小林悠良(こばやし ゆら)は十八歳の頃から白川史弥(しらかわ ふみや)に付き従っていた。 ある事故で、彼のために自らを犠牲にし、失った聴力を取り戻した。 この喜ばしい知らせを伝えようと意気込んでいた矢先、彼が初恋の女性と甘く寄り添う姿を目の当たりにする。 彼は知っていた。 悠良がどれほど自分を愛していたかを。 自分のためなら命すら差し出すほど、怒ることもなく、ただ一途だったことを。 けれど今回は、悠良は何も言わず、静かに秘密保持契約書にサインした。 そして期限が来ると、彼の世界から完全に姿を消した。 彼女が消えたと知った史弥は、鼻で笑って一言。 「一週間もしないうちに、必ずおとなしく戻ってくる」 だが、三ヶ月が経った。 彼女はまだ戻ってこなかった。 焦燥に駆られた史弥は、狂ったように世界中を探し回る。 あれほど傲慢だった彼が、初めて頭を下げた。 「悠良、もういいだろ......もうやめよう?」 その後。 「悠良、戻ってきてくれ。なんだってするから......」 さらにその後。 「俺が死んだら、君は会いに来てくれる?」 再会のとき。 史弥は悠良の足元にひざまずき、震える手でお茶を差し出す。 「叔母さん、お茶をどうぞ」
View More史弥はすぐさま玉巳を優しく宥めた。「変なこと考えるなよ。悠良はさっき忙しかっただけだ。あとで飲むって言ってたから」玉巳の声はすぐにおどけた調子に変わった。「ウソつき。私、悠良さんが飲んだの見てないもん。史弥、お願いだから悠良さんにちゃんと説明してよ。私、たまに口下手だから、知らないうちに人を怒らせちゃうの」悠良は玉巳の甘ったるい声を聞いて、全身に鳥肌が立った。今となっては、本当に聴力なんて戻らなければよかったとすら思う。そうすれば、こんなふざけたやり取りを聞かずに済んだのに。「安心しろ。彼女はそんなことで怒らない。そんな器の小さい人間じゃないんだ。俺がよく知ってる」「じゃあ早く悠良さんに私の買ったコーヒー飲ませてよ」玉巳はまるで小さな女の子のように、鈴のように透き通った甘い声でそうねだった。誰もが拒めないような声音だった。史弥はそのコーヒーを悠良の口元に差し出した。[聞いただろ?あの子、心から謝ってるんだ。若い子の気持ち、受け取ってやって。2時間も並んで買ってきたんだぞ。それにここ数日怪我してて、歩くのも大変だったんだから]悠良は眉をしかめ、声を抑えて言った。「さっきも言ったけど、胃の調子が悪いの」[でも彼女、2時間も並んで買ってきたんだぞ。せっかくの気持ちを無駄にしたら、きっと気に病んで眠れなくなる]史弥はずっと悠良の唇の前からコーヒーをどかさなかった。その態度は明らかだった。悠良は、まるで全身の傷口に塩をすり込まれるような感覚に襲われた。もう痛みなんて感じない。ただの痺れだけ。唇をきゅっと引き結び、冷ややかに史弥を一瞥すると、その手からコーヒーをひったくり、彼と玉巳の目の前で一気に飲み干した。「これで満足?」史弥は彼女の頭をなでながら宥めるように言った。[怒るなよ。次からは無理に飲ませたりはしないから。でも君は白川社の社長夫人なんだよ?若い子にちょっとぐらい顔立ててやって]悠良は呼吸が詰まったように感じたが、反論はせず、そのままベッドに横になった。「疲れた。もう休むから、ドア閉めて」[ああ。会議が終わったらまた来るよ]史弥はそのタイミングで玉巳とのビデオ通話を切った。悠良は布団を握る手に力を込め、肩が震えていた。さっき飲んだコーヒーはすぐに効い
