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第4話

Author: 癒し猫
明らかに、佳乃の嫌がらせはまだ終わっていなかった。

千尋がお茶を淹れる隙に、佳乃はわざと熱いお茶を千尋にこぼした。

「熱っ……」

淹れたてのお茶は焼け付くように熱い。

千尋が火傷した箇所を確認しようと袖を捲り上げようとした瞬間、佳乃に腕を掴まれた。

濡れた布地が肌に密着し、水ぶくれができそうだ。

しかし、千尋はここで騒ぎ立てるわけにはいかない。

それは征司の顔に泥を塗ることになるのだ。

佳乃は謝罪しながら、ティッシュで水を拭き取る。

「あら、橘さん、ごめんなさい。残念ですね、この上質なスーツ」

火傷したのは千尋だと分かっているくせに、佳乃はスーツのことだけを心配するふりをした。

千尋がその手を振り払うと、佳乃は続けた。

「でも、今夜のお客様は大変重要なお方ですわ。服装が場にふさわしくないと、私たちがお客様を軽んじているように見えてしまいます。

社長、橘さんには先にお帰りいただいた方がよろしいのでは?」

千尋は征司を見た。

征司の淡々とした眼差しが千尋に向けられた。

すると、捲りかけた袖を下ろしながら、千尋は答えた。

「大丈夫です。テーブルの下に隠しておけば見えませんから」

しかし、征司は千尋に尋ねた。

「火傷は?」

「……」

「……」

明らかに、千尋も佳乃も、信じられないという顔で彼を見た。

佳乃は素早く反応し、千尋の腕を取って確認するふりをした。

「あら大変!赤くなっているわ!本当にごめんなさい、橘さん。

運転手さんに病院まで送らせますわ。女性の肌はデリケートですから、痕が残ったら大変ですもの」

佳乃と比べると、私はあまりにも格が違う、と千尋は思った。

佳乃の八方美人ぶりは見事なものだ。

しかし、征司が自分に特別な感情を抱いていることを盾に、千尋は言い返す機会を逃さなかった。

「神崎さんは、大変不注意でいらっしゃいますね。

幸い火傷したのは私でしたが、もし今夜の貴賓に怪我をさせていたら、大変なことでしたよ」

佳乃は虚を突かれ、千尋がそんなことを言うとは予想していなかったようだ。

征司は千尋を見た。その視線は深く、そして重い。

からかうような眼差しは、千尋の浅はかな企みを見抜いていた。

千尋は視線をそらし、居心地悪そうに火傷した左手をテーブルの下に隠した。

千尋の言葉が終わるか終わらないかのうちに、錦生が入室してきた。

佳乃はすぐさま立ち上がり、満面の笑みで出迎えた。

「葉山社長、今夜は一段と素敵でいらっしゃいますね!どなたを魅了するおつもりですか?」

錦生は楽しそうに笑った。

「神崎さん、私はもういい歳ですよ。まだ格好いいなんて言われますかね?」

「とんでもございません!ご謙遜を。

男性は五十代からますます円熟味を増されると申します。

葉山社長は、まさに今が一番輝いていらっしゃるようですわ」

佳乃は続けて尋ねた。

「ところで、葉山社長、奥様は?」

錦生は説明した。

「母が急病でしてね、看病のために急遽戻ったんですよ」

佳乃は心配そうな顔を作った。

「まあ、それは大変。お食事の後、奥様にお電話してみますわ。

親の世代になると、どうしても年相応の病気の一つや二つはありますものね。

うちの両親もそうですし、こうして家を離れていると、時々心配になります。

でも、あまりご心配なさらないでください。最近は医療技術も進んでいますし、きっと大丈夫ですわ」

わずかな言葉で、佳乃は巧みに錦生の心配を和らげた。

千尋から見ても、佳乃のそつがない立ち回りは見習うべきものがあった。

佳乃は手に持っていたブランド物の紙袋を持ち上げた。

「うちの社長が奥様にと、こちらを特別にご用意いたしました。

お帰りの際に、どうぞ奥様にお渡しください」

