結婚して7年、白鳥未央(しらとり みお)は夫の西嶋博人(にしじま ひろと)には別の女性、綿井雪乃(わたい ゆきの)という女がいることを知った。 彼と雪乃は熱烈に愛し合っていて、周りは彼らがきっとヨリを戻すだろうと噂していた。息子の理玖(りく)ですら雪乃のほうに肩入れしていた。「雪乃さん、あなたの病気が僕のママに移っちゃえばいいのになぁ」 再び夫と息子が雪乃と一緒にいるのを見たことで、未央はようやく自分の気持ちに区切りを付けるのだった。 今回、彼女は何も騒ぐことはせず、立花市(たちばなし)へと向かう飛行機のチケットを買い、離婚協議書と親子の縁切りを書き記した紙を残して去るのだった。 薄情者の息子に、氷のように冷たい夫。彼女はそれらを全部雪乃に渡し、あの三人が本当の家族になりたいという望みを叶えてやるのだった。 そして、それから1年後、彼女は催眠術と心療内科医として業界に名を広めることになる。しかし、そんな最中、ある男と子供の2人の患者が彼女のもとを訪ねて来た。 男のほうは目を真っ赤にさせ、ぎゅっと彼女の腕を掴んだ。「未央、お願いだから、俺たちから離れないでくれ」 その男の傍にいた小さな子供も彼女の服の端をぎゅっと掴み、低い声で懇願した。「ママ、家に帰ろうよ?僕はママしかいらないんだ」
View Moreこれは命に関わる事態だ。博人は歯を食いしばり、仕方なく振り返ってオフィスに戻ると、片手で雪乃を抱き上げた。「雪乃、しっかりしろ。すぐ病院に連れて行く」そう言うと、厳しい顔をした彼は足早に外へ向かった。大勢の目の前で、雪乃を抱えて車に乗り込んだ。一方。未央も車に戻ったが、すぐには離れなかった。先ほどの光景の衝撃が大きく、まだぼんやりしていた。「ママ、大丈夫?」理玖の心配そうな声が耳に届いた。我に返り、車の窓から外を見ると、ちょうど博人が誰かを抱きかかえ、緊張した顔をしているのが見えた。まるでそれが世界で一つの宝物であるかのように。そんな態度は、自分には一度も与えられたことがなかったのだ。未央は口元を歪め、悲しんでいるようだがすでに麻痺している虚ろな目で静かに口を開いた。「川島さん、帰りましょう」車の中は重苦しい沈黙に包まれた。理玖でさえもおとなしく後部座席にじっと座り、心配そうに彼女を見つめていた。暫くしてから。家に着くと、未央は無言でまっすぐ部屋に戻り、ドアを閉めた。「バタン!」書斎で新聞を読んでいた宗一郎はその音を聞いて出て来て、訝しげな顔で理玖を見つめて尋ねた。「宿題をするためにあのクズ……げほっ、西嶋博人のところに行ったんじゃなかったのか?どうしてこんなに早く戻った?」「おじいちゃん、実は……」理玖は言い淀んで、言いづらそうな顔をした。実は彼も以前は雪乃と仲良くしていたが、何度かひどい目に遭ってから、この世界で本当に自分を大切にしてくれるのはママだけだと気づいたのだ。祖父が優しくしてくれるのも、ママが大事だから、彼のことを可愛がってくれているのだ。まだ幼いから、男女の感情についてはまだよく理解できていないが、パパがママを悲しませてしまったことだけは分かっていた。「一体どうしたんだ?」宗一郎が杖を地面に突きながら低い声で尋ねた。理玖は少し躊躇い、最後に唇を噛みしめて打ち明けた。「ママと会社に行ったら、パパが……パパが雪乃おねえさんと抱き合ってたの。それでママが僕を連れて帰ってきたんだよ」「あの畜生め!よくもそんな真似ができたな!?」宗一郎は激怒し、子供の前で使ってはいけない汚い言葉を吐いてしまった。こめかみの血管が浮き出て、全身が震えるほど苛立っていた
