今さら私を愛しているなんてもう遅い

今さら私を愛しているなんてもう遅い

By:  大落Updated just now
Language: Japanese
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結婚して7年、白鳥未央(しらとり みお)は夫の西嶋博人(にしじま ひろと)には別の女性、綿井雪乃(わたい ゆきの)という女がいることを知った。 彼と雪乃は熱烈に愛し合っていて、周りは彼らがきっとヨリを戻すだろうと噂していた。息子の理玖(りく)ですら雪乃のほうに肩入れしていた。「雪乃さん、あなたの病気が僕のママに移っちゃえばいいのになぁ」 再び夫と息子が雪乃と一緒にいるのを見たことで、未央はようやく自分の気持ちに区切りを付けるのだった。 今回、彼女は何も騒ぐことはせず、立花市(たちばなし)へと向かう飛行機のチケットを買い、離婚協議書と親子の縁切りを書き記した紙を残して去るのだった。 薄情者の息子に、氷のように冷たい夫。彼女はそれらを全部雪乃に渡し、あの三人が本当の家族になりたいという望みを叶えてやるのだった。 そして、それから1年後、彼女は催眠術と心療内科医として業界に名を広めることになる。しかし、そんな最中、ある男と子供の2人の患者が彼女のもとを訪ねて来た。 男のほうは目を真っ赤にさせ、ぎゅっと彼女の腕を掴んだ。「未央、お願いだから、俺たちから離れないでくれ」 その男の傍にいた小さな子供も彼女の服の端をぎゅっと掴み、低い声で懇願した。「ママ、家に帰ろうよ?僕はママしかいらないんだ」

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Chapter 1

第1話

「藤崎さん、私、立花市へ行きます。あなたの妹さんの心療内科医になりましょう」

白鳥未央(しらとり みお)の落ち着き払った声が鳴り響いた。

電話の向こうの男は低く意外そうな声を出した。

「白鳥さん、あなたはもう結婚したと聞きました。ご家庭のことが心配でしたら、あなたの旦那さんとお子さんの都合も考えますよ」

旦那と子供?

未央は視線を下に落とした。そう遠くないところにうっかりひっくり返してしまった牛乳が床にぽたぽたと滴っている。

彼女は突然、朝、彼女が牛乳をひっくり返してしまった時、息子が嫌悪の目つきで見つめているのを思い出した。

「ママ、どうしてこんなちょっとしたこともできないの?もし雪乃さんだったら、こんなことしないよ?ママって本当に雪乃さんには遠く及ばないよね」

息子が言うその「雪乃さん」という人物は、夫である西嶋博人(にしじま ひろと)の浮気相手である綿井雪乃(わたい ゆきの)のことだ。彼女はバレエダンサーとして有名な女性で、「白鳥の湖」を躍らせると、それはそれはまるで夢の中の幻想のようで、小さな息子でさえもそれに憧れの目を向けるほど美しかった。

その時、博人は息子の言葉を聞いて、息子を叱ることもなく、ただ冷ややかな嘲笑するような目つきで彼女を見ていた。「この女がどうして雪乃さんと比べられる?昔お前の母さんがあんな小細工して仕掛けてこなけりゃ、俺はこんな女と結婚なんかしなかったってのに……」

彼女と博人は結婚7年だ。彼女のほうは7年間も博人に片思いをしていた。

結局この二人はある予想外なことがきっかけで関係を持ってしまい、子供ができてしまって結婚することにしたのだった。

西嶋家は財閥家で、彼女は博人と結婚した後、西嶋家から仕事をやめるように要求された。そして、全てを懸けて博人の良い妻となり、夫に尽くし子供をしっかり育てろと言われたのだ。息子の西嶋理玖(にしじま りく)をしっかりと教育するべきだと。

未央は息子のために結局はそれを受け入れ、仕事をやめ、家事を全部こなす専業主婦になり、熱心に夫と息子の世話をしていた。

それから7年という時が流れたが、彼女の息子と夫の心に住みついているのは彼女ではなく、他所の女だった。

息子がいつも「ママ、どうしていつもパパにわがままを言うの?ママが何もできないから、パパに嫌われたって当然だよ。もし雪乃さんが僕のママならよかったのに」と言っているのを思い出した。

