Masuk天霧鈴(あまぎりりん)、27歳。記憶喪失。自分の名前さえも忘れていた彼女を、病院から自分の別荘へと連れてきたのは、従兄の天霧晧司(あまぎりこうじ)、38歳。大変な資産家。鈴の回復に一喜一憂し、献身的に寄り添う。病院で意識を取り戻してから数か月、彼が教えてくれるものが世界のすべて。彼は甘く優しく世話をしてくれるけれど、この生活は、どこか山奥に閉じ込められているようにも思える。 ある日、鈴と同い年の男性、影野夕李(かげのゆうり)が現れたことにより、事態は大きく動き始める――。 全250話前後を予定。 【その他の登場人物】 春日雷斗(かすがらいと)、明吉七華(あきよしななか) 晧司の部下
Lihat lebih banyak「リン、食事の支度ができたよ」
低く、穏やかな声が私を呼ぶ。 「はい、今行きます」 「こちらへ運ぼうか?」 戸口から姿を現したのは、従兄の天霧晧司さん。今日も優しい笑顔。 「いえ、大丈夫です。今朝はとても気分がいいので」 本心からそう言ったのに、彼は心配そう。部屋の中へ静かに入ってきて、身支度を済ませた私を眩しげに見た。 「今日は本当に調子がいいんです。洗顔も着替えも、途中で休むことなく済ませることができたんですよ」 クローゼットから、服を選ぶ余裕もあった。薄い緑色のサマードレス。 「それはよかった。しかし、一度に動き過ぎてはいけないよ」 「晧司さん、本当に過保護ですね。もうじき、あれから四か月にもなるんですよ」 「まだ、四か月だね。正確には3か月半だ」 背を支えてくれる手。私がよろけたり、呼吸が苦しくなったりしないかと、注意深く見守る目。私より十五センチほど背が高くて、すらりとして逞しい。安心して寄りかかれる。長い足は、一人では速足なのに、私と歩く時は歩幅を合わせてくれる。顔を上げると必ず目が合うのは、いつも私を見ていてくれるから。 私の居室を出て、彼の寝室の前を通り、リビングへ。明るい朝日が差し込み、コーヒーのいい香り が漂っている。 「今日もいいお天気」 「梅雨明け宣言はないが、今年は早いのではと予想されているね。光で目が痛くはないかい?」 「ええ。目は何ともないんですもの。……あ」 「うん?」 晧司さんは私の視線を追った。リビングの階段を降りると、その先は『大きなリビング』。湖の上に張り出したテラスへと続く、この別荘の中でもとびきり素敵な場所。 「テラスまで降りたい?」 遠慮がちに頷いた。駄目って言われるかな。でも、キラキラ光る水面を見ながら、晧司さんのおいしいお料理を食べたいな。 彼はちょっと思案してから、フッと笑った。わ、かっこいい。 見とれている間に、ふわっと抱き上げられた。お姫様抱っこ。緩くまとめたロングヘアが彼の腕にかかる。 「晧司さん?」 「では参りましょうか、姫」 「え、あの……」 「しっかりつかまって」 「あ……はい」 おずおずと、肩に手をおいて首に手をまわす。病院からここへ移ってきた時も、ほかの時も、何度もこうして抱っこされた。そのたび、私でいいのかなっていう気持ちになる。十も年上の、よくは知らないけど大変な資産家だという晧司さんには、きっと大切な人がいる。時々切ない目をしているから、わかる。 私を揺らさないように、一歩ずつ階段を降りていく。トクン、トクンと胸が鳴る。私はこの人に、淡い憧れを抱いていたのかもしれない。もしかしたら、子供の頃から。 今の私は、何ひとつ覚えていないけど――。彼は私の首筋に目をとめ、見る気はない、何も見ていないと言うかのように視線を逸らした。あっと思い出しても、もう遅かった。そこには、彼がつけた痕を晧司さんが上書きしたことが、はっきりと見て取れるはず。一連の出来事に頭がぼんやりして、なんて言い訳だ。ショールで隠そうとも思いつかなかった。 おそらく私は、隠す必要がない環境にあった。彼との関係を。少なくとも、キスマークを人に見られたとしても、後ろめたく感じる必要のない関係。従兄妹同士の恋人か、それとも……。 ああ、それとも、もう終わってしまったんだろうか。だから晧司さんは、寂しそうに私の背中を見送ったの? 昨日、あんな形で別れてしまった夕李に何も言えないまま、次から次へと考えてしまう。晧司さんとの仲に期待をし……縋ろうとしたのに、躱されてしまった気がしている。 間違いなの? 私の、勘違い? 記憶をなくした私に優しいあの人に、必要以上に寄りかかってしまっているだけだというの? 私の帰る場所は、ほかにあるのだろうか……そう、例えば目の前にいるこの人。顔を上げると、心配そうな夕李の瞳が星のように私を見下ろしていた。「……大丈夫?」 その目の表情も、声音も、私への熱情を封じ込めてはいない。昨日の昼までの二人には、二度と戻れない。車のテールランプを点滅させて伝えてくれた「愛してる」は、消えない刻印となって私の心に焼き付いている。 けれど私は……晧司さんのものでありたい。あの人と、お互いのために生まれてきたのだと感じられる瞬間を、積み重ねていきたい。 晧司さんは、それを望んでくれるだろうか。今のこんな私を、夕李は何と思うだろうか。私は……何て身勝手な女なんだろう。 だから、こう答えるしかない。「大丈夫……」