錦生は後ろに控えていた秘書に受け取るよう合図した。

「鷹宮社長にはお心遣いいただき恐縮です」

征司は穏やかに微笑んだ。

「ほんの気持ちです。どうぞお気になさらないでください」

個室には錦生の朗らかな笑い声が響いた。

佳乃はそこで改めて紹介を始めた。

「葉山社長、こちらは私どもの大鷹航空技術の社長、鷹宮でございます。

……社長、こちらが常々申し上げておりました、東都航空ショーで知り合いました先輩の葉山社長です」

二人は握手を交わし、挨拶を交わした。

しかし、彼らが着席するまで、佳乃は千尋を紹介しなかった。

千尋も、このような場で自分のような立場の者が彼らの時間を取る必要はないと理解していた。

ただ目立たないようにそばに控えていればいいのだ。

千尋が錦生にお茶を淹れにいくと、彼は千尋を見上げて尋ねた。

「こちらの美しい方は?」

佳乃は笑顔で紹介した。

「社長のアシスタントです」

錦生の目が輝き、千尋を品定めするように眺めた。

「これほど美しいアシスタントとは?鷹宮社長は役得ですねぇ」

その時になって初めて、千尋は先ほどこぼされたお茶が襟元まで濡らし、薄い生地が少し透けて下の黒い下着が見えていることに気づいた。

征司が眉をひそめ、不快感を露わにした。

千尋は急いでお茶を淹れ終え、元の席に戻った。

佳乃は優しく微笑み、再び心配するふりをして言った。

「橘さん、ちょうど私の車に上着が一枚あるの。運転手さんに持ってこさせましょうか?」

今の服装はすでに失礼にあたる。

佳乃がどのような意図を持っているにせよ、千尋は受け入れるしかなかった。

「では、お手数ですがお願いします」

しかし、佳乃が持ってこさせた上着が、サイズが小さくて返品しようとしていたものだったとは、千尋は夢にも思わなかった。

千尋がそれを着ると、胸が締め付けられ、ウエストも体にぴったりとフィットして窮屈だった。

ボタンが弾け飛ぶのを防ぐためには、常に息を詰めなければならないほどだ。

この上着を着るのは拷問に等しかった。

そしてそれは、今夜の食事は一口も食べられないという現実を千尋に思い知らせた。

しかし、午後に征司とベッドで長く睦み合ったせいで、千尋は体力を消耗しすぎており、空腹でふらふらしていた。

個室に戻り、千尋は胸元を押さえながら席に着いた。

「ありがとうございます、神崎さん」

佳乃は意味ありげに微笑んだ。

「若いって素晴らしいわね。私が着るより、あなたの方がずっとお似合いよ」

錦生の貪るような視線が千尋に注がれ、千尋を非常に不快にさせた。

千尋は椅子の背もたれに体を押し付けるようにして避けようとしたが、それはかえって彼の視界に入りやすくなってしまった。

錦生が笑い、千尋はさらに気まずくなった。

千尋は少し体を横に向け、左の襟元を引っ張った。

征司が口を開いた。

「葉山社長……」

「ん?」

錦生は顔を向け、視線をこの商談へと戻した。

この会食の間、三人は話に花が咲き、心ゆくまで飲み、食事も楽しんだ。

ただ千尋だけが、一度も箸をつけなかった。

途中、征司が化粧室に立つと、錦生も後を追って席を立った。

征司は戻ってきた時、顔色が悪く、千尋に向けられた視線には冷ややかな怒りが含まれていた。

何が起こったのか全く分からず、千尋はただ黙って座っていた。

個室を出ると、廊下には佳乃だけが残っており、千尋を待っているようだった。

佳乃は千尋に言った。

「社長が、葉山社長をお送りするように、ですって」

「私が?葉山社長を、私なんかが送るんですか?」

千尋は聞き間違いだろうか、と思った。

佳乃は微笑んだ。

「葉山社長はあなたのことを、それはもう大変気に入っていらっしゃるのよ。分かるでしょう?」

彼女は千尋の襟を直し、嫌味な口調で言った。

「あなたのような女性は、そういう魅力を利用してのし上がるんでしょう?

