Masuk
「……ったく、お前はまた荷物多いな。ほら、半分持ってやるよ」
ぶっきらぼうな声と一緒に、志保の右手がふっと軽くなった。 見ると隣を歩く良樹が、志保のスクールバッグの持ち手をひょいと掴んでいる。 ひとつのバッグを2人で持つ、なんだかヘンテコな格好だ。 「え、いいよ! 重くないから大丈夫!」 「嘘つけ。さっきからフラフラしてんじゃねえか。いいから黙って歩けよ」 有無を言わせない、いつもの口調。 良樹の大きな手に、志保の小さな手が触れそうになる。 慌てて持ち手を握り直すと、夕暮れのオレンジ色が良樹の少し茶色がかった髪をキラキラと照らした。 「……ねえ、よしくん」 「あん?」 「私、今日の古文の小テスト、ひどかったんだ……」 「知ってる。オマエ、答案用紙返された時すげえ顔してたからな。この世の終わりみたいな顔してたぜ」 「もぉ、よしくん、ひどい!」 口をとがらせてむくれる志保に、良樹が背中を揺らして笑う。 「別にいいだろ、それくらい。オマエ、他は良いんだからさ」 「でも……」 「でもじゃねーって。たまにテストが悪かったくらいで、父さんも母さんも怒りゃしねえよ」 「それは、そうだけど……」 「んなことより、車道側歩くんじゃねえよ。歩道側歩け、歩道側。カバン持ってやっから」 そう言うと良樹はカバンを一人で持ち、身体をスッと入れ替えて、自分が車道側を歩くようにした。 (……あ) まただ、と志保は思った。 二人で歩く時、彼はいつもこうやって、当たり前のように志保を歩道側にする。 いつもそう。初めて会った小学生の頃から、それは全く変わらない。 「ねえ、よしくん……これって樹さん――お父さんに言われたの?」 前から一度聞こうと思っていたことを志保は聞いてみた。 良樹の眉がわずかにピクリと動く。 「……別に。父さんが母さんと歩く時、いつもそうだからさ」ポツリと、まるで独り言のような小さな声でつぶやく。
「誰に言われたわけでもねえし、そういうもんだと思ってただけだよ。ずっとそうやってきたから、今じゃもう隣りが誰でも、自分が車道側にいねえと落ち着かねえんだ」
「……そっか」――隣が誰でも。
その言葉が、ほんの少しだけ志保の胸の柔らかいところに刺さった。「それがどうかしたのか?」
良樹が、少しだけ訝しげに志保を見た。 その瞳は、夕日を浴びてなんだか少し大人びて見える。 「ううん、なんでもない。バッグ、重いでしょ? ありがとう」良樹の大きな手が、すぐそこにある。指先が触れそうになるたび、志保の心臓が馬鹿みたいにうるさく跳ねる。
(もうっ。お願いだから、そんなに優しくしないでよ……) その優しさが、今は少しだけ苦しい。 爪が白くなるほど、志保はバッグの持ち手を握りしめる。 ――でも、この温かい時間が永遠に続いたらいいのにな。 彼女は、心の底からそう願っていた。 「ただいまー」 2人が玄関のドアを開けると、キッチンからパチパチと何かを炒める小気味好い音と、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。 「おかえりなさい、良樹、志保ちゃん。すぐにご飯にするから待っていてね。先に手を洗って着替えてらっしゃい」 ひょっこり顔を出したのは薫子。良樹の母親だ。 その声はいつも優しい。 ダイニングに行くと、良樹の父親である樹と、兄である竜樹がいた。妹の瑞樹は薫子の手伝いをしている。(あれ? 竜樹さんがもう帰ってる?)