未央は目線をまた元に戻し、少しうわずったような声で言った。「藤崎さん、いいんです」

夫と息子の二人とも雪乃を自分たちの妻と母親にしたいと思っているのだから。

それなら彼女は彼らの望みを叶えてあげるまでだ。

夫も息子も、いらない。

未央は藤崎悠生(ふじさき ゆうせい)に15日後にこの町を去ることを約束した。

藤崎悠生は立花市のトップクラスの富豪である。彼の妹は心理的な問題を抱え、重度のうつ病を患っていた。

河本(こうもと)教授の助けを借りて、白鳥未央を紹介してもらったのだ。彼女は以前、河本教授の一番弟子と言っていいほどの実力の持ち主で、催眠術と心理学において天賦の才を発揮していた。

そして彼女が博人と結婚してから、心理学から離れ専業主婦となってしまったことに河本教授は心から残念に思っていた。

「白鳥君、君は女性だけれども、西嶋家のために家の中に閉じ込められておくべきではないと思うよ。君は強く逞しい自由な精神を持っている。その才能を思う存分発揮するべきだと思うんだけどね」

河本教授は以前このように彼女に伝えていた。

当時の彼女はそれでも西嶋家の言う通りにすることを選んだ。

今考えてみると、やはり外から見ていた人のほうが正しかったようだ。

彼女が博人たちこの父子のために自分を犠牲にしてきたことは自己満足のようだった。彼らの瞳には、以前心理学の天才だった彼女よりも、ヒラヒラと踊る可愛らしい白鳥である雪乃のほうがよく映っているのだった。

未央が電話を切ってすぐ、ちょうど博人からボイスメッセージが送られてきた。「俺と理玖は外で食事する。だから夕飯の準備はしなくていい」

彼の口調は淡々として素っ気なく、妻に対して言うようなものではなかった。それとは逆にまるで家政婦に指示を出しているかのようだ。

彼女はこの何年もの間、些細なことにも気を使い、非常に忙しくしていて、確かにタダ使いの使用人にそっくりだった。

未央は彼に返事をしようとしたが、ボイスメッセ―ジの中に雪乃と息子の声がするのに気づいた。

「雪乃さん、ママって老婆みたいなんだよ。なんにもできない上に、人のことにはうるさく口を出してくるんだ。僕にこういうのは食べさせてくれないんだよ。やっぱり雪乃さんが一番だね。何でも言うこと聞いてくれて、僕は雪乃さんが大好きだ」

息子のその話しぶりは無邪気で未熟だった。

もし以前の彼女だったら、未央は恐らくがっくりと気を落として辛く思ったことだろう。

しかし、この時の彼女の心は、意外にも穏やかだった。

息子は早産だったので、体が弱く彼女は長年とても気を配って彼を育ててきた。飲食においては特に気を付けていて、彼女は彼の身体を心配し、外食などさせてこなかった。

しかし、息子の目には、彼女は老婆のように映っているのだった。

未央は多くを語らず、短く「分かったわ」とだけ返事をした。

血の繋がりがあろうが、彼がひ弱な体であろうが、もはや今の彼女には関係ない。

未央は散らかったリビングを見つめながら、自分から床にこぼれたままの牛乳を掃除することはせず、家政婦のおばさんを呼んできた。

博人は赤の他人が家に入るのを嫌っているから、今までずっと未央が片付けや掃除をしていたのだ。彼女はこれまで不器用ながらも、注意深く博人の好き嫌いに合わせてやってきた。

しかし、今の未央はもう全てを悟っていた。

彼女はここを離れる決意をした。博人が好きか嫌いかなどもう重要ではないのだ。

家政婦のおばさんに部屋の掃除を任せ、未央は部屋に戻って離婚協議書にサインをし、時間指定の宅配サービスを頼んだ。

半年後、これが時間通りに彼女の夫の手元に届くのだ。

彼女は、これは恐らく博人に贈る最後のプレゼントだと思った。

夜、博人はやっと息子と一緒に帰って来た。

二人は家に着くと、息子のほうは興奮した様子で話し始めた。「パパ、雪乃さんの踊りって魔法みたいにキラキラしてたよね。明後日学校で出し物をするんだけど、雪乃さんに来てもらってもいいかな?」

息子は金持ちの子供たちが通う幼稚園に行っているのだ。

そして、明後日には園児たちの出し物があって、親が同伴しなければならない。ただ彼はずっと自分の母親が人前に出てくるのは恥ずかしいと思っていて、このことを未央に伝えていなかったのだ。

そうか、彼は母親ではなく雪乃に来てもらいたいのか?