今、チャンスが目の前にあるのよ。葉山社長はあなたが好き。

入っていらしてからずっと、あなたのことばかり目で追っていたわ。このチャンス、しっかり掴まないと」

佳乃は千尋の手にカードキーを押し付けた。

「葉山社長をしっかりおもてなしなさい。この取引が成功するかどうかは、橘さんにかかっているのよ」

まるで熱いものでも触ったかのように、千尋はそのカードキーを返そうとした。

「行きません」

佳乃は千尋の手首を強く掴み、無理やりカードキーを握らせると、強い口調で言った。

「これは社長の命令よ。まだ分からないの?」

千尋は眉をひそめ、佳乃の言葉を信じなかった。

バッグの中のスマホに手を伸ばそうとすると、佳乃は嘲笑うように言った。

「橘さん、自分が何のためにここにいるか、分かっていないわけではないでしょう?

社長のアシスタントというのは、ただ社長に付き添うだけではないのよ。

美しい女性を連れてくるのは、取引相手への『サプライズ』という意味合いもあるの」

綺麗な言葉で飾り立てるものだ。

千尋は自分が「サプライズ」だなんて、と内心で毒づいた。

しかし、佳乃の一方的な言い分は、千尋を納得させられなかった。

千尋は征司に電話をかけると言い張った。

佳乃は平然と手を振った。

「信じないなら、試してみればいいわ」

征司の番号をダイヤルしながら、千尋の心臓は高鳴った。

彼がそれを肯定するのを聞くのが怖いような気もした。

しかし、呼び出し音は鳴り続けたが、出る前に応答がないまま切れてしまった。

佳乃は得意げに笑った。

「これで信じた?」

悔しさに千尋の喉が詰まった。

佳乃の前で守ろうとしたなけなしの尊厳は、この瞬間、粉々に砕け散った。

佳乃は言った。

「社長はただの遊びよ。本気にしたの?」

「……」

慰み物?そうかもしれない。

千尋は本当に自分の立場をわきまえていなかったのかもしれない。

状況をはっきりと認識した千尋は、怒りで理性を失った。そして歯を食いしばり、言った。

「神崎さん、社長にお伝えください。

私たちの間で、どちらが弄んだかなんて話はありません。

だって、私も気持ちよかったのですから。

葉山社長については、その貴重な機会は、あなたにお譲りしますわ。

だって、あなたは、私なんかよりずっと経験豊富でいらっしゃるようですから」

言い終わると、千尋はカードキーを佳乃の胸元に押し付け、その場を去った。

佳乃は唖然として口を開けたままだった。

千尋がエレベーターに乗り込もうとする頃になって、ようやく佳乃の叫び声が聞こえた。

「橘千尋!頭おかしいんじゃないの!?」

千尋は振り返らず、ただ佳乃に向かって侮蔑的なジェスチャーをした。

ホテルの入口前には、征司の車が停まっていた。

千尋は、彼に罵倒されることを覚悟し、同時に、借金返済を迫られる絶望的な状況や、健太の潰されるであろう将来を思った。

千尋は車のそばへ歩み寄った。

征司が窓を下ろした。

最後のプライドを奮い立たせ、千尋は尋ねた。

「葉山社長を送るようにと私にお命じになったのは、社長ですか?」

征司は冷ややかな視線を車外に向けたまま、千尋には一瞥もくれずに言った。

「何か問題でも?」

千尋は理解した。佳乃は嘘をついていなかったのだ。

千尋は彼を、そして自分自身を買いかぶりすぎていたのだ。

「いいえ」

千尋は深く息を吸い込んだ。

「でも、このアシスタントの仕事は、辞めさせていただきます」

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  • 囚われの蜜夜   第40話

