LOGIN美しい女優の母ジャンヌと、満ち足りた生活を送る少女イレヱヌ。彼女にとってその完璧な世界は、ある日突然現れた父と名乗る男によって粉々に打ち砕かれる。 母から「I」と呼ばれ、美しい人形として無条件の愛を注がれた日々。それだけが彼女の世界の全てだった。 苦痛に満ちたアメリカでの生活から逃れるように、彼女が渡ったスイスの寄宿学校。そこで出会ったのは、奔放で謎めいた少年セシルと、高圧的な貴族のシリルだった。 美しさが呪いにもなる世界で、少女が求める本当の愛と安住の地とは。複雑に絡み合う人間模様の中で、彼女が選ぶ未来は――。愛とアイデンティティを巡る、鮮烈な物語。
View Moreイレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って
ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌは
イレヱヌは案の定新しい住まいを全く気に入る事が出来なかった。家は立地からして嫌いだった。窗からはセントラルパークもエンパイア・ステエト・ビルも見えない。建物は真っ白なモダニズム建築で、装飾の無い直線的で箱のような外観だ。庭があるものの、芝生は徹底的に刈り込まれ生垣はまるで定規を当てながら剪定をされたかのようだ。
イレヱヌは庭があると聞いたときにモネの絵画のような色彩と耀に溢れる情景を想像したが、実際には墓地を想像させる寒々としたものだった。裏庭にプールとカバナが在ることをジャンヌは大変気に入ったようだが、イレヱヌはプールなどどうでも良かった。一切の無駄を削ぎ落として合理性のみで出来た家が自分の居場所とは思えなかった。 内装も全く持って気に入らない。エドワアドの趣味でおまけに使用人達が皆英語しか話さない。イレヱヌは亜米利加に居るというのに英語が嫌いだった。シュウ・アラ・クレェムが何故か英語ではクリームパフなどどいう味も素っ気も無い不快な単語にされてしまうのかイレヱヌには解らなかった。元々は仏蘭西《フランス》で産まれたものだというのに。|パルフェがどうやら此方ではサンデー為るものと同一視されているらしいというのも嫌だった。イレヱヌからすれば全く違う。パルフェはもっと華やかで味わいも複雑だ。
何もかもが気に入らない新居のため、イレヱヌはジャンヌの部屋に籠ることが多くなった。自分の住む場所の筈が何処にも居場所など見付けられ無かったからだ。ジャンヌの部屋はエミィル・ガレの家具が置かれている。壁にはロォトレックの
稀に両親が揃って自宅に朝からいる時はパーティーが開催される日だ。イレヱヌはこのパーティーが大嫌いだった。何故か理由はイレヱヌにもはっきりとは
部屋で二人は一糸纏わぬ姿になって向かい合った。これ程互いの生まれたままの姿をじっくりと見詰め合うのは初めての事だ。 「あたしはセシルに抱擁をされるのが好き」セシルをそっと抱き締めて首筋に顔を埋めながらそう言った。「堪らなく安心するの。心まで包み込んでくれている気がするから」イレヱヌが口を開くと「僕はイレヱヌが気持ち良くなってくれるのを見るのが好き」セシルもそっと抱き締め返しながらそう返す。「僕に一番心を開いてくれていると思うから」二人は視線を交わす。どちらともなく顔を近づけ接吻をしていく。最初は軽く唇を食み合う。お互いに相手の皮膚をなぞり合った。擽ったさに笑い声を混じらせながら接吻を続ける。次第に唇を深く重ね合って舌を絡ませた。セシルはイレヱヌの白い身体をそっと横たえる。指だけでなく唇を使って身体の輪郭を丁寧になぞっていくと、イレヱヌの身体は次第に桃色に染まっていく。イレヱヌは次第に息遣いが荒くなり、頬が薔薇色に染まった。 「イレヱヌ、可愛い」セシルが呟いた。 (可愛い) セシルの頭の中は其れだけが浮かぶ。こんな姿を見たのは自分だけだ。其の事実に頭は熱で浮かされる。悟性と理性が獣の本能によって掻き乱され情動の前に跡形もなくバラバラになりそうだった。