Masuk夏目澪(なつめ みお)は流産した。 彼女は篠原洵(しのはら まこと)を十年も愛し、大学二年で中退して結婚した。結婚生活三年間、文句も言わずに尽くしてきた。 あの秘密のファイルを見つけるまでは。 自分が、洵と彼の「忘れられない初恋の人」との身勝手なゲームの一部に過ぎなかったことを、彼女は知ってしまう。 病室で、洵がその初恋の相手と海釣りをしていると知り、澪は離婚を切り出した。 かつて誰にも見下されていた専業主婦は見事に変貌を遂げた。 高級ジュエリーブランドのマスターデザイナーに。世界的なピアニストが唯一の師匠に。サーキットの女神に。 外務省トップ高官の令嬢に。そして、資産数兆を誇る上場企業のトップに…… 澪の周りに求婚者が増えていくのを目にして、洵は執拗に彼女に付きまとい始めた。 澪はその煩わしさに耐えかね、自らの死を偽装して姿を消した。 空の墓の前で、洵は夜ごと膝がすり切れるほどに跪き、許しを請い続けた。 ついにある日、彼は「死から蘇った」元妻と偶然に再会し、目尻が熱くなった。 「澪、一緒に家に帰ってくれないか?」 澪は微笑んだ。 「篠原さん、変な呼び方はやめてよ。私たちはもう離婚した。今の私は、独身なのよ」
Lihat lebih banyak体がぐらつき、澪は洵に突き落とされるのだと思い、冷や汗が噴き出した。だが洵はすぐに彼女の手首を掴み、強く抱き寄せた。澪は目を丸くし、心臓が早鐘を打った。洵の腕の中からは、いつも良い香りがした。今もそうだ。だが香水が変わっていた。今の香りは氷河の雪解け水のように清冽で凛としていながら、ラストノートには危険で魅惑的な香りが漂っていた。澪は心拍数の上昇が洵に抱かれているせいではないと分かっていた。恐怖の余韻だ。洵は彼女を抱いたまま、屋上の縁に立ち続けていた。一歩間違えば、あるいはバランスを崩せば、二人とも真っ逆さまなまま墜ちる。八十階から落ちれば、肉塊になるしかない。澪は身動きできず、洵に抱かれるがままになっていた。風が強くなった。時間の流れが遅くなったように感じた。「これが、お前の望んだ結果か?」洵の冷たい声は霜が降りるようだった。澪は答えなかった。「訴訟を起こして離婚を迫り、会社の時価総額を吹き飛ばし、社員を飛び降りさせる」洵が言い終わらないうちに、澪は猛然と彼を突き放した。洵は胸元に衝撃を感じ、反射的に澪の手を掴んだ。屋上の縁での揉み合いは、心中でもしようとしているかのように見えただろう。だが洵の言い草に、澪は我慢ならなかった。「社員を飛び降りさせて私に何の得があるのよ!飛び降りさせるなら、あなたを落としてやるわ!」毛を逆立てた猫のような澪を見て、洵は肩をすくめて笑った。「売り言葉か?本音か?」「本音よ」澪が答えると、洵はさらに笑った。信じていない証拠だ。「お前の意図がどうあれ、誰がリークしたにせよ、訴訟になればこうなることは避けられない……澪、今日飛び降りた江川は、佐々木の親戚だ……」澪は目を見開いた。「命は助かったが……今回の件でリストラされたり、減給されたり、左遷されたりしたのは彼一人じゃない……会社が傾けば、どれだけの社員が影響を受け、どれだけの家庭が巻き込まれるか、考えたことはあるか?」「……だから何?全部私のせいだって言いたいの?」「離婚はやめにできないか?」洵の声は淡々としていたが、いつものような冷徹さや威圧感はなかった。一瞬、彼が懇願しているのではないかと錯覚するほどだった。冷たい夜風が二人の間を吹き抜け、二人の体温
そして実際に裁判になれば、隼人の実力なら、たとえ篠原家の弁護団が相手でも、澪が勝つ確率は極めて高い。千雪が望むのは、当然澪の勝利だ。洵と澪を離婚させ、澪から「篠原夫人」という身分を完全に剥奪したいからだ。当初、事態は彼女の掌の上で進んでいた。しかしジョーカーからの情報で、今日の担当裁判官である板橋(いたばし)判事が、洵の昔からの友人であることを知った。板橋の一人息子が海外でトラブルに巻き込まれた際、洵が自ら出向いて彼を救い出し、無傷で連れ帰ったのだという。板橋は洵に多大な恩義を感じている。本来の担当裁判官は板橋ではなかったが、意図的に変更されたのだ。その目的は言うまでもない。たとえ隼人がどれほど雄弁でも、板橋が澪と洵の離婚を認めることはないだろう。だから、千雪は危険な賭けに出た。ジョーカーを使って情報を自称ジャーナリストにリークさせ、さらにサクラや配信者を使って騒ぎを大きくさせたのだ。騒ぎが大きくなればなるほど、洵は引くに引けなくなり、流れに乗って離婚せざるを得なくなるはずだ。現在、篠原グループはスキャンダルで大混乱に陥っている。篠原家にとっては深刻な打撃だが、千雪は洵なら立て直せると信じていた。うまくいけば、洵は今回の損失をすべて澪のせいにするだろう。業や美恵子も同様だ。それに今や世間は洵が既婚者であることを知っている。そして自分は洵と公然と行動を共にしている。世間の目には、自分は「妻」か「愛人」のどちらかにしか映らない。洵は自分を大切に思っている。自分が愛人だと誤解されて泣きつけば、洵が無関心でいられるはずがない。千雪は分かっていた。洵はかつて自分に捨てられたことをまだ根に持っており、だからこそ優しく接しながらも結婚を口にしないのだと。洵の愛も、篠原夫人の座も、自分は両方手に入れるつもりだった。夜の闇は光を通さない黒い布のように深かった。夏の終わり、秋の気配を含んだ夜風が吹く。澪は上着をきつく体に巻きつけた。篠原グループ本社の屋上に来たのは初めてだった。広々としていて、誰もいない。自分と……隣にいる洵を除いては。本社ビルは八十階建てで、屋上は庭園になっている。景色を楽しむには絶好の場所だ。だが、離婚訴訟で泥沼の最中にある今、それは不釣り合いに思えた
