結婚して7年、白鳥未央(しらとり みお)は夫の西嶋博人(にしじま ひろと)には別の女性、綿井雪乃(わたい ゆきの)という女がいることを知った。 彼と雪乃は熱烈に愛し合っていて、周りは彼らがきっとヨリを戻すだろうと噂していた。息子の理玖(りく)ですら雪乃のほうに肩入れしていた。「雪乃さん、あなたの病気が僕のママに移っちゃえばいいのになぁ」 再び夫と息子が雪乃と一緒にいるのを見たことで、未央はようやく自分の気持ちに区切りを付けるのだった。 今回、彼女は何も騒ぐことはせず、立花市(たちばなし)へと向かう飛行機のチケットを買い、離婚協議書と親子の縁切りを書き記した紙を残して去るのだった。 薄情者の息子に、氷のように冷たい夫。彼女はそれらを全部雪乃に渡し、あの三人が本当の家族になりたいという望みを叶えてやるのだった。 そして、それから1年後、彼女は催眠術と心療内科医として業界に名を広めることになる。しかし、そんな最中、ある男と子供の2人の患者が彼女のもとを訪ねて来た。 男のほうは目を真っ赤にさせ、ぎゅっと彼女の腕を掴んだ。「未央、お願いだから、俺たちから離れないでくれ」 その男の傍にいた小さな子供も彼女の服の端をぎゅっと掴み、低い声で懇願した。「ママ、家に帰ろうよ?僕はママしかいらないんだ」
View More理玖は彼女の手を払い、目にこらえていた涙がついに溢れ出した。そして、しゃくりあげながら言った。 「パパ、ママは理玖のことがもう要らないと思ったの?」あの床に捨てられたキャンディーのように。博人は呼吸が一瞬止まって、理玖の泣き声を聞くと胸が締め付けられるようだった。「そんなことはない、ないから。もう高橋おじさんにママを捜してもらってる。見つかったら、一緒にママに謝って、三人で一緒に家に帰ろう、な?」彼は理玖を抱きながら、できるだけ落ち着いた声で言った。それはまるで自分自身に言い聞かせるようなものだった。部屋は重苦しい空気に満ちていた。理玖はずっと泣いていて、疲れて眠ってしまった。博人は彼をベッドに寝かせて、階段をおりた。雪乃は二人から連続で拒まれたが、簡単に諦めたくなくて、わざと赤く腫れた手の甲を見せつけるように涙ぐんで言った。「博人、ここが痛いの」博人は眉をひそめ、何かを言おうとした。その時。高橋が「西嶋社長、新しい情報が入りました」と言いながら慌ただしく入ってきた。博人はすぐ雪乃から目を離し、焦ったように彼に問い詰めた。「未央はどこにいる?早く教えてくれ!」高橋は首を振った。「奥様の行方は情報専門家によって消されたようです。暫く場所が特定できませんが……」彼は一瞬躊躇って、チラッと雪乃を盗み見た。「情報によると、奥様は5日前にここを離れたようです。朝8時か9時頃、国際空港で奥様を目撃した人がいるそうです」5日前はちょうど未央の誕生日の日だ。博人は雪乃のアンチファンに襲われて意識を失い、零時に未央と一緒に花火を見るという約束を破ったのだ。ふっと何かを思い出し、博人は振り向いて鋭い視線で雪乃を見つめ、疑うように問い詰めた。「その日、未央が日森と一緒にいるのを見かけたって言わなかったか?」しかし、その時、未央はすでに空港にいたので、雪乃が彼女を見かけるわけがない。「わ……わたしは……」雪乃は二歩後ずさりし、目を泳がせながら、もごもごと説明した。「私もはっきり分からないわ。たぶん見間違えたかもしれない。それに、その写真を見た時、博人だってその人が白鳥さんだって言ったじゃないの?」博人は口を開いたが、何も言い出せなかった。心に残るのは後悔と自責だけだった。もし、彼がち