悠良は書類をめくる手を、思わずぎゅっと握りしめた。玉巳はあわてて弁解する。[悠良さん、誤解しないでね。ただ、今のあなたの立場がちょっと特殊だから、史弥も連れて行きにくいの。後で誰かに身内だからって特別扱いされたなんて言われたら大変でしょ?]悠良は視線をそっと逸らした。自分を連れて行けば非難される?でも玉巳なら非難されない?彼女は気を取り直して言った。「じゃあ、行っていいよ。後で整理してメールで送っておく」玉巳は満面の笑みを浮かべた。[さっすが悠良さん、一番優しいってわかってた!後で史弥と一緒にコーヒー買ってくるからね!]そう言い残して、スキップでもしそうな勢いで出て行った。悠良は冷笑する。足、治るの早かったのね。作業を終えた時には、すでに夜の10時になっていた。史弥からは、電話の一本もかかってこない。彼女はタクシーでひとり帰宅した。会社を離れる日も近いので、荷物の整理もしておくべきだろうと思ったのだ。帰宅して真っ先にしたのは、史弥からもらった指輪を売ること。それに、彼が昔プレゼントしてくれた高級品の数々も。全部、中古マーケットに出品した。今の彼女にとって、それらはもう金銭的な価値しか持っていない。気に入っていた洋服をいくつかスーツケースに詰めて、ふと机の上の写真に目をやる。大学時代に一緒に撮ったもので、彼女が前に立ち、彼が後ろから愛おしそうに見つめている写真だった。写真一枚からでも彼の愛情が感じられたあの頃。けれど今は、目の前に生身の彼がいるのに、その眼差しには何も感じられない。あるのは、偽りだけだった。史弥が帰宅すると、スーツケースが目に入って、表情が一瞬で変わった。早足で部屋に入ってくる。悠良はパソコンで、史弥からもらった品の売却手続きをしていた。相手からの送金通知が来るところだった。史弥はベッドの端に腰を下ろし、彼女の腕にそっと手を添える。昼間のような冷たい気配はもうなかった。[荷造りしてどうしたの?どこか行くのか?]悠良はスマホに届いた金額を見る。1600万円。売ったのはただのアクセサリーじゃない。そこに込めた愛情ごと、すべてを売り払った。彼女の声はとても淡々としていた。「何でもない。いらない服を売っただけだ
悠良は眉を軽く上げ、淡々とした口調で言った。「この件がなくても、葉は自分で自分を守れるようにならないと。これからは無理をしないで、上司の前で反抗的な態度を取るのももうやめて」こういう性格の子は、たしかに多くの上司には嫌われがちだが、悠良はむしろ好ましく思っていた。自分のチームに必要なのは、玉巳のように耳元で甘い言葉ばかり囁く人間ではなかった。葉の目には涙が浮かんでいた。「わかった......でも、悠良もいっそLSに転職しちゃえばいいのに。石川が入社してから、社内はずっとぐちゃぐちゃで......」悠良は急いで彼女の口を手で塞いだ。「今後そういうことは言っちゃダメ。とりあえず今日は荷物をまとめて家で連絡を待ってて。今は白川社長が怒ってるから、私から話を持ち出すのは避けたいの」それに、玉巳がまたいつ現れるかわからない。葉はうなずいた。「うん」午後、人事部から通達が出された。彼女の「ディレクター」の職は玉巳が引き継ぐことになった。悠良が今、手元のプロジェクトを引き継ぐ準備をしていた時、スマホが震えた。史弥からのメッセージだった。【悠良、今日はあんなに感情的になるべきじゃなかった。あれだけの人の前では、ああするしかなかった。俺の立場も理解してほしい】そのメッセージを見て、悠良は思わず笑いがこみ上げた。理解、ね?どうして彼はいつも彼女に理解を求めるのだろう。どうして玉巳にこそ、理解するよう言わないのだ。なぜ、彼女ばかりが我慢しなければならない?彼女は、そんな損な役回りをするための人間なのか?昔の彼は、そんな人じゃなかった。彼女が入社したばかりの頃、ある上司が彼女をまるで使いっ走りのように扱っていた。取引先との接待にしょっちゅう駆り出され、何か問題が起きれば全て彼女に責任を押し付けられた。その上司は、彼女が耳が不自由なことをいいことに、陰でひどいことを言っていた。当時は史弥の立場を考え、彼女はすべてを我慢していた。だが、史弥はどこからかその話を聞きつけ、その場でその上司と激しく口論になった。その上司は大株主側の人間で、史弥の立場も危うい時期だった。彼に皮肉を投げかけながら、悠良を批判しようとした時、怒りに駆られた史弥は、上司を蹴り倒し、その胸元を指差して怒鳴っ