    千尋が彼の深いキスに溺れかけていた、まさにその時、オフィスのドアがノックされた。ドア越しに亮介の声がした。「社長、重要なお客様がお見えになりました」「っ!」千尋ははっと目を開け、我に返った。征司が千尋を抱き起こし、千尋は慌てて服の乱れを直した。征司はネクタイを直し、千尋の身なりが整ったのを確認してから応えた。「入って」オフィスのドアが開けられ、千尋は先ほどの書類を手に外へ出ようとした。振り向いた瞬間、千尋と入ってきた相手は視線が合い、互いに息を飲んだ。「……」「……」征司の初恋の人に会ったことはなくても、今この瞬間に、目の前の女性がその人だと千尋には分かった。二人はすれ違った。美咲は優雅に微笑んで征司の方へ歩み寄り、千尋は無表情のままドアへ向かった。亮介がドアを閉める前、美咲が優しく征司を呼ぶ声が聞こえた。「征司、お久しぶり」亮介が千尋に視線を向けた。彼が何を言いたいのか千尋には分かっていた。「何を見ていますか?」「……」亮介は一瞬言葉に詰まった。千尋は笑った。「私が落ち込むのを期待してたわけ?」亮介は無表情で言った。「社長の初恋です」千尋はおかしくなった。「だから、私に何の関係があるっていうんですか」そう言うと、千尋は立ち去った。亮介は今頃、千尋の態度に苛立っているだろう。午後の間ずっと、征司と美咲はオフィスにこもりきりだった。やがて定時になり、千尋は車の鍵を手に取ると、振り返りもせずに会社を出た。今夜、征司はきっと蘭泉邸には夕食に戻らないだろう。自分も戻るつもりはなかった。千尋はそう思い、そして、静江に電話して、夜は友人と食事の約束があると伝え、自分の分の夕食は不要だと告げた。結果、征司も予想通り、家には戻らなかった。電話を切ると、千尋はすぐに冴子の携帯番号にかけた。呼び出し音が四、五回鳴ってから、ようやく出た。「冴子、もう仕事終わった?食事でもどう?」冴子の声が受話器の向こうから聞こえてきた。「ちょっと、千尋。もしかして私を監視してる?どうして私が残業してるって分かったのよ」千尋は尋ねた。「残業?何時ごろ終わりそう?」向こうが数秒静かになり、それから冴子が言った。「かなり遅くなりそう。も

  • 囚われの蜜夜   第39話

    寝る前、蓉子が二人分のスープを運んできた。一杯は征司に渡すと、彼はそれをサイドテーブルに置き、「冷ましてから飲む」と言った。もう一杯は千尋に手渡されると、蓉子は優しい眼差しで千尋を見つめて言った。「これは滋養スープよ。千尋ちゃんの顔色が悪いみたいだから、特別に田中さんに作ってもらったの」子供の頃から、家で誰かにこれほど優しくしてもらった記憶はない。千尋は受け取ってお礼を言うと、スープを一滴残らず飲み干した。蓉子が去ると、征司は腕を枕にしてベッドのヘッドボードにもたれかかり、意味深な口調で千尋に尋ねた。「スープはおいしかったか?」千尋は彼の言葉に裏があると感じた。「少し苦味というか、独特の後味がありましたでも、せっかくのおば様のお気持ちですから、無下にはできません」「ふふ……」征司は笑った。「あれはお母さんが、俺たち二人に早く子供ができるようにと用意したものだ」それを聞いて、千尋は一瞬、頭が真っ白になった。子供なんて、絶対にあり得ない!だって彼との関係は偽りなのだから。それなのに、どうして子供の話なんか出てくるの?しかし、あのスープの効果は、千尋が抗えるものではなかった。その夜、千尋はいつも以上に情熱的で、彼にしがみつくようにまとわりついた。そのため、征司も何度か理性を失いかけた。翌朝早く、二人は朝食を済ませるとすぐに鷹宮家を後にした。去り際、蓉子は千尋の顔が赤らんでいるのを見て、ちらりと征司に目をやり、意味ありげな笑みを浮かべた。征司は蓉子に近づき、声を潜めて言った。「お母さん、これからは寝る前にそういうのは用意しないでほしい。たくさん食べるとよく眠れないんだ」蓉子は千尋に視線を移し、唇を結んで微笑み、「分かった」と言った。千尋は恥ずかしそうに頷いて別れの挨拶をしたが、ドアが閉まった途端、征司の表情から優しさが一瞬で消え、千尋を見る眼差しも冷たく無関心なものに変わった。会社に着くと、征司は千尋をオフィスへ呼んできた。ドアをノックして入ると、彼は亮介に仕事の指示を与えているところだった。千尋が入ってきたのを見て、亮介にまず席を外すよう合図した。「昨夜は危なかった。時間を見つけて、必ず薬を飲んでおけ」千尋は彼の意図を汲み取った。妊娠を恐れる気持ちは

