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第6話

Author: 癒し猫
南央市から戻ると、思いがけず健太が空港に迎えに来ていた。

彼と顔を合わせると、千尋は気まずくてたまらなかったが、逆に健太は何事もなかったかのように自分から近づいてきて、にこやかに征司に挨拶した。

「社長、千尋がご迷惑をおかけしました」

征司は表情を変えず、冷ややかに「いや」とだけ返した。

そう言うと、まっすぐ道路脇に停めてあったセダンへと向かった。

千尋は、健太が小走りで駆け寄って征司のために車のドアを開け、媚びへつらう様子を目の当たりにし、一刻も早くこの場から逃げ出したくなった。

しかし健太は、このようなことに慣れっこになっているようで、車のドアの上部に手を添え、征司を車内へと促した。

「社長、どうぞ」

そばにいた秘書の亮介までもが侮蔑的な視線を健太に向けており、千尋はその場に立っていることすらいたたまれず、透明人間にでもなりたいと願った。

だが、車中の人物――征司の視線はずっと彼女に向けられており、手で合図した。

千尋は背筋を伸ばして近づいていったが、すぐ手前で健太に強く腕を引かれ、小声で急かされた。

「早く乗れ。社長はお忙しいんだ。時間を取らせるな」

飛行機を降りる際、征司は彼女に、家に戻ってゆっくり休み、明日また連絡すると言っていたはずだった。

今、千尋が引かれてよろめくのを見て、不快そうに太い眉を寄せた。

「千尋、明日の朝一番で南央市の代理店に関する資料をまとめて、私のオフィスに持って来い」

「はい、社長」

千尋は小声で答えたが、頬は火が付いたように熱かった。

後ろに立っていた健太は、気まずそうに口をパクパクさせ、どうしていいか分からない様子だった。

征司は再び彼女に指で合図した。

千尋は肩をさらにすくめるようにして近づくしかなかった。

征司は彼女の耳元に顔を寄せ、囁いた。

「そんな甲斐性ない男と、いつまで一緒にいるつもりだ?」

「……」

千尋は一瞬でその場に凍りつき、言葉を失った。

征司は体を起こし、運転手に車を出すよう合図した。

遠ざかるテールランプを見送りながら、健太は征司のセダンが車の流れに消えるまでつま先立ちで眺め、ようやく不思議そうに尋ねた。

「千尋、さっき社長は何て言ってたんだ?」

千尋は彼を見て、複雑な気持ちで答えた。

「……別に。仕事のことよ。帰りましょう」

「千尋、社長はいつ俺を支社のマネージャーにするって、何か言ってなかったか?」

千尋は首を振った。

「いいえ。ただ、連絡を待つように、とだけ」

約束したのなら望みはある、と健太は、征司が約束を破るはずがないと固く信じていた。

「そうだ、今度社長がまた君に連絡してきたら、マネージャーのこと、それとなく催促してくれよ」

千尋はうんざりして、大股で車へと歩き、乗り込んだ。

空港から家までの道は一時間以上かかる。

千尋は車に乗って間もなく眠りに落ちた。

マンションの下に着き、健太に起こされてから、彼はトランクから荷物を取りに行った。

通りかかった隣人の鈴木麗香(すずき れいか) が千尋に気づき、わざわざ挨拶に来た。

「橘さん、出張だったの?」

千尋は軽く微笑んで頷いた。

「ええ。鈴木さんはお子さんとお遊びですか?」

「そうなのよ。上でじっとしてられなくて、どうしても下に遊びに来たいって言うから」

麗香はそう言いながらも、視線はマンションの遊具で遊ぶ子供から離れなかった。

「あら、転んじゃったわ!ごめんなさい、もう行かないと」

「ええ、鈴木さん」

スーツケースを持ってきた健太は、麗香の後ろ姿を不機嫌そうに一瞥し、千尋に小声で言った。