[会社の皆の前で、社内規則もわきまえず、新しい同僚を中傷し嫉妬して、今回これを見過ごしたら、皆を納得させることができない]史弥の態度は冷たく、そのくっきりとした顔立ちは今や、非情さすら滲ませていた。悠良は思わず眉をひそめた。彼は譲る気がない。彼女は深く息を吸い込んだ。「白川社長は、どう処分するおつもりですか」[本人から退職すれば、会社は一か月分の給料を補償する]史弥は即断するように言い放った。このときになってようやく、葉は事の重大さに気づいた。まさか、自分が悠良のために少し口を利いただけで、解雇されるとは思ってもいなかった。悠良の顔色もまた、少し青ざめた。彼女は冷ややかな史弥の顔を見つめた。「白川社長、そこまで深刻な話ではないと思います。それに葉は私のために......」史弥の目は鋭く光った。[三浦葉が俺の前でここまで無礼になれたのは、君の管理不行き届きのせいだ。が、君はすでに処分を受けている。この件はこれで終わりにする。ただし、葉のためにさらに口を出すなら、君の責任も問うことになる]それはつまり、これ以上葉を庇えば、自分にも火の粉が降りかかるという警告だった。悠良は苦笑を漏らした。七年も連れ添って、彼はまだ自分を理解していない。自分は、友人を見捨てて平気でいられるような人間ではない。彼女は背筋を伸ばした。「そうおっしゃるなら、葉の無礼な行為にも私の責任があるということで。解雇でも何でも、私は受け入れましょう」どうせもうオアシスプロジェクトは取り戻せない。今の白川社に残る意味など、何もない。そのとき、玉巳が悠良の前に出てきて、いかにも申し訳なさそうに言った。[悠良さん、ごめんなさい......私、今初めて分かりました。ずっと私の能力が気に入らなかったんですね。でも私はこれでも、精一杯頑張るつもりです。はっきり言ってくれればよかったのに......裏で三浦さんと一緒になって、私のことを悪く言うなんて......]言っているうちに玉巳は唇を震わせ、恥ずかしさから顔まで真っ赤になった。悠良は呆れて笑った。葉は怒りで震えながら叫んだ。「この件は全部、私が自分勝手で決めたことで、小林ディレクターとは関係ない!」「もういい、ここは会社だ。市場じゃない。喧嘩したいなら出
悠良の表情は水のように静かで、自分の職が解かれたというのに眉一つ動かさなかった。彼女自身だけが知っている。「哀しみの極みは心が死んだ時」そんな麻痺するような痛みを。史弥がこういう態度を取るのは、これが初めてではない。玉巳が彼の傍で「悠良はLSに転職するために行った」と言ったとき、彼がそれを信じた時点で、もう結末は決まっていた。この時、葉が思わず悠良のために口を開いた。「白川社長、私は証明できます。彼女がLSに行ったのは本当にプライベートのためで、転職なんて考えていません」彼女は玉巳をぶん殴りたいほどの怒りを抑えていた。どうしてここまで事実を捻じ曲げるようなことを入れられるのか。葉は思ったことをすぐ口にする性格で、玉巳が来てからというもの、悠良がずっと理不尽な目に遭っているのが我慢ならなかった。彼女は玉巳の方へ顔を向け、言い放つ。「石川さん、小林ディレクターが転職を考えてたって言うけど、その証拠は?