LOGINマンションを出ると、外はもう薄暗くなっていた。
俊くんの車に乗り込み、シートベルトを締める。
「お母さん、元気そうでよかった」
「ああ」
俊くんがエンジンをかける。
「最初は心配だったんだよ。急に引っ越すことになったし」
「何かあったら連絡するように言ってある」
「それも聞いた。俊くん、時々連絡してくれてるんだって?」
「ああ」
「私、知らなかった」
「わざわざ言うことでもねえだろ」
俊くんにとっては、本当にそれだけらしい。
でも、私にとっては違う。
お母さんが安心して暮らせる場所を用意してくれたことも、その後まで気にかけてくれていることも。
「ありがとう」
「またそれか」
「だって、ありがとうって思ったから」
「……分かったよ」
俊くんが少し困ったように笑った。
車がゆっくりと住宅街を抜け
『組長の奥様も、最近の噂を大変ご心配なさっているんです』インターホン越しの言葉に、私は眉を寄せた。組長の奥様とは、以前ご挨拶したことがある。穏やかで上品な方だったけれど、私の振る舞いについて注意されるようなことがあっただろうか。「……失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」『高田と申します』「組長の奥様から、直接頼まれたんですか?」『ええ。詳しいことは、お目にかかってからお話しできればと』私は少し考えた。俊くんから、何かあれば知らせるように言われている。「申し訳ありません。主人に確認してからでもよろしいでしょうか」『若頭はお忙しいでしょうし、奥様同士のお話ですから……』「でも、組長の奥様からのお話なら、夫にも伝えておいた方がいいと思います」そう答えると、女性は少し黙った。『……では、また改めます』通話が切れた。私はすぐに俊くんに電話をかけた。「俊くん、今大丈夫?」『ああ。どうした?』「組長の奥様から頼まれたっていう人が来たの。高田さんっていう女性なんだけど」『高田?』「うん。私の振る舞いについてお話があるって」電話の向こうが静かになった。『幸子、家には入れてねえよな?』「うん。俊くんに確認してからって言ったら、帰っちゃった」『そうか。よく確認してくれたな』「本当に組長の奥様からなのかな?」『今から確かめる。しばらく誰が来ても玄関は開けるなよ』「分かった」電話を切って、私は窓の外を見た。さっきの女性の姿は、もうなかった。◇一時間ほどして、俊くんから電話があった。『幸子。組長の奥さんに確認した』「どうだった?」『そんな使いは出してねえそうだ』
その日の午後、私は華弥子さんと電話で話していた。「石段の補修、来週から本格的に始まるんですね」『ええ。職人さんの都合もつきましたから。テラスに置くベンチも、そろそろ決めていただければと思って』「じゃあ、今度俊くんと一緒に見に行きますね」『お待ちしております』電話を切ると、自然と笑みがこぼれた。あの庭園が少しずつ綺麗になっていくのが嬉しい。俊くんが絵を描いてくれたら、もっと嬉しいけれど。そんなことを考えていると、スマートフォンが鳴った。知らない番号だった。「はい、もしもし」『突然のお電話、失礼いたします。先日の昼食会でご一緒した、三浦と申します』「ああ、三浦さん。こんにちは」確か、聡美さんが私の父の借金について話し始めたとき、少し困った顔をしていた女性だ。『実は、少しお耳に入れておきたいことがありまして』「何でしょう?」『幸子さんについて、妙な噂が広まっているんです』やっぱり、まだ続いているんだ。私は小さく息を吐いた。「お金を借りて回っているという話ですか?」『ご存じでしたか』「はい。でも、そんなことはしていません」『ええ。私もそう思っています。ただ……』三浦さんは言いにくそうに言葉を切った。『今度は、お父様の借金を返済するために、俊さんが組のお金を使ったのではないかという話まで出ているんです』「えっ?」思わず声が大きくなった。そんな話、初めて聞いた。『もちろん、根拠のある話ではありません。ただ、最初の噂に尾ひれがついてしまったようで……』「教えてくださって、ありがとうございます」『いえ。幸子さんには直接お伝えした方がいいと思いましたので』電話を切ってからも、私はしばらく画面を見つめていた。私がお金を借り
