霜村冷司が水を飲ませ終えると、静かに彼女に尋ねた。 「まだ欲しいか?」 和泉夕子はかすかに首を振り、その視線が彼の指先に移った。 そこには、硫酸による火傷の跡が残っていた。 彼女はそっと彼を見上げて尋ねた。「あなたの手……」 彼は指を軽く丸め、彼女の視線を避けるようにして、もう片方の手で清潔なタオルを取り、彼女の唇を拭き始めた。 彼は何も答えず、夕子もそれ以上問い詰めることなく、病室の中を見回しながら静かに口を開いた。 「どれくらい眠っていたの?」 彼は唇の水分を拭い終えると、落ち着いた声で答えた。 「半月以上だ」 彼女は目を大きく見開いた。数日程度と思っていたが、まさかそんなにも長い間意識を失っていたとは思わなかった。 目の前には霜村冷司だけがいる。沙耶香や桐生はどこにいるのだろう―― 彼女が尋ねようとした矢先、彼はそっと彼女の顔を両手で包み、新しい枕に交換してあげた。 続けて洗面用具を取り出し、彼女の顔や口内、露出した肌を丁寧に清潔にした。 その一連の動きはあまりにも自然で、彼女が昏睡していた間も、彼がこのように細心の注意を払って世話をしていたことを思わせるものだった。 彼女は気まずそうに目を伏せ、長い睫毛の影が頬に落ちた。 彼は世話を終えると彼女を数秒間じっと見つめ、その後浴室へ向かった。 彼が衣装棚を通り過ぎる際、中からスーツを取り出す姿を見て、彼女は思わずそちらに目を向けた。 棚には彼の衣類がびっしりと掛けられ、洗面用具まで置かれている。 潔癖症の彼が、自分の衣類をこんな場所に置くことは滅多にない。 それでも彼は、自身のルールを破ってまで夕子の世話を優先していた。 彼女はその事実を考えると、眉を少しひそめた。思考が乱れ始めたところで、彼が浴室から出てきた。 高級な黒のスーツに身を包んだ彼は、立ち姿が一層際立っていた。 鋭い顎のラインと端正な顔立ちは完璧で、わずかな疲れさえ隠され、冷静で高貴な雰囲気を漂わせていた。 彼が病室を出ると、ガラス越しに待っていた桐生の姿を目にした。 桐生は長い間そこにいたのだろう。しかし、彼がいる間は入室しないと決めたようだった。 彼は一瞬立ち止まると、何事もなかったかのように夕子の方へ戻り、彼女の短い髪にそっと触れた。
霜村冷司は病室の扉を開け、外に座る車椅子の桐生志越に一瞥をくれると、何も言わずそのまま歩き去った。 彼らが病室の中で何を話していたのか、桐生には聞き取れなかった。彼は霜村冷司が急ぎの用事でもあるのかと思い、特に気に留めなかった。 遠くから病床に横たわる和泉夕子の姿を見つめ、彼は車椅子を押して病室の中へと入った。 夕子は窓の外を見つめ、ぼんやりとした表情を浮かべていたが、その視線を遮る人影に気づき、ゆっくりと意識を戻した。 「志越……」 彼の顔を見て、彼女はかすかに微笑みを浮かべた。 「来てくれたのね……」 桐生は軽く頷き、彼女の背中に巻かれた幾重もの包帯を目にすると、その蒼白な顔がさらに白くなった。 「夕子、痛いだろう……」 彼女は痛みを隠すように笑おうとしたが、少し体を動かしただけで鋭い痛みが全身を襲い、冷や汗が滲み出た。 桐生は手を伸ばして彼女の肩に触れようとしたが、何かを思い出したかのように手を止め、そのまま動かさなかった。 「無理をしないで。動くと傷口に響くよ。」 彼の穏やかな声に、彼女は瞬きを一つして応えた。 「わかった……」 彼女は返事をした後、彼をじっと見つめた。 婚礼の日よりも痩せ細った彼の姿を見て、胸が痛む思いだった。 彼女は薄く開いた唇から、静かな声で謝罪を口にした。 「志越、ごめんなさい。結婚式では……」 彼女が言い終わる前に、彼は彼女の言葉を遮った。 「夕子、謝る必要なんてない。君が何をしても、僕は君を理解しているから」 その言葉に彼女はさらに胸が締めつけられ、彼の蒼白な顔を見つめながら、何を言えばいいのかわからなくなった。 そんな彼女の様子を気にすることなく、桐生は静かに語り始めた。 「今日は、君に贈り物を持ってきたんだ」 「贈り物?」 彼女は首を少し傾け、透明な瞳に疑問の色を浮かべた。 彼は一冊の離婚証明書を取り出し、彼女の前に差し出した。 「夕子、君との結婚は、僕が無理やり手続きを進めたものだった。君の同意は得られなかった。だから、今回も勝手に離婚手続きをしてきたんだ。本当にごめん」 彼女はその離婚証明書を見つめ、呆然としたまま彼を見上げた。 「志越……やり直すって言っ
