Se connecter夏目澪(なつめ みお)は流産した。 彼女は篠原洵(しのはら まこと)を十年も愛し、大学二年で中退して結婚した。結婚生活三年間、文句も言わずに尽くしてきた。 あの秘密のファイルを見つけるまでは。 自分が、洵と彼の「忘れられない初恋の人」との身勝手なゲームの一部に過ぎなかったことを、彼女は知ってしまう。 病室で、洵がその初恋の相手と海釣りをしていると知り、澪は離婚を切り出した。 かつて誰にも見下されていた専業主婦は見事に変貌を遂げた。 高級ジュエリーブランドのマスターデザイナーに。世界的なピアニストが唯一の師匠に。サーキットの女神に。 外務省トップ高官の令嬢に。そして、資産数兆を誇る上場企業のトップに…… 澪の周りに求婚者が増えていくのを目にして、洵は執拗に彼女に付きまとい始めた。 澪はその煩わしさに耐えかね、自らの死を偽装して姿を消した。 空の墓の前で、洵は夜ごと膝がすり切れるほどに跪き、許しを請い続けた。 ついにある日、彼は「死から蘇った」元妻と偶然に再会し、目尻が熱くなった。 「澪、一緒に家に帰ってくれないか?」 澪は微笑んだ。 「篠原さん、変な呼び方はやめてよ。私たちはもう離婚した。今の私は、独身なのよ」
Voir plus澪はとっさにエプロンを受け止めた。あまりに慣れ親しんだ動作で、完全に無意識の反応だった。だが、汚れたエプロンを手にしても、以前のようにすぐ身につけることはしなかった。これまで親戚が集まる食事会では澪が一番忙しかった。全部で三十品以上の料理を、野菜を洗うところから始め、下ごしらえ、調理、盛り付けに至るまで、すべて澪の仕事だった。厳は澪を気遣い、そこまでしなくていいと言ってくれた。本家にはプロの料理人も家政婦もいるからだ。しかし、厳が自分の手料理を好んでくれることを知っていた澪は、毎回進んで台所に立った。他の親戚たちも、厳の手前、当たり障りのない称賛の言葉をかけるだけだ。その後、一族全員分の食器を洗い、片付けをするのも澪の役目だった。義母が「女は家事を切り盛りできてこそ、良妻賢母というものよ」と言っていたからだ。澪は疲れていても、一日働き詰めた後に洵から「ありがとう」と言われるだけで報われた気がしていた。その言葉を聞けば、疲れなど吹き飛んだ――馬鹿げているにも程がある。「何ぼさっとしてんのよ、早く行きなさいよ!」叔母の雅子に急かされても、澪は動かなかった。それどころか、汚れたエプロンを脇へ放り投げた。「台所には料理人も家政婦もいます。私が行っても邪魔になるだけですから」雅子は呆気にとられた。「何言ってるの?篠原家の嫁が働かないなんてことあるわけ?」「叔母さんたも篠原家の嫁でしょう?どうして働かないんですか?」澪の切り返しに、雅子は舌を噛みそうになった。「何よその口の利き方は!目上の者に対する態度じゃないわよ。あなたは目下でしょ、私と比べられるわけ?」「目上の方なら、なおさら謙虚さを持つべきではありませんか?目下の私に譲り、自ら進んで働いて手本を見せるべきでしょう」澪の言葉に、雅子は愕然とした。澪とこれほど長く付き合ってきたが、彼女がこんなに口が達者だとは知らなかったのだ。「あなた、今日はおかしいんじゃないの?美恵子さん、ちょっと来て!この自慢の嫁を見てちょうだい!」雅子は篠原美恵子(しのはらみえこ)を呼びつけた。美恵子は澪の義母だ。こちらの騒ぎは他の人々の注意も引いた。澪が視界の端で捉えたのは洵の目にある深い失望の色だった。「何を騒いでおる!」二階から
「でも、私が行く理由なんてないわ」澪は顔を背けて言った。「爺さんが朝から、しばらくお前に会ってないってぼやいてたんだ。今日の食事会は本家でやる」洵の祖父、篠原厳(しのはら げん)は澪が篠原家に嫁いでから、誰よりも彼女に良くしてくれた人物だ。洵の表面的な優しさとは違い、厳の優しさは心からのものだった。踏み出そうとした足を、澪は結局引っ込めた。助手席のドアを開けると、中に座っていた人物を見て、澪は驚いた。「あら、夏目さん。また会ったわね」千雪が花のように微笑む。今日の彼女はピンクグレーのセットアップを身にまとい、甘くも高級感のある装いだった。首には洵が贈ったあのピンクダイヤのネックレスがあり、腕に抱えているピンクローズも、聞くまでもなく洵からのプレゼントだろう。澪は大学時代に洵が自分を射止めた頃を思い出した。彼は毎回ピンクローズを贈ってくれたし、付き合い始めてからのデートもいつもピンクローズだった。当時、ルームメイトは「洵さんにとって、澪はピンクの薔薇みたいに可愛い存在なんだよ」と冷やかしていたものだ。今にして思えば、恋をしている人間は確かに盲目になる。それは周りの人間も同じなのかもしれない。澪はわきまえて、後部座席に乗り込んだ。「ねえ、夏目さん……これからは澪さんと呼んでもいいかしら?私たち、だんだん親しくなってきたし、いつまでも夏目さんじゃ他人行儀だもの」澪は黙っていたが、千雪は構わず話し続けた。「ああ、そうそう、誤解しないでね。私の家と篠原家はもともと親しいの。だから家族の食事会に、洵がわざわざ私も呼んでくれたのよ」千雪はバックミラー越しに後部座席の澪を盗み見た。薄化粧をした澪の顔は以前よりもさらに青白く見えた。「私と洵は高校の同級生でしょ。付き合ってた頃はよく篠原家に遊びに行ったわ。みんなすごく良くしてくれて、私のことを家族みたいに扱ってくれたの。洵、覚えてる?一度、私がドジ踏んでお爺様のお気に入りの骨董品の壺を割っちゃった時、お爺様に怒られるのが怖くて、あなたが『俺が割った』ってかばってくれたこと……」「何年前の話だ……あれは俺が悪い。爺さんの書斎にお前を入れるべきじゃなかった」洵は運転しながら、千雪ととりとめのない雑談を交わしている。澪は初めて洵の車に乗った時のこ
