Mag-log in黒澤グループ。時生は足早に回転ドアをくぐった。長旅の疲れがまだ顔に残っていたが、社内に漂う重苦しい空気が、その疲れを一瞬で吹き飛ばした。健介はすでに社長専用エレベーターの前で待っていた。社長室に入るなり、健介は青ざめた顔で報告した。「社長、大変です。社長が担当している西側エリアのプロジェクトで資金流用の不正が発覚しました。今朝、取締役会が緊急招集されて、古参の株主たちが社長の解任について話し合っています」時生は足を止めると、健介から渡された資料をすぐに開いた。そこには、西側エリアのプロジェクトの工事停止と是正命令を示す行政機関の公印がはっきりと押されていた。しかも、このプロジェクトにはすでに莫大な先行投資が行われている。工事が止まれば、株主たちが大騒ぎになるのも無理はない。時生はファイルを勢いよく机に叩きつけた。書類が床いっぱいに散らばる。これまで晴人は父親の後ろ盾に頼るだけの放蕩息子で、大した脅威にはならないと思っていた。だが、わずか数日のうちに、晴人は自分が不在だった隙を正確に突き、この一年で最も重要だったプロジェクトに手を回してきた。その手際の良さも、容赦のなさも、自分の予想をはるかに超えていた。健介は時生の険しい表情をうかがいながら、恐る恐る口を開いた。「社長、まだそこまで深刻とは限りません。社長は長年この会社を率いて、多くの利益を生み出してきました。一件の問題だけで解任されるなんて、さすがにないでしょう。晴人さんも、ただ大げさに騒いでいるだけですよ。本当にそんな力があるなら、とっくに社長の座についていたはずです」時生は事情を見抜いたような口調で、断言した。「晴人をすぐ社長に据えなかったのは、正徳も分かっていたからだ。晴人には実績として示せる大型案件がない。そんな状態で社長に据えても、株主は誰も納得しない」そう言って窓際まで歩き、大きなガラス越しに絶え間なく流れる車列を見下ろした。胸の内はひどく乱れていた。しばらく沈黙したあと、時生は深く息をつき、一語一語噛みしめるように言った。「晴人が株主を納得させられるような大型案件を一つでも取ってきたら……そう時間を置かずに、俺は完全に追い出される。俺はあいつを甘く見すぎていた」健介は慌てて言った。「でも、新しい大型案件を取るのは社長でも相
あのとき、彼女に「結婚しよう」と伝えた瞬間のことを思い出した。隠しきれないほど嬉しそうで、幸せそうに笑っていた昭乃の姿が脳裏によみがえり、時生の胸は刃物で切り裂かれるように痛んだ。後悔と苦しさで、どうしようもなかった。彼女がどれほど自分を愛していたのか、時生は知っていた。それなのに知らないふりをして、その想いに甘え、好き放題に利用し、彼女を傷つけ続けてきた。そして今、二人はもう取り返しのつかないところまで来てしまった。目の前がかすみ、時生は顔を上げて固く目を閉じた。しばらくしてからスマホを取り出し、岩に刻まれた文字を写真に収める。けれど写真に映っていたのは、風雨にさらされて風化した岩と、ぼやけた文字だけ。あの花のような笑顔を浮かべていた少女は、もうどこにもいなかった。彼はSNSを開き、投稿文を打とうとしたが、指先はわずかに震えていた。結局、打ち込んだのは、「覚えてるよ」の一言だけだった。投稿ボタンを押した瞬間、時生は自嘲するように口元をわずかにゆがめた。昭乃にはブロックされている。だから、こんな方法でしか、二人がかつて過ごした幸せな日々を思い出してもらえないのだ。その後の数日、時生は当時の足跡をたどり、昭乃と旅した街を一つひとつ巡っていった。どれも潮見市から近い街ばかりだった。あの頃は、結城家が昭乃の外泊を許してくれなかったからだ。結城家の両親は昭乃をとても可愛がっていたが、譲れないルールもあった。そのひとつが、女の子は夜九時までには必ず帰宅することだった。だから時生も、連れて行けるのは近場だけで、ほとんどが日帰りで往復できる場所ばかりだった。路地裏にひっそり佇む甘味処にも行った。郊外の湿地公園にも足を運んだ……訪れるたびに写真を撮り、SNSへ投稿した。けれど、その投稿を昭乃が見ているのかどうか、それだけは分からなかった。旅の最終日。ある街の山頂に立つと、夕焼けが空をオレンジ色に染めていた。その景色は、十年前、二人でこっそり抜け出して夕日を見に来た日の空と、まるで同じだった。あのとき彼は、昭乃を急かして言った。「行くぞ!これ以上いたら最終の電車に間に合わない。帰りが遅れたら、ご両親に叱られるぞ」昭乃は白く透き通るような顔を上げ、太陽のような笑顔で言った。「時生、私が大
