LOGIN夏目澪(なつめ みお)は流産した。 彼女は篠原洵(しのはら まこと)を十年も愛し、大学二年で中退して結婚した。結婚生活三年間、文句も言わずに尽くしてきた。 あの秘密のファイルを見つけるまでは。 自分が、洵と彼の「忘れられない初恋の人」との身勝手なゲームの一部に過ぎなかったことを、彼女は知ってしまう。 病室で、洵がその初恋の相手と海釣りをしていると知り、澪は離婚を切り出した。 かつて誰にも見下されていた専業主婦は見事に変貌を遂げた。 高級ジュエリーブランドのマスターデザイナーに。世界的なピアニストが唯一の師匠に。サーキットの女神に。 外務省トップ高官の令嬢に。そして、資産数兆を誇る上場企業のトップに…… 澪の周りに求婚者が増えていくのを目にして、洵は執拗に彼女に付きまとい始めた。 澪はその煩わしさに耐えかね、自らの死を偽装して姿を消した。 空の墓の前で、洵は夜ごと膝がすり切れるほどに跪き、許しを請い続けた。 ついにある日、彼は「死から蘇った」元妻と偶然に再会し、目尻が熱くなった。 「澪、一緒に家に帰ってくれないか?」 澪は微笑んだ。 「篠原さん、変な呼び方はやめてよ。私たちはもう離婚した。今の私は、独身なのよ」
View More海上を、豪華客船「キューピッド号」が進んでいく。今日は篠原グループの社員旅行で、四泊五日のクルーズだ。本来、こうした社員旅行に洵は参加しない。だが今年は例外だ。全社員が知っていた。洵は千雪のために参加したのだと。「澪さん、水着に着替えないの?」客室で、ピンクのドット柄ビキニに着替えた千雪が尋ねた。今回、澪と千雪は同室だった。千雪は部屋の変更を申し出なかった。澪も自分から言い出すつもりはなかった。怖いものなどないからだ。「今は行きたくないの」澪は答えた。「残念ね。デッキのウォーターパーク、すごく楽しいのに」千雪はそう言い残し、上機嫌で出て行った。デッキにある巨大ウォーターパークがこのクルーズの目玉であることは澪も知っていた。だが、行けば間違いなく千雪と洵がいちゃつく場面を見せつけられる。見たくなかった。洵はウォーターパークで遊ぶようなタイプではない。少なくとも澪の記憶ではそうだ。大学時代、洵にアプローチされていた頃、一緒にプールに行こうと誘ったことがあった。洵は断った。それでも、当時はまだ洵に愛されていると無邪気に信じていた。午後の日差しが降り注ぐ中、部屋に閉じこもっているのはもったいなかった。澪は迷った末、デッキへ出て日光浴をすることにした。ウォーターパークは人声で沸き返っていた。乗客は篠原グループの社員だけだが、プールは芋洗い状態だった。そんな人混みの中でも、澪は一目で洵を見つけた。結婚してこれほど経つが、洵が水着を着ているのを見るのは初めてだった。社長としての威厳を保ちたいのか、あまり肌を晒したくないようだった。洵が着ていたのはセットアップで、真っ黒なラッシュガードに海水パンツだった。露出はゼロだが、そのスタイルの良さは隠しようもなかった。その隣で、千雪が笑いながら彼に水をかけていた。洵も負けじと水鉄砲で反撃している。戯れ合う二人は、誰が見ても熱愛中のカップルだった。洵のあんな子供っぽい一面を、澪は見たことがなかった。結婚して三年、洵との接点はベッドの上だけだった気がする。自分がつまらない女だからか?それとも単純に、愛されていないからか。澪は軽くため息をつき、背を向けた。クルーズ初日の夜、メインイベントはダン
洵は引き止めなかった。出口に差し掛かった時、黒い高級車が澪の横を通り過ぎた。洵は窓を開け、澪に軽く一言だけ告げた。「薬、ご苦労だった」澪の肩が震えた。視界の中で、洵の車は遠ざかり、やがて見えなくなった。彼女は足を止めた。足取りが重いのか、心が重いのか、自分でも分からなかった。夜は更け、すでに十一時近くになっており、地下鉄は終わっていた。澪は一人でタクシーを拾い、ナンバープレートを記憶した。しばらく走ると、運転手が突然尋ねた。「お客さん、後ろの車、ずっとついてきているようですが、知り合いえですか?」澪は振り返った。暗闇の中に黒い車影が見えた。だが、洵の高級車ではないことは確かだ。「知りません……」「変ですね、どうも私たちをつけている気がします」運転手の言葉に澪は警戒心を強めた。彼女は蘭に電話し、着く頃に下まで迎えに来てくれるよう頼んだ。そして運転手に行き先を変更し、蘭の家へ向かってもらった。四十分後、アパートの下に立つ蘭の姿が見えた。蘭は澪の手を引き、首を伸ばして周囲を見回したが、怪しい黒い車は見当たらなかった。「何ともないみたいね」「うん、ごめんね蘭」「水臭いこと言うと怒るわよ」「ありがとう。ねえ、何か食べるものない?お腹ペコペコなの」「カップ麺しかないわよ」「出前取ってくれない?洋食がほしい」「やっぱり水臭くなくていいわ!」二人は笑い合いながら階段を上がっていった。薄暗い街灯の下、一台の黒い車が物陰からゆっくりと姿を現した。普通のセダンだった。クラウド・ジェイド。洵はドアを開け、千雪を先に通した。続いて、彼はスーツケースを持って中に入った。上品なピンク色をしている。「ありがとう、洵」千雪は洵からピンクのスーツケースを受け取り、自分の服を取り出し始めた。「ああ」洵は適当に答え、スマホを取り出してラインを開いた。佐々木からのメッセージだ。【夏目さんは友人の近藤蘭さんの家に行きました。二人が部屋に入るのを確認しました】洵は返事した。【分かった】予想通りの報告を受け取り、佐々木は黒のセダンを走らせて蘭のアパートを離れた。千雪がクラウド・ジェイドに泊まりたがった理由は「翌日遅刻したくないから」だった。だが、彼女は
