貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った

貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った

Par:  ドドポMis à jour à l'instant
Langue: Japanese
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夏目澪(なつめ みお)は流産した。 彼女は篠原洵(しのはら まこと)を十年も愛し、大学二年で中退して結婚した。結婚生活三年間、文句も言わずに尽くしてきた。 あの秘密のファイルを見つけるまでは。 自分が、洵と彼の「忘れられない初恋の人」との身勝手なゲームの一部に過ぎなかったことを、彼女は知ってしまう。 病室で、洵がその初恋の相手と海釣りをしていると知り、澪は離婚を切り出した。 かつて誰にも見下されていた専業主婦は見事に変貌を遂げた。 高級ジュエリーブランドのマスターデザイナーに。世界的なピアニストが唯一の師匠に。サーキットの女神に。 外務省トップ高官の令嬢に。そして、資産数兆を誇る上場企業のトップに…… 澪の周りに求婚者が増えていくのを目にして、洵は執拗に彼女に付きまとい始めた。 澪はその煩わしさに耐えかね、自らの死を偽装して姿を消した。 空の墓の前で、洵は夜ごと膝がすり切れるほどに跪き、許しを請い続けた。 ついにある日、彼は「死から蘇った」元妻と偶然に再会し、目尻が熱くなった。 「澪、一緒に家に帰ってくれないか?」 澪は微笑んだ。 「篠原さん、変な呼び方はやめてよ。私たちはもう離婚した。今の私は、独身なのよ」