竜樹は高校のバスケ部所属で練習練習に明け暮れていて、毎日朝は早いし帰りは遅い。 それなのにどうして今日は……? 「竜樹さん、今日は練習ないんですか?」 志保がそう尋ねると竜樹は「え? ああ、まあ、色々あってな」と、目を泳がせながら口ごもり曖昧に答えた。 その歯切れの悪さに疑問を感じていると、瑞樹が答えを教えてくれた。 「竜にいはねぇ、今日のテストで赤点だったから、罰として練習を禁止されたんだって」 「バッ……瑞樹、オマエ、言うなって約束したろ」 「なんだ、兄貴もか。よかったな志保。テストが悪かったのは、オマエだけじゃなかったじゃん」 「ちょっと、よしくん!」 「お、なんだ、志保もテストの点悪かったのか? 俺と一緒だな」 「もお、よしくんったらぁ。なんでみんなに言うのぉ?」 志保の抗議の声も、すぐにみんなの楽しそうな笑い声に溶けていく。 その温かい音の波に包まれていると、一日中こわばっていた肩の力が、不意に抜けていくのを志保は感じた。良樹たちの中学校には給食がない。そして屋上がいつも開放されているので、彼ら4人はだいたい毎日一緒に屋上でお弁当を食べている。 「そういえば川島さ、最近渡辺さんと仲良いんだって?」市原が、ふいにそう話しかけた。「いや、何の話だよ」「知らないの? 川島が浮気してるって、最近噂の的だよ?」 良樹は、はぁ、と大きくため息をついた。 その手の話は、小学生の時に志保と一緒に通学するようになり、やがて一緒の家で暮らしているとバレてからは格好の標的にされた。 もう今更いちいち反応するのも疲れる。 「俺は志保以外の女の子と話すだけで、なんでいちいち浮気とか言われんのかね」「まあまあ。で? 渡辺さんと仲が良いって、ホントなの?」「席が隣りなら、誰だってなんか話すだろ。別に普通じゃねーの?」「普通なのかなぁ? 結構楽しそうに話してるって聞くけど」 市原は、黙って良樹を見つめていた。 その瞳には、いつものような、からかうような光は全くなかった。 「で? 川島は渡辺さんのこと、どう思ってんの?」 あまりにもまっすぐな質問に、志保は思わず息を呑んだ。 自分が一番聞きたいこと。でも、絶対に聞けないこと。それを市原が、いとも簡単に口にしてしまった。 良樹は、まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったのか、少しだけ面食らった顔をした後で、頭をガシガシと掻きながら答えた。 「どうって……別にどうもこうもねえよ。アイツ、見た目と違って話すと面白いし……色々噂はあるみたいだけどさ、悪いヤツじゃないと思うんだよ、俺はさ」 ―― 悪いヤツじゃない。 その言葉が、志保の胸に重くのしかかる。 良樹は否定、してくれなかった。ただのクラスメイトだと、笑い飛ばしてはくれなかった。 「ふーん……」 市原は良樹の答えを聞いて、何かを納得したように短くそう呟くと、それ以上は何も言わなかった。 「何よ市原。川島が渡辺さんと話してるのが、そんなに気になるわけ?」 美咲がそう問いかける。 「別にそんなんじゃないけどさ……ただ、ちょっと気になっただけだよ」 そう言って笑う市原の横顔は、いつものようなカラッとした笑顔ではなく、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。 2人きりの帰り道、先に口を開いたのは良樹だった。 「昼間市原が言って
夕食を終え、居間で『8時だョ!全員集合』を見ながら皆がそれぞれくつろいでいると、薫子がなにやら持って居間に入ってきた。「母さん、何それ」「これね、昔の写真なんだけど、押し入れの中を整理していたら出てきたのよ。あんまり懐かしいもんだから、みんなにも見せようと思って」 それは色褪せている3枚の写真だった。3枚すべてに志保の知らない犬が写っている。 その犬と良樹が戯れているモノ、志保のいない川島家の全員とのモノ、そして子供たちと犬が遊んでいるモノ。「うわっ! 懐かしいな! タローじゃん、これ!」 良樹が思わず歓喜の声をあげる。「この犬は?」「これはね、タローっていって、ウチの隣りに住んでいたご家族の飼い犬なの。