  • 囚われの蜜夜   第38話

    結衣は尋ねた。「じゃあ、彼女と社長は……?」「言うまでもないでしょ」玲奈は呆れたように言った。「あなたね、これから彼女と話す時は気をつけたほうがいいよ。何でもかんでも話して、うっかり墓穴を掘ることのないようにねね。はぁ……そんなこと蒸し返さないでくれる?前のあのアシスタントたちのことを思い出すと、本当にゾッとするわ。どんなに離れていても、あのあざとい色気が漂ってくる感じがするのよ」結衣は言った。「注意してくれてよかったわ。とにかく、これから彼女と接する時は、気をつけないと。私みたいに思ったことがすぐ口に出るタイプは、本当に彼女を怒らせやすいものね」玲奈は鼻で笑った。「そんなに緊張する必要もないわよ。どうせ彼女もすぐいなくなるだろうから」結衣は好奇心から尋ねた。「橘さんは、どのくらい社長に気に入られてると思う?」玲奈は軽蔑するように笑った。「三ヶ月、ってとこかしらね」結衣の口ぶりは同意していないようだった。彼女は言った。「半年だと思うわ」玲奈は笑った。「じゃあ、賭けてみる?負けた方が、一週間分のミルクティーをおごるってのはどう?」千尋は化粧室の個室の中に立ち、彼女たちが自分のことをあれこれ品定めし、最後には賭けまで始めるのを黙って聞いていた。もし以前の自分だったら、きっと情けなく個室に隠れて、悔しさを我慢して出て行けなかっただろう。でも今は、自分には一年間の契約がある。何も気にする必要はない。彼女たちの驚愕の視線の中、千尋はドアを押し開けて外へ出ると、何食わぬ顔で洗面台の前に立ち、蛇口をひねった。「その賭け、私も乗りましたわ。私は一年、に賭けます」千尋はペーパータオルを引き抜き、ゆっくりと落ち着いた様子で指先一つ一つを拭いた。「約束ですよ。後でごまかさないでね。私はミルクティーを楽しみに待ってるんですから」言い終えると、千尋は化粧室を出た。彼女たちの視界から離れた後、千尋は気づいた。面と向かってやり返すのは、こんなにも気持ちのいいことだったなんて。過去の、我慢ばかりしていた時を思い返すと、本当に多くの楽しみを経験し損ねていたのだ。会議は午後いっぱい続いた。千尋は定時で退社し、車で鷹宮家の邸宅へ向かった。病気のお祖父様を

  • 囚われの蜜夜   第37話

    こんな不平等な契約にサインしたら、正気とは思えない。千尋は契約書をテーブルの上に戻した。征司の顔色が目に見えて暗く、険しくなった。「この契約はあまりにも不公平です。罠だと分かっていて、なぜ飛び込む必要があるんですか?」どうせここまで話したのだから、いっそ腹を割って話そう。「これまでの会社への貢献度からしても、自分の努力であなたからお借りしたお金を返済できる自信があります。あなたが仰った恩義についても、当然お返しするべきです。困っている時に助けてくださった恩は忘れません。私は約束を守る人間です。一年間あなたのお相手をすると約束した以上、絶対に約束を破ったり、裏切ったりはしません。ですが、違約金の条項は受け入れられません」千尋ははっきり告げた。征司はソファにだるそうにもたれかかり、あくまで軽い口調で言った。「本当に君が言うように約束を守るなら、違約金が一円だろうと一億円だろうと、気にする必要はないだろう?どうせ君は契約違反などしないのだから、恐れることはないだろう。そんなに心配するということは、何か後ろめたいことでもあるのか?」征司が譲のことをほのめかしているのだ。千尋は分かったが、譲とは本当に何もなく、会ったことさえないのだ。「はっきり申し上げます。今の私には、あなた以外の男性とはいかなる関係もありません」それを聞いて、征司は姿勢を正し、指で契約書を軽く叩きながら言った。「俺に君を信じさせたいなら、サインしろ。これ以上分かりやすい話はないだろう?」「……」どうであれ、彼女が進退窮まった時、征司は助けてくれた。彼には恩がある。この恩は、この一件できっちり清算しよう。千尋は決めた。ペンを取り、署名欄にサインし、印鑑で捺印した。「これでよろしいでしょうか?」征司は契約書を手に取ってざっと目を通し、千尋の目の前でそれを金庫にしまった。契約上、二人の関係は征司の家で恋人役を演じることに限定された。しかし、家の外では、千尋は依然として征司の日陰の愛人のままなのだ。契約書にサインした後も、実際のところ千尋の生活に大きな変化はなく、仕事も生活もすべて普段通りだった。しかし、千尋の心には、未来に対するわずかな期待が芽生え始めていた。毎日、征司の身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼い