「あの人には関わらない方がいい。人のことを詮索してばかりで、子供がいることを自慢してるだけだ」

千尋は呆れて健太を見た。

「別に、自慢してなんかないわ」

「もういいから、早く上に行くぞ」

健太は彼女を引っ張って中へと入った。

ここ数日の出来事を思い返し、千尋は自分の将来に対して途方に暮れ、無力感を覚えていた。

健太との関係はもう元には戻らないだろう。

自分は健太によって、絶望的で息の詰まるような結婚生活に、完全に引きずり込まれていくのだ。

彼に対しても、結婚に対しても、自分は不実だ。

始まりは彼が自分をこの道に送り込んだとはいえ、自分には選択権があったのに、拒否しなかった。

疲れて休みたかったが、健太は彼女を引き止め、あれこれと尋ね続けた。

ただ、慰めの言葉は一つもなかった。

元々、実家で顧みられなかった千尋は、結婚生活でもまた、犠牲者となってしまった。

一時は、本当に幸せになる資格がないのではないかとさえ疑った。

その時、ふと彼女の頭に征司のことが浮かんだ。

まるで彼が、自分の生活の中で唯一頼れる人間であるかのように。

疲れ果ててソファに座り、健太の次から次へと続く質問に耳を傾けた。

最初は辛抱強く答えていたが、彼が例の『子供を作る』件について尋ね始めた時、ついに限界が来た。

「それにしても君は、どうしてうまくできないんだ?」

疲れきった顔で、千尋は額を押さえて言った。

「私に聞かないで。わからないわ」

「君に聞かずに誰に聞くんだ?君たち二人はいつも一緒に……」

「!」

健太の言葉はナイフのように千尋の心を突き刺した。

千尋は憤然とした目で彼を睨みつけた。

健太は彼女が不機嫌になったことに気づき、慌てて彼女の前にしゃがみ込み、その手を取って、哀れっぽく許しを請うた。

「千尋に辛い思いをさせているのは分かってる。俺がだめなんだ。全部俺のせいだ。すまない」

彼女の膝に突っ伏して泣き、力強く彼女を抱きしめた。

千尋は心が和らぎ、彼の背中を撫でながら言った。

「そんなこと言わないで。彼はとても警戒していて、いつも避妊するのよ」

健太は顔を上げ、涙に濡れた目で、彼女の手を取ってキスをした。

「千尋がこの家のためにしてくれていること、俺は決して忘れない。一生かかっても君には返しきれない恩だ」

一瞬、健太の慰めの言葉が、ここ数日溜め込んでいた彼女の辛い感情を和らげた。

「もう立って」

千尋は彼を引き起こした。

健太は彼女の顔色が悪いのに気づき、目を赤くしながら気遣った。

「疲れてるんだろう?先に休んだらどうだ?俺がご飯を作るよ」

彼のその恐る恐るとした様子を見ると、千尋は心が和んでしまい、それ以上厳しい言葉を言う気にはなれなかった。

「今回の取引先は、かなり手強くて。本当に疲れたわ」

健太は彼女を寝室まで送り、温かい牛乳を一杯温めて彼女が飲み干すのを見届けると、布団をかけてやってから部屋を出て行った。

ようやく静かに休むことができた。

どれくらい眠ったのか、健太に起こされた時には空はもう暗くなっていた。

千尋は寝ぼけまなこで尋ねた。

「今、何時?」

健太は優しく言った。

「七時過ぎだよ。起きてご飯にしよう」

千尋は力なく食卓の椅子に座った。二品のおかずとスープは、すべて彼女の好物だった。

「千尋、まずスープを飲んで」

この家では、このような家事は一切彼女がする必要はなかった。

健太が生活の隅々まで気を配ってくれるからこそ、千尋は細やかに大切にされる温かさを感じ、彼に格別に依存し、離れがたく思っていたのだ。

お姫様のように可愛がられ、手のひらで大切にされるのを嫌がる人がいるだろうか。

健太は彼女が元気がないのを見て、スプーンでスープをすくい、少し冷ましてから彼女の口元へ運んだ。

「おいしいか?」

