方をちらりと見やって、「まぁ、あの子は口が聞けないから、まだいいものの。もし普通の子供だったら、あなたの橘家での立場なんて、危うくなっていたかもね」悠斗の体が震えた。今まで誰も、星来が自分の立場を脅かすなんて言わなかった。「僕はおばあちゃまの可愛い孫だよ!橘家の御曹司なんだ!あいつは、ただの口のきけない子供じゃないか!」星来が口をきけないというだけの理由で、悠斗は彼と遊ぶことを軽蔑していた。だから二人の仲は良くなかったが、瑛優が星来と仲良く遊んでいるのを見るの
そう言って、楓はため息をついた。「でも残念なことに、凌一さんが星来くんを橘家で育てている以上、彼が橘家にいる限り、あなたは唯一のお孫様ではなくなってしまうわね」楓の言葉に、悠斗は思い出した。確かにおじいちゃまもひいおじいちゃまも、星来くんの方をより気にかけているような気がする。瑛優には許されない自分の個人レッスンに、星来くんだけは参加を認められている。口の利けない子と一緒にレッスンを受けるなんて、まるで侮辱じゃないか!悠斗の胸の中で怒りが膨らみ、小さな拳を握りしめた。「星来くんなんて大嫌い!」昼食が終わると、先生から新しい課題が発表された。パパたちはテント設営に残り、ママたちは子供と一緒に、小さな森でキノコの採取と宝物のコインを探すミッションに向かうことになった。もちろん、これらのキノコは、すべて施設のスタッフが芝生や茂みに事前に配置したものだ。子供たちはスタート地点で、様々な種類のキノコの形を覚える。カードに描かれた図案通りのキノコを森の中で見つければ見つけるほど、高得点が獲得できる仕組みだ。その途中で、先生方が隠しておいた金貨も見つかるはずだった。その金貨はポイントに交換でき、さらに様々な景品と交換できるという。瑛優は他の子供たちと一緒にホワイトボードの前に立ち、みんなでワイワイとキノコの名前と形を覚えていく。「アンズタケに、クロカワ、ヤマドリタケ……」瑛優は目を閉じ、もう一度思い出そうとする。「アンズ……なんだっけ?キノコ鍋、美味しいよね!」キノコ鍋の味を思い出してしまい、さっき覚えたキノコの名前がすっかり頭から抜けてしまった。「星来くん、いくつ覚えた?」星来が両手で数字を示すと、瑛優は思わず息を呑んだ。「え?64個も!?全部覚えちゃったの?!」星来が小さく頷く。瑛優は夕月の方を向いた。「ママ、星来くんと一緒にキノコ探しに行ってきて。私はおじちゃんとテント作りするから」キノコの名前を覚えるより、体を動かす方が瑛優は断然好きだった。夕月は子供がキノコを何種類覚えられるかなんて気にしていなかったが、瑛優が既に決めたことなので、その選択を尊重することにした。夕月は星来に手を差し出した。「星来くん、私と一緒に冒険に行ってくれる?」星来は下唇を軽く噛み、まるで小さな子ウサギの
次の瞬間、楓の笑みは凍りついた。マフラーを掴まれた楓は、夕月の落下する重みに引きずられ、共に転がり落ちる。「くっ……!」楓は叫び声を上げようとしたが、声にならない。夕月の冷徹な眸に射抜かれ、楓の全身が総毛立った。一緒に地獄へ落ちろ!「がっ……!」楓の悲鳴は首に絡まったマフラーに掻き消された。夕月に引きずられ斜面を転がり落ちる楓の体は、地面に叩きつけられ、何度も回転を繰り返した。地面との衝突と摩擦で、楓は皮膚が削り取られるような痛みを感じた。四方八方から襲い掛かる鈍痛よりも、夕月に掴まれたマフラーが首を締め付け、楓は息が出来なくなっていた。口を大きく開いた楓の顔が、肝臓のような紫色に変わっていく。最後に夕月の手からマフラーが滑り落ち、その手のひらには布地との摩擦で皮が剥けていた。夕月は星来を抱きしめたまま、楓の数メートル下の斜面に転がり落ちた。片足で何とか踏ん張りを利かせたものの、土手に這いつくばった体は、まだ不安定に揺れている。顔に付いた土埃など気にする余裕もなく、夕月は星来の様子を確かめた。腕の中の星来は、あまりの恐怖に声一つ出せず、ただ震えている。目を固く閉じ、小さな体が止めどなく震える星来を見つめながら、夕月は声をかけた。「星来くん、大丈夫?」薄絹のように優しい声が星来の頬を撫でる。さらに強く抱きしめながら、「怖くないよ。大丈夫だから。私が守ってあげる」夕月の胸に身を寄せたまま、星来の長い睫毛が微かに震えた。ゆっくりと開かれた瞳には、底知れぬ恐怖と絶望が浮かんでいる。小さな手には、瑛優のために摘んだアンズタケが握りしめられたままだった。唇が微かに動くが、声にはならない。でも夕月には分かった。星来が「ごめんなさい」と言おうとしているのを。この危険な状況で、自分の身の危険よりも、夕月に迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思う星来の心が痛々しかった。土埃にまみれた髪が白い頬に落ちる中、夕月は温かい声で言った。「私が上まで連れて行ってあげるからね」「きゃあああっ!足が!」楓は夕月の上方の斜面で身をよじらせ、全身が痙攣していた。内臓までも引き裂かれるような激痛が走り、全身の骨が砕けそうだった。最も堪えたのは、夕月に引きずり落とされた時に捻ってしまった足首だ