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Chapitre 1

第1話

結婚して三年。今夜、澪は初めて洵の書斎にあるパソコンを開いた。

もし緊急で送信しなければならない重要な書類がなければ、澪は一生、目の前にあるこのファイルを見ることはなかっただろう。

洵のパソコンにあるフォルダは一見して会社のプロジェクトだと分かる。だが、一つだけ特殊なものがあった。名前はたった二文字のアルファベット。

ST。

澪は純粋な好奇心から、そのフォルダをダブルクリックした。

中にはエクセルファイルが一つだけあり、その名前は――

復讐。

澪は母子家庭で、母親は入院中だ。家柄だけ見れば、上場企業である篠原グループの御曹司と結婚できたのは、明らかに高望みだった。

洵との出会いはまるでドラマのようで、その後の展開もドラマのようだった。

当時、洵は交通事故に遭い、ひき逃げされた。彼を病院まで運び、命を救ったのが澪だった。

それから突然ある日、洵が澪の大学の校門の前に現れた。

その日はバレンタインデーで、洵はピンクローズの花束を澪に贈り、彼女に告白した。

当時、花の価格が高騰しており、さらにバレンタインデーが重なったため、その花束は少なくとも数十万円はしたはずで、大学中で大騒ぎになった。

澪はその花束を大切にベッドサイドに飾った。そのせいで入院することになったにもかかわらず。

澪は花粉アレルギーだった。

しかし、そのことを洵に話したことはなかった。だから、洵はデートのたびに澪にピンクローズの花束を贈った。

大学を卒業する前に、澪は洵と結婚し、専業主婦になった。

洵は仕事が忙しく、家事一切を完璧にこなす女性を必要としていた。

義母も、洵は胃が弱く、家で手作りのものを食べた方が健康的だと言っていた。

それに、家政婦は所詮他人で妻の代わりにはなれなく、妻の務めは家事を切り盛りし、良妻賢母になることだ、などとも。

だから、澪は昼間は食事の支度や洗濯、家事をこなし、夜は洵との夫婦生活に応じていた。

二人の間に交流は多くなかった。

目の前のファイルは、洵を理解するためのチャンスのように思え、澪がファイルを開くと、次々と写真がポップアップした。

ファイルは二列だけで、文字は少なく、ほとんど写真だった。

左側の列の一番上には、フォルダ名と同じ文字が書かれている。

ST。

澪は何度見ても、それがどの単語や名前の頭文字なのか見当もつかない。

幸い、右側のアルファベットは推測しやすかった。

NM――

夏目澪。

マウスを握る手がわずかに震えた。

両方の列には日付が記録され、写真が貼り付けられている。

STの列の写真は、すべて同じ少女のものだった。

一枚目、少女の足元には鮮やかなピンクローズの大きな花束が置かれている。

二枚目、首に輝くダイヤモンドのネックレスを見せびらかしているようで、腕にはやはりピンクローズの花束を抱えている。

三枚目、彼女はエルメスのバッグを両手で持ち、満面の笑みを浮かべている。テーブルの上にはピンクローズの花束があった。

目に映るたくさんのピンクローズを背景に、澪は右側の列に目を移した。

そこにある写真は、すべて自分のものだった。

一枚目の写真、自分の前にも、左側の少女と全く同じ、大きなピンクローズの花束が置かれている。

二枚目、全く同じダイヤモンドのネックレスと、ピンクローズ。

三枚目、全く同じエルメスのバッグと、ピンクローズ。

四枚目、五枚目、六枚目……

ついに、左側の写真の少女がピンクローズを抱え、左手の薬指にピンクダイヤモンドの指輪をはめている。

そして右側、同じ日に、自分は洵からピンクダイヤモンドの指輪でプロポーズされている。そこでこのファイルは終わっていた。

澪は黙ってパソコンを閉じた。何かに気づいてしまったようだった。

以前、自分はずっと、洵がピンクローズが好きだからいつも贈ってくれるのだと思っていた。

洵がピンク色のものを身につけているのを一度も見たことがなかったにもかかわらず、当時の自分は、洵の知られていない小さな秘密を発見した気になり、そのことで数日間興奮していた。