桐生志越は言葉を失った和泉夕子を見つめ、穏やかな笑みを浮かべた。「夕子、君が誰かを愛する時の姿を、僕は知っているよ」「全てを投げ打ち、愛する人のために何でもする、たとえ命を懸けてもね……」「だからわかる。君が彼を守るために硫酸を受けたのは、恩義だけじゃない。本当に彼を愛しているからなんだ」桐生は半生をかけて愛した彼女を見つめ、その笑顔にじんわりと涙が滲み始めた。「君が彼を愛している姿は、まるで昔、僕を愛してくれていた時の君と同じだ……でも僕は、そんな君を失ってしまった。そして、もう二度と取り戻すことはできない」その言葉を聞いた瞬間、夕子の胸が締め付けられ、目には涙が浮かんだ。「志越、ごめんなさい。私が最初に裏切ったの……」彼はゆっくりと首を振り、全く彼女を責める様子もなく答えた。「僕が君を怒らせたから、あの事故が起きたんだ。全ては僕が原因さ」「本当は、8年前の事故の時に神様が僕たちの縁を終わらせたんだ。でも僕は、それを受け入れずに過去にしがみついてしまった」彼は微笑みながら話を続けた。「夕子、許してほしい。5年間の記憶を失った後、僕が覚えていたのは若い頃の思い出だけだった。それが僕をずっと過去に縛り付けた。もし僕が早く君への執着を手放していたら、君が罪悪感を抱いて僕のそばにいる必要もなかったのに」夕子は涙で赤くなった目で彼を見つめ、震える声で言った。「志越、私は……」彼は再び首を振り、彼女の言葉を遮った。「夕子、君が僕にやり直そうと言ったのは、僕と同じように過去への執着があったからだよ。僕たちは20年以上の時間を共有してきた。だから君は簡単に僕を手放せなかったんだろう。でも僕にはわかるよ。君はもう僕を愛していないんだ」そう語りながら、彼は病室の衣装棚を見た。そこに並ぶ男物のスーツを目にし、淡い笑みを浮かべた。「今、君のことを僕と同じくらい、いや、僕以上に愛している男がいる。僕が君を手放さない理由なんて、もうどこにもない」「そして僕も、彼と同じくらい君を愛した時期があった。それだけで十分だ。これ以上君に求めるなんてできないよ」彼の言葉を聞いて、夕子は鼻の奥がツンとし、涙が次々と頬を伝った。「ごめんなさい、ごめんなさい……」彼はまるで昔のように優しく手を伸ばし、彼女の髪を撫でた。
桐生志越は手にしていた契約書を置き、その春風のような柔らかな笑みを浮かべた。和泉夕子は病床に横たわりながら、彼をじっと見つめていた。まるで昔の少年の姿を思い出したかのようだった。教室の最後列に座り、片手を机の上に乗せて窓の外を通り過ぎる彼女を見つめていた少年。その頃の彼は、今と同じように穏やかで、洗練され、どこか高貴さを漂わせていた。 二人は互いに見つめ合い、まるで若い頃にすれ違った日々に別れを告げるかのようだった。 しばらくして、桐生は視線を外し、腕時計に目をやった。そして再び夕子を見た時、彼の表情にはすでに覚悟が宿っていた。 「夕子、四時十五分の電車で帝都に戻るよ」 彼女は胸にわだかまる罪悪感を覚えていたが、彼の穏やかな表情を見ると、何も言えなくなってしまった。 彼を見つめながら、かつて彼を試合会場へ送り出した時と同じように、優しい声で言った。 「志越、気をつけてね……」 桐生は契約書を握りしめた手を、少し強く握り直した。 「夕子、四時十五分が何を意味しているかわかるか?」 彼女はしばらく考えたが、答えを思い出せず、そっと首を振った。 彼は力なく手を緩め、かすかな苦笑いを浮かべると、車椅子を押して病室を出た。 夕子は振り返ることができず、ただ車椅子のタイヤが床を転がる音を聞きながら、その背中を想像していた。 窓の外の白い雲を見つめながら、ぼんやりと17歳のあの日を思い出した。 桐生が花束を持って彼女に告白した日。 「夕子、僕が君に好きだと言ったのは、ちょうど四時十五分だったんだ。この時間を覚えていてほしい」 彼はそう言った。 彼女は微笑みながら答えた。 「わかった、絶対に忘れない」 しかし今、彼女は忘れてしまっていたのだ。 四時十五分――それは彼が17歳の時、彼女に愛を告げた時間だった。 夕子は背中の痛みをこらえ、ベッドから身を起こし、桐生の背中を見つめて声をかけた。 「ごめんなさい、志越……忘れてた……」 桐生の車椅子は一瞬止まったが、彼は振り返らずに答えた。 「夕子、大丈夫だよ。僕が覚えていれば、それでいい」 その言葉を聞いて、夕子の目からまた涙があふれ出た。背中の激痛が冷や汗をにじませる中、震え