彼は笑って尋ねた。

千尋は頷いた。

「あなたが作ったスープがおいしくないわけないじゃない」

濃厚なスープが口に広がり、胃も心も温まり、少し元気を取り戻した。

「ほら、魚も食べてみて。火加減を見ていたから、身がすごく柔らかくて、味も染みてるはずだよ」

あの数日間の出来事は、この家庭的な温かい食事の中で癒され、千尋の心も和らいでいった。

人生とはそういうものだ。

どの家にも悩みはある。

もう少しだけ耐えれば、きっと乗り越えられる。

「健太」

「うん?」

「できるだけ早く、妊娠するようにするわ」

健太は箸を置き、彼女の手を握り、感謝の念に満ちた目で言った。

「千尋がそう思ってくれるなら、きっとうまくいく」

そう話していると、寝室でスマホが鳴った。

健太はすぐに立ち上がった。

「取ってくるよ」

戻ってきた時、彼の目は驚きと喜びに輝いていた。

スマホを指差して言った。

「社長からだ!社長からの電話だ!」

健太はスピーカーフォンをオンにし、彼女に話すよう合図した。

正直なところ、千尋は征司が何か場違いなことを言って健太に聞かれないかと恐れていた。

征司は普段は紳士然としているが、彼女と二人きりになると、きわどい冗談を口にすることがあり、千尋でさえ耳が赤くなるほどだった。

千尋は乾いた唇を舐めた。

「もしもし?」

征司は簡潔に言った。

「三十分以内に『璃宮』の三番個室に来い」

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    寝る前、蓉子が二人分のスープを運んできた。一杯は征司に渡すと、彼はそれをサイドテーブルに置き、「冷ましてから飲む」と言った。もう一杯は千尋に手渡されると、蓉子は優しい眼差しで千尋を見つめて言った。「これは滋養スープよ。千尋ちゃんの顔色が悪いみたいだから、特別に田中さんに作ってもらったの」子供の頃から、家で誰かにこれほど優しくしてもらった記憶はない。千尋は受け取ってお礼を言うと、スープを一滴残らず飲み干した。蓉子が去ると、征司は腕を枕にしてベッドのヘッドボードにもたれかかり、意味深な口調で千尋に尋ねた。「スープはおいしかったか?」千尋は彼の言葉に裏があると感じた。「少し苦味というか、独特の後味がありましたでも、せっかくのおば様のお気持ちですから、無下にはできません」「ふふ……」征司は笑った。「あれはお母さんが、俺たち二人に早く子供ができるようにと用意したものだ」それを聞いて、千尋は一瞬、頭が真っ白になった。子供なんて、絶対にあり得ない!だって彼との関係は偽りなのだから。それなのに、どうして子供の話なんか出てくるの?しかし、あのスープの効果は、千尋が抗えるものではなかった。その夜、千尋はいつも以上に情熱的で、彼にしがみつくようにまとわりついた。そのため、征司も何度か理性を失いかけた。翌朝早く、二人は朝食を済ませるとすぐに鷹宮家を後にした。去り際、蓉子は千尋の顔が赤らんでいるのを見て、ちらりと征司に目をやり、意味ありげな笑みを浮かべた。征司は蓉子に近づき、声を潜めて言った。「お母さん、これからは寝る前にそういうのは用意しないでほしい。たくさん食べるとよく眠れないんだ」蓉子は千尋に視線を移し、唇を結んで微笑み、「分かった」と言った。千尋は恥ずかしそうに頷いて別れの挨拶をしたが、ドアが閉まった途端、征司の表情から優しさが一瞬で消え、千尋を見る眼差しも冷たく無関心なものに変わった。会社に着くと、征司は千尋をオフィスへ呼んできた。ドアをノックして入ると、彼は亮介に仕事の指示を与えているところだった。千尋が入ってきたのを見て、亮介にまず席を外すよう合図した。「昨夜は危なかった。時間を見つけて、必ず薬を飲んでおけ」千尋は彼の意図を汲み取った。妊娠を恐れる気持ちは