(優しく……優しく……)セシルは自分に何度となく言い聞かせる。手が無様な程に震えだした。これ程緊張を憶えたことなど今までに無かった。「セシル、怖いの?」イレヱヌがセシルの頬を両手で包み込む。「|理解《わか》らない。何故か震えが止まらなくて」セシルが困惑していると、「セシル、あたしは大丈夫」イレヱヌが安心させようと微笑いかける。「相手がセシルだって理解っているから」「だから、大丈夫よ」イレヱヌはそっとセシルを抱き締める。セシルは聖母の胸に抱かれていた。其の後はお互いの身体に触れあい、熱を分け合った。次第にセシルは自分を抑制出来なくなる。自分の内の獣は唸り声をあげて飢えを訴えた。イレヱヌの身体を飢えが無くなるまで何度も啄む。此のまま二人ともどろどろに溶けて形が無くなり、一つになってしまいたい。セシルはそんな狂暴な欲望に頭が支配された。イレヱヌはセシルを優しく抱き締め続けた。 二人の頭が熔けそうな程抱き合った後にふと、にゃうにゃうという鳴き声と爪
ヴェネツィアは不思議で面白い街だった。昔ながらの街並みが其のまま残り、細い入り組んだ道があるかと思えば階段も出現する。まるで迷路を彷徨うようだ。ただ歩くだけでも冒険になる此の街にイレヱヌはすっかり虜になった。但しセシルは歩くだけでも疲れてしまうこの街の構造に不満を感じたらしくすっかりむくれてしまった。 「イレヱヌったらどうして目的地をヴェネツィアにしようと思ったの?」と不服そうなセシルに訊かれた。嫌なら付き合う必要無かったのに、と思いつつも「前々から来たかったの。水の都って浪漫チックで素敵でしょ?」と答える。 「確かにここは美しいよ。僕が画家ならきっと何枚も絵に残してる」セシルは同意しつつも「でも僕は画家じゃないんだよイレヱヌ……」とセシルは悲嘆に暮れた。「もう、不満ならあたしの旅行に付き合う必要無かったのに」と呆れた声を出すと「イレヱヌは僕とずっと側に居たくないの?」と言いイレヱヌの前を歩き出す。すっかり拗ねてしまったようだ。性に関しては早熟なのに心は五歳児並みに幼稚だ。イレヱヌは溜め息を付きたくなった。(セシルに何かを論理的に説明すするには語彙だけでなく色んな色のクレヨンも用意した方がいい)イレヱヌは確信した。 街の散策をセシルは楽しんでいなかったため、カッフェ・フロオリアンで休憩をしてトラメッツィーニ、チョコラータ・イン・タッツァ、カフェラテ等の軽食を済ませた後に予約をしたゴンドラ遊覧に移動した。セシルはゴンドラに乗って「昔のヴェネツィア貴族みたいな衣装を着たかった!」と残念がった。「其の気持ちはちょっと分かるかも」とイレヱヌも同意する。ゴンドラで優雅に運河を移動し昔ながらのヴェネツィアの街並みを眺めていると、まるでタイムスリップでもしたような幻覚におそわれる。自分達が十七世紀頃の裕福な商人や貴族にでもなったような感覚になった。美しい街並みの中を愛する恋人と一緒に眺めるヴェネツィア貴族の娘とはこんな感覚だったのだろうか、と思いを馳せる。 「セシルと一緒に来れて良かったなあ」イレヱヌはしみじみと呟いた。「本当に?そう思う?」セシルは何故か目を丸くして尋ねた。どうして驚いているように見えるのかイレヱヌには分からない。「当たり前じゃない」イレヱヌはセシルの目を見て頷く。「好きな人とこんなに綺麗な街に来られるってとっても幸せじゃない?」セシルは瞬きをした