霜村グループのビル前には、十数台の高級車が整然と並んでいた。 霜村冷司は冷たい表情を浮かべ、車から降りると、その長い足を躍動させながら社長室へと向かった。 その後ろを急いで追ったのは相川涼介と数名のボディーガード。相川は彼の足取りが速いのを見て、慌ててついて行きながら尋ねた。 「霜村社長、ワシントン行きの専用機を準備しますね」 霜村冷司は冷然とした声で命じた。 「準備しろ」 その後、淡々と返した。 「一年だ」 相川は驚き、呆然と彼を見つめた。 「霜村社長、なぜそんなに長く滞在するんですか?」 霜村冷司は何も答えず、その霧のように冷たい目には、光一つ差し込まなかった。 彼の様子から何かを察した相川は、それ以上質問せずに言った。 「では、今夜までに私物の準備を整えます」 霜村冷司は軽く頷き、社長専用エレベーターに乗り込んだ。 社長室では霜村涼平がソファに腰を下ろし、携帯をいじりながらくつろいでいた。彼は霜村冷司が入ってくるのを見て、慌てて立ち上がった。 「兄さん、前回の会議では、他の兄がワシントンでの宇宙事業を担当するって話だったよね?どうして君が行くことになったの?」 霜村冷司は無駄な言葉を返さず、スーツジャケットを脱いでソファに置くと、社長デスクの前に座った。 テーブルに置かれたコーヒーを一口飲み、静かに彼を見上げた。 「お前がそんなに喋るなら、一緒に行くか?」 霜村涼平は一瞬言葉に詰まり、「僕は行かないよ。宇宙事業には興味ないし……」と手を振った。 霜村冷司は冷静に指を動かし、ノートパソコンを開くと、最新の財務報告書を確認し始めた。 報告書を速やかに確認した後、彼は経営陣のグループチャットに会議通知を送り、そのままパソコンを閉じた。 再び冷ややかな目を霜村涼平に向け、短く告げた。 「私がいない間、霜村グループはお前に任せる。今から会議に出席しろ。2時間以内に、グループ全体の1年分のプロジェクトを全て引き継げ。」 霜村涼平は目の前が真っ暗になったような気分で、声を上げた。 「兄さん!今すぐアフリカ行きのチケットを取るから、僕に行かせてくれ!」 霜村グループはアジア市場で圧倒的な影響力を持ち、さらに近年では欧米
霜村涼平は佐藤宇太の挑発に我慢できず、携帯を放り投げて袖をまくり、「親愛の情」と称して彼の顔面に強烈なパンチをお見舞いした。 「僕は一週間で片付ける!」 佐藤副社長はそのパンチを受けたが、特に言い返さず、軽く鼻で笑いながらパソコンを片付け、さっさと部屋を出て行った。 その余裕たっぷりの態度が気に入らない霜村涼平は、さらに数発殴ろうと追いかけようとしたが、霜村冷司に冷たく制止された。 霜村冷司は窓の外に沈む夕日の余韻を眺めていた。その瞳にはかつて星空のような輝きがあったが、今は果てしない闇しか映っていなかった。 霜村涼平はそんな兄の姿を見て、軽薄な態度を引っ込め、隣に座ると静かに尋ねた。 「兄さん、僕に何か言い残すことがあるのか?」 霜村冷司は濃い睫毛を伏せ、低く呟いた。 「彼女を頼む。誰にも傷つけさせるな」 「彼女」が誰を指すのか、霜村涼平にはすぐに分かった。だが、ため息混じりに言った。 「兄さん、追えないなら、もうやめたらどうだ?」 霜村冷司の視線はゆっくりと下に落ち、硫酸で焼かれた指先をじっと見つめた。しばらく沈黙した後、彼は低く言った。 「私は彼女に借りがある」 あの一発の平手打ちで、彼は彼女を死に追いやったことがある。彼女が彼を許してくれても、彼自身が自分を許せないのだ。 さらに、彼女は自分との関係を断ち切るために硫酸を防いだ。 彼女への借りは増える一方だった。 霜村涼平は兄の手に目をやった。かつて白く美しい指は、今や傷跡だらけで痛々しい。そんな彼の姿に心が痛んだ。 「兄さん、君は彼女のためにもう十分した。もう自分を許していいんじゃないか?」 霜村冷司の冷ややかな瞳に、一瞬血のような赤が宿った。 「許せない」 その言葉に、霜村涼平は何も言えず、仕方なく頷いた。 「分かった。僕が彼女を守るよ」 霜村冷司は軽く頷き、さらに念を押した。 「彼女に迷惑をかけるな」 霜村涼平は再びため息をつきながら、渋々答えた。 「了解……」 それを聞くと、霜村冷司は席を立ち、部屋を後にした。 彼の孤高で冷ややかな背中を見送りながら、霜村涼平は首を振った。 「やっぱり恋愛では、深く愛した方が負けなんだな」 霜村冷
まるで背後から視線を感じ取ったかのように、藤原優子は突然振り返った。そして、霜村冷司の姿を見つけると、その顔に喜びが浮かんだ。 「冷司、ようやく会ってくれる気になったのね……」 彼女は足を早め、一目散に彼の前へ駆け寄った。 「冷司、この三年間、ずっと門前払いされて……君に会いたくて仕方なかったの」 霜村冷司は唇の端を冷たく引き上げ、嘲笑のように笑った。 「私に会いたい?」 藤原優子は涙を浮かべながら、必死に頷いた。 「冷司、私はずっと君が好きだったの。子供の頃からずっと……どうして君を思わない日があるわけがないじゃない!」 霜村冷司はその冷ややかな目を持ち上げ、彼女をじっくりと見下ろした。 「それで、兄さんのことはどうなんだ?」 藤原優子の顔から血の気が引き、瞳には罪悪感が一瞬よぎったが、それでも彼女はきっぱりと言った。 「私は兄さんを愛してなんかいなかった。愛しているのはずっと君だけだった。君が幼い頃から距離を置いていたから、兄さんと付き合うしかなかったのよ……」 そう語る彼女は、手を伸ばして彼の手を掴もうとしたが、その指先が触れる前に、彼は素早く手を引っ込めた。 