  • 囚われの蜜夜   第38話

    結衣は尋ねた。「じゃあ、彼女と社長は……?」「言うまでもないでしょ」玲奈は呆れたように言った。「あなたね、これから彼女と話す時は気をつけたほうがいいよ。何でもかんでも話して、うっかり墓穴を掘ることのないようにねね。はぁ……そんなこと蒸し返さないでくれる?前のあのアシスタントたちのことを思い出すと、本当にゾッとするわ。どんなに離れていても、あのあざとい色気が漂ってくる感じがするのよ」結衣は言った。「注意してくれてよかったわ。とにかく、これから彼女と接する時は、気をつけないと。私みたいに思ったことがすぐ口に出るタイプは、本当に彼女を怒らせやすいものね」玲奈は鼻で笑った。「そんなに緊張する必要もないわよ。どうせ彼女もすぐいなくなるだろうから」結衣は好奇心から尋ねた。「橘さんは、どのくらい社長に気に入られてると思う?」玲奈は軽蔑するように笑った。「三ヶ月、ってとこかしらね」結衣の口ぶりは同意していないようだった。彼女は言った。「半年だと思うわ」玲奈は笑った。「じゃあ、賭けてみる?負けた方が、一週間分のミルクティーをおごるってのはどう?」千尋は化粧室の個室の中に立ち、彼女たちが自分のことをあれこれ品定めし、最後には賭けまで始めるのを黙って聞いていた。もし以前の自分だったら、きっと情けなく個室に隠れて、悔しさを我慢して出て行けなかっただろう。でも今は、自分には一年間の契約がある。何も気にする必要はない。彼女たちの驚愕の視線の中、千尋はドアを押し開けて外へ出ると、何食わぬ顔で洗面台の前に立ち、蛇口をひねった。「その賭け、私も乗りましたわ。私は一年、に賭けます」千尋はペーパータオルを引き抜き、ゆっくりと落ち着いた様子で指先一つ一つを拭いた。「約束ですよ。後でごまかさないでね。私はミルクティーを楽しみに待ってるんですから」言い終えると、千尋は化粧室を出た。彼女たちの視界から離れた後、千尋は気づいた。面と向かってやり返すのは、こんなにも気持ちのいいことだったなんて。過去の、我慢ばかりしていた時を思い返すと、本当に多くの楽しみを経験し損ねていたのだ。会議は午後いっぱい続いた。千尋は定時で退社し、車で鷹宮家の邸宅へ向かった。病気のお祖父様を

  • 囚われの蜜夜   第37話

    こんな不平等な契約にサインしたら、正気とは思えない。千尋は契約書をテーブルの上に戻した。征司の顔色が目に見えて暗く、険しくなった。「この契約はあまりにも不公平です。罠だと分かっていて、なぜ飛び込む必要があるんですか?」どうせここまで話したのだから、いっそ腹を割って話そう。「これまでの会社への貢献度からしても、自分の努力であなたからお借りしたお金を返済できる自信があります。あなたが仰った恩義についても、当然お返しするべきです。困っている時に助けてくださった恩は忘れません。私は約束を守る人間です。一年間あなたのお相手をすると約束した以上、絶対に約束を破ったり、裏切ったりはしません。ですが、違約金の条項は受け入れられません」千尋ははっきり告げた。征司はソファにだるそうにもたれかかり、あくまで軽い口調で言った。「本当に君が言うように約束を守るなら、違約金が一円だろうと一億円だろうと、気にする必要はないだろう?どうせ君は契約違反などしないのだから、恐れることはないだろう。そんなに心配するということは、何か後ろめたいことでもあるのか?」征司が譲のことをほのめかしているのだ。千尋は分かったが、譲とは本当に何もなく、会ったことさえないのだ。「はっきり申し上げます。今の私には、あなた以外の男性とはいかなる関係もありません」それを聞いて、征司は姿勢を正し、指で契約書を軽く叩きながら言った。「俺に君を信じさせたいなら、サインしろ。これ以上分かりやすい話はないだろう?」「……」どうであれ、彼女が進退窮まった時、征司は助けてくれた。彼には恩がある。この恩は、この一件できっちり清算しよう。千尋は決めた。ペンを取り、署名欄にサインし、印鑑で捺印した。「これでよろしいでしょうか?」征司は契約書を手に取ってざっと目を通し、千尋の目の前でそれを金庫にしまった。契約上、二人の関係は征司の家で恋人役を演じることに限定された。しかし、家の外では、千尋は依然として征司の日陰の愛人のままなのだ。契約書にサインした後も、実際のところ千尋の生活に大きな変化はなく、仕事も生活もすべて普段通りだった。しかし、千尋の心には、未来に対するわずかな期待が芽生え始めていた。毎日、征司の身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼い