息子の興奮して楽しそうだったその様子は家の中に入ったとたんに消えてしまった。

彼女を見た瞬間、息子は口をすぼめて眉間にきつくしわを寄せた。

博人は彼の手を繋いだまま、家の中を見渡し眉をひそめた。「誰か来たのか?」

「ええ」未央は不用意に言った。「使わない物を頼んで片付けてもらって、あげちゃったの」

たとえば、彼女が以前夫のために買ったが、一度も使われることのなかったネクタイやカフスボタン、それから息子のために準備していたが、すぐに遊ばれなくなったおもちゃ等だ。

彼女はここを去るのだから、このようなお古はさっさと片付けてしまったほうがいい。それにちょうど彼女の夫が新しくこの家に綿井雪乃という女性を迎える準備にもなるだろう。

博人はこの時、どうもおかしいと思った。

彼はクローゼットの中にはあまり興味がなく、何が減ったのかなどよく分からなかったのだ。

ただ眉間にきつくしわを寄せて、冷たい声で言った。「理玖は体が弱いんだ、いろんな物にアレルギーがある。今後、他所の人間を家に入れるのは控えてくれ。あのどうでもいいガラクタなんか捨ててしまえばいい、西嶋家にはなんでもあるんだからな」

その通り。

彼女が心を込めて準備した夫と息子へのサプライズは一度も一度も彼らに喜んでもらえなかった。

未央は以前のようにヒステリーを起こすこともなく、他のどんな人間よりも息子にどんなアレルギーがあるか知っているということを説明することもなく、ただ冷たい端正な顔をした夫を見つめ頷いた。「分かったわ」

そして未央は息子が家に入って来た時に話していた言葉を思い出し、突然言った。「明日私は用があるから、幼稚園の出し物は雪乃さんと一緒に行ってきてくれる?」

傍にいた理玖はそれを聞いて瞬時に瞳をキラキラと輝かせ、どもりながら言った。「ほ、本当にいいの?ママ、本当に雪乃さんに来てもらっていいの?」

未央は息子が興奮して嬉しそうな様子を見て、突然笑った。

彼女は頷いた。「もちろんよ」

しかし博人のほうは顔をしかめて、彼女がおかしな事を言い出したので、表情を瞬時に凍らせ、我慢できない様子で言った。「未央、お前、何腹を立ててるんだ?