まるで蛇蝎を避けるようなその仕草に、藤原優子は顔を赤らめ、屈辱と後悔が彼女を飲み込んだ。 「私が間違ってたわ!君の求婚を断るべきじゃなかった。兄さんが亡くなった後、すぐに君と結婚すべきだったのよ!」 もしあの時に彼と結婚していれば、和泉夕子のような女が入り込む隙などなかったはずだ。 彼女は、自分が霜村冷司に興味を持たれないのは、自分が彼の基準に達していないせいだと思い込み、国外で必死に自分を磨いた。 だが、感情に冷たいと思われていた彼が、自分が去った後、少し似ているだけの女を囲っていると知った時、彼女は予想外の展開に打ちのめされた。 潔癖症の彼が、彼女には一度も触れたことがないのに、別の女を抱いている。それを想像するだけで、藤原優子は悔しくてたまらなかった。 彼女は冷たい目をした霜村冷司を見上げ、歯を食いしばりながら叫んだ。 「霜村冷司!どう言い訳しても、君は兄さんに私を娶ると約束したんだ!その約束を破るなんてできないわ!」 霜村冷司の薄い唇には、さらに冷たい笑みが浮かんだ。 「私を利用して兄さんの感情を欺き、それで
彼の最後の言葉は口に出されなかったが、藤原優子にははっきりと分かった。 もし彼の兄さんが生前彼女を愛していなかったなら、彼はとっくに彼女を処分していたはずだ。 その事実を悟った瞬間、藤原優子の顔は青ざめ、心の中に冷たい恐怖が広がった。 もし、もし彼が当時の出来事を知ったなら……。 彼女はその続きを考えることもできず、彼の前でこれ以上騒ぐ勇気も失った。 彼女は拳をぎゅっと握りしめ、歯を食いしばりながら、怒りに満ちた目で霜村冷司がコニセグを運転して屋敷へと入っていく様子を見送った。 彼が過去の秘密にたどり着くことは決してない――彼女は彼の弱みを握っているのだ。 霜村冷司、すぐに……すぐにあなたは裏切りの代償を払うことになるわ!!! 霜村冷司は邸宅に戻ると、ジャケットを脱いで使用人に渡し、消毒液を持ってくるよう命じた。 使用人が消毒液を持ってくると、それを受け取り、先ほど藤原優子が触れそうになった指に吹きかけ、きれいに消毒した。 それを終えると、彼は書斎へと向かい、仕事に関連する資料を整理した後、引き出しを開けた。 その中のプライベート用スマートフォンに視線が触れた瞬間、彼の胸に痛みが走り、息苦しさを覚えた。 深く息を吸い込むと、彼はそのスマートフォンを手に取り、画面をオンにしてじっと見つめた。そこには、たったひとつの名前が通信録に記録されていた。 彼女が言っていた、「私の番号すら保存してないのね」という言葉。だが、誰が知っているだろうか――彼はその数字をとっくに心に刻んでいるということを。 彼のプライベート用スマートフォンには、初めから今に至るまで、彼女以外の登録はない。 霜村冷司はスマートフォンを握りしめ、その手がだんだんと力を込めていく。それでも、最終的には痛みに耐えながらそれを手放した。 彼は立ち上がり、金庫の前に向かい、そのスマートフォンを中にしまうとしっかりと鍵を掛けた。 これからは、彼女に関わるすべてに触れないことで、この苦しみから逃れようとするのだ。 金庫の扉に手を触れた後、彼は振り返り、資料と仕事用スマートフォンを手に書斎を出た。 相川涼介は、彼の私物の準備をすでに終えており、書斎から出てきた彼を見てすぐに近づいた。 「霜村社長、準備完
和泉夕子が城館を出て、鉄格子越しに見てみると、相川泰と大野佑欣が激しく取っ組み合っているのが見えた。沢田が戻ってきた時に、大野皐月の妹、大野佑欣は喧嘩がとても強いと聞いていたが、和泉夕子は信じていなかった。しかし今、実際に現場を目の当たりにし、彼女は驚愕した。180cmを超える大男の相川泰でさえ、大野佑欣のパンチに押されている。「大野さん」鉄格子越しに優しい声が聞こえ、大野佑欣は握りしめていた拳をゆっくりと開いた......彼女は体を起こし、振り返って、鉄格子の中に立っている和泉夕子を見た。「あなたが和泉夕子さん?」「ええ」陽光の下に立ち、軽く頷く彼女の姿に、大野佑欣は少しぼんやりとした。こんなにも生き生きとした命を、どうして奪えるだろう。でも、母親を失いたくもない......大野佑欣は数秒迷った後、和泉夕子に近づこうとしたが、相川泰に止められた。「奥様に近づくな。でないと、容赦しないぞ......」彼は女には手をあげないと決めているため、大野佑欣に手加減をしていたが、もし彼女が奥様に危害を加えようものなら、容赦はしない!大野佑欣は相川泰を一瞥したが、全く気にせず、大きな目で鉄格子の向こうにいる和泉夕子を見つめた。「霜村奥さん、少し外に出て話せますか?」「ごめんなさい。それはできませんわ」和泉夕子はきっぱりと断った。