  • 囚われの蜜夜   第36話

    「はぁ、もう、それがね……お祖父様が雪を見たいって言うものだから、お父さんと私で庭に連れ出して少し座らせてあげたのよ。そしたら、風邪をひいてしまって」征司は言った。「何でも言うことを聞くべきじゃない。年を取ると、判断力も鈍るんだから」「お父さんにも言ったのよ。これからは何でも言うことを聞いて、好きにさせてはだめだって。お祖父様をもう長年世話してきたんだから。万が一、うちで何かあったりしたら、私が責められでもしたら嫌だわ」征司は「お母さん」と制するように言い、ちらりと千尋を見た。征司の視線を受け、千尋は部外者の自分が聞くべき話ではないと即座に察した。その時、看護師が祖父の点滴を交換していた。蓉子は言った。「お祖父様の様子を見てきてちょうだい。あなたが呼びかけて、目を覚ませるかどうか見てきて」千尋と征司はベッドのそばへ行った。征司は腰を下ろし、布団の中に手を入れて祖父の手を取り、優しく呼びかけた。「爺さん、しっかりして。帰ってきたぞ」征司が数回呼びかけると、康夫のまつ毛が動いた。征司は続けて呼びかけた。「爺さん、起きてくれ。帰ってきたぞ」康夫は目を開け、濁った瞳が征司を見るとぱっと輝きを増し、か細い声で言った。「おお、わしの可愛い孫が帰ってきたか」征司は千尋の手を引いた。「爺さん、俺だけじゃないぞ。彼女も連れてきたんだ」千尋は緊張した面持ちで呼びかけた。「あ……お祖父様、初めまして。あの、千尋とお呼びください」康夫の視線がゆっくりと千尋の顔に移り、頷いた。「ああ……ああ……征司の、恋人かね?」「あ、はい。お祖父様、どうぞお大事になさってください。早く良くなってくださいね」康夫はかすかに笑った。「良い子、良い子」気の持ちようなのかどうかは分からないが、康夫は千尋に会った後、容態が上向き、体を起こして少し食べられるようになった。征司は父親の正輝と一緒に部屋で康夫に食事を手伝い、千尋は蓉子にリビングへ連れて行かれて話をすることになった。蓉子は微笑んで千尋に尋ねた。「あなたと征司は、付き合ってどのくらいになるの?」千尋は征司に教えられた通りに答えた。「半年です、おば様」その後の質問も、すべて征司が予想していた範囲内のもので、千尋はすらすらと答え

  • 囚われの蜜夜   第35話

    千尋は征司について階段を上ったが、心は不安でいっぱいだった。彼女の足取りがためらっているのに気づき、征司は振り返って小声で言った。「緊張しなくていいよ」千尋は頷き、心を落ち着かせた。二階に着くと、千尋ははっと目を奪われた。内装は洗練された和の様式だった。このような静謐な趣のある内装スタイルを知っていたのは、かつて健太との新居を準備した時のデザイナーのおかげだ。デザイナーは多くのスタイルを紹介してくれたが、千尋が最も惹かれたのが、この凛とした和の美しさを持つ様式だった。しかし、あの新居は狭く、たとえこの様式で内装したとしても、このような静かで風格のある雰囲気は出せなかっただろう。遠くの壁にある違い棚には、年代物の花瓶やその他の置物が飾られており、控えめながらも上質な贅沢さが漂っていた。そのとき、中年の男性が部屋から出てきた。征司は自分から呼びかけた。「お父さん」鷹宮正輝(たかみや まさき)は振り返り、千尋と征司を見ると、まず静かにドアを閉めてから応えた。「帰ったか」征司は歩み寄った。「ああ、着いたばかりだ。爺さんの容態はどうだ?」正輝は首を振った。「あまり良くない。一昨日、医者が診に来て、熱が続いていて感染の疑いがあるということで、点滴をしたんだ。今は意識がはっきりせず、目を覚ましてもあまり話したがらない。さっき、お母さんが薬を飲ませたら、また眠ってしまった」正輝の視線が千尋の顔に移った。征司が紹介した。「お父さん、こちらは橘千尋、俺の恋人だ」千尋は恭しく挨拶した。「おじ様、初めまして」正輝は千尋を値踏みするようにじろじろと見た。千尋の服装から人となりを見定めようとしているかのようだ。だが、おそらく満足したのだろう、その目には優しい笑みが浮かんでいた。「橘さん、ようこそ。ゆっくりしていってくれ」「ありがとうございます、おじ様」正輝は言った。「お母さんと看護師さんは中にいる。私は下へ行って、田中さんに爺さんのために何か食べるものを作ってもらうように頼んでこよう。さっき魚が食べたいと言っていたからな。橘さん、楽にしていてくれ」「はい、おじ様。どうぞおかまいなく」正輝が階下へ降りると、征司は上着を脱ぎ、千尋のものも受け取ってソファの上に置いた。