淑江の顔色は真っ青になった。私はもう彼女を見ることなく、心菜の手を引いて自分の車へ向かった。心菜をチャイルドシートにしっかり座らせると、私は車を発進させた。バックミラーを見ると、淑江はまだその場に立ち尽くしていた。車が走り出すと、心菜がおそるおそる尋ねてきた。「ママ……パパ、本当に行方不明になっちゃったの?前にママが行方不明になった時、私すごく心配だったの」私を悲しませたくなくて、自分がパパのことを心配しているとは口にできなかったのだろう。しかし、その言葉の裏にある気持ちは十分伝わってきた。「心菜。あの人はあなたのパパなんだから、心配するのは当たり前よ。でも、パパは大人だから、自分の身は自分で守れるわ。もしどうしても見つけられなかったら、おばあちゃんがきっと警察に届けを出すはずだから」それを聞いて、心菜はようやくほっとしたようだ。幼い顔に思いつめた表情を浮かべる娘をバックミラー越しに見つめると、私の胸が締めつけられるように苦しくなった。……南川市。時生は車を海沿いの道路脇に停め、柔らかな砂浜を一歩ずつ踏みしめながら歩いていた。風が潮の香りを運んで頬を撫でる。ふと、高いポニーテールを揺らした少女が、岩場にしゃがみ込み、一生懸命文字を刻んでいる姿が目に浮かんだ。時生は足早に駆け寄った。けれど岩場には、もう誰もいなかった。彼は指先で岩に刻まれた文字をなぞる。潮風に削られて少しかすれてはいたが、その刻み跡は今も残っていた。十年前のあの夏が、鮮やかによみがえる。あの頃、昭乃は期末試験の成績が大きく落ち込んでいた。優等生で負けず嫌いだった彼女は、そのことが相当ショックだったらしく、何日も元気がなかった。少しでも元気づけたくて、自分は翌朝一番で南川市への往復切符を予約した。潮見市から近く、日帰りできる距離だったからだ。今ではこの浜辺も観光地として整備されているが、当時は人がほとんど訪れない、小さな海岸だった。まだ大学へ進学する前で、詩恩とも出会っていない。あの頃の自分の世界には、昭乃しかいなかった。「時生、見て!」あの日の昭乃は目をきらきら輝かせ、拾い集めた貝殻を両手いっぱいに抱えて嬉しそうに見せてきた。そんな彼女を見て、自分は思わず笑みをこぼし、彼女の髪をくしゃっと撫でた。
時生はそれを聞くと、鼻で笑った。「晴人?あいつが騒ぎを起こさなかった日なんてあるか?黒澤グループに入ってきたときから、一度たりともおとなしくしていたことはない」そう言って振り返ると、軽蔑を隠そうともせず続けた。「父親の隠し子って立場を利用して会社に入り込んだ、ただのドラ息子だ。飲んで遊んで、くだらない小細工をすることしか取り柄がない。あいつに何ができるっていうんだ?」「今回は違います、社長」健介は重い口調でなおも説得した。「今回は、先代と一緒に会社を築き上げた吉田さんと矢島さんを味方につけています。あのお二人は取締役会でも発言力があります」しかし時生は、まるで晴人を相手にしていなかった。「たとえどんな大物を連れてきたって、あいつは所詮隠し子だ。役にも立たない。安心しろ、あいつの器なんて俺が一番よく知ってる。帰ってから片づけても遅くはない」そう言って電話を切ると、自らスマホで航空券を予約した。最初の目的地は南川市。昭乃と初めて二人きりで旅行した場所で、潮見市からほど近い。古い町並みが残る小さな街だが、そこには二人の思い出が数え切れないほど詰まっていた。……数日後、幼稚園の前。私は心菜を迎えに行き、園を出たところで、少し離れた場所に見覚えのある黒いセダンが停まっているのに気づいた。車のドアが開き、淑江がハイヒールを鳴らしながら足早にこちらへ歩いてくる。心菜はびくっとすると、とっさに私の前へ立ち、淑江を近づけまいとした。「ママに触らないで!」淑江の表情が一瞬険しくなる。怒鳴りそうになったが、どうにかこらえたようだった。以前のような嫌味混じりの口調ではなく、不安そうな顔で私を見つめながら尋ねる。「時生はあなたと一緒じゃないの?スマホは電源が切れていて、全然つながらないの。もう何日も行方がわからなくて……」私は心菜の手を握る力を少し強め、胸の奥が重く沈んだ。もしかして、この前神崎家から帰ってきたあと、精神的に参ってしまったのだろうか。だけど今の私と時生は、もう赤の他人。彼のことで心を痛めることもないし、もう関わるつもりもなかった。だから私は静かに答えた。「私も何日も時生には会ってない。ほかを探してみて」そう言って心菜を連れて立ち去ろうとした。だが淑江は私の前に立ちはだかり、どこか弱