夜が明けたら未蘭に着いていた。眩しい日の出で外の耀が透けた日覆いを開けると目の前には未蘭中央駅が見えてきた。石造りの巨大な建造物は駅というよりも神殿を思わせる外観だ。確かムッソリイニが権力の象徴で作らせたものだったはず、と朧気な記憶を辿った後にイレヱヌは慌てて写真を撮る。セシルはまだ夢の中だ。朝は弱い方なので当然だろう。イレヱヌはセシルが眠っている間に昨日の食事や買い物、オリエント急行の外観、内装等についてイラストと文で書いていく。完全に習慣だ。そうだ、廊下の写真も撮っておきたい、と思い部屋を出る。列車は連結部分の扉も桃花心木が使われ、各車両には各々の名前や由来、製造年が記されていた。窓から駅を眺めると、鉄骨と硝子で出来たアーチ屋根が見える。 (綺麗……)未蘭中央駅が非常に壮麗な駅である事は勿論知っていたが、間近でみると想像を超える感動があった。 イレヱヌは車内の探検に満足して自分達の部屋に戻る。「お早うイレヱヌ」何故か少しむすっとしたセシルが頬に接吻をして出迎えてくれた。「もう、どうして一人で何処かに行っちゃうの?」頬を膨らませながら不満を訴えてきた。イレヱヌはやや面食らいながら 「セシルは未だ寝ていたから起こしたらいけないと思って」と理由を答えた。「そんなに機嫌を損ねないで、ダアリン」イレヱヌはあやすように微笑いかけながらセシルの桜桃の様な唇に小鳥が啄むような接吻を落とした。「駄目、そんなんじゃ僕の機嫌は直らないよ」セシルは笑いを含んだ甘え声でイレヱヌの首筋に頬を擦り付ける。ルルがマアキングをする姿を彷彿とさせ、思わず笑いそうになった。首筋に顔を埋めてセシルは「さっきまで何してたの?」と訊いてきた。「落書きした後写真を撮ってたよ。」と擽ったさに笑い声混じりに答えた。 「落書き?」とセシルが不思議そうにするため、「絵日記みたいなものかな?」と首を傾げながらイレヱヌは答えた。実際は日記という程の内容も無いのだが。「ほら、このノオトに書いてるの」と部屋の卓子のノオトを見せながら教えた。大胆な波と青みがかった山の“浮世絵”と呼ばれる版画が印刷されたノオトだ。偶々メトロポリタン美術館で此の版画を見て、ジャンヌが「Iの眼の色に似ているわ
一九六○年イレヱヌ達は高等学校一年に上がる年に入った。 イレヱヌは中等部三年の二週間の春休みを利用してオリエント急行での旅行を計画した。アガサ・クリスティの“オリエント急行殺人事件”を読んでからずっと乗りたいと密かに思っていたのだ。小説が発表された時代はまだ飛行機も無かったためかなり利用客が多かったようだが今は其処まで混みあっていないと聞いた。春休みの予定をセシルと話す事になり、イレヱヌがそう答えると「じゃあ僕も一緒に行くよ」と云った。耳を疑い「えっ」と思わず驚く。セシルがアガサ・クリスティを好きとは聞いた事も無かったし、“オリエント急行殺人事件”を読んだとも聞いていない。不思議に思っていると「恋人と二人きりで旅行したいって思うのはそんなに変なの?」とセシルが拗ねて訊いてきた。 「あたし、今まで旅行は家族と行くものだと思ってたから」「恋人同士でも行っても変では無いよね。そういえば」イレヱヌの其の言葉に 「僕は家族で旅行をしたことも無いよ。楽しみだね」と微笑いかけながらセシルが言った。イレヱヌも楽しみに胸を膨らませながらも家族で旅行に言ったことがない、というセシルの言葉が引っ掛かった。イレヱヌはセシルの家族の話を本人から聞いたことは一度も無い。何となく触れてはならないことのような気がしたからだ。 オリエント急行は仏蘭西発のものにした。スイス発のものもあるがその前にセシルが巴里で買い物をしてから乗りたがったからだ。セシルは最初巴里の老舗ホテル“オテル・リッツ・パリ”に泊まりたがったが、巴里観光でシャネルやディオウルの服を買いたがっている事を知り、“オテル・リッツ・パリ”の宿泊費で服が買える事を伝え、ジャンヌの所有するアパルトマンに泊まる事になった。セシルはオリエント急行での旅の後は暫くアパルトマンでゆっくりしつつ、観光をすることを希望したためルルが淋しい思いをしなくて済むようにルルも連れて行くことにした。 アパルトマンは巴里十六区にあった。残念ながらこの時はアルジェリア独立に反対する極右武装組織のテロ行為が行われていたため、イレヱヌの記憶よりも物騒な空気となっていた。保守的な富裕層や政府要人が多く住む区域であったことの影響だ。 アルジェリアの治安維持のために仏蘭西軍が派遣されていることやアルジェリア





