LOGIN美しい女優の母ジャンヌと、満ち足りた生活を送る少女イレヱヌ。彼女にとってその完璧な世界は、ある日突然現れた父と名乗る男によって粉々に打ち砕かれる。 母から「I」と呼ばれ、美しい人形として無条件の愛を注がれた日々。それだけが彼女の世界の全てだった。 苦痛に満ちたアメリカでの生活から逃れるように、彼女が渡ったスイスの寄宿学校。そこで出会ったのは、奔放で謎めいた少年セシルと、高圧的な貴族のシリルだった。 美しさが呪いにもなる世界で、少女が求める本当の愛と安住の地とは。複雑に絡み合う人間模様の中で、彼女が選ぶ未来は――。愛とアイデンティティを巡る、鮮烈な物語。
View More「イレヱヌ、僕卒業したら赤い風車で働く事になったよ!」セシルから驚きの報告があった。 「本当に!?」イレヱヌは驚嘆する。母が嘗て花形スターとして活躍した赤い風車の舞台に今度はセシルも立つなんて!こんな事が起こるとはイレヱヌは想像もしてはいなかった。 「凄い…」ようやっと其れだけを言った。 「イレヱヌはきっと驚いてくれると思った」セシルがにっこりと笑う。 「イレヱヌのママも赤い風車で働いていたんだよね?僕運命を感じちゃったよ。何だか凄く浪漫チックじゃない?」「確かに…」 そうだ、こんな事が起こるだなんてイレヱヌは想像すらしたことは無かった。自分がモデルになった事と言い、人生とは全く何が起きるか分からない。 「ねえイレヱヌ、イヴが新しくブランドを設立するのは知ってる?」 サンローランの友人の一人であるサガンから電話越しに驚きの情報がもたらされる。サンローランが軍隊の生活が原因で入院し、その後過酷な治療が原因で完全に憔悴しきっている事だけ聞いていたため、寝耳に水の情報だった。この世界に入った時、サンローランのデザインした服でウォーキングをするのはイレヱヌの夢の一つだった。そのチャンスが今、訪れた。イレヱヌの細胞一つ一つが熱を帯び、震えるのを感じた。 (他のモデルと同じことをしては、絶対にサンローランの眼には留まらない)イレヱヌはそう確信し、フリルブラウスに黒のハーフパンツ、と黒いジャケットを着た。白い靴下は牛革の靴下留めで固定する。セシルの制服姿から着想を得たものだ。自分の脚をいちばん長く見せられる、ウエストを細く見せられるバランスを探っていく。モード界で次々と革命を起こした天才イヴ・サンローランと会うのだ。彼と仕事をする事を望むモデルなどすぐに見つかるだろう。サンローランを惹き付けられる姿で彼と会わなければ、と気合いが入った。 セシルはブスッとした顔で其れを見詰め「何だかサンローランに恋してるみたいだね……」とぼやいた。 セシルは色んな人と恋をしてきたから気になるのかもしれないが、イレヱヌは勿論そんなつもりは全く無い。セシルの焼きもちは最早病気だ、と思った。髪はポマアドで一筋の乱れもないように固め、後ろで低くポニーテールにして纏める。なるべく中性
“ティファニーで朝食を”がサン=ポウル学院の映画館でも上映される。公開されるとセシルと二人で観に行った。仏蘭西と同じく一九六一年十二月六日だった。 「まあ、悪くは無かったとは思う」イレヱヌはカフェで一言感想を言った。「でもあれはもう、カポーティの描いた作品では無かったよ」セシルが不服そうに口を尖らせる。「どうして結末をあんなに変えたんだろう?」憮然とした表情のままぼやいた。 「パパが言ってたけど、映画は制作するのに膨大な時間とお金が掛かりすぎるから、其れを回収しようと思ったら、かなり大衆寄りな内容にする時もあるんだって」「原作のままだと賛否両論ありそうだから、夢のある結末に変えたんじゃない?」とイレヱヌが考えを述べると 「あれじゃカポーティの小説を原作にした意味が無いよ。ただの薄っぺらい恋愛映画!あの苦い結末が物語に深みを与えてるのに!」セシルは天を仰いで大声で嘆き、 「そもそもどうしてホリーはマリリンが演じられなかったんだろう……」と溢す。 「マリリンは業界では無責任な女優って評判らしいから、|危険性《リスク》が有りすぎると思われたかもって聞いたわよ」「遅刻癖が酷いし台詞も全然憶えてこない役者は制作会社が絶対に嫌がるって」 「カポーティはマリリンを熱望していたのにね…」セシルはガッカリとした様子でポツリと呟いた後に「ま、あの映画のお陰でティファニーは随分と売り上げが上がるだろうね」皮肉を込めてそう評した。間を置くと「ところでイレヱヌ」セシルは妖しい笑みを浮かべてイレヱヌの頬に手を沿わせる。 「僕らも今日は“善きこと”に没頭すべきじゃない?一晩中」 “ティファニーで朝食を”のホリーの台詞の引用だ。言葉の意味とセシルの表情で何を指しているのかが理解り、卓子の下でセシルの脛を爪先で軽く蹴った。 「そんな事、外で言うもんじゃ無いわ」と嗜めながら珈琲を一口飲んだ。 「どうして?ホリーも言ってたじゃない?『あなたが善きことをしているときだけ、善きことが起こる』『不正直な心を持つくらいなら、癌を抱え込んだほうがまし。癌はあなたを殺すかもしれないけど、もう一方のやつはあなたを間違いなく殺す』って」 イレヱヌは呆れ、思わず「その正直に生きた原作のホリーの末路はどんなものだったの?」と訊いてしまう。 「原作のよ