理玖はまだ小さい。雪乃のことを気に入るのはごく自然なことだ。この子はただ適当に言ってみただけだぞ、お前まさか息子にキレてんのかよ?」
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第1話
「藤崎さん、私、立花市へ行きます。あなたの妹さんの心療内科医になりましょう」白鳥未央(しらとり みお)の落ち着き払った声が鳴り響いた。電話の向こうの男は低く意外そうな声を出した。「白鳥さん、あなたはもう結婚したと聞きました。ご家庭のことが心配でしたら、あなたの旦那さんとお子さんの都合も考えますよ」旦那と子供?未央は視線を下に落とした。そう遠くないところにうっかりひっくり返してしまった牛乳が床にぽたぽたと滴っている。彼女は突然、朝、彼女が牛乳をひっくり返してしまった時、息子が嫌悪の目つきで見つめているのを思い出した。「ママ、どうしてこんなちょっとしたこともできないの?もし雪乃さんだったら、こんなことしないよ?ママって本当に雪乃さんには遠く及ばないよね」息子が言うその「雪乃さん」という人物は、夫である西嶋博人(にしじま ひろと)の浮気相手である綿井雪乃(わたい ゆきの)のことだ。彼女はバレエダンサーとして有名な女性で、「白鳥の湖」を躍らせると、それはそれはまるで夢の中の幻想のようで、小さな息子でさえもそれに憧れの目を向けるほど美しかった。その時、博人は息子の言葉を聞いて、息子を叱ることもなく、ただ冷ややかな嘲笑するような目つきで彼女を見ていた。「この女がどうして雪乃さんと比べられる?昔お前の母さんがあんな小細工して仕掛けてこなけりゃ、俺はこんな女と結婚なんかしなかったってのに……」彼女と博人は結婚7年だ。彼女のほうは7年間も博人に片思いをしていた。結局この二人はある予想外なことがきっかけで関係を持ってしまい、子供ができてしまって結婚することにしたのだった。西嶋家は財閥家で、彼女は博人と結婚した後、西嶋家から仕事をやめるように要求された。そして、全てを懸けて博人の良い妻となり、夫に尽くし子供をしっかり育てろと言われたのだ。息子の西嶋理玖(にしじま りく)をしっかりと教育するべきだと。未央は息子のために結局はそれを受け入れ、仕事をやめ、家事を全部こなす専業主婦になり、熱心に夫と息子の世話をしていた。それから7年という時が流れたが、彼女の息子と夫の心に住みついているのは彼女ではなく、他所の女だった。息子がいつも「ママ、どうしていつもパパにわがままを言うの?ママが何もできないから、パパに嫌われたって当然だよ。もし雪乃さ
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第2話
男の瞳の底には嫌悪と不愉快さがはっきりと映っていた。その黒い瞳には氷のように冷たい光が宿っている。未央は静かに彼のその目線と対峙した。これは彼女の夫だ。しかし、彼女を見つめるその目には一度も愛情が宿ったことなどない。「こうしちゃダメなの?」彼女は瞼を上げて淡々とした口調で言った。「理玖はその雪乃さんに来てもらいたいんでしょう。私はこの子の母親だもの、この子をがっかりさせたくないの。それに、その日は私用事があるし」彼女はその日、本当に用事があるのだ。あの謎に包まれた男藤崎に彼女は診察をすると約束したが、その行動は全て秘密にしておかなければならなかった。それで銀行カードや携帯番号など、新しい物を契約しに行く必要があるのだ。この時の彼女はいつもとは違って全く騒がなかった。博人は眉間にきつくしわを寄せて、彼女を睨んでいた。以前の彼女であれば、絶対にこのようなことには同意しなかった。未央は西嶋夫人というこの身分をかなり気にしていて、自分の代わりに子供のお遊戯会へ雪乃を見に行かせるなんて有り得なかったのだ。彼女は一体何をしようとしているのだ?男のその黒い瞳に皮肉の色が浮かび、冷ややかに言った。「分かった、未央、後悔なんかするなよ。だったら明日の幼稚園のお遊戯会には俺と雪乃が理玖と一緒に行くからな」一体未央がどういうつもりなのか見させてもらおうじゃないか。博人は書斎のほうへ向かい、バタンッと書斎のドアを閉めた。理玖は雪乃の名前を聞いて、同じように眉をひそめ、小さな大人のような様子を見せて不機嫌そうに未央を見つめた。「ママ、これはママが雪乃さんに来てもらうって言ったんだからね。パパと喧嘩するべきじゃないよ」彼はそう言い終わると、大真面目な態度で小さなカバンを持って自分の部屋へと戻っていった。その顔は博人にそっくりだった。二つの部屋のドアはきつく閉じられていた。がらんとしたリビングには未央がたった一人だけ残されていた。この時の彼女の心はもう麻痺していて、全く心の痛みや悲しみなど湧いてくることもなく、ただただ落ち着き払っていた。これはこれでいいじゃないか。これで彼女も安心してここを去ることができる。未央は幼稚園のそのお遊戯会に参加することなく、翌日白鳥家の実家に戻り、博人に関係するものを全て持っ