  • 囚われの蜜夜   第36話

    「はぁ、もう、それがね……お祖父様が雪を見たいって言うものだから、お父さんと私で庭に連れ出して少し座らせてあげたのよ。そしたら、風邪をひいてしまって」征司は言った。「何でも言うことを聞くべきじゃない。年を取ると、判断力も鈍るんだから」「お父さんにも言ったのよ。これからは何でも言うことを聞いて、好きにさせてはだめだって。お祖父様をもう長年世話してきたんだから。万が一、うちで何かあったりしたら、私が責められでもしたら嫌だわ」征司は「お母さん」と制するように言い、ちらりと千尋を見た。征司の視線を受け、千尋は部外者の自分が聞くべき話ではないと即座に察した。その時、看護師が祖父の点滴を交換していた。蓉子は言った。「お祖父様の様子を見てきてちょうだい。あなたが呼びかけて、目を覚ませるかどうか見てきて」千尋と征司はベッドのそばへ行った。征司は腰を下ろし、布団の中に手を入れて祖父の手を取り、優しく呼びかけた。「爺さん、しっかりして。帰ってきたぞ」征司が数回呼びかけると、康夫のまつ毛が動いた。征司は続けて呼びかけた。「爺さん、起きてくれ。帰ってきたぞ」康夫は目を開け、濁った瞳が征司を見るとぱっと輝きを増し、か細い声で言った。「おお、わしの可愛い孫が帰ってきたか」征司は千尋の手を引いた。「爺さん、俺だけじゃないぞ。彼女も連れてきたんだ」千尋は緊張した面持ちで呼びかけた。「あ……お祖父様、初めまして。あの、千尋とお呼びください」康夫の視線がゆっくりと千尋の顔に移り、頷いた。「ああ……ああ……征司の、恋人かね?」「あ、はい。お祖父様、どうぞお大事になさってください。早く良くなってくださいね」康夫はかすかに笑った。「良い子、良い子」気の持ちようなのかどうかは分からないが、康夫は千尋に会った後、容態が上向き、体を起こして少し食べられるようになった。征司は父親の正輝と一緒に部屋で康夫に食事を手伝い、千尋は蓉子にリビングへ連れて行かれて話をすることになった。蓉子は微笑んで千尋に尋ねた。「あなたと征司は、付き合ってどのくらいになるの?」千尋は征司に教えられた通りに答えた。「半年です、おば様」その後の質問も、すべて征司が予想していた範囲内のもので、千尋はすらすらと答え