今夜のパーティーが始まって二時間近く経つが、洵は一滴も酒を口にしていなかった。澪は洵の持病である胃痛が再発したのだと察した。ここ数日、離婚騒動で、これまで欠かさず煎じていた漢方薬を作っていなかった。洵も飲んでいないはずだ。配合も火加減も時間も、澪しか知らないからだ。いっそ痛みで死ねばいい――そんな考えが澪の脳裏をよぎった。だが、結局そこまで非情にはなれなかった。澪はスマホを取り出し、洵の胃痛を治す漢方の生薬名から配合、煎じ方に至るまで、事細かに書き出した。送信する前、何か挨拶や社交辞令、言い訳などを付け足すべきか迷ったが、何度も書いては消し、結局余計な言葉は一文字も書かずに送信ボタンを押した。洵のスマホがラインを受信したが、それを開いたのは洵ではなかった。千雪は背を向け、澪が送ってきた内容を暗記すると、そのメッセージを跡形もなく削除した。洵の方は接待の真っ最中だった。今夜は千雪の仲間とはいえ、知り合いも多く、付き合いは避けられない。だが、胃の痛みが限界に達しており、酒には一切手を付けていなかった。そのせいで彼の纏う空気は冷え切っており、まるで今夜のパーティーのすべてが気に入らないかのようだった。「洵……」パーティーが終わりに近づいた頃、千雪が湯気の立つ薬湯が入った椀を持ってきた。その香りに覚えはあったが、千雪と付き合っていた頃、彼はまだ胃を患っていなかった。「どうして俺が胃痛持ちだと知ってるんだ?それにこの薬……」洵は澪の方をちらりと見た。「あなたの体のことなら何でも知ってるわよ。この薬、漢方の名医に頼んで処方してもらったの。絶対効くから」実は千雪が莉奈と洋子に頼んで、澪から送られてきた処方箋通りに買いに行かせたものだった。煎じる時間がなく、簡易的に作ったものだが、多少は効果があるはずだ。「私のせいね。あの頃、私がわがままを言わなければ、あなたがこんなになるまで体を壊すこともなかったのに……」千雪は目を赤くした。薬の匂いに気づいた澪が振り向くと、千雪が小鳥のように洵の肩に寄りかかっているのが見えた。そして洵は千雪にレッドベルベットケーキを食べさせていた。レッドベルベットケーキ。澪はかつて、洵のために何度も作ったことがあった。洵は胃が悪く、辛いものも甘すぎるもの
「知らない顔だな。最近売り出し中の新人アイドルか?」「あの顔立ちはそこらのアイドルよりずっと綺麗だぞ」ピーターの隣にいる女性パートナーについて、囁き合う声が増えていく。ピーターの横に立つ澪の存在感は圧倒的だった。漆黒のベルベットのビスチェドレスが、完璧なボディラインを完璧に引き立てている。ウェーブのかかった髪はアップスタイルにまとめられ、そこにあしらわれた白と黒のダイヤモンドが密に敷き詰められたヘアクリップは「ピアノ」シリーズで最も高価なジュエリーであり、目を逸らせないほどの輝きを放っていた。洵はピーターの連れているその女性の後ろ姿に見覚えがあると感じていた。そして、相手が振り返った瞬間、息を呑んだ。「澪?!」千雪、莉奈、洋子も驚愕に目を見開いた。洵は言葉を発しなかったが、その両目は以前よりも強く輝いていた。澪がこれほど鮮烈な赤いリップメイクをしているのを、彼は初めて見た。濃厚なメイクだが下品さは微塵もない。スタイリストの腕が良いのか、それとも澪という「素材」が良いのか。「まさか夏目さんが新しいパトロンを見つけていたなんて。私、余計な心配をして損しちゃったわ……」千雪がしおらしい声で言うと、洵の瞳の中の冷たい光が明滅した。今夜の澪の装いはすべてピーターから借りた「プレゼント」だった。洵と千雪がいちゃつく姿など見たくはなかったが、来てしまった以上、逃げ帰る道理はない。洵の視線は最初こそ澪に向けられたが、その後はまるで彼女が見えていないかのように、相変わらず千雪と寄り添っていた。その絵に描いたようなハンサムな顔に、澪は自分には一度も見せたことのない笑顔と優しさを見てしまった。洵を見返してやりたいという澪の勝気な心は次第に敗北感へと変わっていった。彼女は冷静さを取り戻すために洗面所へ向かった。離婚を決意したのだから、今さら気にする必要はないはずだ。洗面所から出た時、足の痛みは無視できないほどになっていた。普段履き慣れないハイヒールが、ひどい靴擦れを起こしている。澪は踵を見ようと体をよじり、バランスを崩して倒れそうになった。だが、誰かがとっさに彼女を支えた。「あり……」礼を言いかけた澪の視線が、洵とぶつかった。洵の微笑んだような唇は魅惑的で、瞳は宝石のように深い。だが、至近距