まさか……

ピンクローズが好きだったのは、ファイルの中の少女だったのだ。

その夜、澪は一睡もできなかった。

洵は今夜帰ってこない。M国とのプロジェクトの話し合いで徹夜になるからだ。だが、明日は必ず一緒に病院に行くと洵は言っていた。

澪はここ数日、下腹部に痛みを感じていた。

洵が彼女のために専門医の予約を取ってくれており、時間は明日の朝九時だった。

実のところ、今夜の発見は何も意味しない。

たとえ洵が最初、あの女性への復讐のために自分に近づいたのだとしても、それは結婚前のことだ。

結婚後、洵は自分に対してとても優しいわけではないが、悪くもなかった。毎月決まった額の生活費と小遣いをくれる。

行事や誕生日には必ずプレゼントを贈ってくれた。

今年の誕生日に受け取ったのはあるハイブランドのピンクのセットアップだったが、自分はピンクが一番嫌いな色だった。

篠原グループのトップとして、彼の周りには常に女性がいたが、彼は自分と結婚してからの三年間、いかなるスキャンダルも報じられたことがない。

一度だけ、ゴシップ雑誌に人気若手女優とのツーショット写真を掲載されたことがある。

しかし、洵が即座に広報を通じて否定し、そのアカウントは一夜にして削除された。

澪は寝返りを打ちながら、これ以上思い悩むのはやめようと自分に言い聞かせた。

洵は浮気をしたわけではない。ただ、自分が想像していたほど愛されていなかった、というだけかもしれない。

母親は昔、よくこう言っていた。結婚なんてものは妥協の産物だ、もし好きな人と結婚できたら、その縁を何よりも大切にしなさい、と。

澪は自分の結婚をとても大切にしていた。

彼女は洵を愛している。

十三歳のあの日から、もう十年も愛し続けている。

ただ、洵はそのことを知らなかった。今もまだ知らない。

スマホを手に取り、澪はパスワード付きのプライベートフォルダを開いた。結婚してからは一度も開いたことのないフォルダだ。

中には一枚の写真だけ。どうやら食堂で撮られたもののようだが、環境も光もどこか抑圧的で、一瞬、刑務所を連想させた。

写真の主役は一人の少女だ。まだ十代にしか見えない。口元には歯の矯正器具がびっしりと装着され、髪はアッシュグレーの派手なウェーブヘアだった。

誰が見ても、この少女が澪本人だとは気づかないだろう。だが、その後ろの隅にいる、意気軒昂とした少年が洵であることは、きっと誰にでも分かった。

これが、澪と洵の唯一のツーショット写真。

――もし、これをツーショットと呼べるのなら。

空が白み始めた頃、澪はようやく眠りについたが、三時間も経たないうちにアラームに起こされた。

ひどいクマを目の下に作り、澪は市立中央病院の正面玄関で洵を待っていた。春先の早朝の風はまだ冷たく、鼻水が止まらない。

八時五十九分。澪は洵からのメッセージを受け取った。

【会社で緊急プロジェクトが入った。M国へ出張しなければならなくなった。付き添えなくてすまない。一人で入ってくれ。先生にはもう話を通してある。夜には帰れると思う】

澪はコートをきつく引き締め、一人で病院に入った。出てきた時、その手には一枚の超音波検査の診断書が握られていた。

妊娠二ヶ月。ただし、切迫流産と診断されていた。

澪にとって初めての妊娠であり、洵との最初の子どもだった。

澪は自分のお腹をそっと撫で、顔には喜びがありありと浮かんでいた。

切迫流産とはいえ、医師によればそれほど深刻な状態ではないとのことだった。

しかし、安静にして大事にする必要があった。

澪はスマホを取り出し、この知らせを洵に伝えようとした。

受話器からコール音が響く。澪の心臓は興奮と緊張で高鳴っていた。

洵は……喜んでくれるだろうか?