未央は目の前の西嶋グループのオフィスビルを見上げ、前に来たのはまるで前世のことのように感じた。博人に完全に失望して以来、この場所を訪れることはなかった。高橋以外の社員は西嶋社長に妻がいることすら知らなかったのだ。幸い、理玖は頻繁に父親に会いに来ていたため、止められずすんなりと入れた。「坊ちゃん、おはようございます」「背が伸びましたね、坊ちゃん」褒め言葉を浴びながら、理玖は得意げに顎を上げて、嬉しそうな顔をした。未央は思わず額に手を当てた。息子がなぜここに来るのが好きなのか、少し理解できた気がした。社長室は最上階にある。未央は理玖の手を握り、直通のエレベーターで23階へ向かった。「ディン」という音と共にエレベーターのドアが開いた。オフィスは忙しい空気に包まれていた。十数人のアシスタントや秘書が博人のために働いている。未央は仕事の邪魔をせず、すぐ社長室のドアの前へ向かった。手を上げてノックしようとした時、背後から呼び止められた。「白鳥さん、いついらっしゃったんですか?」高橋が汗だくで現れ、息を切らしていた。かなり焦っているようだ。未央は深く考えず、「理玖が父親に会いたがっていますから」と答えた。再びドアノブに手を伸ばすと、また制止された。「白鳥さん、社……社長は今会議中です。休憩室で少しお待ちいただけませんか?」高橋は額の冷や汗を拭い、声も震え始めた。未央は不思議そうに、明らかに不自然な態度を取っている高橋を見て、違和感を覚えた。目が泳ぎ、そわそわしている。明らかに嘘をついている証拠なのだ。もしかして、何かを隠しているのだろうか。そう思うと、彼女は目を細め、ためらうことなくドアを押し開けた。次の瞬間。目に飛び込んできたのは、スーツを着た博人がデスクに座り、シャツが一番上のボタンまでしっかり閉められたストイックな姿だった。しかし、その真っ白なシャツには鮮やかな口紅の跡が残っている。相当目立っている。さらに衝撃的なのは、彼の膝の上に座り、彼の首に腕を回した女が、振り返って見せた驚いた顔だった。その小さく可愛らしい唇は、激しく吸われたようにより艶やかになっていた。二人の間には甘い空気が流れていた。「未央……」その低くて魅力的な声が沈黙を破った。未央は
一週間後。希望心療内科が正式にオープンした。悠生も多忙の中時間を割き、プレゼントを持って祝いに訪れてきた。「ご開業おめでとうございます」「ありがとうございます」未央は目尻を下げ、自信と誇りに満ちた笑顔を浮かべていた。この時の彼女は、もはや夫や息子に依存する専業主婦ではなくなっていた。初日の営業は想像以上に順調で、以前の患者たちが噂を聞きつけ、続々と診察にきてくれた。新規開業特典として三日間無料診療を行うと、病院の前には患者でごった返して、長い列ができた。気づけば日がもうすぐ暮れるところだった。未央は硬くなった首を回し、ようやく最後の患者の診察を終えた。一日を通して、様々な心理的な問題を抱える人々が訪れてきた。悩みを打ち明けてくれた彼らの苦しい顔を見て、たとえ即座に解決できる問題ではなくとも、少しでも笑顔を取り戻すのを見るのは何ものにも代えがたい喜びだった。満足感に浸りながら家に帰ると、ドアを開けた瞬間に異様な空気を感じた。「お父さん?理玖?どうしたの?」二人は背中合わせに座り、特に理玖はふくれっ面をしていた。不思議なことだ。父親は孫の顔を見た瞬間からとろけるような嬉しそうな顔をしていて、彼を溺愛し始めたのだ。だから、まさか二人が喧嘩するとは思ってもいなかった。未央が宗一郎を見ると、彼は気まずそうに口を開こうとして、また躊躇っていた。すでに事情を察し、理玖のほうに向くと、幼い憤慨した声が響いた。「ママ、今日の宿題はパパにマッサージして動画を撮るんだよ。でもパパが……」そう言いながら理玖は不機嫌そうに宗一郎を一瞥し、また続けた。