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第3話
博人は唇をきつく結び、未央の後ろ姿を見ていた。彼の整った眉が少し歪み、心の中には何とも言えない焦りが生まれた。なぜだか分からないが、彼はなんだか未央が以前とは少し違うと感じた。雪乃は彼の表情をしげしげと見つめ、唇を噛みしめ恐る恐る言った。「博人、白鳥さんさっき不機嫌だったからあんなふうに言ったの?私は本当にわざと記者たちにあんなことを言ったんじゃないのよ」博人は眉を少しひそめ、切れ長の瞳を細めた。未央が……あんなふうにわざとふてくされたのか?「君のせいじゃないよ、あんなやつほっておこう」博人のその声色は氷のように冷たく、表情も冷淡だった。彼女は西嶋家の若奥様という身分でありながら、息子のお遊戯発表会にも参加しようとしなかった。息子に意地になって雪乃を来させたのだから、その後どういう結果になろうともそれに責任を持つべきだろう。雪乃は口角を上げニヤリと笑い、その瞳には計算高さがうかがえた。博人と雪乃の関係はすぐに話題となり、人気検索ランキングの1位になった。いくら博人が操作してその情報をネットから消したとしても、やはり影響は小さくなかった。瑠莉ももちろんネットでそのゴシップを見た。「だから……もう心を決めたって?本当にここを去って、立花に行っちゃうの!」瑠莉はネットの話題記事から目を離し、眉を驚いたようにつり上げた。「じゃ、ここにあなたがいたっていう全てを消し去るのは、今後の行方が分からないようにするためなのね?」未央はそのネット記事に目を落とし、盗撮された写真を見つめていた。博人と雪乃は保護者席に座って、ステージでバイオリンを弾いている理玖のほうを向いて、微笑みながらお互い見つめあっていた。一家三人、和気あいあいとした様子だ。息子が当初バイオリンを習い始めた頃、彼女が辛抱強く彼に付き合って少しずつ練習していき、彼が興味を失わず続けられるように一緒に努力してきたことを誰も知らない。そして今、人々は彼女の息子が綿井雪乃の芸術的才能を受け継いでいるとまことしやかに囁いていた。ちょうどこの時、雪乃がその記事にイイネを押した。そしてついでにまるで真実であるかのような内容のXを投稿した。「ある人が昔私に尋ねたことがある。深く愛した人と再会したら、粉々になった鏡は元通りになるかって。そして今の私の答えはね、
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第4話
博人は唇をきつく結び、内心とても馬鹿げていると思っていた。未央が目線を上にあげると彼の視線とぶつかり、彼女は眉をすこし上にあげて驚いた様子だった。「何か用?」彼女はそう聞くと、博人は何とも言えない苛立ちをおぼえ、不快になった。彼女は妻だ。彼が自分の寝室に戻ってきたのに、彼女はこんな反応を見せるのか?この怒りと、心の中に溜まったこの形容し難い感覚が一体何なのか、彼を焦らせた。博人は大股で未央に近寄ると、彼女をベッドに押し倒した。彼がその唇を近づけたが、未央は顔をそむけた。少し冷たい唇が彼女の口角に少しだけ触れた。未央は感情のない目で見た。「一体どういうつもり?」彼女のこのような態度が博人をさらに怒らせてしまった。彼は皮肉たっぷりに口の端をつり上げて笑った。「俺はてっきりお前がこんな長い間意地張ってるから、これを期待しているのかと思ってたがな」博人と結婚してから、彼女と博人が夫婦としての営みをするのは数えるほどしかなかった。酒に酔った時と、西嶋家のおじいさんが二人の仲を取り持ってくれたのを除いてだ。二人は多くの時間、同じベッドに寝ていても、それぞれの生活をしていた。それから理玖が少しずつ成長していき、彼ら二人の距離はだんだんと離れていった。未央は彼と目を合わせたが、怒りや悲しみなどは見えなかった。彼女は実際もう慣れてしまっているのだ。「今アレだから」彼女は彼との接触を避け、淡々と言った。「もしあなたがしたいんだったら、綿井さんのところに行けばいいんじゃない?」どのみちもうすぐここを去るのだから、もう何も執着するものもない。それに、男は歯ブラシと同じで、他の誰かと共有するものではない。彼女のこの他人事のような態度に博人は冷たく笑った。「未央、俺と雪乃はお前が思っているような関係じゃない。お前は彼女がお前と同じように腹黒い女だとでも思ってんのか?」彼は皮肉交じりの言葉を残してバタンッと強くドアを閉めた。「そっちがその気なら、今後は俺の両親の前で泣いて訴えるんじゃねぇぞ。もし当時お前があんなふうに罠を仕掛けてこなきゃ、俺だってお前なんかに触れようとも思わないね」未央はきつく閉められたドアを見つめ、突然心が乱れ博人と勢い任せの関係を持ったあの一夜のことを思い出した。彼女はその時、意識