昨夜の出来事が起こるまで、澪はそんな疑問を抱くことすらなかった。

やがて、電話が繋がった。

「あ、あなた、私は……」

「会議中だ。急用がないなら邪魔しないでくれ」

電話はすぐに切られ、澪の耳には無機質な通話終了音だけが響いた。

冷たい風が、がらんどうになった心を吹き抜ける。澪がスマホを耳から離した、ちょうどその時。

一本のニュース速報がポップアップした――

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第1話
結婚して三年。今夜、澪は初めて洵の書斎にあるパソコンを開いた。もし緊急で送信しなければならない重要な書類がなければ、澪は一生、目の前にあるこのファイルを見ることはなかっただろう。洵のパソコンにあるフォルダは一見して会社のプロジェクトだと分かる。だが、一つだけ特殊なものがあった。名前はたった二文字のアルファベット。ST。澪は純粋な好奇心から、そのフォルダをダブルクリックした。中にはエクセルファイルが一つだけあり、その名前は――復讐。澪は母子家庭で、母親は入院中だ。家柄だけ見れば、上場企業である篠原グループの御曹司と結婚できたのは、明らかに高望みだった。洵との出会いはまるでドラマのようで、その後の展開もドラマのようだった。当時、洵は交通事故に遭い、ひき逃げされた。彼を病院まで運び、命を救ったのが澪だった。それから突然ある日、洵が澪の大学の校門の前に現れた。その日はバレンタインデーで、洵はピンクローズの花束を澪に贈り、彼女に告白した。当時、花の価格が高騰しており、さらにバレンタインデーが重なったため、その花束は少なくとも数十万円はしたはずで、大学中で大騒ぎになった。澪はその花束を大切にベッドサイドに飾った。そのせいで入院することになったにもかかわらず。澪は花粉アレルギーだった。しかし、そのことを洵に話したことはなかった。だから、洵はデートのたびに澪にピンクローズの花束を贈った。大学を卒業する前に、澪は洵と結婚し、専業主婦になった。洵は仕事が忙しく、家事一切を完璧にこなす女性を必要としていた。義母も、洵は胃が弱く、家で手作りのものを食べた方が健康的だと言っていた。それに、家政婦は所詮他人で妻の代わりにはなれなく、妻の務めは家事を切り盛りし、良妻賢母になることだ、などとも。だから、澪は昼間は食事の支度や洗濯、家事をこなし、夜は洵との夫婦生活に応じていた。二人の間に交流は多くなかった。目の前のファイルは、洵を理解するためのチャンスのように思え、澪がファイルを開くと、次々と写真がポップアップした。ファイルは二列だけで、文字は少なく、ほとんど写真だった。左側の列の一番上には、フォルダ名と同じ文字が書かれている。ST。澪は何度見ても、それがどの単語や名前の頭文字なのか見当もつかない
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第2話
【篠原グループの御曹司、FYの新作発表会に登場。美女の笑顔のため大金をつぎ込む】澪の心臓がどきりと跳ねた。篠原グループの御曹司は洵、ただ一人だ。そして、高級ブランドFYの発表会はまさに自分たちの住む綾川市(あやかわし)で開催されている。澪の指先は寒さのせいで小刻みに震えていた。ニュースを開くと、そこに添えられた写真には一目でわかる洵の姿があった。もともと洵は容姿が整っており、背も高い。長い脚はまっすぐで、オーダーメイドのスーツは隙なく上質で、集合写真でも決して見劣りしないタイプだ。以前は洵のニュースを見るたびに、澪はその写真をいつまでも見つめていた。とても格好良かったからだ。だが今回、澪は恐ろしい速さでページを閉じた。魔が差したように、彼女はインスタを開いた。ちょうど、遠藤航(えんどうわたる)が新しい投稿をしていた。航は洵の高校時代の同級生だ。【FYの世界限定10本のクラシック・ピンクダイヤモンドネックレス、俺たちの「千雪さん」も手に入れたぜ!】写真には女性の白鳥のような雪白の首筋だけが写っており、そこにかけられたピンクダイヤモンドのネックレスが眩い光を放っていた。航の言う「千雪さん」が誰であれ、それが澪でないことだけは確かだった。超音波検査の結果をしまい、澪はタクシーで家に戻った。道中も、下腹部がシクシクと痛んでいた。帰宅して、今日はまだ食材を買っていなかったことを思い出した。そこで彼女は再び外出して買い物をし、洵の好物ばかりを買い揃えた。家に帰ると、野菜を洗い、下ごしらえをし、食事の準備をする。そうこうするうちに、あっという間に夜になった。九時頃、洵が帰宅した。「言うのを忘れていた。今夜は付き合いがあって、外で済ませてきた」洵の声は淡々としており、比類なく整った顔にも何の表情も浮かんでいない。澪は洵の手からスーツを受け取った。結婚して三年、接待を終えて帰宅した洵の髪から、ヘアスプレーがすっかり落ちているのを初めて見た。まるでシャワーを浴びた直後のようなさっぱりとした様子だ。スーツには酒の匂いはなく、微かな香水の香りだけが漂っている。そして、ニュースの写真で着ていたものとは別のスーツだった。澪は何も尋ねず、黙って洵のパジャマを取りに行った。すると、洵が突然、背後から