俊くんが帰ってきたのは、お昼を少し過ぎた頃だった。「ただいま、幸子」「おかえりなさい」玄関まで迎えに行くと、俊くんは私の顔を見て、少し眉を下げた。「……怒ってるか?」「ちょっとだけ」正直に答えると、俊くんは苦笑した。「悪かった」「心配かけたくないって気持ちは分かるよ。でも、私のことで何か起きてるなら、知っておきたいの」「ああ。次からはちゃんと話す」リビングに移動すると、俊くんは一枚の紙を見せてくれた。そこには、私が組の関係者にお金を無心しているという、身に覚えのない話が書かれていた。父の借金のことまで持ち出されている。「……また聡美さんかな」思わずため息が出た。以前も嫌がらせをされたけれど、今度はこんな方法を使ってきたらしい。「まだ証拠はねえけどな」「でも、あの人、ずっと私のこと気に入らないみたいだし」「……ああ」俊くんは苦々しそうに頷いた。「これ、何人くらいに届いたの?」「今のところ七人だ。ただ、話を聞いてると、もっと広まってる可能性がある」「そっか……」私は文書を見つめた。借金を肩代わりしてもらったのは事実だ。でも、それを理由にほかの人からお金を借りようとしたことなんて、一度もない。「私、何か言った方がいいのかな」「いや。今は下手に動かねえ方がいい」「どうして?」「こういう噂は、否定すればするほど面白がる奴もいるからな」俊くんは文書をテーブルに置いた。「まずは誰が流してるのか確かめる。それからだ」「……分かった」私は頷いた。でも、何もしないで待つというのも、なかなか落ち着かない。
「幸子、ちょっと寄りたいところがあるんだが、いいか?」ホテルを出て車に乗り込むと、俊くんがそう言った。「どこ?」「画材屋」「えっ!」思わず身を乗り出してしまった。「俊くん、絵を描くの?」「まだ決めてねえよ。ただ、ちょっと見てみようかと思ってな」「行く! 絶対行く!」私が勢いよく答えると、俊くんは声を上げて笑った。「そんなに嬉しいか?」「だって、俊くんの絵、また見たいもん」小学生の頃、俊くんは絵を描くのが大好きだった。特に花の絵が上手で、賞を取ったこともある。私はあの絵が大好きだった。いつか画家になるんだと話していた俊くん。あの頃の夢を、もう一度思い出してくれたら嬉しい。「……じゃあ、少しだけな」照れくさそうに笑う俊くんを見て、私はますます嬉しくなった。◇画材店には、色とりどりの絵の具や筆、スケッチブックが並んでいた。「わあ、すごい!」私は棚を眺めながら歩いた。俊くんは水彩絵の具の前で足を止め、何本か手に取っている。その横顔は、普段の若頭としての姿とはまるで違っていた。「これ、昔も使ってた?」私が尋ねると、俊くんは懐かしそうに笑った。「ああ。メーカーは違うけどな」「何色が好きだった?」「緑だな。花を描くとき、葉っぱの色を作るのが好きだった」「へえ!」そんな話をしているうちに、俊くんは小さな水彩セットとスケッチブックを選んだ。「これくらいなら、気が向いたときに描けるだろ」「うん!」私は自分のことのように嬉しかった。店を出ると、俊くんが紙袋を持ち上げる。「庭園がもう少しきれいになったら、描いてみるか」「約束だよ!」「ああ」俊くんは笑って頷いた。◇その夜。私は部屋で、今日買った画材を眺めていた。俊くんが描く庭園の絵。きっと素敵だろうな。そんなことを考えていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。続いて、低い声。「……若頭、少しよろしいでしょうか」私は顔を上げた。俊くんの仕事の人だろうか。しばらくすると、隣の部屋から俊くんの声が聞こえた。「……誰がやった?」いつもより低く、鋭い声だった。何かあったのだろうか。私はそっと扉を閉めた。仕事の話なら、聞かない方がいい。そう思って、スケッチブックを棚にしまった。◇「……それで、幸子の名前を使ったってのか」俊は机の上に置
食事会から数日が経ったある日、私は一通の招待状を受け取った。差出人は、以前の食事会で顔を合わせた女性だった。組の関係者の奥様方が集まる昼食会を開くので、ぜひ参加してほしいという。「……どうしようかな」招待状を眺めながら呟く。先日のことがあったから、正直なところ、あまり気が進まなかった。けれど、あの場にいた全員が嫌な人だったわけではない。私を庇おうとしてくれた女性もいたし、俊くんの妻として、いつまでも付き合いを避けるわけにもいかないだろう。「何見てんだ?」俊くんが隣から覗き込んだ。「昼食会の招待状。行こうか迷ってて」差出人の名前を見た途端、俊くんの眉が寄った。「……これ、誰から渡された?」「今朝、届けてもらったの。どうかした?」「いや」俊くんは招待状を手に取り、しばらく眺めていた。「行きたいか?」「うーん。ちょっと不安だけど、せっかく誘ってもらったし」「無理して付き合う必要はねえぞ」「でも、俊くんの奥さんなんだから、少しはちゃんとしないと」そう言うと、俊くんは困ったように笑った。「お前はもう十分ちゃんとしてるよ」「そうかな」「ああ」俊くんは招待状をテーブルに戻した。「行くなら、俺の方でも話を通しとく」「ありがとう」私はほっとして微笑んだ。◇昼食会の会場は、都内のホテルにあるレストランだった。案内された個室には、すでに十人ほどの女性たちが集まっていた。「幸子さん、いらっしゃいませ」主催者の女性が笑顔で迎えてくれる。「本日はお招きいただき、ありがとうございます」私が頭を下げると、女性は少し申し訳なさそうに言った。「先日は失礼なことを申し上げた方がいたようで……。今日