  • 囚われの蜜夜   第35話

    千尋は征司について階段を上ったが、心は不安でいっぱいだった。彼女の足取りがためらっているのに気づき、征司は振り返って小声で言った。「緊張しなくていいよ」千尋は頷き、心を落ち着かせた。二階に着くと、千尋ははっと目を奪われた。内装は洗練された和の様式だった。このような静謐な趣のある内装スタイルを知っていたのは、かつて健太との新居を準備した時のデザイナーのおかげだ。デザイナーは多くのスタイルを紹介してくれたが、千尋が最も惹かれたのが、この凛とした和の美しさを持つ様式だった。しかし、あの新居は狭く、たとえこの様式で内装したとしても、このような静かで風格のある雰囲気は出せなかっただろう。遠くの壁にある違い棚には、年代物の花瓶やその他の置物が飾られており、控えめながらも上質な贅沢さが漂っていた。そのとき、中年の男性が部屋から出てきた。征司は自分から呼びかけた。「お父さん」鷹宮正輝(たかみや まさき)は振り返り、千尋と征司を見ると、まず静かにドアを閉めてから応えた。「帰ったか」征司は歩み寄った。「ああ、着いたばかりだ。爺さんの容態はどうだ?」正輝は首を振った。「あまり良くない。一昨日、医者が診に来て、熱が続いていて感染の疑いがあるということで、点滴をしたんだ。今は意識がはっきりせず、目を覚ましてもあまり話したがらない。さっき、お母さんが薬を飲ませたら、また眠ってしまった」正輝の視線が千尋の顔に移った。征司が紹介した。「お父さん、こちらは橘千尋、俺の恋人だ」千尋は恭しく挨拶した。「おじ様、初めまして」正輝は千尋を値踏みするようにじろじろと見た。千尋の服装から人となりを見定めようとしているかのようだ。だが、おそらく満足したのだろう、その目には優しい笑みが浮かんでいた。「橘さん、ようこそ。ゆっくりしていってくれ」「ありがとうございます、おじ様」正輝は言った。「お母さんと看護師さんは中にいる。私は下へ行って、田中さんに爺さんのために何か食べるものを作ってもらうように頼んでこよう。さっき魚が食べたいと言っていたからな。橘さん、楽にしていてくれ」「はい、おじ様。どうぞおかまいなく」正輝が階下へ降りると、征司は上着を脱ぎ、千尋のものも受け取ってソファの上に置いた。

  • 囚われの蜜夜   第34話

    千尋は硬い笑顔を浮かべた。「静江姉さん、実は征司さんは私のことなど好きではないんです。今日はただ、彼の恋人役を演じるために来ただけなんです」静江は目を細め、優しく微笑んだ。「まあ、そうなの?そう思っているのね?」静江は征司のことをあまり理解していない。親戚だから、征司の善良で謙虚な一面しか見ていないのだ。しかし、自分と征司は割り切った関係なのだ。だからこそ、彼の冷酷さや非情さも目の当たりにしてきた。千尋はそう思い、そして言った。 「静江姉さんが今でも私とこうして会えるのは、私が自分の立場をちゃんと弁えているからです」千尋のその言葉を聞いて、静江の目には残念そうな色がよぎったが、それ以上は何も言わず、また仕事に戻った。千尋は時間が近づいたのを見て、五分前に住宅地の入口へ出て待った。一月の臨海市は、身を切るように寒かった。家を出る前に念のため気温を確認したが、現在の屋外気温は氷点下十八度ほどだ。千尋はロングのダウンコートを着てカシミヤのマフラーを巻いていた。しかし、それでも足元から這い上がってくる冷気がふくらはぎまで染み通ってくる。あまりの寒さに耐えかね、その場で足踏みせずにはいられなかった。さらに十分以上待って、ようやく征司の車が車が混み合う中についに見えた。車が完全に停まると、千尋は助手席のドアを開けて乗り込んだ。征司は車を発進させ、無表情で言った。「待たせて悪かったな。さっき渋滞に巻き込まれたんだ。二台の車が事故を起こして、道が完全に詰まってた」「ああ、今来たところです」征司がバックミラーで千尋を見た。千尋は自分のまつ毛に霜がついているのに気づき、慌てて手で拭った。これは「今来たところ」でできるはずがない。千尋の下手な嘘は、いつも一瞬で見抜かれてしまう。征司はエアコンの設定温度をさらに上げた。暖かい風が体に当たるとずいぶん心地よく、こわばっていたふくらはぎにも徐々に感覚が戻ってきた。「今から俺が言うことを、よく覚えておけ。家に着いたら、俺が言った通りに答えろ。答えに窮するような質問は俺がフォローする」「はい」征司は言った。「俺の両親が祖父の世話をしていて、一緒に住んでいる。祖母は一昨年亡くなった。俺たちは付き合って半年だ。プロジェ