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第3話
澪は一ヶ月間入院し、毎晩夢を見た。夢の中で、洵は病院に見舞いに来て、昼も夜もベッドのそばに寄り添い、笑顔でお腹の赤ちゃんの音を聞いてくれた。目が覚めると、澪はいつも涙で顔を濡らしていた。子供は……もういない。洵は一度も見舞いに来なかった。M国へ出張だと言っていたが、代わりにアシスタントの佐々木悠人(ささき はると)をよこして、花を届けさせる程度だけだ。どちらもピンクローズだった。そして、医療費は精算されていた。澪は何度もその花を看護師にあげようとしたが、いざとなると惜しくなり、毎日くしゃみをしながらも手元に置いた。妊娠二ヶ月だったため、処置自体に大きな感覚はなかった。だが、時折お腹を撫でるのが澪の癖になっていた。ここに短い命があったのだと思うと、鼻の奥がツンとする。初めての子どもだった。十年間愛し続けた男との、血を分けた子どもだった。それがあっけなく消えてしまった……澪は毎晩泣き明かし、体の回復も思わしくなかった。だが、いつまでも病院に居座るわけにはいかない。病院側も、新しい患者のために病室を空けてほしいようだった。ガランとした病室で、澪が退院の準備をしていると、突然、見知らぬ来客があった。目鼻立ちが整い、メイクも完璧だ。バービーピンクのベルベットのキャミワンピスを着て、首には眩いネックレス――あのFYの世界限定ピンクダイヤのネックレスをつけていた。「初めまして。千堂千雪(せんどう ちゆき)です。洵の高校の同級生なの」相手が先に名乗った。澪はその名前を心の中で反芻した。千堂千雪……頭文字は「ST」。間違いない。彼女だ。千雪が手を差し出してきたので、澪は礼儀正しく握り返した。「初めまして。夏目澪です。洵の妻」千雪の笑顔が凍りついた。だが、さすが場慣れしているのか、すぐに表情を戻した。「今日は謝りに来たの」千雪は伏し目がちに言った。その健気な表情は確かに同情を誘うものがあった。「あなたが検査に行ったのが妊娠のためだなんて知らなかったわ。もし知っていたら、絶対に洵にFYの発表会に付き合ってもらったりしなかった……あの夜も酔っていて、航が無理に電話して……まさか本当に洵が迎えに来てくれるなんて思わなくて……そのせいであなたが流産するなんて……全部私のせいね……
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第4話
洵は眉をひそめ、花束と漢方薬を置くと、慌てた様子もなくスマホを取り出し、澪に電話をかけた。しかし、繋がらない。澪が家にいない日があるなどと考えたこともなかったが、洵はいつも通りレコードをセットし、お気に入りのショパンのノクターンを流した。一時間が過ぎた。誰も帰ってこない。二時間が過ぎた。誰も帰ってこない。三時間が過ぎた。また誰も帰ってこない。洵は立ち上がり、クローゼットを確認した。中には澪の服のほとんどが残っていた。すべて自分が贈ったもので、どれもピンク色だ。しかし、結婚前に澪が持っていた二着の青いスーツだけが見当たらなかった。その時、宅配便が届いた。宛名は篠原洵だった。洵は何かを買った覚えなどない。その荷物は巨大な段ボール箱だった。梱包を解くと、中には目がくらむほどの商品が詰め込まれていた。ピンクローズのプリザーブドフラワー、ピンクダイヤモンドのネックレス、ピンクのエルメスバッグ、鮮やかなピンクのハイヒール、桜色のドレス、ピンクダイヤの腕時計、金の置物、桃色のスカーフ、高級ブランドの香水、ピンクダイヤのブローチ、車のキー、そしてピンクダイヤの指輪……洵の顔色がみるみるうちに悪くなり、瞳の奥で静かに嵐が巻き起こり始めた。これらは……すべて自分がかつて、澪を射止めるために贈ったプレゼントだ。そのピンクダイヤの指輪はプロポーズの指輪だった。洵が適当にひっくり返してみると、それらのプレゼントは何年も経っているにもかかわらず、タグさえ切られていないことに気づいた。箱の中で唯一、自分が贈ったものではないものが一つだけあった。書類封筒だ。洵は何気なく中の書類を引き出した。綾川市の夜景は美しく、欲望と金に満ちている。美崎町(みさきちょう)にある古い家にはここ数年明かりが灯ったことがなかったが、今日は珍しく、夕方から深夜まで明かりがついていた。澪は半日かけて部屋を塵一つないほどきれいに掃除した。簡素だが清潔で、どこか温かみのある部屋になった。ただ、以前は母と二人で寄り添って生きていた場所だが、今は自分一人しかいない。「孤独ではない」と言えば嘘になる。澪はスマホを握りしめ、近藤蘭(こんどう らん)に電話をかけるべきか迷っていた。蘭は彼女の親友で、同じ高校の出身だ。だが、電話をかける前に