「いや、何でもない」洵は薬を飲み干すと、胃の不快感がすっと引いていくのを感じた。洵の表情が和らいだのを見て、千雪は微笑んだ。「胃は本当に大事にしないとダメよ。また入院なんてことになったら、おば様だけじゃなく、私まで心臓が止まっちゃう」「心配かけたな」洵は千雪をいつもの優しい眼差しで見つめた。千雪は自信を深めた。洵はまだ澪と離婚していない。だが、離婚は時間の問題だと確信していた。午後、千雪はずっと自分の部署には戻らなかった。社長室に入り浸っていたのだ。全社員の中で、彼女だけが持つ特権だった。終業後、千雪は友人とショッピングの約束があり、洵が車でモールまで送った。その帰り道、篠原グループの本社ビルの前を通りかかった。漆黒のガラスのカーテンウォールの中で、一箇所だけ明かりが灯っていた。その光は際立って見えた。洵はスピードを上げていたため、一瞬でビルを通り過ぎた。しかし、黒の高級車は次の信号で猛然とUターンし、引き返してきた。デザイン部。夜の十時に明かりがついている唯一の部署だ。洵は音もなく中に入り、デスクに突っ伏して眠っている澪を見つけた。澪の周りにはファイルの山が築かれていた。他の社員のデスクには、日用品とパソコンしかない。洵は熟睡している澪を抱き上げた。目を覚ますかと思ったが、澪は眠り続け、いびきさえかいていた。彼は眉をひそめた。澪がずいぶんと軽くなった気がした。地下駐車場。澪は洵に車へ押し込まれてようやく目を覚ました。見慣れない環境と、目の前にある洵の完璧だが危険な顔に、全身が震えた。「ここどこ?どうして私がここに?」澪の明らかな動揺を見て、洵は口角を上げたが、その目は冷え切っていた。「書類を取りに会社に戻ったら、お前が寝ていたんだ。ここは地下駐車場だ」洵の答えと同時に、澪も状況を理解した。「ごめん、疲れすぎてて」澪はズキズキと痛むこめかみを揉んだ。「専業主婦の良さが分かったか?」突然の問いかけに、澪は一瞬ぼかんとした。次の瞬間、洵が言いたいのは、自分がこんなに苦労している原因は「デザイナーの才能がない」ということであり、千雪による嫌がらせではないと悟った。弁解する間もなく、洵の体が迫ってきた。澪の鼻腔を、洵が愛用し
洵は笑った。「何、あいつに少し苦労を味合わせてやりたいだけだ」そうすれば、専業主婦の幸福さを思い知るだろう。後半の言葉は口にしなかったが、千雪は察していた。「そうね、澪さんも新しい部署に来たばかりで慣れないだけかも。数日もすれば大丈夫になるわ」「ああ」洵が同意したのを見て、千雪は密かに安堵した。自分は何としても、澪を洵の秘書に戻すわけにはいかなかった。洵がどうしても澪を解雇するつもりがないのなら、他の部署に行かせるよりも、自分の手元に置いて監視する方が都合がいい。それから一週間、澪は毎日残業だった。不可解なことに、洵も毎日残業していた。洵が残業すれば、千雪もそれに付き合う。おかげで澪の精神的な不公平感は和らいだ。少なくとも苦労しているのは自分一人ではない。ある夕方、オフィスには澪と千雪以外誰もいなくなっていた。澪がいつものようにデザイン案の修正をしていると、千雪が薬の入った椀を持ってミニキッチンから出てきた。洵の胃薬だ。篠原グループの福利厚生は手厚く、社内にはミニキッチンがいくつか設置されている。千雪は毎日そこで、会社のIHヒーターを使って洵のために漢方薬を煎じていた。「煮出す時間が足りてないし、火加減もダメ……」それでは薬効が出ない。澪はずっとそう言いたかったが、口出し無用だと飲み込んできた。だが、そのことは喉に刺さった小骨のように気になっていた。今夜、彼女はようやく口に出した。しかし、言ったそばから後悔した。千雪は椀を持って澪のデスクに近づいてきた。澪の予想とは異なり、その顔には笑みが浮かんでいた。「薬を煎じるのは、確かに私より澪さんの方が上手ね。じゃあこうしましょう。これからは洵の薬は澪さんが煎じて」「えっ……」「拒否権はないわよ。私があなたの上司だってこと、忘れないでね」こうして、澪のただでさえ忙しい日常業務に、洵の薬煎じという仕事が加わった。IHヒーターの前で漢方薬の匂いを嗅ぎながら、澪は心の中で自分を罵った。余計なこと言うから!お節介焼くから!千雪と違い、澪は薬作りを適当に済ませたりはしなかった。医師の指示通り、少なくとも二時間は煮出さなければならない。時間が短かったり火力が足りなかったりすれば、治療効果に影響が出る。澪はふと思