これでもう、優子に叩かれたのは二度目だった。もし本当に優子が黒澤家の嫁になったら、自分にもう穏やかな日々なんて来ないんじゃないか。それでも、淑江は優子に言い返すことができなかった。昔、自分が人を死に追いやったことがばれるのが怖かったからだ。優子は冷たく笑い、部屋に置かれた観音像と、立ちのぼる線香へ目を向けた。「淑江さん、今さら仏様なんか信じるようになったのですか?」優子は一語一語、言い聞かせるように続けた。「もしかして、私をこの家から追い出してくださいってお願いしてます?」淑江の目に、一瞬だけ動揺が走った。その通りだった。彼女は毎日、優子が外で車にはねられて死にますように、と仏様に祈っていた。そうすれば、もう毎日のように脅されずに済むから。だが、そんなことを認められるはずがない。「優子……ち、違うの。誤解よ」淑江は震えながら、しどろもどろに言い訳した。「私はただ、仏様に……あなたを守ってくださいって、お祈りしていただけなの」優子は鼻で笑った。もちろん、そんな言葉を信じるはずもない。彼女は歩み寄ると、香炉に立っていた燃えさしの線香を一本引き抜き、そのまま何のためらいもなく淑江の腕に押しつけた。淑江は激痛に全身を震わせた。悲鳴を上げそうになったが、唇を強く噛み締め、必死に声を飲み込む。騒ぎ立てる勇気もなく、焼けるような痛みに耐えるしかなかった。額からは冷や汗が次々と流れ落ちる。時生を手に入れられない苛立ちを、優子はすべて淑江にぶつけていた。優子は淑江の髪を乱暴につかみ、無理やり観音像の前へ跪かせると、燃えた線香を何度も腕に押し当てた。やがて淑江の腕は、赤くただれた火傷だらけになっていた。ようやく気が済んだのか、優子は手を止め、淑江を見下すような口調で吐き捨てる。「この役立たずのババア。私のことを使えないって言ってたよね?じゃあ、あなたは何の役に立つの?三十年も育てた実の息子に、まともに相手にされてる?いい?時生が私と結婚しない限り、私は毎日あなたを痛めつける。うちの両親が刑務所から出てきて、私が黒澤夫人になるまではね。そうなれば、あなたも少しは楽ができるでしょ。でも、それまでは毎日今日と同じ苦しみを味わってもらうから」そう言い放つと、優子は淑江の髪を乱暴に引っ張り、そのまま横へ突き飛ばし
目の前で激怒する時生を見て、優子は胸が大きく揺れた。昭乃が、ついにこのことを暴いてしまったのだ!優子は、昭乃が時生の気持ちを取り戻したいと思っているなら、時生の立場を考えて、こんなふうに真正面から真実を突きつけることはしないはずだと思っていた。なのに昭乃は、あえてそこまで踏み込んですべてを明るみに出した。まさか、もうヨリを戻すつもりはないということなのか?怒りに満ちた時生の表情を見つめながら、優子の胸に恐怖がじわりと広がる。彼女は慌てて涙を浮かべ、声を詰まらせながら弁解した。「時生、誤解よ!あの夜はあんなに言い争っていたでしょ?本当に、いつ電話がかかったのかも分からなかったの。わざとじゃないよ……」「とぼけるな!」時生は鋭く言葉を遮った。かなり酔っているはずなのに、この瞬間だけは異様なほど頭が冴えていて、その鋭い眼差しは優子の心の奥まで見透かしているようだ。歯を食いしばりながら言う。「君がかけてないなら、電話が勝手につながるわけないだろ。優子、君は昭乃をわざと刺激したかったんだ。俺たちがやり直すのを、最初から邪魔したかったんだろ!」優子は泣き崩れそうになりながら叫んだ。「時生、ひどいよ!私はあなたと一緒になってから、何でもあなたを一番に考えてきたの!昭乃さんの娘のせいで流産して、私たちの子どもを失っても、一度だって文句なんて言わなかった!本当にそんな女なら、とっくの昔にこんなことしてるわよ。どうして今まで我慢する必要があるの!」そう言いながら、そばで一部始終を見ていた淑江にこっそり視線を送る。その目には、露骨な警告と脅しが込められていた。淑江はその視線を受け、心臓がぎゅっと縮み上がる。自分の弱みはまだ優子に握られている。この場で騒ぎを大きくされるわけにはいかない。仕方なく彼女は意を決して前へ出ると、時生の腕を引きながら、怒ったふりをして言った。「時生、自分が今どんな姿か分かってるの?黒澤グループの社長が、こんなところで女性相手に怒鳴り散らして。外に知れたら笑いものよ!」時生は淑江の手を振り払い、優子と淑江を指差した。「君たちさえいなければ、昭乃が俺にここまで絶望することもなかった!心菜だって、俺を父親として拒むこともなかった!全部、君たちのせいだ!俺は妻も娘も失った……これで満足か!