  • 囚われの蜜夜   第34話

    千尋は硬い笑顔を浮かべた。「静江姉さん、実は征司さんは私のことなど好きではないんです。今日はただ、彼の恋人役を演じるために来ただけなんです」静江は目を細め、優しく微笑んだ。「まあ、そうなの?そう思っているのね?」静江は征司のことをあまり理解していない。親戚だから、征司の善良で謙虚な一面しか見ていないのだ。しかし、自分と征司は割り切った関係なのだ。だからこそ、彼の冷酷さや非情さも目の当たりにしてきた。千尋はそう思い、そして言った。 「静江姉さんが今でも私とこうして会えるのは、私が自分の立場をちゃんと弁えているからです」千尋のその言葉を聞いて、静江の目には残念そうな色がよぎったが、それ以上は何も言わず、また仕事に戻った。千尋は時間が近づいたのを見て、五分前に住宅地の入口へ出て待った。一月の臨海市は、身を切るように寒かった。家を出る前に念のため気温を確認したが、現在の屋外気温は氷点下十八度ほどだ。千尋はロングのダウンコートを着てカシミヤのマフラーを巻いていた。しかし、それでも足元から這い上がってくる冷気がふくらはぎまで染み通ってくる。あまりの寒さに耐えかね、その場で足踏みせずにはいられなかった。さらに十分以上待って、ようやく征司の車が車が混み合う中についに見えた。車が完全に停まると、千尋は助手席のドアを開けて乗り込んだ。征司は車を発進させ、無表情で言った。「待たせて悪かったな。さっき渋滞に巻き込まれたんだ。二台の車が事故を起こして、道が完全に詰まってた」「ああ、今来たところです」征司がバックミラーで千尋を見た。千尋は自分のまつ毛に霜がついているのに気づき、慌てて手で拭った。これは「今来たところ」でできるはずがない。千尋の下手な嘘は、いつも一瞬で見抜かれてしまう。征司はエアコンの設定温度をさらに上げた。暖かい風が体に当たるとずいぶん心地よく、こわばっていたふくらはぎにも徐々に感覚が戻ってきた。「今から俺が言うことを、よく覚えておけ。家に着いたら、俺が言った通りに答えろ。答えに窮するような質問は俺がフォローする」「はい」征司は言った。「俺の両親が祖父の世話をしていて、一緒に住んでいる。祖母は一昨年亡くなった。俺たちは付き合って半年だ。プロジェ