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第5話
澪は今朝、寝坊をした。昨夜寝るのが遅かったこともあるが、早起きをして朝市で新鮮な野菜を買う必要もなければ、洵のために少なくとも一汁三菜の朝食を作る必要もなくなったからだ。家で袋麺を茹で、澪はそれを美味しそうに食べた。お腹を満たした後、彼女は銀行へ向かった。送金小切手に記入し、相手に二億円を送金する。備考欄には「医療費」と記した。銀行を出た後、澪は「カフェ・ブルー」へ向かった。蘭と食事の約束をしていたのだ。結婚後、篠原家の良き主婦となるべく全力を尽くすため、澪は同級生や友人との付き合いをほぼ絶っていた。親友である蘭とも、三年ぶりの再会となる。この三年間の自分の青春を思うと、澪は自分自身に中指を立ててやりたい気分だった。予約していた席に座り、澪は蘭を待った。蘭は現在、綾川市で小規模ながら有名なスクールのボーカル講師をしている。蘭が食事に誘ってくれたのは久しぶりにゆっくり話したいという気持ちと、おそらく仕事を紹介したいという意図があるのだろうと、澪は察していた。案の定、蘭が現れると、少し話しただけで話題は彼女のスクールでのピアノ講師募集へと移った。「蘭、ありがとう」澪は晴れやかに笑い、手を振った。「でも、もうピアノは弾かないって誓ったの。それに、新しい仕事も見つかったから」「えっ?」蘭は好奇心をそそられたようだ。「まさかジュエリーデザインの会社?専攻と合ってるしね!」澪は再び手を振った。「違うわよ!私は大学を中退してるの。そういう会社は大卒が条件でしょ」「でも、このご時世、学歴不問の仕事なんてそうそうないわよ!」蘭は小声でそう言うと、我慢できないといった様子で澪のために憤った。「篠原は本当にクズね。結婚中に浮気しておいて、あなたを一文無しで追い出すなんて。私なら数億円はふんだくってやらないと、無駄にした時間が報われないわ!」澪は笑いをこらえた。その時、スマホが光り、ラインの通知が来た。「絶対篠原からよ。ほら、貸して。私が罵倒してあげる!」澪はラインを開いたが、洵からではなかった。返信を打ちながら、澪は蘭に言った。「実は洵が浮気したという証拠はないの……」洵の体が浮気をしていようがいまいが、心が離れているのは確かだ。自分の血を分けた子供さえ要らないというのだか
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第6話
千雪は本来なら、洵が来るのを待って、堂々とVIP用通路から入るつもりだった。洵は招待状を持っていなかったが、彼の身分と顔そのものが通行手形になるからだ。しかし、パーティーの開始時刻が迫っても洵は現れず、彼女は仕方なく莉奈と洋子を連れて従業員用通路を使うしかなかった。会場に入ると、千雪はあたりを見回したが、澪の姿はどこにもなかった。「あの女、間違いなくデリバリーで来たのよ。招待状なんて持ってるわけないもの」「そうよ。大学も出てないのに、FYの祝賀パーティーに招待されるわけないじゃない」莉奈と洋子が口々に言った。千雪は少し安心した。親友の言う通りだ。FYは世界でも指折りのラグジュアリーブランドだ。今回の祝賀パーティーは四年前に発表したジュエリーコレクション「ピアノ」シリーズが、業界をリードする特許技術を採用したこと、そしてその独創的なアイデアと芸術性によって、ハイジュエリーの中でも一躍トップに躍り出たことを祝うものだ。業界内で名声を得ただけでなく、消費者からの支持も厚く、四年連続で売上トップを記録している。「今夜、あの『ピアノ』シリーズのマスターデザイナーに会えるかな……」千雪はうるんだ大きな瞳を瞬かせ、憧れと崇拝の眼差しを浮かべた。「そのデザイナーってすごく謎めいてるんでしょ?性別すら誰も知らないって聞いたわ」「千雪、あなたもうFYの社員なんだから、知らないの?」好奇心旺盛な親友たちに対し、千雪は残念そうに首を振った。「そのデザイナーの署名が『BYC』だってことしか知らないの。私どころか、私の上司だって知らないんだから!」二階の個室で、澪はピーターに会っていた。ピーターはFYの創業者の一人であり、現執行役員でもある。「三年ぶりだね。君はさらに美しくなった」ピーターはコーヒーを澪に差し出した。澪はそれがピーターのお世辞だと分かっていた。結婚して三年、毎日台所に立ち、自分を失い、着飾る時間もない。そんな女が美しくなるはずがない。歳月に輝きと魅力を削り取られるだけだ。何より致命的なのは夫に愛されていないことだ。愛の潤いがない既婚女性には惨めな日常しか残らない。そして、澪はさらに悲惨だった。文句も言わず三年間専業主婦として尽くしてきたのに、その代償が夫の浮気と、愛人のために