博人は暫くそれを見つめて、息苦しさを覚え、ようやくリビングに戻り、がっくりとソファに座り込んだ。広い家は異様に静まり返っていた。今までなんとも思わない静けさだったが、今はもう耐えられないほどそれが辛かった。今までの数えきれないほどの日々、未央はこうやって一人、部屋で彼と理玖の帰りを待っていたのだ。気づけば、夜が明けて、東の空がだんだん明るくなり、朝日が部屋に差し込んできた。博人は真っ赤な目をして、ぼうっと一晩中ずっとここに座り、煙草を吸っていたのだ。灰皿には吸い殻がいっぱいになっていた。突然、玄関から物音がして、その重苦しい空気を破った。「博人、どうしたの?」雪乃はドアを開け、憔悴しきった男の姿を見て、驚きその場に立ち竦んだ。彼女はさりげなく部屋を見回し、部屋ががらんとしていて、未央の姿も見えないのを見て、すぐに状況を理解した。ついにこの日がやって来た!雪乃は口角をわずかに上げた。7年間苦心した甲斐があった。ようやくあのクソ女を追い出すことができたのだ。すると。雪乃は瞬時に心配そうな顔に変え、自分の太ももをつねって目を赤くし、急いで博人の前にやってきた。「博人、さっき電話して出てくれなかったから、何かあったんじゃないかって心配して来たのよ」そう言いながら、彼女は手を伸ばし、博人の肩に触れようとしたが、博人にかわされたのだ。その手は気まずそうに空中で泳いだ。「一人にしてくれ」と博人はかすれた声で言った。雪乃は動かなかった。今は絶好のチャンスなのだ。何もせずに離れるわけにはいかない。その時、玄関から幼い声が聞こえてきた。「パパ、早めに帰ってきたよ」理玖は機嫌よさそうにステップしながら入ってきて、手作りのクマの形をしたクッキーを入れた容器を持っていた。彼は家の異様さに気づかず、雪乃を見て、嬉しそうに挨拶した。「雪乃さん、来てたんだね」そして。理玖はクッキーを博人に渡しながら笑った。「僕の手作りだよ、パパ、食べてみて!」そう言うと、彼は目をくるくるとさせながら、部屋で何かを探すように、わざと声を上げた。「ママ、早く出てこないと、クッキー全部食べちゃうよ」しかし、誰も彼に返事しなかった。理玖は眉をひそめ、父親の何か言いたげな顔を見て、ようやくまずいことになったと
「あの子、あんたに何か残していくって言ってたんだから、自分で見てきなさいよ。もう私のところへ来ないで」人はいつもそうだ。持っているときは大切にせず、失ってはじめて後悔し始めるものだ。「バタンッ」と、ドアが閉ざされた。夜が深くなっていった。冷たい風に容赦なく吹かれて、震えるほど寒いのに、彼は全く微動だにせず、呆然と玄関の前に立ち尽くしていた。未央が彼のために何か残したって?部屋の中に置いてあった段ボールのことを思い出して、博人は我に返り、急いで家に帰って、また二階の部屋に飛び込んだ。本来なら、数日前に開けて確認すべきものだが、いろいろなことで今まで手つかずだったのだ。段ボールを開けると、最初に目に入ってきたのは一枚の紙だった。タイトルの文字がまるで鋭いナイフのように彼の心をブスっと刺した。離婚協議書。博人は目を見開き、不安定な視線でそれを見つめ、どうしても信じられなかった。彼女は彼と離婚するつもりなのか?彼は未央がただ一時的に拗ねていて、わがままで暫く彼と理玖の傍から離れたと思い込んでいた。自分がちゃんと謝って、今後あんなことをしないなら、きっと彼女を連れて帰ることができると思っていた。今まで……彼女と別れるなんて考えたことはなかった。博人は完全に動揺し、目には苦しささえ見えていた。彼は急いでその離婚協議書に手を伸ばした。「ビリッ」という音がした。その紙が破れる音が部屋に鋭く響いた。それと同時に、箱の中の他の物も視野に入ってきた。博人はじっと二つの御守りを見つめると、昔の記憶が一気に押し寄せてきた。その日。未央は小走りに駆け寄ってきた。