  • 囚われの蜜夜   第33話

    部屋は静まり返り、一瞬、千尋は彼に向かって怒りをぶつけたい衝動に駆られた。しかし、理性が勝った。彼に逆らうことはできないのだ。征司は千尋にとって強力な後ろ盾であり、今の千尋は彼の庇護なしにはやっていけない。しかし同時に、彼を敵に回せば、その力で容赦なく潰されるであろうことも分かっていた。千尋は弱みを見せて、彼の同情を引こうと決めた。彼女は目を赤くし、唇を震わせながら言った。「怒らないでください。さっきは私が至りませんでした」征司は千尋の魂胆を一目で見抜いた。「急に殊勝な態度だな?俺がお人好しに見えるか?」千尋は唇を引き結んだ。「あなたを評価する資格はありません。私が分かっているのは、私が最も困難な時に、助けてくださったということだけです」征司は楽しげに笑った。「少しは良心が残っているようだな。だが、改めて言っておく。我々の関係をいつ終わらせるかは、君が決めることではなく、俺が決めることだ。下手な小細工をして俺から逃れようなどと考えるな。一度泥沼に足を踏み入れて、まともな女性に戻れるとでも思っているのか?笑わせる」二人の会話は、気まずい空気の中で終わった。臨海市に戻ってから、征司は千尋に対してよそよそしい態度をとった。昼間、会社では千尋を見て見ぬふりをし、夜、帰ってきては事を終えるとすぐに眠ってしまう。千尋はまるで、彼の性欲のはけ口にされたかのようだった。冴子が出張から戻り、二人は夜に一緒に食事をする約束をした。千尋は静江に電話をかけ、夕食は家で食べないと伝えた。五分と経たないうちに、内線電話が鳴った。征司が千尋を呼んでいる。その声からは感情が読み取れなかった。千尋はドアをノックして中に入った。征司は電話中だったが、千尋を見ると、手早く二言三言応対して電話を切った。「社長、何か御用でしょうか?」征司は言った。「今夜、俺の実家へ付き合ってもらう。普段着に着替えてこい」実家へ行くというのは、おそらく家族に会うということだろう。しかし、千尋の立場で、そんなことが許されるのだろうか?征司は千尋の戸惑いを見て取り、説明した。「祖父の病状が思わしくないんだ。孫の嫁に一目会いたがっている。今夜、その役を演じてもらう」「っ!」まさか、そんなこ

  • 囚われの蜜夜   第32話

    千尋が部屋に戻っても、征司はまだいなかった。しかし、それほど時間は経たないうちにドアがノックされ、千尋は応対に出た。「どなたですか?」「橘さん、井上です」ドアを開けると、亮介が書類袋を手に立っていた。「橘さん、これを社長にお渡しください」「社長はまだ戻っていません。お急ぎでしたら、お電話なさいますか?」亮介は少し黙ってから言った。「いえ、急ぎではありません。社長は今、金森部長のところで打ち合わせ中とのことです。お戻りになりましたら、こちらをお渡しいただけますでしょうか」「了解しました。お預かりします」ドアを閉めると、千尋は心の中で毒づいた。あんなに目端の利く人が、どうして征司が信行の部屋にいるなんて信じるのかしら。さっき、あの二人がエレベーターに乗り込んで、佳乃が泊まっているフロアで降りたのを、確かにこの目で見たなのに。千尋が眠りに落ちそうになった時、ドアがカードキーで開けられた。征司が戻ってきたのだと分かったが、ひどく眠くて、朦朧としながら目を開け、つぶやいた。「お帰りなさい……?」「ん」征司はまっすぐバスルームへシャワーを浴びに行った。温かい湿気を帯びて近づいてきた時、千尋は軽く押し返した。「すごく眠いんです。先に寝ますね……」千尋は彼がキスするのをされるがままにしていたが、次第に息が苦しくなってきた。「んん……」千尋は目を開け、弱々しく彼の背中を叩いた。「目が覚めたか?」征司は千尋の上にのしかかり、深い瞳で千尋を見つめて尋ねた。千尋は眠い目をこすった。「寝ましょうよ。明日は朝早い飛行機で帰るんですから」征司は千尋の顎を持ち上げて顔を覗き込み、意味ありげに言った。「君を甘く見ていたよ。離婚もしていないのに、もう次の相手を探そうとしているとはな。そういう男なしではいられないタイプらしい」「っ!」千尋は、あの電話を彼が聞いていたのだと悟った。「説明させてください!」征司は言った。「どう言うかよく考えろ。嘘が一つでもあれば、お前を臨海市で二度と顔を上げられないようにしてやる。試してみるがいい。どうなっても知らないぞ」「……」彼には絶対にそれができる。昔、会社の技術部門の役員が、社内の重要資料を持って競合他社のド

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