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第7話
「知らない顔だな。最近売り出し中の新人アイドルか?」「あの顔立ちはそこらのアイドルよりずっと綺麗だぞ」ピーターの隣にいる女性パートナーについて、囁き合う声が増えていく。ピーターの横に立つ澪の存在感は圧倒的だった。漆黒のベルベットのビスチェドレスが、完璧なボディラインを完璧に引き立てている。ウェーブのかかった髪はアップスタイルにまとめられ、そこにあしらわれた白と黒のダイヤモンドが密に敷き詰められたヘアクリップは「ピアノ」シリーズで最も高価なジュエリーであり、目を逸らせないほどの輝きを放っていた。洵はピーターの連れているその女性の後ろ姿に見覚えがあると感じていた。そして、相手が振り返った瞬間、息を呑んだ。「澪?!」千雪、莉奈、洋子も驚愕に目を見開いた。洵は言葉を発しなかったが、その両目は以前よりも強く輝いていた。澪がこれほど鮮烈な赤いリップメイクをしているのを、彼は初めて見た。濃厚なメイクだが下品さは微塵もない。スタイリストの腕が良いのか、それとも澪という「素材」が良いのか。「まさか夏目さんが新しいパトロンを見つけていたなんて。私、余計な心配をして損しちゃったわ……」千雪がしおらしい声で言うと、洵の瞳の中の冷たい光が明滅した。今夜の澪の装いはすべてピーターから借りた「プレゼント」だった。洵と千雪がいちゃつく姿など見たくはなかったが、来てしまった以上、逃げ帰る道理はない。洵の視線は最初こそ澪に向けられたが、その後はまるで彼女が見えていないかのように、相変わらず千雪と寄り添っていた。その絵に描いたようなハンサムな顔に、澪は自分には一度も見せたことのない笑顔と優しさを見てしまった。洵を見返してやりたいという澪の勝気な心は次第に敗北感へと変わっていった。彼女は冷静さを取り戻すために洗面所へ向かった。離婚を決意したのだから、今さら気にする必要はないはずだ。洗面所から出た時、足の痛みは無視できないほどになっていた。普段履き慣れないハイヒールが、ひどい靴擦れを起こしている。澪は踵を見ようと体をよじり、バランスを崩して倒れそうになった。だが、誰かがとっさに彼女を支えた。「あり……」礼を言いかけた澪の視線が、洵とぶつかった。洵の微笑んだような唇は魅惑的で、瞳は宝石のように深い。だが、至近距
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第8話
今夜のパーティーが始まって二時間近く経つが、洵は一滴も酒を口にしていなかった。澪は洵の持病である胃痛が再発したのだと察した。ここ数日、離婚騒動で、これまで欠かさず煎じていた漢方薬を作っていなかった。洵も飲んでいないはずだ。配合も火加減も時間も、澪しか知らないからだ。いっそ痛みで死ねばいい――そんな考えが澪の脳裏をよぎった。だが、結局そこまで非情にはなれなかった。澪はスマホを取り出し、洵の胃痛を治す漢方の生薬名から配合、煎じ方に至るまで、事細かに書き出した。送信する前、何か挨拶や社交辞令、言い訳などを付け足すべきか迷ったが、何度も書いては消し、結局余計な言葉は一文字も書かずに送信ボタンを押した。洵のスマホがラインを受信したが、それを開いたのは洵ではなかった。千雪は背を向け、澪が送ってきた内容を暗記すると、そのメッセージを跡形もなく削除した。洵の方は接待の真っ最中だった。今夜は千雪の仲間とはいえ、知り合いも多く、付き合いは避けられない。だが、胃の痛みが限界に達しており、酒には一切手を付けていなかった。そのせいで彼の纏う空気は冷え切っており、まるで今夜のパーティーのすべてが気に入らないかのようだった。「洵……」パーティーが終わりに近づいた頃、千雪が湯気の立つ薬湯が入った椀を持ってきた。その香りに覚えはあったが、千雪と付き合っていた頃、彼はまだ胃を患っていなかった。「どうして俺が胃痛持ちだと知ってるんだ?それにこの薬……」洵は澪の方をちらりと見た。「あなたの体のことなら何でも知ってるわよ。この薬、漢方の名医に頼んで処方してもらったの。絶対効くから」実は千雪が莉奈と洋子に頼んで、澪から送られてきた処方箋通りに買いに行かせたものだった。煎じる時間がなく、簡易的に作ったものだが、多少は効果があるはずだ。「私のせいね。あの頃、私がわがままを言わなければ、あなたがこんなになるまで体を壊すこともなかったのに……」千雪は目を赤くした。薬の匂いに気づいた澪が振り向くと、千雪が小鳥のように洵の肩に寄りかかっているのが見えた。そして洵は千雪にレッドベルベットケーキを食べさせていた。レッドベルベットケーキ。澪はかつて、洵のために何度も作ったことがあった。洵は胃が悪く、辛いものも甘すぎるもの
