第12話

隼人の緊張した眼差しを正面から受け止め、紗季は胸の奥で皮肉に思った。

まるで「自分が余計なことを耳にして傷ついてしまうのではないか」と怯えているかのような慎重さ。

けれど隼人は、裏では紗季を失望させることばかりしてきた。

偽の証明書を作らせ、美琴を帰国させて秘書に据え、紗季の体調が悪いときには真っ先に美琴を庇う――

その一つひとつが、紗季を深く傷つける行為だった。

紗季は視線を外し、淡々と口を開いた。「あなたのところへ行く前から具合が悪くて……それで酒場の前で倒れただけ。何も聞いてはいないわ」

隼人が安堵しかけたその瞬間、紗季はさらに問いを重ねた。「でも……あなたは私が『何かを聞いてしまう』ことを恐れているの？」

澄んだまなざしがまっすぐ突き刺さった。

隼人は一瞬、言葉を失った。

脳裏によぎったのは、友人たちの無神経な冗談だった。そして結局、自分は怒鳴ってその場を終わらせただけだったこと。隼人は無理に笑みを浮かべた。

「いや、違う。ただ、お前に俺があんなに酒を飲んでるところを見て、心配させたり怒らせたりしたくなかったんだ」

紗季はじっと隼人を見つめ、真剣に言った。「もうしないよ」

隼人は笑ってごまかすように尋ね返した。「しないって？心配しない？それとも怒らない？」

以前なら、こんな軽口を叩けば紗季は頬を膨らませて甘えてみせた。

あるいは、冗談めかして怒ったりしたものだ。

けれど今は違う。

隼人はもう夫ではない、心配する理由も甘える理由もない。

――それは美琴の役割だ。

その時、廊下から足音が近づいてきた。

医師が検査結果を手にして入ってきた。顔は険しかった。

隼人は立ち上がり、笑みを消して尋ねた。

「先生、検査の結果はどうでしたか？」

その言葉に紗季の胸が一瞬止まった。

――検査？

では、自分の病のことがここで明かされるのか。

紗季は眉をひそめ、身を起こした。

医師は検査表をめくりながら首を振った。

「紗季奥様の数値はどれもあまり良くありません。特に、頻繁な鼻血による貧血と体力の低下が目立ちます。このままではさらに悪化し、倒れる可能性も高いでしょう」

握りしめていたシーツから力が抜けた。

――そう。

普通の検査では脳腫瘍は見つからない。

それでも隼人は気を緩めず、胸が大きく上下するほど動揺していた。

眉をひそめ、真剣に問う。

「鼻血の原因は一体何なんですか？」

「断定はできません。乾燥、寝不足、のぼせ、あるいはアレルギーなど様々な要因が考えられます。念のため血液検査をされますか？」

医師が紗季を見て問いかけた。

紗季は首を横に振った。

「結構です。前にも検査を受けたことがありますが、寝不足やのぼせが原因だと言われましたから」

医師はうなずき、いくつか注意を告げてから針を抜いた。

紗季はベッドに寄りかかって休んだ。

隼人は検査表を何度も見返し、スマホで一つひとつ調べてはどう改善できるかを必死に探していた。

その姿を横で見ながら、紗季は心の中で呟いた。

――そんな役を演じなくていいのに。「深く愛する夫」を装うのは虚しく、ただ不快なだけ。

紗季はやんわり言った。

「休みたいの」

「わかった」

隼人は出ていく気配を見せず、上着を羽織ってそばに付き添う構えを見せた。

「名医の漢方医を呼ぼう。体に合う薬で早く栄養を補えるかもしれない。彼は信頼できるから、診ればすぐに不調が分かるはずだ」そう言って優しく慰める。

紗季は唇を結び、顔を背けた。

――もうすぐ死ぬ身なのに、何を補おうというの。

隼人はその異変に気づかず、布団を掛け直した。

「寝なさい。俺がここにいるから」

拒もうとしたその時、ドアの外に人影が差した。

「入ってもいいかしら？お邪魔じゃない？」

顔を上げると、美琴が病院の服を着て、にこやかに立っていた。目は柔らかく澄んでいる。

隼人は慌てて立ち上がった。

「心臓の調子が悪いんだから安静にしていろって言っただろ、どうして来たんだ？」

その慌ただしい様子に、紗季の胸は痛んだ。

美琴は柔らかな声で答える。

「病室にこもっているのが息苦しかったので、外を散歩していたの。そこであなたの車を見て、紗季さんを病院に連れてきたと知ったのよ」

そう言って隼人の背後に視線を移した。

「紗季さん、大丈夫？」

紗季はよそよそしくうなずいた。「だいぶ良くなったわ。お気遣いなく」

美琴はバッグを手に入ってきた。

「何を言ってるの。私と隼人の関係を考えたら、隼人の奥さんも私にとっては家族同然よ」

美琴は笑いながら隼人にウインクした。

隼人は落ち着かず、ちらりと紗季を窺った。怒っていないか気にしている。

紗季はそんな二人を見て、ますます滑稽に思えた。本物の夫婦はあちら。片や大らかに振る舞い、片や後ろめたくおどおどしている。

「帰ってちょうだい。休みたいの」

紗季が突き放すように言っても、美琴は気にせずバッグから包みを取り出した。

「差し入れを持ってきたの。こんな時間だしお腹が空いているでしょう？少しでも口にして」

取り出されたのはバナナと、透明の蓋付きの弁当箱。ぎっしり詰まった牛肉と野菜だった。

隼人が笑って礼を言う。

「栄養があるな、ありがとう」

「そんなに気を遣わないで。あなたのため……そしてあなたの奥さんのためなら当然のことよ」

美琴は弁当箱を開け、紗季の前に置いた。

紗季は表情を変えずに言った。

「いらないわ」

ぶっきらぼうな返事に、美琴は一瞬驚き、唇をきゅっと結んで傷ついたような顔をする。

「怒ってるの？」

紗季ははっきり告げた。

「私はあなたと親しくないし、食欲もない。まして見知らぬ人の料理を気軽に口にできるほど無神経でもないわ。理解できない？」

「ごめんなさい。私の勝手だったわね。隼人がいれば、きっと食事も用意してくれるのに……私が考え足りなかった」

美琴は顔を赤らめ、唇を噛みしめた。

隼人はそっと紗季の手を押さえた。

「紗季……美琴は善意でやってくれたんだ。そんな言い方はきつすぎるよ」

紗季は眉を寄せて問い返した。

「親しくないのは事実よ。どこが間違ってるの？」

美琴は慌てて弁当を片付けながら口を挟んだ。

「もうやめて。私のせいで喧嘩になるなんて嫌よ。紗季さんが食べないなら持って帰るわ」

そう言って弁当をバッグにしまおうとした時、中から別の物が滑り落ちた。

紗季は思わず目を向け、その瞬間、胸を鋭く刺されたように感じた。

――それは、一枚の婚姻届受理証明書のコピーだった。

何の前触れもなく、視界に飛び込んできた。

隼人も美琴も反応する前に、紗季は婚姻届受理証明書を拾い上げ、勢いよく開いた――