開きかけた記憶の扉は、鳴り響いたインターフォンの音に紛れ、また閉まった。「あっ! いけない……」 夕李が午後四時頃には着くと、メールに書いてあったのを思い出した。体を起こすと、晧司さんの目が揺れていた。安心させたくて、頬を撫でた。しっとり湿っている。「晧司さん、汗をかいているから着替えないといけなかったのに……気が付かなくてごめんなさい」「いいんだよ。……行っておいで」 その言い方が、何だか……ただ玄関を開けにいくのではなく、そのもっと先まで私が行ってしまうのを黙って見送ろうとしているように思えて、素直に頷けなかった。「晧司さん、私は」 さっき言いかけたことを続けようとした。けれど、喉の奥に塊がつかえたようになって、そのあとを言えなくて。私に触れようとして離れていった彼の手が、ますます切ない気持ちにさせた。わずか一分ほど前までは、あんなにも満たされた気持ちでいたのに。私たちは、体はふたつでも、ひとつの心を持って生きているのだと。それは錯覚だったの……?「もうずいぶんと気分がよくなったから、着替えは自分でできるよ。熱いお湯に浸したタオルだけ、あとで持ってきてもらえるとありがたい。それと、彼が一段落したらここへ来てもらえるよう伝えてくれ」「……わかりました」 半分だけ開いたままの窓が、ふわりとカーテンを揺らした。早く行きなさい、と風に言われた気がした。「お待たせしてごめんなさい」 玄関を開けると、辺りを眺めていた夕李がにこっと笑いかけてきた。けっこう待たせてしまったのに、インターフォンを再び鳴らすこともなく、静かに待っていてくれた。
「君がそこにいてくれるだけで、ほかのどんな薬もかなわないほどの効き目があるんだよ」 眠気を含んだ声は、強めの薬のせいだろう。クスッと笑わずにはいられない。「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、夜はまたあれを飲みましょうね」「ごまかせなかったか。さすがだ……」 指を絡めて擦り合わせ、きゅっと力を込めてくる。彼の体温を、私に刻み込もうとするかのように。それは、私の記憶の中にも確かにあるように感じられた。運命のいたずらは、私から彼に関する知識を奪ったけれど、温もりの記憶は奪えなかった。 胸のときめきが、私に何かを告げようとしている。彼の胸も同じようにときめいているに違いない。思い込みではなく、確信。私たちは――ひとつの魂を持っているんじゃない? ああ、きっとそうなんだ。昨夜確かに、お互いのものだと感じた。熱に浮かされての衝動ではなく、肌を合わせることで心の蓋が開きかけたんだ。「晧司さんっ……」 横たわる彼に縋りつき、頬にキスをした。無性に、そうしたくなった。「晧司さん、私……」「どうしたんだ? 大丈夫だよ。大丈夫だ……」 私の突然の行動を、不安から来るものだと受け取ったのか、しきりに背を撫でてくれる。もっと、もっと触れたい……あなたとの間にあるものを、触れることで解き明かしたい。あと少しで、頭の中の鍵が開きそうな気がするの。「リン……」 ぎゅっと抱きしめられて、心の底から安心して、あたたかいものが体中に、胸いっぱいに広がっていく。ああ、この人は私の――。 その時、もしもインターフォンが鳴らなかったら。 真実はもっと早く明らかになっていた――? いいえ。 もっと、ずっと遠くなっていたのかもしれない。
嵐のように晧司さんと求め合った翌日。春日さんと夕李からのメールを二人で読んで、素直に甘えることにした。 渋々飲んだ風邪薬は、よほどよく効くらしい。また一時間ほど眠って目を覚ました時、晧司さんの表情は普段に近いものに戻っていた。あのドリンクの効果で、二日酔いも治ってきたみたい。彼が眠っている間、私は飽きることなく寝顔を見て過ごした。どんな関係であろうとも、彼が私にとって、世界で最も身近な存在であることに変わりはない。「リン……」 ゆっくりと目を開けた彼が、私を呼ぶ。「晧司さん」 私も、彼の名前を呼ぶ。そこに込められた意味を記憶の中から掘り起こそうとするかのように、口の中で転がしてみる。 何度も何度も、私はこうして彼の名を声に乗せてきたのだろう。寝室で、昨夜と同じ近さと熱さで。朝の光の中、見つめ合って口づけを交わして。そうやって繰り返された日常があったことを、今の私は、思い出せなくとも疑ってはいない。彼とは、一夜の関係や気まぐれなものではなく、絆を確かめ合ってしっかりと手をつなぎ、歩いていたのだ。記憶を失う前の、私は。 記憶を失ってから、ずっと、彼に手を引かれてきた。それを今、自分から手を伸ばそうとしている。だって、私たちにはそれが当たり前だと感じるから。 世間的に許される関係だったのか、そうではなかったのか。わからないことばかりだけど、今、お互いの目の中にあるものを信じたい。「気分はどうですか」 ベッドに座ると、緩慢な仕草で腕を伸ばしてきて、手を握ってくれた。