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第9話
「でも、私が行く理由なんてないわ」澪は顔を背けて言った。「爺さんが朝から、しばらくお前に会ってないってぼやいてたんだ。今日の食事会は本家でやる」洵の祖父、篠原厳(しのはら げん)は澪が篠原家に嫁いでから、誰よりも彼女に良くしてくれた人物だ。洵の表面的な優しさとは違い、厳の優しさは心からのものだった。踏み出そうとした足を、澪は結局引っ込めた。助手席のドアを開けると、中に座っていた人物を見て、澪は驚いた。「あら、夏目さん。また会ったわね」千雪が花のように微笑む。今日の彼女はピンクグレーのセットアップを身にまとい、甘くも高級感のある装いだった。首には洵が贈ったあのピンクダイヤのネックレスがあり、腕に抱えているピンクローズも、聞くまでもなく洵からのプレゼントだろう。澪は大学時代に洵が自分を射止めた頃を思い出した。彼は毎回ピンクローズを贈ってくれたし、付き合い始めてからのデートもいつもピンクローズだった。当時、ルームメイトは「洵さんにとって、澪はピンクの薔薇みたいに可愛い存在なんだよ」と冷やかしていたものだ。今にして思えば、恋をしている人間は確かに盲目になる。それは周りの人間も同じなのかもしれない。澪はわきまえて、後部座席に乗り込んだ。「ねえ、夏目さん……これからは澪さんと呼んでもいいかしら?私たち、だんだん親しくなってきたし、いつまでも夏目さんじゃ他人行儀だもの」澪は黙っていたが、千雪は構わず話し続けた。「ああ、そうそう、誤解しないでね。私の家と篠原家はもともと親しいの。だから家族の食事会に、洵がわざわざ私も呼んでくれたのよ」千雪はバックミラー越しに後部座席の澪を盗み見た。薄化粧をした澪の顔は以前よりもさらに青白く見えた。「私と洵は高校の同級生でしょ。付き合ってた頃はよく篠原家に遊びに行ったわ。みんなすごく良くしてくれて、私のことを家族みたいに扱ってくれたの。洵、覚えてる?一度、私がドジ踏んでお爺様のお気に入りの骨董品の壺を割っちゃった時、お爺様に怒られるのが怖くて、あなたが『俺が割った』ってかばってくれたこと……」「何年前の話だ……あれは俺が悪い。爺さんの書斎にお前を入れるべきじゃなかった」洵は運転しながら、千雪ととりとめのない雑談を交わしている。澪は初めて洵の車に乗った時のこ
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第10話
澪はとっさにエプロンを受け止めた。あまりに慣れ親しんだ動作で、完全に無意識の反応だった。だが、汚れたエプロンを手にしても、以前のようにすぐ身につけることはしなかった。これまで親戚が集まる食事会では澪が一番忙しかった。全部で三十品以上の料理を、野菜を洗うところから始め、下ごしらえ、調理、盛り付けに至るまで、すべて澪の仕事だった。厳は澪を気遣い、そこまでしなくていいと言ってくれた。本家にはプロの料理人も家政婦もいるからだ。しかし、厳が自分の手料理を好んでくれることを知っていた澪は、毎回進んで台所に立った。他の親戚たちも、厳の手前、当たり障りのない称賛の言葉をかけるだけだ。その後、一族全員分の食器を洗い、片付けをするのも澪の役目だった。義母が「女は家事を切り盛りできてこそ、良妻賢母というものよ」と言っていたからだ。澪は疲れていても、一日働き詰めた後に洵から「ありがとう」と言われるだけで報われた気がしていた。その言葉を聞けば、疲れなど吹き飛んだ――馬鹿げているにも程がある。「何ぼさっとしてんのよ、早く行きなさいよ!」叔母の雅子に急かされても、澪は動かなかった。それどころか、汚れたエプロンを脇へ放り投げた。「台所には料理人も家政婦もいます。私が行っても邪魔になるだけですから」雅子は呆気にとられた。「何言ってるの?篠原家の嫁が働かないなんてことあるわけ?」「叔母さんたも篠原家の嫁でしょう?どうして働かないんですか?」澪の切り返しに、雅子は舌を噛みそうになった。「何よその口の利き方は!目上の者に対する態度じゃないわよ。あなたは目下でしょ、私と比べられるわけ?」「目上の方なら、なおさら謙虚さを持つべきではありませんか?目下の私に譲り、自ら進んで働いて手本を見せるべきでしょう」澪の言葉に、雅子は愕然とした。澪とこれほど長く付き合ってきたが、彼女がこんなに口が達者だとは知らなかったのだ。「あなた、今日はおかしいんじゃないの?美恵子さん、ちょっと来て!この自慢の嫁を見てちょうだい!」雅子は篠原美恵子(しのはらみえこ)を呼びつけた。美恵子は澪の義母だ。こちらの騒ぎは他の人々の注意も引いた。澪が視界の端で捉えたのは洵の目にある深い失望の色だった。「何を騒いでおる!」二階から
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