「パパはおじいちゃんに追い出されちゃったの」すると、重苦しい沈黙が流れた。未央は眉間を押さえ、頭痛を感じた。嫁姑問題に悩む人は多いが、彼女の家はまさか逆パターンだった。博人のことを考えると、あの夜の一線を越えた記憶がよみがえった。顔が熱くなり、無意識に両手を握りしめ、指先が白くなるほど力を込めていた。彼は目覚めた後、どう思ったのだろう?どうして何日も連絡をくれないのか?いろいろな疑問が頭の中をよぎった。理玖の期待に満ちた瞳で見つめられ、仕方なく口を開いた。「じゃあ明日、パパに会いに行こう、ついでに宿題も済ませられるよね」
佐紀は隣の雪乃を引き寄せ、笑顔で言った。「博人、私との約束、まだ覚えているかしら?」「もちろん」博人は眉をつり上げ、躊躇いなく答えた。幼い頃、西嶋家の権力の争いの中で、佐紀だけが彼を後継者の座につけるよう尽力してくれた。その恩義で、博人はおばの佐紀をとても敬い、力の及ぶ限りのことなら何でもすると約束していたのだ。佐紀は満面の笑みで頷いた。「それならいいわ。博人が恩を忘れる無情な子ではないと信じていたわ。実は一つお願いがあってね……」「聞かせてください」博人はペンを置き、真剣におばを見つめた。すると。「雪乃の母親が亡くなる前、彼女をしっかり面倒見てほしいって私に頼んだの。あなたも知ってるでしょう。彼女は体が弱く、舞台に立ち続けるといつか事故が起きるかもしれないわ」佐紀は眉をひそめ、困り果てた様子で話した。博人は僅かに目を細めたが、表情を変えずに尋ねた。「それで、つまり……」ここまで言ったのなら、回りくどいのはやめ、佐紀ははっきりと言った。「雪乃をあなたの会社で働かせてほしいの。軽い仕事で構わないわ。他の人には任せられないの」「佐紀さん……」雪乃は目を赤くして感動したように口を開いた。オフィスは突然静寂に包まれた。博人は眉を深くひそめ、実は乗り気ではなかった。未央とやり直そうと決めたばかりだからだ。雪乃がいることで誤解を招きかねない。返事がすぐに返ってこないと気付き、佐紀の表情が険しくなり、低い声で言った。「これっぽっちの願いも叶えてくれないの?」人事異動で西嶋グループが揺れている今、おばの不満を買えば状況はさらに複雑になるだろう。目に暗い影が落ち、暫く考え込んでいると、佐紀が再び口を開き、さっきより穏やかな口調で言った。「ただ雪乃のことが心配なだけよ。会社に入れた後は、どんな仕事をさせるかはあなた次第よ」しばし躊躇った後、博人はようやく頷いた。「分かりました」 最悪の場合、雪乃を下の宣伝部に配属し、社長オフィスから距離を取らせればいい。佐紀は承諾を得ると、満足げに雪乃を連れて去っていった。一方。未央は空港に到着し、晴夏たちをすぐに見つけて近寄った。「虹陽市へようこそ」晴夏は興奮した様子で周りを見回し「白鳥さん、私はじめて虹陽に来
体の違和感に耐えながら、未央は慎重にベッドから抜け出した。突然、机の上に置いてあった携帯が振動した。確認すると、晴夏からのメッセージだった。「白鳥さん、空港に着きました。新しい病院の場所はどこですか?」彼女は一瞬呆然とし、すぐに返信した。「私が迎えに行くわ」昨日場所を決めた後、立花から出張できるスタッフを何人か呼んできたのだ。晴夏もその一人だった。携帯を置き、もう一度ベッドで寝ている博人を一瞥し、複雑な表情でそっと部屋を出た。気づけばすっかり昼になってしまっていた。博人がゆっくりと目を覚ますと、激しい頭痛に襲われた。体を起こしながら、自宅に戻っていることに気づいた。昨夜の記憶は断片的で、敦に飲むのを止められるシーンが断片的に思い出された。どうやって家に帰ったか、その後何があったかは記憶が完全に空白だった。