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第5話
博人は驚き、ドキドキと心臓の鼓動が早くなった。彼は我に返ると、眉間にしわを寄せて彼女の傍に駆け寄り、体を支えて淡々と言った。「なんで怪我したんだ?」隣にいた理玖は母親のこのような様子を見て、さっき自分が言った言葉を思い出し、口をぎゅっと結んだ。心の中はなぜだかモヤモヤとしていた。それに少しの後悔も。彼がさっき言った言葉は本心からのものではなかった……彼はただこの二日母親が自分に構ってくれないことに腹を立てていたのだ。それに以前のように彼のバイオリンの稽古に付き合ってくれない。一方、雪乃は目をパチパチと瞬かせ、笑って優しい口調で言った。「博人、白鳥さんがどうして怪我したのか分からないけど、尾村(おむら)先生に診てもらったほうがいいわ。前私が怪我をした時も尾村先生に診ていただいたから」雪乃が言っている尾村先生というのは博人の幼なじみである尾村潤(おむら じゅん)という人物のことだ。尾村潤はこの病院でも優れた医師で、重要なポジションにあり、予約するのは難しい。博人の家族や友人以外なら予約して待たないといけなかった。以前何回か雪乃が怪我をした時にはこの尾村潤が診察したのだった。雪乃は今未央に、自分が博人の心の中で重要な位置を占めているのだと主張しているのだ。しかし、未央のほうはただ虹陽市を去ることしか考えていなかった。潤の医者としての腕は最高水準で、治療が終わってからのリハビリ効果も高い。そうすれば彼女はこの町をすぐに離れることができる。「分かりました」未央は笑って、それを断らなかった。傷口はすぐに処置され、破傷風にならないように潤は未央に点滴をさせた。雪乃は用事があるので、さっさと帰ってしまった。薬に眠たくなる成分が入っていたせいなのか、昨夜あまりよく眠れなかったせいか、彼女はすぐに意識が朦朧となって眠ってしまった。「彼女の今回の傷は大学一年の時のよりも深くなかったね」潤は博人に向かって突然口を開いた。博人は眉をひそめた。「何が大学一年の時のだ?」「お前知らないのか?」潤は驚いたように眉を上げた。「大学一年の頃、お前が綿井さんを庇って表に出てきた時、お前に面倒事起こそうとしてきた奴がいてさ、白鳥さんがボディーガードを連れてそいつらを追い払ったんだ。だけど、後からそいつらが彼女に憂さ晴らしをするため
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第6話
未央は瞼を伏せた。彼女が彼と結婚して7年、今回はじめて博人が彼女の誕生日を覚えていた。「必要ないわ」未央は彼の方を見ると、ざわつく心はすぐに元に戻った。「その日ってプロジェクトの話し合いがあるでしょう?会社の仕事が一番重要だわ」はじめ彼女が博人と結婚したばかりの頃、この誕生日の件で甘えて彼と喧嘩したことがあった。それから、彼の冷たく淡々とした目つきに気づくようになり、未央は、はじめの頃に抱いていた期待が最後には麻痺してしまい、何も感じなくなっていった。それで、今博人が誕生日のことを口にしたのが不思議だと思う以外、彼女の心には一切の感情など湧き起こってこなかった。博人は視線を彼女に落とし、どうにも少しおかしいと思っていた。今の彼女はあまりに物分かりが良すぎる。以前であれば、表面上はどうでもいいというオーラを出しておきながら、その瞳の底にはキラキラとした期待を抱いていたというのに。この数年間、彼女を軽視し冷たくしてきたこと、さらに親友と祖父の話が頭をよぎり、博人の彼女を見つめる目つきはかなり優しくなっていた。「いいんだ」彼は何か考えているような深い瞳で当たり前のように言った。「その日は仕事が終わってもまだ時間的に早い、君はずっと花火を見たいと言ってなかったか?理玖と一緒に郊外に花火でも見に連れて行ってあげようか」理玖は病院で言ってしまった言葉をまた思い出し、それから未央の傷を見て、ふいに後悔と気まずさが込み上げてきた。母親は何から何まで雪乃には敵わない。しかし、彼はやはりこの人の子供なのだ。母親の機嫌が良くなれば、きっとまた彼に朝食を作って、バイオリンの練習に付き合ってくれるはずだ。「パパの言う通りだよ。僕とパパがママと一緒に誕生日をお祝いするよ」理玖は未央の服の端を掴み、急いでそう言った。未央はずっと冷たい態度を取ってきた息子が珍しく自分に甘えてお利口な様子で父親の話に合わせてきたのを見たが、それでも全く喜びなど湧いてこなかった。以前の彼女であれば、こんなことがあったら、きっと希望が湧いてきていたはずだ。しかし、この時の彼女はもう悟りきっていた。夫と息子が施してくれているこの優しさは、雪乃に向けられる優しさには及ばないということを。この時の彼女にとって、彼らの愛が必要な時期はとっく