そうして楓は悠斗に星来を誘い寄せるよう仕向けた。自閉症を抱える星来は、ずっと心理療法を受けてきた。今日やっと一歩を踏み出し、野外で他の子供たちや保護者と活動に参加する勇気を見せたのだ。もしここで少しでも事故に遭えば、それだけで星来は二度と外に出ようとはしないだろう。そんな臆病な星来なら、もう悠斗の橘家での立場を脅かすことはない。楓は下を見やった。夕月が星来を抱えて這い上がってくるところだ。手の届く場所に転がっていた石を掴む。「楓兄貴、何するの?」悠斗の声に、夕月が顔を上げる。楓の唇に浮かんだ底意地の悪い笑みが見えた。ここまで転落させたのに、もう一踏みしない手はない。楓は石を振り上げ、夕月の頭めがけて投げつけた。夕月は星来を抱きしめたまま、咄嗟にずれた。斜面の下の茂みの陰に平らな場所を見つけた夕月は、そのまま星来を抱えて茂みの中へ身を投げた。「ザッ」という音と共に茂みが大きく揺れ、すぐに静寂が戻った。「うっ……!」悠斗は思わず身を乗り出し、何かを掴もうとして手を伸ばした。夕月と星来が落ちていくのを、ただ呆然と見つめることしかできない。目の前の光景に悠斗は震え上がった。小さな唇を震わせながら、悠斗は絞り出すような声で言った。「楓兄貴、どうしてそんなことするの?あ、あなた……人殺しちゃったよ!!」悠斗の体が凍りつき、頭の中が真っ白になった。楓は最初、ただのいたずらだと言った。星来を怖がらせて、瑛優や面倒くさい母親の前に二度と現れないようにするだけだと。「悠斗くん、見たでしょう?夕月姉さんが自分から星来を抱えて転がり落ちたのよ!」「でも……」喉に刃物を突き立てられたかのように、悠斗は息も言葉も詰まった。見えない手に引っ張られているような感覚。悠斗の瞳に涙が揺れる。「ねぇ悠斗くん、医者が来たとき、私を見捨てて彼女たちだけを助けたらどうする?」楓の声が追い詰めるように響く。悠斗は固まったまま、どうすればいいのか分からなくなった。楓の声が急に弱々しくなる。「救護所のベッドは一つしかないの。夕月と星来が使っちゃったら、私はどうなるの?」「医者に楓兄貴を放っておかせたりしないよ!」楓は首を振った。「医者は夕月姉さんを見つけたら、真っ先に彼女を助けようとするわ」「だから医者が来る
夕月は激しく胸を上下させていた。呼吸をする度に鼻腔が刃物で切り裂かれるような痛みが走る。鉄錆のような匂いが鼻と喉に広がる。より広い平らな土手に立ちながら、夕月は唇を固く結んだ。声を出せば、楓に位置を悟られ、また石を投げつけられかねない。ゆっくりと星来を下ろす。抱きかかえていた腕は力が抜け、感覚が失われていた。急な斜面の中に、やっと足場の確保できる場所を見つけた星来は、スマートウォッチの緊急通報ボタンを押した。星来は夕月の手を取り、まるで年老いた幹部のように、その手の甲を優しく叩いた。心配しないで、すぐに誰かが助けに来てくれる——そう伝えるように。五分後、先生が医療スタッフ四名を連れて駆けつけた。担架を一つだけ持っているのを見て、悠斗は自分に言い聞かせた。楓のことだけを伝えて、夕月のことは言わなかった自分は、間違っていない。まず楓を診療所に運び、治療が済んでから、夕月と星来を探してもらえばいい。あの面倒くさい母親への、いい教訓になるはずだ。星来が危険な目に遭った時、夕月は我を忘れて斜面を駆け下りていった。いい気になって!二人とも、あの下でじっとしているがいい!中村先生は斜面に横たわる楓を見て声を上げた。「藤宮さん、ここは立入禁止区域ですよ。どうしてここに?」楓は苛立たしげに返した。「知るわけないでしょ。柵も看板もないのに」中村先生は周囲を見回した。昨日の下見の際、立入禁止の場所には全て警告の看板を立てたはずなのに、ここの看板が消えている。冬真が駆けつけると、楓の背後に赤いマフラーが落ちているのが目に入った。その下の斜面には、明らかな転落の跡が長く残されていた。医療スタッフが楓に手を差し伸べると、彼女は悲鳴を上げた。「冬真!」楓は取り乱したような表情で、冬真に向かって手を伸ばす。担任は蔑むような表情を浮かべた。救急隊員がいるというのに、楓は冬真の前でドラマでもやっているのか。しかも冬真は、この手の演技に引っかかる方だった。冬真は楓の手を握り、一気に引き上げた。救急隊員が担架に移そうとして触れた途端、楓は大袈裟な悲鳴を上げた。「冬真に抱っこしてもらいたい」楓は哀願するような声を出す。担任は目を天に向けんばかりに回した。「橘社長は特別な体質でもあるんですか?社長が触れ
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付