「あなたが来た目的は知っています。ここで話しましょう」大野佑欣は彼女を外に連れ出して拉致するつもりだったが、和泉夕子は彼女の目的に勘づき、警戒していた。「あなたのお兄さんから電話があったんです。あなたが私の心臓を奪いに来ると」なるほど。だからブルーベイに、屈強なボディーガードが配置されていたのか。まさか、兄が事前に連絡しているとは思いもしなかった。兄に先手を打たれた大野佑欣は、相手が全て知っているのを見て、潔く認めた。「ええ、その通りです。私はその目的でここに来ました」和泉夕子は唇の端を上げ、困ったように微笑んだ。「大野さん、医師は既に私の血液を採取し、適合検査を行い、あなたのお母様とは適合しないことが結果として分かっています。だから、無理やり私の心臓を奪って移植しても、無駄なんです。しかも、適合しないドナーの臓器を移植すれば、拒絶反応で、あなたのお母様はすぐ
和泉夕子は少し驚き、そして恭しく言った。「新井先生の先生だったのですね......」大田は湯呑みを置くと、謙遜するように手を振った。「先生なんてそんな大層なものではないよ。私はたった数年間彼女を指導し、その間にたくさんの医学賞をとらせてあげたってだけ。私なんか、本当にたいしたことないよ......」隣に座っていた霜村爺さんは杖で床を突き、「もったいぶるな、早く脈を取れ!」と言った。大田は彼を睨み、「いい歳をしていつも仏頂面をしていると、痔になるぞ!」と言った。夕子の前で痔になるなどと揶揄され、霜村爺さんは激怒した。「大田、年甲斐もなくはしゃぐな!」和泉夕子は笑いをこらえ、手を差し出して二人の言い合いを仲裁した。「大田先生、脈診をお願いします。私がまだ治療できるかどうか......」霜村爺さんに言い返そうとしていた大田は、和泉夕子が手を差し出すのを見て口をつぐみ、脈診を始めた......しばらくして、大田は顔を上げて和泉夕子に尋ねた。「薬をたくさん飲んでいるようだが、止められるか?」和泉夕子は首を横に振った。「心臓の拒絶反応を抑える薬と、目の治療薬は、どちらも止められません」大田は思わず彼女の心臓に視線をやった。こんな若いのに心臓移植をしているとは、どうりで体が弱々しいわけだ。和泉夕子は彼が黙っているので、霜村爺さんの顔色を窺いながら、緊張した面持ちで尋ねた。「私は......まだ子供を産めますか?」大田は脈診を終え、彼女を一瞥した。「大きな手術を何回受けたか?」和泉夕子は正直に答えた。「大きな手術は2回です。どちらも心臓に関するものです。その他、小さな手術も......」彼女が何度も手術を受けていると聞いて、霜村爺さんは眉をひそめた。「手術のせいで、子供が産めなくなったのか?」大田は診察バッグに小さな枕をしまいながら、首を横に振った。「手術とは関係ない。奥さんは不妊症ではない。子供を産める」医師の言葉に、霜村爺さんと和泉夕子は二人とも安堵した。大田が何か言おうとした時、新井さんの慌てた声が外から聞こえてきた――「奥様、外にとても強い女性が!ボディーガードたちが全員やられてしまいました!早く!」和泉夕子は大野皐月の妹が来たと分かり、急いで立ち上がった。「おじいさん、大田先生、少しお待ちください
翌日の昼、和泉夕子はデザイン画を描き終えると、穂果ちゃんにビデオ通話をかけた。「穂果ちゃん、今日は学校でご飯ちゃんと食べた?」「うん!美味しいご飯がいっぱいあるよ!でもね、空が、いつも私のタルトを横取りするの!」穂果ちゃんは何度も柴田空と同じ学校に通うのは苦痛だとこぼしていた。それを聞いて、和泉夕子は穂果ちゃんに転校するかどうか尋ねた。穂果ちゃんはこの街で一番の学校だから転校したくないと言った。柴田空からは最後まで逃げないと決意した穂果ちゃんは、最後まで戦い抜く、そうでなければ池内思奈じゃない、と言った。和泉夕子は彼女に何も言えず、ただ姪の根性はなかなか良いと思い、好きにさせることにした。「穂果ちゃん、今度空がタルトを横取りしたら、分けてあげるから取らないでって言ってみなさい」「うん、今度やってみる。それでも言うことを聞かないで、私のタルトを横取りするなら、隅っこに連れて行って、思いっきり殴ってやる!」和泉夕子は穂果ちゃんに暴力を振るわないように言おうとした時、ビデオ通話の向こうから、先生がお昼寝の時間だと子供たちを呼ぶ声が聞こえてきた。「おばさん、もう行かなきゃ。小花先生と一緒にお昼寝する時間なの」小花先生は本当は華という名前の男の子で、とてもカッコいいなので、穂果ちゃんは何でも彼の言うことを聞く。「分かった。早く行きなさい」二人は手を振って別れを告げ、和泉夕子はビデオ通話を切った。食事をしに階下に降りようとした時、新井さんから霜村爺さんが来たと聞いた......階段の手すりを掴んでいた手が止まった。「新井さん、私がいないと言って......出かけているって......」言葉が終わらないうちに、玄関から力強い声が聞こえてきた。「なんだ?わしが怖いのか?」霜村爺さんの声を聞いて、和泉夕子はもう隠れることができず、仕方なく階下に降りてきた。「おじいさん、どうしてここに?」新しい杖を買った霜村爺さんは、和泉夕子の前に来ると、杖で床を突いた。「夫に許可をもらった」和泉夕子は彼がなぜ来たのかを尋ねたのだが、霜村爺さんは霜村冷司の許可を得てきたと答えた。もうそれ以上聞く必要はなかった。「夫」という言葉で、和泉夕子は霜村爺さんがなぜ家に入れたのか理解した。彼は彼女を認めたのだ。和泉夕子は霜村