一九六一年秋イレヱヌ達は高等部の三年に上がっていた。来年の八月にはサン=ポウルを卒業する。楽しみなような、ほんの少し寂しさが入り交じったような複雑な思いだった。その頃にはイレヱヌ、セシルも仕事に慣れてきた。セシルはもう少し実力をつけてから本格的なオーディションを受けるのだと胸を張っていた。「詳しいことは何れ教えるよ」セシルが目を輝かせて夢を語るのを見るのがイレヱヌは大好きだった。 イレヱヌはシャンゼリゼ通りを歩いている。ラデュレのマカロンを買うためだ。アンヌとジュリエットが此方のマカロンが大好きだと云っていたため、お土産に買ってあげたかった。店内に入ると、甘い馨りが広がっていた。イレヱヌは多幸感に包まれ、すう、と息を吸い込んだ。(ジュリエットはショコラが特に好きって言ってた、アンヌはピスタチオだったっけ……。そうだ、セシルにも買ってあげなくちゃ)その他にも、紅茶を買い意気揚々として外へ出る。 暫く歩くと人だかりが列を成して歩いている。黒髪にうっすらと褐色の肌の色をしている。アルジェリア人達だった。イレヱヌは思わずびくりと反応してしまう。アルジェリア人は住環境整備が整わないまま仏蘭西に来たため、治安の悪いスラム街に住んでいるらしいとテレビのニュウスや街の噂などでイレヱヌも知っていた。思わず身構えてしまったが、彼らは武器の様なものは持たず、女性や子供も何人もいるため、平和なデモ隊であることが直ぐに理解った。周りには不安そうな眼で見ている人も多い。しかし彼らを責めることは出来ない。イレヱヌだって、眼にしただけで不安になってしまったのだ。(何に対するデモなんだろう?)周りに危害を加えないことを確認すると、其れ以上の興味も無かったため素通りする。そのままルイヴィトンでキャリイケエスを購入し、ブラッスリー・フーケでカプチーノを飲んで一休みをした後にアパルトマンに戻った。 すっかり日も落ちた頃、アパルトマンへ帰る途中にパトロオルカーの警報音が聞こえた。何か事件でも起きたかな、また独立反対派のテロだろうか、などと不穏な想像をしながらアパルトマンに帰ると、大家が血相を変えて駆け寄ってきた。「ああイレヱヌ、無事だったのね。良かったわ」「えっどうしちゃったの|女将《マダム》」驚きながら尋ねると「巴里の彼方此方でアル
仕事は順調だった。しかし予期しない出来事は起こってしまうらしい。「ねえ、イレヱヌ。僕ら、付き合って其れなりにたつよね?」珍しく真剣なセシルの様子にやや気圧されながらも、「そうね、其れなりに…」と同意する。「イレヱヌ、僕達、今後も付き合い続けるにあたって長続きするための努力はすべきだと思うんだ」「うん」「だから……僕、どうしても知って欲しい事があって……」セシルは俯きながら言葉を絞り出す。どくり、と心臓が嫌な鼓動をたてる。まさか、セシルは何か危険にさらされているのだろうか、其れとも前に話してくれたよりも辛い過去を隠して一人で背負い込んでいたのだろうか。嫌な予感が頭の中を駆け巡る。どっちでも構わない、とイレヱヌは腹を括る。(例えどんな辛いものを背負っていたとしても、あたしは必ず受け止める)そう自分に言い聞かせた。 そして現在、イレヱヌとセシルは寝室のキングサイズの寝台の上で向かい合っていた。イレヱヌの眼前には露西亜帝国の女帝エカテリイナ二世の家具や食器コレクションもかくやという珍妙なおぞましい物体が幾つも並んでいた。「何……これ……」思わず呆然としてイレヱヌは呟く。「ラブトイだよ?知らない?」セシルは平然と答える。「存在は……一応知ってる……」ようやっと言葉を絞り出す。そうだ、存在くらいは知っている。イレヱヌは其処まで無知でも無垢でもない。聞きたいのは其処ではない「何でこんなもの…持ってるの…?」ようやっと疑問を口にすると、「何れイレヱヌと使いたかったし」とセシルは当然の如く答えた。イレヱヌは眩暈を覚えながら「…あたしに使いたいの…?」と何とか訊くと「ううん、僕に使ってほしい」とセシルはあっけらかんと答える。呆然としているイレヱヌに構わずセシルは大体の用途を説明した。最早言葉も無かった。イレヱヌはやっとのことで「セシル、そこは出すところであって入れる場所じゃないわ」と云った。「そうかもしれないけど、でも僕は入れるところとしても使うんだよ、イレヱヌ」セシルは必死でイレヱヌに説明する。 「肛門や括約筋がおかしくなったらどうするの?」「そんなこと起こったこと無いよ…。ねえ、イレヱヌ。此れからの僕達の甘い甘い時間にもっと思いを馳せてくれない?」セシルが両手でイレヱヌの手を取り精一杯甘えるが、イレヱヌはそんな言葉に構わず「おむつ生活を送るつもり?セシ