それにあんた、普段はデータも資料もまともに作れないくせに、どうやって契約を取ったの?あんたみたいな人がディレクターをやるなんて、外のみんなに笑われるよ。白川社には......」「葉!」悠良が急に低く彼女の名を呼び、歩み寄って彼女の腕を取った。耳元でささやく。「もういいの。黙って」けれど今日の葉はまるで反骨の魂を宿しているかのようだった。[どうして?普段から何一つまともにできないくせに、コネ入社して。私は知りたいよ、彼女の『コネ』の正体]周囲の同僚たちがそれを聞き、思わずざわめいた。「三浦、それ本気?白川社長がいるのに、石川にケンカ売る気?」「そうだよ、事実がどうであれ、彼女はコネ入社だよ。後ろ盾がいるに決まってるじゃん。しかも白川社長本人だったら......」「小林ディレクターはもう職務を解かれたのに、今更正義感出してる......でも小林ディレクターって白川社長の奥さんだろ?」悠良は目を閉じ、葉が火に油を注いだことを理解した。史弥が玉巳をこれほどまでに庇っている以上、葉が公の場で非難するのを黙って見逃すわけがない。ましてや、社内の誰もが玉巳の後ろ盾は史弥だと分かっている。史弥自身が知らないはずがない。ただ、それを黙認しているだけ。玉巳は普段でも少し言われればすぐ
悠良は問題が起きたときに責任から逃げるような人間ではない。だが、だからといって意味もなく他人から濡れ衣を着せられて黙っているつもりもなかった。彼女は顔を横に向け、玉巳を見た。「石川さん、私のスケジュールには何の問題もなかった。LSを出た時間から逆算すれば、打ち合わせに遅れるはずがない。徳本との商談は午後三時半、私がLSを出たのは三時十分」「会社から商談場所まではタクシーで十分しかかからない。つまり、私にはまだ十分な余裕があったってこと」「それに――これはただの推測だけど、石川さんもあそこで二十分近く待ってたんじゃない?」玉巳の顔が引きつる。悠良がどうしてここまで時間を正確に把握しているのか分からなかった。自分が二十分待ったことまで、なぜ彼女が知っているのか――悠良はその表情の変化を見逃さなかった。口元にうっすらと笑みを浮かべながら言う。「徳本社長、午後にビデオ会議があるからって、朝のうちに十分遅れると事前にメッセージをくれていたからよ」玉巳はその場に立ち尽くし、しばらくすると、無垢な瞳にじわりと涙を滲ませ、か細い声で話し出した。[悠良さん、ごめんなさい......私、あなたがあまりに忙しそうだったから、少しでも助けになればと思って......まさかそんな風に思われてるなんて......このプロジェクトはもともとあなたのものだし、後で史弥に頼んで名義も変えてもらうつもりだったし、成果報酬も全部お渡しするから......]その一見控えめな言葉で、悠良は一気に悪者に仕立てられた。周囲の視線には、どこか異様な好奇心と非難が混ざっていた。「まさか小林さんがあんな人だったとはね。石川さんが親切心でプロジェクトをまとめてくれたってのに、あんな風に詰め寄るなんて、ちょっと計算高すぎでしょ?」「だよね。裏ではLSへの転職画策してたくせに、表ではしれっとしててさ。実際、オアシスの件も自分のものだと思ってたんじゃないの?」「横取りされたみたいなもんだから、そりゃ恨みに思ってるよね」みんなの言葉が耳に入っていたが、悠良はまったく気にしていなかった。彼女が求めていたのは、ただ一人――史弥の態度だった。再び彼女の視線は彼に向けられる。「白川社長、今の一連の経緯、もうお分かりになったかと思います。商談に遅
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