どこで怪我したのか分からないが、その膝にある掠り傷から血が滲んできていた。しかし、彼女はそれを全く気にせず、期待に輝く瞳で彼を見つめて、綺麗な笑顔を見せてくれた。「博人、これは清瑞神社からあなたと理玖のためにやっと手に入れてきたものなの。どんなことがあってもちゃんと二人を守ってくれるって、離さずに持っていてくれる?」そして、当時の彼は何と答えた?「そんなのただの迷信だろう。こんなくだらないものを信じるなんて、お前ぐらいだ」と言って、嫌そうな顔をして、ポイっと御守りをソファの端っこに放り投げたのだ。未央の笑顔が凍り付き、目に輝いてい
博人は頭が一瞬真っ白になり、どこへ彼女を探しに行けばいいのか全く分からなくなった。すると、ある名前が頭をよぎった。瑠莉は未央の一番の親友だから、きっと彼女の行方を知っているはずだ。博人はすぐ立ち上がり、うっかり煙草の灰がシャツに落ちたことも気にせず、部屋を飛び出した。彼はハンドルを握りしめ、アクセルを踏み込み、うっすらした記憶を頼りに瑠莉の家へ向かった。30分後。「ピンポーン!」チャイムが鳴った。瑠莉は頼んだデリバリーかと思い、ドアを開けると、目の前に現れた人物に一瞬ポカンとした。彼女はこのような博人を今まで見たことはなかったのだ。乱れた髪、真っ赤な目、シャツの裾についた煙草の灰、非常にみすぼらしく見えるのだ。博人は彼女を押しのけ、すたすたと部屋に入り、擦れた声で呼んだ。「未央!ここにいるのは知ってるんだ。猫が好きなんだろう?家で飼ってもいいぞ。雪乃のことが嫌いなら二度と彼女と会わないから。俺と一緒に帰ってくれたら、何でも約束してあげるよ。だから、出てきてくれ、ちゃんと話そう?」……しかし、彼はリビングからキッチン、客間まで探し回ったが、未央の姿を見つけることができなかった。「もう気が済んだ?」瑠莉の氷のような冷たい声が後ろから聞こえた。博人はビクッとして、ゆっくり振り返り、低くした声が震えた。「未央はどこにいる?教えてくれ」瑠莉は嘲笑うように言った。「彼女は何日も前にもう離れたってのに、今更気づいたの?」「そんなはずがない!」博人は即座に否定する言葉を口にして、全く信じなかった。彼は自分が多くの過ちを犯して、未央を傷つけたことを認めた。しかし、彼らには子供がいるのだ。博人はぶつくさと言った。「理玖はまだ小さいのに、あの子を置いて離れるなんてありえないぞ」瑠莉は博人にだけでなく、理玖にも全く好感を持っていない。その言葉を聞くと、白目をむいた。「ちょうどいいんじゃない?彼は綿井雪乃っていう女を母親にしたがってたでしょう?願いが現実になったんだから」博人は眉をきつくひそめた。「子供の戯言を真に受けるってのか?そんな馬鹿な!」瑠莉は冷たく笑った。「子供はまだまだ甘くて無知だって言うのね?じゃあんたも?無知な子供なわけ?未央が39度の熱で苦しんでいた時、あ
西嶋グループにて。社長室で、博人は疲れた様子で眉間を押さえていた。この頃、入札のことで忙しかったが、ようやく一段落ついたのだ。「コンコン」高橋がノックして入ってきて、整理された入札の書類を机に置いたが、すぐには出て行かず、何か言いたげな表情で博人を見つめた。博人は眉をひそめた。「何かあったのか?」それで高橋はようやく口を開いた。「西嶋社長、ネットでまた社長と綿井さんのスキャンダルが広まっていますので、干渉の必要が……」以前なら、博人はそのようなくだらない噂なとわざわざ否定することはしなかった。ただ今は……未央がまだ返信をくれていないことを考えると、彼女はまだ怒っているのかもしれない。博人は少し考えてから、低い声で言った。「法務部に通告書を出させろ。もう二度と俺に関するスキャンダル記事を見たくない」高橋は少し意外そうだった。博人は眉をあげた。