良樹がまだ小学校に入る前の頃の写真ね」 それは志保が川島家に来る何年も前に撮られたものだという。「あー、ホントだ! タローだ!」「タローかぁ、久しぶりに見たなぁ。すっかり忘れてたわ」 川島家の誰もが、このタローという名の犬の思い出を楽しそうに語る。「俺が帰ってくると、もうずっと前から気づいてるらしくて大騒ぎでなぁ」「なんか犬って、そういうのわかるらしいよ」「瑞樹は怖がってたじゃねーか」「だって、あの頃ってまだ幼稚園にも行ってない頃だもん。今なら大丈夫だけど、タローってグイグイくるから」「あれはタローの愛情表現なんだろうけど、まああの頃の瑞樹にゃわからんよな」「たしか、俺が小学校へ入る年に引っ越しちゃったんだよな」「そうね。異動で引っ越してしまったのよね。私もタローを可愛がってたから、寂しかったわ」「母さん、散歩に連れてったりしてたもんな」「人懐っこくて可愛いコだったよなぁ……」「誰かタローに噛まれたことなかったっけ?」「あ、それ、俺だわ」「あのタローに噛まれるって、いったい何をしたのよ」 楽しそうな笑い声。 みんなが昔話に花を咲かせて盛り上がっている。 志保も笑顔で頷いていた。 だが彼女は「そうなんだ」とか「へぇ」などと相槌を打つことしかできない。「志保ちゃんは、犬、好き?」 不意に薫子が、輪に入れていない志保に気づいたのか、優しくそう問いかけた。「あ、はい。好き、です」「そう。よかったわ。もしまたこの辺りに引っ越してくることがあったら、志保ちゃんもタローに会わせてあげたたいわねぇ」
「よお、川島! 槇原さん! おはよう!」 通学路の途中で、後ろから爽やかで明るい声が聞こえた。良樹の親友、市原慎司だ。 「何の話してたの? なんか成績がどうとか聞こえたけど」「ああ、それが聞いてくれよ市原。志保のヤツがさぁ、高校も一緒のとこに行こうとか言うんだぜ? 無茶だと思わねえ?」「だって、高校も一緒だったら楽しいじゃない」 市原は、少し困ったように笑って志保を見た。 「……槇原さん、それは、さすがにレベルが高すぎるんじゃないかな、川島に勉強させるのは、ゴリラに水泳をさせるようなもんだよ?」「なんだ、そりゃ」「でも、まだ2年生の1学期だし、今から真剣に勉強すれば絶対間に合うと思うの。よしくん、頭は悪くないんだから」 志保の真剣さに市原は苦笑いを浮かべる。「志保ぉ、おはよう。みんなも、おはよう」 そのタイミングで救いの神のように現れたのは、志保の親友、江藤美咲だった。「おっす」「おはよー」「おはよう、美咲ちゃん」「なんか朝から盛り上がってるみたいだけど、何の話してるの?」「いやね、槇原さんが川島に、同じ高校に行こうって言ったらしくてさ」「あー」「オマエ、あーってなんだよ。朝から失礼なヤツだな」「だって川島と志保じゃ、成績が違い過ぎてさぁ……」「うるせえなぁ。んなことオマエに言われなくたって、わかってるっつーの」「だから、大丈夫だよ。よしくんは、絶対やればできるよ」「ムリ、ムリ。ムリだって、志保。川島に勉強させるなんて、あきらめた方がいいよ、絶対」 志保は唇を噛んだ。 どうして誰も「良樹は頑張ればできる」って言ってくれないんだろう。 (よしくんは、絶対やればできるのに……) 本音を言えば、志保は良樹に何か言ってほしかった。「俺、頑張るから」と、そのたった一言でいいのに。 けれど彼は、困ったような顔で彼女の願いを拒否し続けるだけ。 その態度が、市原たちのどんな言葉よりも、冷たく志保の胸に突き刺さる。 ――私のこの願いは、よしくんにも、誰にも届かないのかなぁ……。 4人は市原慎司だけが別のクラスだ。 志保の席は窓際の一番前。良樹の席は真ん中の列の後ろの方で、志保の席からは少しばかり遠い。 自分の席にバッグを置きながら、志保は何気なく良樹の方に視線を送った。 (