  • 囚われの蜜夜   第33話

    部屋は静まり返り、一瞬、千尋は彼に向かって怒りをぶつけたい衝動に駆られた。しかし、理性が勝った。彼に逆らうことはできないのだ。征司は千尋にとって強力な後ろ盾であり、今の千尋は彼の庇護なしにはやっていけない。しかし同時に、彼を敵に回せば、その力で容赦なく潰されるであろうことも分かっていた。千尋は弱みを見せて、彼の同情を引こうと決めた。彼女は目を赤くし、唇を震わせながら言った。「怒らないでください。さっきは私が至りませんでした」征司は千尋の魂胆を一目で見抜いた。「急に殊勝な態度だな?俺がお人好しに見えるか?」千尋は唇を引き結んだ。「あなたを評価する資格はありません。私が分かっているのは、私が最も困難な時に、助けてくださったということだけです」征司は楽しげに笑った。「少しは良心が残っているようだな。だが、改めて言っておく。我々の関係をいつ終わらせるかは、君が決めることではなく、俺が決めることだ。下手な小細工をして俺から逃れようなどと考えるな。一度泥沼に足を踏み入れて、まともな女性に戻れるとでも思っているのか?笑わせる」二人の会話は、気まずい空気の中で終わった。臨海市に戻ってから、征司は千尋に対してよそよそしい態度をとった。昼間、会社では千尋を見て見ぬふりをし、夜、帰ってきては事を終えるとすぐに眠ってしまう。千尋はまるで、彼の性欲のはけ口にされたかのようだった。冴子が出張から戻り、二人は夜に一緒に食事をする約束をした。千尋は静江に電話をかけ、夕食は家で食べないと伝えた。五分と経たないうちに、内線電話が鳴った。征司が千尋を呼んでいる。その声からは感情が読み取れなかった。千尋はドアをノックして中に入った。征司は電話中だったが、千尋を見ると、手早く二言三言応対して電話を切った。「社長、何か御用でしょうか?」征司は言った。「今夜、俺の実家へ付き合ってもらう。普段着に着替えてこい」実家へ行くというのは、おそらく家族に会うということだろう。しかし、千尋の立場で、そんなことが許されるのだろうか?征司は千尋の戸惑いを見て取り、説明した。「祖父の病状が思わしくないんだ。孫の嫁に一目会いたがっている。今夜、その役を演じてもらう」「っ!」まさか、そんなこ

  • 囚われの蜜夜   第32話

    千尋が部屋に戻っても、征司はまだいなかった。しかし、それほど時間は経たないうちにドアがノックされ、千尋は応対に出た。「どなたですか?」「橘さん、井上です」ドアを開けると、亮介が書類袋を手に立っていた。「橘さん、これを社長にお渡しください」「社長はまだ戻っていません。お急ぎでしたら、お電話なさいますか?」亮介は少し黙ってから言った。「いえ、急ぎではありません。社長は今、金森部長のところで打ち合わせ中とのことです。お戻りになりましたら、こちらをお渡しいただけますでしょうか」「了解しました。お預かりします」ドアを閉めると、千尋は心の中で毒づいた。あんなに目端の利く人が、どうして征司が信行の部屋にいるなんて信じるのかしら。さっき、あの二人がエレベーターに乗り込んで、佳乃が泊まっているフロアで降りたのを、確かにこの目で見たなのに。千尋が眠りに落ちそうになった時、ドアがカードキーで開けられた。征司が戻ってきたのだと分かったが、ひどく眠くて、朦朧としながら目を開け、つぶやいた。「お帰りなさい……?」「ん」征司はまっすぐバスルームへシャワーを浴びに行った。温かい湿気を帯びて近づいてきた時、千尋は軽く押し返した。「すごく眠いんです。先に寝ますね……」千尋は彼がキスするのをされるがままにしていたが、次第に息が苦しくなってきた。「んん……」千尋は目を開け、弱々しく彼の背中を叩いた。「目が覚めたか?」征司は千尋の上にのしかかり、深い瞳で千尋を見つめて尋ねた。千尋は眠い目をこすった。「寝ましょうよ。明日は朝早い飛行機で帰るんですから」征司は千尋の顎を持ち上げて顔を覗き込み、意味ありげに言った。「君を甘く見ていたよ。離婚もしていないのに、もう次の相手を探そうとしているとはな。そういう男なしではいられないタイプらしい」「っ!」千尋は、あの電話を彼が聞いていたのだと悟った。「説明させてください!」征司は言った。「どう言うかよく考えろ。嘘が一つでもあれば、お前を臨海市で二度と顔を上げられないようにしてやる。試してみるがいい。どうなっても知らないぞ」「……」彼には絶対にそれができる。昔、会社の技術部門の役員が、社内の重要資料を持って競合他社のド

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