未央と喧嘩中の今、彼女が送ってくれたことを考えるはずもなく、敦が送ってくれたのだろうと当たり前のように思った。その時。電話の着信音が静寂を破った。博人が携帯を取り、電話に出ると、高橋の焦った声が聞こえてきた。「西嶋社長、どちらにいらっしゃいますか?社長に確認してもらわなければならない緊急の書類がございまして」「すぐ行く」博人は低くかすれた声で答えた。昨夜のことは後で敦に聞けばいいから、深く考える必要もない。そう思い始めると、服を着替え、簡単に身支度を済ませると、博人はすぐに出かけた。暫くして。会社に着くと、忙しい仕事に没頭し、敦に聞くことをすっかり忘れてしまった。胃がうずく痛みを感じるまで、ようやくまだ何も食べていないことに気づいた。内線で秘書にお粥を用意するよう指示した。待っている間。彼は相変わらず書類を読み続けていた。仕事に集中している間だけ、昨夜のパーティーの不愉快な出来事を忘れられるようだった。「コンコンコン」ドアをノックする音がした。博人は顔も上げず「入れ」とだけ言った。しかし、次の瞬間。「博人、高橋さんからまだ昼ご飯を食べていないと聞いて、テイクアウトしてきたわ」「ほら、やっぱり身近に気遣える人がいないとね。こんなことを言って悪いけど、でもあの白鳥とか言う女なんて、嫁にもらって何の役に立った?いつもトラブルを起こしてあなたを不幸にしてい
未央は仕方ないといった顔をしてため息をつき、後部座席で泥酔している博人を見て、そのまま車に乗り込んだ。「お嬢様、どちらへ向かえば?」川島の声が前から聞こえてきた。未央は少し考えた。この状態で白鳥家に帰るわけにはいかない。父の性格からして、博人を家から出して路上に放り出しそうだ。「未央、行かないでくれる?」耳元で低いかすれた声が懇願するように響いた。未央が顔を上げると、男は虚ろな目をしていて、意識もはっきりしないといった様子なのに、ひたすら彼女の名前を繰り返していた。ふとそのまま心を鬼にすることができなくなった。「高見沢住宅地へ」未央はゆっくりと口を開き、複雑な表情が一瞬浮かんだ。あの家は結婚から引っ越すまでの7年間をずっと過ごした場所で、多くの苦しい記憶が詰まっていた。まさかまた戻ることになるとは。これで最後だ。心の中でそうつぶやいた。夜はだんだん更けていった。綺麗な月が空にかかっていた。未央は運転手に博人をベッドまで運ばせた後、自分で服を着替えさせた。かつて何度も繰り返した動作を、流れるようにこなした。心境も全く違っていた。そして。乱雑に脱ぎ捨てられた服を取り下へ降りて、洗濯しようとした時、見慣れた内装と装飾品が目に入り、胸がさらにざわめいた。ブレーカーボックスには薄くほこりが積もっていた。彼女が去ってから、この家は生き生きとした気配を失っていたようだ。博人と理玖は立花まで行って、それから白鳥家に住みついたから、長い間ここには戻っていなかった。未央は唇を噛み、キッチンに入ってさっぱりした味噌汁を作ろうとした。しかし突然、視界がかすむような感覚に襲われた。足元がふらつき、パーティーで飲んだジュースのことを思い出し、嫌な予感が胸をよぎった。しかし……ほんの一口しか飲んでいないし、体に異常は感じていなかった。効き目が出るのが遅かったのだろうか?意識が遠のいていくのを感じ、眉間を押さえながら急いで寝室に戻ったが、ベッドに男が寝ていることを忘れていた。「未央……」男のかすれた声が、誘惑するように低く響く。淡い香りが鼻をくすぐった。未央は完全に意識のコントロールを失い、全身が火照るのを感じ、冷たさを求めて這い寄っていった。タコのように手を伸ばし男に絡みつき、その冷たさを
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