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第7話
雪乃に何かがあったらしい。博人は多くを語らず素早くコートを着て出ていこうとした。部屋を出る前に、彼はじっと未央を見つめ、眉をひそめて口を開いた。「俺はちょっと用事ができたから、対処しに行かないと、未央……」彼の視線は彼女の傷口に注がれていて、少し躊躇った様子だった。しかし、未央は笑うだけだった。「私一人でも大丈夫よ」珍しい。彼女の夫が他の女のことを考えている時に、彼女の傷のことまで覚えているとは。博人は他の女のところに行こうとしているというのに瞳には優しさをたたえ、落ち着いた声で彼女に言い聞かせた。「君は怪我をしているから早めに休んで。数日後の君の誕生日に伝えたいことがある」未央は表情一つ変えずにただ頷いた。彼女は夫が夜中に他の女のところに行くというのに、ヒステリーを起こすこともなく、悲しそうな様子も見せはしない。数分後、彼女は指にはめている結婚指輪に触れ、それをスッと外した。この数年間、彼女はずっとこの結婚指輪をつけていた。博人に対して激しくヒステリックに大騒ぎした時も、彼女は指輪を外したことは一度もなかった。彼女は意地になって、この結婚指輪が彼女と博人の一生を結んでくれ、情熱と勇気を示していると思っていたのだ。しかし今では、ただ法律上の夫婦であるだけで、お互いにそれぞれの人生を生きていた。もしかしたら、もっと早くこの結婚を終わらせておくべきだったのかもしれない。彼女はこの結婚指輪をアクセサリーケースの中になおしてしまった。彼女が離れる時に、これらは離婚協議書とともに、封をしたまま博人に送るのだ。博人はこの夜帰ってこなかった。こんな状況でも未央はまあまあよく寝ることができた。そして、次の日。彼女が目を覚ましてみると、ネット上ではあるニュースが話題になっていた。雪乃にアンチファンから殺害予告が届いたという記事だ。雪乃の公式スタジオはどこから届いたか分からない宅配便の箱の写真をネットにあげた。その箱を開けると、中にはネズミの死骸と、血のついた服が入っていた。それから一枚の手紙も。手紙には真っ赤な字が書いてあった。「この卑しい女め、他人の男に手を出すな!!!」スタジオは同時に厳粛に声明を発表した。『綿井雪乃はデビューしてからずっと正しい姿勢を貫いてきました。今まで
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第8話
未央は視線を息子のほうへ向け、ふいに笑った。当時、理玖が生まれる時に、彼女は大出血で産後の体は弱くなってしまった。彼女は一度も彼を産んだことを後悔したことはなかった。しかし、この時は。未央は自分が滑稽でたまらなかった。彼はまだ6歳だ。早熟で、ませてはいても、目は人の心を映す鏡だ。例えば、この時の彼の瞳にははっきりと分かるほど、彼女が煩わしく除け者にしたいという気持ちが表れている。以前、彼が雪乃に近づいた時、未央はとても辛かった。でも、その時には自分自身に彼はまだ小さいんだからと言い聞かせるしかなかった。小さな子供というものは常に無意識に美しく目を引かれる人に向かっていくものなのだから。まして彼女は彼の母親なのだから、何があっても赤の他人のせいで彼女のもとから離れていくことはないだろう。しかし、この時分かった。彼の瞳にはっきりと映る彼女に対する嫌悪が教えてくれた。血縁というものは無意味なものだということを。「私はただあなたの生物学的な母親であるだけよ。あなたはまだ小さい、だけどあなたには私じゃなくて他の人を母親に選ぶ権利はあるわ」未央は彼を凝視し、冷たくその言葉を放った。何がまだ小さいんだから、子供にケチをつけるな、まだ何も分かってないんだから、だよ……もうどうでもいいわ。彼女はもう世話なんかしない。彼女は彼らに背を向けてその場を去ろうとした。博人は彼女の表情をしげしげと観察し、しかめっ面になり、心の中にはまたよく分からない苛立ちが湧いてきた。こいつ、さっきはどういう意味だ?彼女は理玖を他所の女の息子にしようってか?西嶋家の嫁という地位がいらないとでも!?「未央」博人は唇をぎゅっと結び、突然彼女を呼び止め、冷淡な口調で言った。「理玖はまだ小さくて何も分かってないんだ。ただ雪乃と仲良くなっただけだろ。まして、今回の件はお前の間違いだ。お前が雪乃にちゃんと謝れば、今回のことはなかったことにしてやってもいい」彼は彼女の言うことなんて信じなかった。しかも、彼女と雪乃を和解させたいと思っているらしい。未央はものすごく皮肉だと感じていた。彼女は目線を上げ、笑いながら言った。「いいわ、私は自分がやってもないことに謝罪なんかしない。あなた達からも私が無実だって分かってもらわなくても構わない
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第9話