その日一日、澪は自宅に籠もって嵐が過ぎ去るのを待った。ネット上では、洵が不倫をして妻と離婚訴訟中であることが暴露されていた。妻が誰なのかは明確にされていなかった。だが、妻側の代理人が隼人であることは詳しく書かれていた。相手は、洵の妻が澪であることを知っているのだと確信した。最初、世論の矛先は洵だけに向いていた。しかし炎上が広がるにつれ、新たな情報が次々と投下された――【篠原洵の妻は不妊症、離婚は妻側の有責か?】【離婚訴訟はカモフラージュ?篠原洵の妻、担当弁護士と不倫疑惑】どう見ても、この炎上は何者かが意図的に誘導しているとしか思えなかった。このタイミングで裁判所に行けば、待ち構えているメディアの格好の餌食になるだけだ。澪は隼人を通じて裁判所に期日変更を申し立てた。洵側からの連絡はずっとない。洵が連絡してこないのは、会社の対応に追われているからだと理解していた。今回のスキャンダルは篠原グループ始まって以来の危機と言える。ネットニュースによれば、篠原グループは一日で株価が大暴落し、時価総額が吹き飛び、甚大な損失を被ったという。傘下の子会社では大規模なリストラが始まり、職を失った社員が飛び降り自殺を図ったという情報まであった。幸い警察と救急隊が間に合い、エアマットで救助されたようだが、負傷し、精神状態も極めて不安定な状態で病院に搬送されたという。事態がここまで悪化するとは、澪も予想していなかった。彼女は隼人に電話し、情報をリークしたのはあなたかと単刀直入に問い詰めた。「俺のプロ意識を疑わないでいただきたい。依頼人と案件の情報を漏らして俺に何の得がある? ましてや非公開審理の申請は契約事項に含まれている。違反すれば高額な違約金を支払うだけでなく、俺の名誉にも傷がつく。俺は女好きで性格は悪いかもしれないが、馬鹿じゃない。自分の活路を潰すような真似はしないよ」電話は一方的に切られた。隼人も怒っているようだった。もともと脅迫まがいで引き受けさせた案件だ。裁判も始まらず、報酬も得ていないのに、とんだとばっちりを受けたと思っているのだろう。澪はスマホを握りしめながら、隼人の言うことにも一理あると思った。彼にリークするメリットはない。通常、裁判は公開されるものだが、洵の立場を考慮
「君は子供に好かれるね」澪は答えず、ただ微笑んだ。「そんなに子供好きなら、自分で産めばいいじゃないか?」澪の顔色が一瞬にして変わったのを見て、隼人は失言したと悟った。公園を後にし、隼人の自宅へ向かう道すがら、澪は一冊のファイルを隼人に渡した。「私の離婚訴訟を手伝って。そうすれば、中のことには目をつぶるわ」隼人は澪の脅迫を鼻で笑った。どうせ過去の依頼人との肉体関係をネタにするつもりだろうと高をくくっていたのだ。「確かに、あなたが女好きのクズだという噂は広まっても痛くも痒くもないでしょうね。依頼人は実力を買っているのであって、人格に期待しているわけじゃないから。だから……学歴詐称や学位記偽造のスキャンダルの方が、キャリアには致命的よね?」隼人は足を止めた。その顔から、いつもの不真面目な態度は消え失せていた。「君の案件、引き受けるよ。明日事務所で詳細を詰めよう」「話が早くて助かるわ」澪は微笑んだ。洵の耳にもすぐに情報が入った――澪が隼人に離婚訴訟を依頼したと。「あの高見弁護士ですか……」社長室で、佐々木は何か言いかけたが口をつぐんだ。出過ぎた真似だと思ったのだ。洵と澪の間のことに口を出すべきではない。だが、心配せずにはいられなかった。澪が隼人の依頼人になったと聞いた時の、洵の様子が忘れられない。沈黙を守り続けていたが、その表情は氷のように冷たく、殺気さえ帯びていた。隼人の悪評を知らないはずがない。洵が、澪をふしだらな女だと誤解するのを恐れた。同時に、澪が隼人に「食い物」にされるのも心配だった。隼人の私生活の乱れ、特に女性依頼人との関係は有名な話だ。佐々木は何度も洵に何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。「その件は周防弁護士たちに任せろ」洵はそう指示しただけだった。数日後、洵の弁護団に裁判所からの召喚状が届いた。弘嶺(こうれい)区裁判所、来週月曜十時開廷。事態は洵の想定から外れ始めていた。海斗たちに巨額の慰謝料を盛り込んだ離婚協議書を作成させたのは、単に澪に分からせるためだった――離婚はできないと。少なくとも、彼女の一存では無理だということを。だが今は……クラウド・ジェイドで、洵は一人リビングのソファに横たわり、まどろんでいた。