相手の声を聞いて、和泉夕子は一瞬固まった。まさか「バカ」が大野皐月だったとは。すぐに我に返り、「適合しないって言ったのに、どうしてまだ私の心臓が欲しいの?どうかしてるんじゃない?」移植したって無駄なのに。拒絶反応で即死するかもしれないのに。生きるためなら、どんな非常識なことでもするんだな。大野皐月もそれは理解していた。「母さんは少し精神的に参っているようだ。だが、妹は分別のある子だ。見つけたら、説得する」そう言われて、和泉夕子は怒りを抑え、「そうした方がいいわよ。でないと、私が怒ったらどうなるか、知らないんだから!」なぜか、和泉夕子がそう脅した時、大野皐月の脳裏には、彼女が歯を食いしばって怒っている可愛いらしい姿が浮かんだ......そして、慌てて電話を切った!霜村冷司の女がどうしたっていうんだ?あんな下劣な想像をさせるなんて!大野皐月は携帯電話を投げ捨て、ソファに倒れこんだ。「ふん、体で男を釣る女なんて、霜村さんみたいなバカにしか相手にされないさ!」独り言を呟いていると、耳元にはまだ「私が怒ったらどうなるか、知らないんだから!」という言葉が響いていた......そして再び、彼女が怒っている可愛いらしい姿が脳裏に浮かび、大野皐月は爆発した!「ちくしょう!私はきっと頭がおかしくなったんだ!」彼は携帯電話を取って医師に電話をかけようとしたが、南から電話がかかってきた。「大野様、お嬢様が空港に向かいました。きっと帰国するつもりです。私は彼女に勝てません、止めることもできません。どうしましょう?」「......」大野皐月は眉をひそめて考え、冷たく言った。「専用機を準備しろ。私が戻って彼女を止める」霜村冷司が浴室から出てくると、和泉夕子が彼の携帯電話を持っているのを見て、少し口角を上げた。「夕子、これは浮気調査か?」和泉夕子は携帯電話を握ったまま振り返り、「ええ、冷司が私に隠れて他の女と遊んでいるんじゃないかって」と答えた。霜村冷司は近づき、片腕で彼女の腰を抱き寄せ、自分の腕の中に引き寄せた。「何か見つかったか?」和泉夕子は穏やかな顔で微笑みながら、「残念ながら何も見つからなかったわ。ただ、バカって名前の人の妹が、私の心臓を奪いに来るみたいだけど」と言った。霜村冷司は伏し目がちに、冷たい視線を向け
大野佑欣は驚いた。「兄さんは適合しなかったって言ってたじゃない?」適合しないなら、心臓を奪っても無駄だ。移植しても拒絶反応が出て、すぐに死んでしまうかもしれない。追い込まれ既に見境がなくなっている春日椿には、そんなこと全く関係がなかった。「彼女には春奈の心臓が移植されているわ。彼女に適合したのならば、私にだって適合するはずだわ。」春日椿がそう言った時、彼女の目に宿る陰湿な光に、大野佑欣は息を呑んだ。母親はいつも優しく上品だったのに、どうしてあんな表情をするのだろう?自分の見間違いだろうか?大野佑欣がもう一度よく見ようと顔を近づけた時には、春日椿は既に鋭さを隠し、か弱く無力な様子に戻っていた。「佑欣、お母さんがずっとそばにいてほしい?」「もちろんよ」そうでなければ、なぜ彼女と兄は世界中を駆け巡ってドナーを探しているのだろう?母親に生きていてほしい、ずっと一緒にいてほしいからに決まっている。「そう思ってくれるなら、お母さんのために春奈の心臓を持ってきてくれない?」「それは......」大野佑欣はためらった。春日春奈の心臓は、すでに和泉夕子に移植されている。つまり、和泉夕子は生きている人間だ。生きている人間の心臓を持ってくるなんて......「あなたも兄さんと同じで、私が生きていてほしくないのね......」「そんなことないわ!この世で私が一番大切なのはお母さんよ......」春日椿は震える手で、大野佑欣の手の甲を軽く叩いた。「お母さんもあなたと離れたくないからこそ、お願いしているのよ......」大野佑欣はまだ抵抗を感じていたが、何も言わなかった。春日椿はそれを見て、深くため息をついた。「先生は彼女の心臓があれば、私はあと数年生きられると言っていたけれど、あなたが嫌ならそれでいいわ。お母さんは、あなたに無理強いするつもりはない」「先生がそう言ったの?」医師は無理だと言ったが、春日椿は聞く耳を持たない。「ええ、先生は春奈の心臓は私と適合するから、移植できると言っていたわ」医療の知識があまりない大野佑欣は、少し迷った後、腰をかがめて、病気でやつれた春日椿の顔に触れた。「できるなら......お母さん、ここでゆっくり休んでて。私が夕子を連れてくるから......」もし霜村冷司が