「志保ちゃんがテストの点数が悪いなんて珍しいな。良樹ならともかく」「父さん、うるさいし!」「だいたい志保ねえの悪い点数が、良にいの最高点数だもんね~」「うっせぇよ」 みんなのやり取りを笑顔で聞きながら、志保はそっとテーブルの下にある自分の手のひらを見つめる。 ――この身体に、この人たちと同じ血は流れていない。 その事実だけが、この部屋の温かい空気の中で、指先だけを冷たくさせた。 「志保ちゃん、どうかした?」 薫子が、輪から外れた彼女に気づいて、優しく微笑みかける。 「……ううん、なんでもないです」 胸の奥の小さな痛みを、志保は無理やり笑顔で飲み込む。 (もう、失いたくない……) この場所が、この幸せが永遠に続きますようにと、志保はただそれだけを願っている。 そう、心から願っているはずなのに。 それなのにそんな彼女の心の奥底で、もう一人の自分がいつも囁いている。 こんなに完璧な幸せが、ずっと続くわけないよ……と。 その日の朝も、いつもの朝と何ひとつ変わりはない。2人が何度も繰り返してきた毎朝の風景。今日もそれの繰り返しだ。 「よしくーん。おはよー。もう朝ごはん出来るよ。起きて一緒に食べよ?」 志保がそう声をかけても、良樹は簡単に起きず、なかなか布団から出ようとはしない。 「あぁ? もうそんな時間か?」 布団に潜ったまま、眠そうな声で良樹が言う。 (きっとまた漫画を読んで夜更かししたのね) もうホントに手がかかるんだから、と思いながら志保は布団ごと良樹を揺さぶって起こし続ける。 「また昨夜も夜更かししてたんでしょ。睡眠不足は身体に良くないんだよ? 早く起きないと、よしくんの分の卵焼き、私が食べちゃうからね!」「ま、待て! それはダメだ!」 良樹は慌てて、弾かれるように勢いよく起き上がった。彼は母の作る卵焼きが大好物なのだ。「もう、食いしん坊なんだから」 志保はわざと呆れたようにそう言い、くしゃくしゃの寝ぐせ頭を見て思わず口元を緩めた。 (毎朝こうなんだから、ホント困っちゃう) こうして良樹を起こして、それから彼女のいつも通りの朝が始まる。 通う中学校までの道のりを、良樹と志保はいつも2人で歩いて行く。 中学校までは歩いてだいたい30分くらいかか
「……ったく、お前はまた荷物多いな。ほら、半分持ってやるよ」 ぶっきらぼうな声と一緒に、志保の右手がふっと軽くなった。 見ると隣を歩く良樹が、志保のスクールバッグの持ち手をひょいと掴んでいる。 ひとつのバッグを2人で持つ、なんだかヘンテコな格好だ。 「え、いいよ! 重くないから大丈夫!」「嘘つけ。さっきからフラフラしてんじゃねえか。いいから黙って歩けよ」 有無を言わせない、いつもの口調。 良樹の大きな手に、志保の小さな手が触れそうになる。 慌てて持ち手を握り直すと、夕暮れのオレンジ色が良樹の少し茶色がかった髪をキラキラと照らした。 「……ねえ、よしくん」「あん?」「私、今日の古文の小テスト、ひどかったんだ……」「知ってる。オマエ、答案用紙返された時すげえ顔してたからな。この世の終わりみたいな顔してたぜ」「もぉ、よしくん、ひどい!」 口をとがらせてむくれる志保に、良樹が背中を揺らして笑う。 「別にいいだろ、それくらい。オマエ、他は良いんだからさ」「でも……」「でもじゃねーって。たまにテストが悪かったくらいで、父さんも母さんも怒りゃしねえよ」「それは、そうだけど……」「んなことより、車道側歩くんじゃねえよ。歩道側歩け、歩道側。カバン持ってやっから」 そう言うと良樹はカバンを一人で持ち、身体をスッと入れ替えて、自分が車道側を歩くようにした。 (……あ) まただ、と志保は思った。 二人で歩く時、彼はいつもこうやって、当たり前のように志保を歩道側にする。 いつもそう。初めて会った小学生の頃から、それは全く変わらない。 「ねえ、よしくん……これって樹さん――お父さんに言われたの?」 前から一度聞こうと思っていたことを志保は聞いてみた。 良樹の眉がわずかにピクリと動く。 「……別に。父さんが母さんと歩く時、いつもそうだからさ」 ポツリと、まるで独り言のような小さな声でつぶやく。「誰に言われたわけでもねえし、そういうもんだと思ってただけだよ。ずっとそうやってきたから、今じゃもう隣りが誰でも、自分が車道側にいねえと落ち着かねえんだ」「……そっか」 ――隣が誰でも。 その言葉が、ほんの少しだけ志保の胸の柔らかいところに刺さった。「それがどうかしたのか?」 良樹が、少し