聡美さんとレストランで会ってから、三日が経った。あのときは嫌な気持ちになったけれど、その後は特に何も起きていない。俊くんも普段通りで、私たちは穏やかに過ごしていた。だから、私はすっかり油断していたのだと思う。その日、私は俊くんに頼まれて、組の関係者が集まる食事会に顔を出すことになった。「俺も少し遅れて行く。先に着いたら、適当に茶でも飲んでてくれ」「うん、分かった」会場は落ち着いた雰囲気の料亭だった。以前にも何度か顔を合わせた女性たちがいて、私が挨拶すると、にこやかに迎えてくれた。「幸子さん、こちらへどうぞ」「ありがとうございます」案内された席に座り、お茶をいただく。けれど、なんとなく様子がおかしかった。私が話しかけると普通に答えてくれるのに、女性たちは時折、意味ありげに顔を見合わせる。何かあったのだろうか。そう思っていると、向かいに座っていた女性が口を開いた。「幸子さんって、ご結婚前はいろいろ大変だったそうですね」「え?」「お父様が多額の借金を残されたとか」思わず、湯呑みを持つ手が止まった。どうして、そのことを知っているのだろう。「……ええ、まあ」「でも、俊さんが全部肩代わりしてくださったんでしょう? お優しい方ですよねえ」その言い方に、わずかな棘を感じた。別の女性が、困ったように笑う。「そんなこと、ここでするお話じゃないでしょう」「だって、ちょっと気になったんですもの」最初の女性は悪びれもせず続けた。「借金を全部払ってもらえるなんて、普通はなかなかないことですから」私は返す言葉に迷った。確かに、その通りだった。俊くんが助けてくれなければ、私は今も父の借金に苦しんでいただろう。「……本当に、感謝しています」ようやくそう
「いつかは、俺と本当の夫婦になってほしいと思ってる」 私に向かって言う俊くんの表情は真剣そのものだった。 夫婦、って。 まだ恋人にすらなっていないのに? それともヤクザの世界だとこれは普通のことなの……?「ああ、ごめん」 戸惑いが顔に出てしまっていたらしかった。 俊くんが笑顔で私の頬に触れる。「順番に説明しないとならなかったんだ。食事の前に、いい?」「う、うん……」 促されて、私は俊くんと一緒にソファに座った。「こんなことを急に頼むと驚かれるかもしれないけど、オレと結婚して欲しいんだ」「えっ……?」 ――結婚。 いきなり!? 突然出てくることのあまりない言葉に私
「えっ……、待って、これ……」 タワーマンションの上層階に連れていかれたと思ったら、案内されたのは洋服部屋みたいなところだった。 ウォークインクローゼット。漫画の中でしか見たことがないそれに、洋服や靴、バッグ、アクセサリー……。そういったものが山のように納められている。「全部、美作さんのものだよ」「私の?」「そう、ほら、これなんかどう?」 言いながら俊くんが近くにあったドレスを取る。 明らかに普段着には向かない、生地に光沢がある青のロングドレス。 こんなの着ている人、見たことがない。「これでご飯食べるの、ちょっと不安だな。汚したらどうしよう」「気にしなくていいよ。また買え
「久しぶり、美作さん」 そう言って笑う俊くんは、小学生の頃と変わらない優しい笑顔をしていた。 なんだか、混乱してしまう。 私の記憶の中にある、優しくて温かい絵を描いていた彼。 それが今の、恐ろしいやくざの若頭と同じだなんてとても信じられない。「さあ、行こう」「行くって、どこへ?」「そのままの格好ではいさせられないよ」 俊くんが私に手を差し伸べてきた。 そこで改めて、私が酷い格好をしているのに気がついた。 仕事帰りのヨレヨレの服が、男の力で引っ張られてボタンがいくつか弾け飛んでいる。「何か食べたいものはある?」「……食べたいもの」 そういえば、夕ご飯もまだだった。
「俊くん……?」 私の呼びかけに、彼は昔と同じやわらかな笑顔を見せた。「久しぶり」 片手を上げて言う。 やっぱり、俊くんだ。 私の小学校の頃の同級生。藤堂俊。 卒業後、中学では学区が分かれて、それ以来会っていないけどよく覚えている。「なんで……」 でも、なんで彼がここに。 当然の疑問が口から出た。「若頭!」 でも俊くんが答える前に、私を押さえつけていた男がぱっと立ち上がって言った。「えっ」「若頭?」「なんでこんなとこに」 男たちの間に動揺が広がる。「よお」 当たり前のように男たちに声をかける俊くんを見て、私も動揺していた。 だって、若頭って。 私が知る限