大野皐月が大野佑欣を見つけた時、彼女は車の中に座り、虚ろな目で遠くの森を見つめていた。気が強く活発な妹が、こんな放心状態になっているのを見るのは初めてで、彼は胸が痛んだ。「佑欣、霜村さんの部下に何かされたのか?」大野佑欣は動かない瞳をゆっくりと動かし、縄を解いてくれている大野皐月を見た。「兄さん、霜村さんの部下に、私が拉致されたの?」大野皐月は苦労して縄を解きながら、頷いた。「彼の妻は春奈の実の妹だ。母と適合するかもしれないと思い、彼女を連れてきたんだ。まさかその前に、霜村さんが君を拉致していたとはな。彼は私を牽制するために、君を巻き込んだんだ。辛い思いをさせてすまなかった。全部、兄さんの責任だ......」大野皐月は縄を解き終えると、大野佑欣に謝った。大野佑欣は事情を理解すると、無表情で首を横に振った。「大丈夫......」沢田健二は霜村冷司の部下だったのか。彼が自分に近づいてきたのは、自分たちがなぜ春日春奈を探しているのか探るためだったのだろう。霜村冷司が兄の計画に乗じて、危険を犯し目的を達成した今、私の利用価値はもう無い。だから沢田健二はあんなに冷酷に去っていったのか。まさか、彼にとって自分は霜村冷司の手先で、用済みになったら捨てられるただの道具だったとは。大野佑欣は全てを理解すると、突然冷笑した......その冷たい笑みに、大野皐月は背筋が寒くなった。「佑欣、大丈夫か?」大野佑欣は無表情のまま、首を横に振った。「兄さん、適合したの?」大野皐月は何も言わなかったが、彼の表情から、大野佑欣は答えが分かった。彼女はそれ以上聞かずに、「母さんの様子を見てくる」と言った。大野皐月を車から降ろした後、大野佑欣は素早く後部座席から運転席に移動し、バックで邸宅を出て行った。猛スピードで走り去る車を見つめ、大野皐月は心配そうに眉をひそめた。「南、後を追って様子を見て、何かあったらすぐに報告しろ」大野佑欣は病院の病室に着くと、苦しそうにベッドで丸まっている母親を見て、胸が痛んだ。「お母さん、大丈夫?」春日椿は息苦しさに胸を押さえ、やっとの思いで息を吸い込んだ。酸素が体内に入ると、彼女の視界がはっきりとしてきた。自分の娘だと分かると、春日椿は震える手で彼女の顔に触れようとしたが、力が入らない。
怒りに満ちていた大野佑欣は、その言葉を聞いて心臓がズキッと痛み、苦しくなった......なんてことだ。彼女は本当に彼のことが好きになってしまったらしい......大野佑欣、なんて役立たずなの!心の中で自分を叱った後、彼女は沢田に宣告した。「どこに逃げても、私は見つけてやるから。今日のことの復讐を果たすまでは!」今回、沢田は何も言わず、ただ唇の端を少し上げた。彼が自ら姿を現さない限り、Sのメンバーを簡単に見つけられるわけがない。しかし、彼は女のために自ら進んで命を落としに行くほど愚かではない。だから、今回のお別れで、大野佑欣とはもう二度と会う事がないだろう。バックミラー越しに、沢田の目に浮かぶ決意を見て、大野佑欣は怒りと憎しみに満ちた。「沢田、この卑怯者!」口説いて、惹きつけて、体まで奪ったのはいいとして、騙しておいて、その後自分に敵わないからって逃げようとするなんて。これでも男か?獣だ!この世にどうして沢田のような人間がいるんだ?よりによって、こんな男を好きになるなんて!信じられない!罪悪感に苛まれながらも、沢田は大野家の前でスピードを落として車を止めた。ドアを開けて車から降り、後部座席に回った。彼はドアを開け、腰をかがめて大野佑欣を起こした。その動作で、二人は向き合った......沢田がちゃんと見れば、大野佑欣の怒りに満ちた目の奥には、実は彼に対する未練があることに気づくはずだった......しかし、沢田は無理やり彼女の顔を見ないようにして、うつむき、彼女の右手を縛っていた縄を解いた。「片手だけ解いてやる。好きなだけ殴ってくれていい。ただ、殴り終わった後は、もうそんなに怒らないでくれ。漢方医によると......女の人が怒ると体に......」言い終わらないうちに、自由になった大野佑欣は、沢田の顔に平手打ちを食らわせ、彼の髪を掴んだ。沢田がまだ状況を把握していないうちに、彼女は片手で彼を車内に引きずり込んだ。そして、雨粒のような拳が彼の胸に降り注ぎ、胸に鈍い痛みを感じ、呼吸困難になり、目がチカチカした......ほら、片手を解いただけなのに、こんなに殴られた。両足を解いていたら、2分も立たなければあの世行きだっただろう......彼女には借りがある。沢田は激痛をこらえ、抵抗しなかった。大野佑欣が殴る