「それはどういう意味だ?」博人は表情を暗くし、その真っ黒な瞳には苛立ちの色が表れた。自分の夫を平気で他の女にあげるというのか?未央は彼から視線を外すことはなく、じっと見つめていた。「綿井さんのアンチファンの件はまだはっきり分かっていないんでしょ。あなたが彼女の傍にいるのは当然のことじゃないの。だから私が誰と一緒にいようとあなたには関係ないでしょ」彼女のその口ぶりは異常なまでに落ち着いていて、本気でそう思っているかのようだった。そこには怒りなど全く感じられなかった。それで博人はさらに苛立ちを見せた。彼女は一体いつから綿井雪乃のことで騒がなくなっただろう?本気で気にしていないというのか……それとも、ただ気にしていないふりをしているだけなのか?しかし、あのアンチファンの件に関しては、彼女以外に他に誰がいる?博人は唇をきつく結び、彼女を睨みつけていたが、何も言わなかった。隣にいた雪乃は唇をぎゅっと結び、突然目を真っ赤にさせた。「白鳥さん、怒らないで、私が悪かったんです。博人はあなたの夫なのに。私は別にあなた達の結婚を壊そうだなんて一度も考えたことないんです。安心してください、私一人でも大丈夫……」「綿井さんってとても演技がお上手なんですね」この時、未央は彼女が自分を可哀想に見せる演技をバッサリと止め、軽く笑って言った。「だけど、その必要もないですよ。私は友達とまだ予定がありますから。その演技は引き続きそれを楽しみにしているどこかの誰かに見せてあげてください」未央はそれ以上雪乃と博人に構うことなく、瑠莉と友人たちと一緒にその場を去っていった。響也は雪乃を一瞥し、何を思っているのか分からない微妙な表情をしていた。「綿井さん、バレエダンサーではなく女優になったほうがいいかもですね。その演技力なら秒で芸能界のスターになれますよ」博人は未央と響也が去って行く姿を見つめ、表情を暗くさせていた。潤はこのシーンを一通り見ていて、雪乃のほうをちらりと見ると、突然口を開いた。「博人、奥さんが怒るのも無理はないだろ。殺害予告をしてきたアンチファンが一日も早く捕まらない限り、綿井さんの安全は一日として保障されないだろう。俺からすれば、早くその犯人を捕まえるのが得策だと思うがな」「荷物を届けた奴は今調べている。二日で結果が出
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第10話
未央が再び目を覚ました時、椅子に縛り付けられていた。彼女が目を開くと、狭く小さな部屋にいて、扉はきつく閉じられていた。近くには気を失った雪乃が床に倒れていた。脳裏に自分が気を失う前のシーンがよぎり、未央は心臓の鼓動を加速させた。誰かに……誘拐されたんだ。しかし、雪乃までどうしてこんなところに?彼女の頭の中には雑多な情報が飛び込んできて、少し前に起きた雪乃殺害予告事件と繋がった。これは……あの殺害予告と不審な荷物を送りつけて来た人物の仕業なんだろうか?しかし、雪乃の件と彼女は全く関係がないじゃないか。未央は眉をひそめ、理解できなかった。その時突然、外から扉が開かれた。凶悪な男の目が彼女をかすめ、その後床に倒れている雪乃に視線が注がれた。その瞬間その男の目つきは恋焦がれ酔狂している目に変わった。男は雪乃の鼻めがけて何かのスプレーを吹きかけた。するとすぐに雪乃が朦朧としながら目を覚ました。彼女は非常に怯えた目つきで男を見つめ、体を震わせて瞳に涙を溜めた。「あなたは誰?どうして私を誘拐したの?お金ね、お金が欲しいならあげ……」彼女は話し終わる前に同じく誘拐されてきた未央に気づき、驚いていた。「白鳥さん、どうしてあなたまでここに!?」「雪乃ちゃん、僕がわざわざ誘拐して来たんだよ」男の大きな手が彼女の顔に触れ、心酔した様子で「嬉しい?君はこの女の旦那を気に入ったんだよね。確か西嶋博人とか言ったっけ?今日はね、雪乃ちゃんの望みを叶えてあげようと思ってさ、どうかな?」と言った。雪乃は全身をガタガタを震わし、恐怖の中、男から触れられるのになんとか耐えて声を震わせて尋ねた。「あ……あなた、どういう意味?」「雪乃ちゃんが妻子持ちの男を好きになるなんて、そんなの道義に反するでしょ。僕のイメージである美しいハクチョウとはかけ離れているよ。それにさ、僕でさえ一度も君に触れたことがないのに、あの西嶋っていう男は雪乃ちゃんを手に入れるだなんて……」男はそう言いながら、少しずつ雪乃の首を締めていった。表情もだんだんと凶悪なものに変わっていった。しかしすぐ、男はまた落ち着きを取り戻し、口元をニヤリとさせた。「だけど、雪乃ちゃんは僕が愛してやまない可愛い可愛いハクチョウさんだ。だから君の願いを叶えてあげることにしたんだ」
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