「まだ何か問題が?」高橋は首を横に振ったが、顔に抑えきれないほどの喜びが見えている。「いいえ、ただ、社長がようやく奥様の良さに気づかれたことにとてもうれしく思っているんです」博人に聞かれる前に、高橋は感慨深く話し続けた。「ここ数年、社長の胃の調子がずっとよくなくて、食堂の食事にも食べ慣れないので、奥様は自ら手料理を作って、届けてくださったんです。風の日も雨の日も、一日も欠かさずに」博人のペンを握った手がぴたりと止まり、少し紙にインクが滲んだ。なるほど、どうりであの料理の味は外のレストランで一度も食べたことがないと思ったわけだ。「今までなぜ教えてくれなかったんだ?」博人の目には複雑な色が浮かんで、声もかすれていた。高橋はため息ついた。「奥様が社長に黙っているように頼んでこられて。奥様は……もし社長があの料理は彼女の手料理だとわかったら、きっと食欲がなくなると」その言葉が口を出ると、社長室は何の生き物もいないような静寂に包まれた。博人は口を開け、何か言いたげな様子でいたが、喉が何かに詰まったように、一言も出てこなかった。ここ数年、未央に冷たく接してきたから、彼女がそう考えるのも無理はない。博人は深く息をし、胸の中に渦巻く複雑な感情を無理やりに押し殺し、無意志にサインのスピードを上げた。気づけば、すっかり夜だった。ようやく最後のファイルに
悠生は無意識に指で眼鏡の縁を上に少し押しあげた。レンズ越しの瞳に一瞬だけ賞賛の色が見えた。この白鳥さんは思ったよりずっと面白い女性だ。すると、弱々しい女性の声が聞こえてきた。「兄さん、ごめんなさい、また迷惑をかけちゃった」医者に傷を手当してもらった悠奈は顔を青くさせ、彼に言った。悠生はすぐ近づき、優しく彼女をなだめた。「馬鹿言うな。君はただ病気なんだ。いいお医者さんを連れて来たんだよ」未央は一歩進み出て、彼女に挨拶した。「藤崎さん、はじめまして」悠奈は微笑んで頷いた。「白鳥先生、私のことは悠奈って呼んでください」彼女は元々根の優しい子なのだ。だからこそ、ひどいクズ男に簡単に精神的に操られてしまった。それでも、発作を起こした時、他人は傷つけず、自分にナイフを向けたのだ。未央はため息をついた。「悠奈さん。これから催眠をかけて治療するつもりです。催眠でその人の影響から少しずつ離れていきましょう」「分かりました。お願いします」と答えた悠奈は非常に協力的だった。悠生はまだそこにいたかったが、仕事の電話で会社に戻らざるを得なかった。それから数日間。未央の治療によって、悠奈の発作頻度はだんだんと減っていき、意識がはっきりする時間がどんどん増えていった。ずっと一緒に過ごすうちに、二人はすぐ親密になった。この日の治療の後。催眠を終えて悠奈は目を開けた。顔色はまだ青白く、震えた声で尋ねた。「未央さん。晃一はどうして私にあんなことをしたの?私はあんなに彼が好きで、彼に尽くしたのに、どうしていつも私を罵って、私の気持ちをゴミのように扱ったの?もし本当に私のことが嫌いだったら、じゃ、どうして付き合ってくれたの?全部私が悪かったの?」未央は長く沈黙した。彼女は悠奈の背中を優しく撫でた。悠奈が泣き疲れた後、彼女はようやく口を開き、擦れた声で答えた。「いいえ、悠奈さんは悪くないわよ。ただ、好きになる人をちょっと間違えちゃっただけね」悠奈が持っているこの疑問を、かつて、未央も同じように何回も自問したことがある。博人はどうして彼女にあんなことをしたのかと。初めて恋に落ちた時から、彼女は彼にべったりだった。彼のために子供まで産んであげて、できることは最善を尽くしてきた。しかし。彼の目には他の女性し
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