沢田は唾を飲み込み、大野佑欣の前にしゃがみこんで謝った。「ごめん。わざと縛ったわけじゃないんだ」大野佑欣は口にタオルを詰め込まれていて、声が出せない。ただ、沢田を睨みつけることしかできなかった。彼女の目から放たれる憎しみに、沢田は思わず身震いした。「今から君を帰すから、そんな目で見ないでくれないか?」帰してもらえるという言葉を聞いて、大野佑欣はゆっくりとまつげを伏せ、憎しみを隠して、おとなしくなったふりして沢田に頷いた。沢田は彼女がこんなにか弱く見えるのは初めてで、心が揺らぎ、彼女の口からタオルを外した。大野佑欣は大きく空気を吸い込み、呼吸を整えると、充血した目で、全身を縛っている縄を見つめた。「解いて」彼女の視線を追って、沢田は上半身を縛っている縄を見て、思わず首を横に振った。「解いたら、絶対に殴られる......」沢田は想像するまでもなく、縄を解けば、彼女は拳で自分を殴り殺すだろうと分かっていた。自分の命は、まだこれから闇の場で霜村冷司を助けるために必要なのだ。死ぬにしても、女に殺されるわけにはいかない。縄を解いてくれないのを見て、大野佑欣は縛られた両手を握りしめ、怒りを抑えながら、澄んだ瞳を上げた。「健二、あなたのことが好きになったの。殴ったりしない......」あなたのことが好きになったの......沢田は驚き、縄で縛られてやつれた大野佑欣を見つめた。「薬を飲ませて、拉致したのに、それで俺のことを好きになったと言うのか?」彼の信じられないという表情を見て、大野佑欣は花が咲いてような明るい笑顔を見せた。「あなたにはあなたなりの理由があるはずよ。そうでなければ、私を傷つけるはずがないもの。だって......」大野佑欣は2秒ほど間を置いて、沢田の下半身に視線を落とした。「あんなに何度も一緒に寝たんだもの、少しは情が移ったでしょう?」沢田は彼女が自分の下半身を見つめているのに気づき、照れくさそうに膝を閉じた。「俺は......」「もしかして、私のことが好きじゃないの?」その挑発的な問いかけに、沢田はどう返事していいのか分からなかった......タオルを外したら、大野佑欣はきっと最初に自分に向かって暴言を吐き散らかすだろうと思っていたのに、告白されたとは想像もしなか
大野皐月が壁に寄りかかり、顔が赤く、息を切らしているのを見て、春日琉生は恐る恐る尋ねた。「兄さん、だ、大丈夫か?」大野皐月は充血した目で春日琉生を睨みつけた。「どっか行け!」春日琉生は足を速めて去りながら、南に声をかけた。「薬を飲むように言ってくれよ......」南はいつも持ち歩いてる薬を取り出し、水と一緒に大野皐月に渡した。「お、大野様、まずは薬を飲んで落ち着いて......」怒りを必死に抑えようとしている大野皐月は、薬を受け取り、仰向けになって飲み込んだ。気持ちを落ち着かせ、再び目を開けると、その目には冷たい光だけが残っていた。彼は床に落ちた携帯を拾い上げ、霜村爺さんの電話番号を探してかけた......霜村爺さんは大野皐月の話を聞いて固まった。「な、なんだって?彼女が本当に春日家の人間じゃないんだと?」大野皐月は我慢できず、怒鳴った。「耳が聞こえないのか?それとも目が悪くなったのか?!人の話が分からないのか?何度言ったら信じるんだ?!」霜村爺さんは初めてこんなに人に怒鳴られ、激怒した。「耳も目も悪くなってない!まともに話せないくせに、逆ギレするとはいい度胸だ!」どうして霜村家と関わるといいことがないんだ?!若い奴が生意気なのはまだしも。今度は年寄りも楯突いてくるとは!私を誰だと思っているんだ?!「このジジイ、よく聞け!てめえが飯食えば歯に詰まり、水を飲めばむせて死にかけ、車に乗ればタイヤが外れて、外に出れば即交通事故、おまけに子孫は三代続かずに滅ぶように呪ってやる!」大野皐月は一気に怒鳴り散らかした後電話を切り、霜村爺さんの番号をブロックした。霜村爺さんは怒りで体が震え、言い返そうとしたが、ブロックされていることに気づき、さらに激怒した。「この野郎!」「この畜生め!」「わしも呪ってやる!不幸になれ!嫁をもらえず、たとえもらえても、子供には障害あれ!!!」霜村爺さんは一通り怒鳴り散らかした後、霜村冷司が前にもってきたDNA鑑定書を改めて確認した。今はかつて和泉夕子が春日家の人間だと嘘をついていた大野皐月でさえ、彼女が春日家の人間ではないと言っている。ということは、この鑑定書は本物だ......本物だとしたら、春日椿がこの件を利用して霜村家の人間を煽り、和泉夕子を殺すようにと