Iの藍色或は愛に纏わる譚

Iの藍色或は愛に纏わる譚

last updateLast Updated : 2026-09-03
By:  土浦タカUpdated just now
Language: Japanese
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美しい女優の母ジャンヌと、満ち足りた生活を送る少女イレヱヌ。彼女にとってその完璧な世界は、ある日突然現れた父と名乗る男によって粉々に打ち砕かれる。 母から「I」と呼ばれ、美しい人形として無条件の愛を注がれた日々。それだけが彼女の世界の全てだった。 苦痛に満ちたアメリカでの生活から逃れるように、彼女が渡ったスイスの寄宿学校。そこで出会ったのは、奔放で謎めいた少年セシルと、高圧的な貴族のシリルだった。 美しさが呪いにもなる世界で、少女が求める本当の愛と安住の地とは。複雑に絡み合う人間模様の中で、彼女が選ぶ未来は――。愛とアイデンティティを巡る、鮮烈な物語。

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Chapter 1

ー序章ー 1.硝子の城

イレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って駈歩キャンタアさせる。左右の拍子リズムが非対称の三拍子で走る動きをしているため、軽く息が切れてきた。髪に太陽の陽が当たると、まるで稲穂の様な輝きを放つ。瑞西スイスの瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良い。そうしていると悩みが総て風に乗って心の外へと流れ出ていくのを感じる。しかし、勿論此の瞬間は永遠には続かないことを知っている。何れだけ気に入ろうと此処は自分にとって終の棲家に出来る場所ではない。

 ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌはじっと見つめていた。

 (ママンは今日も一番きれい)

 誰よりも美しい母ジャンヌはイレヱヌにとっては何よりの自慢だった。

 女優である母ジャンヌ・スチュワアト(公には旧姓ジャンヌ・ゴーテンと名乗り続けた)とイレヱヌは、プラザホテルのヴェルサイユ宮殿をモティーフにした部屋で無造作に置かれたドレス、宝石、毛皮、そして噎せ返りそうなほどの芳香を放つ花々に囲まれながら生活をしていた。

 イレヱヌが祖国である仏蘭西フランスの土を踏んだのは戦後漸く経ってからだ。ジャンヌという女は自分の不利益になることへの嗅覚は優れていた。仏蘭西フランスが第二次世界大戦に参戦することが決定されるや否や状国の未來は当分は見通しが暗いと見なし何の未練もなく祖国を後にしてしまった。

プラザホテルで生活をする理由は身の回りの世話は昔から使用人や恋人に任せきりだったため、生活能力が無いことという自覚をしているからだ。私生活プライバシィを守りたいという至極尤もな理由などその一つに過ぎない。イレヱヌが産まれる前も、産まれた後にも誰にも教えることなく一人で育てると決めたのもそのような明らかに必要なものが欠けているからこその決断だったのだろう。

「I」と微笑わらいかけられて抱き締められると何時もオォ・デュ・コロンと母の皮膚の匂いが交じった甘い馨りに恍惚うっとりした。

 ジャンヌはイレヱヌを時々Iと呼んだ。

 イレヱヌの碧眼は耀の加減によって紫色にも藍色インディゴにも見えること。極東では藍色インディゴは“ai”と呼ばれること。そして の分身という意味のある愛称が誕生した。ジャンヌという女にとって自身と瓜二つの娘との境は何故か曖昧なもので、その片鱗がこの愛称からも見られていた。

 ジャンヌはイレヱヌをまるで生きた着せ替え人形のごとく自分の気に入った服を着せ、髪を整え、時にファウンデイションや口紅ルウジュを塗って美しく着飾らせることを楽しんだ。ジャンヌの此の振る舞いは恐らく母親としては眉をひそめられるものだっただろう。イレヱヌとジャンヌの関係とは母親と娘というよりも血の繋がった親友や歳の離れた姉妹に近いものだった。

「I、あんたって最高に美しいお人形さんベル・プペね」

Ma poupée私のお人形

 ジャンヌは何時も着飾ったイレヱヌを恍惚うっとり見詰め、まろい薔薇色の頬に接吻キスしながらそう言った。

 そしてイレヱヌは母にそう賛辞される度に自分の美しさと美の力というものを実感した。

 (自分は美しい。美しい自分は誰よりも価値がある女の子だ)

 イレヱヌは自分が美しい女の子である、という事実を認識する度に、自分は誰よりも価値がある、自分は誰よりも愛されて然るべき存在である、という自信を深めていった。

 イレヱヌから見たプラザホテルでの二人の生活は満ち足りた幸せ其の物であった。唯一の不満を挙げるならばジャンヌの仕事の都合で仏蘭西にはたまにしか帰国をすることが出来ない事くらいだった。然し、其の幸せな生活はまるで床に叩き付けられた繊細な硝子細工の如く脆くも崩壊してしまう日がやって来た。

「初めましてイレヱヌ。私が君のパパだよ。」

  在る日イレヱヌの前に自分のパパと名乗るエドワアド・スチュワアトが現れた。

「パパはママンが巴里パリ赤い風車ムゥラン・ルゥジュで踊り子をしていた時から知っていてね、ママンとは旧くからの友達でもあったんだ。君の事はつい最近ママンに教えてもらったよ」

 エドワアドはジャンヌが下積み時代の踊り子から人気女優にまで登り詰めたジャンヌの総てを側で見守った人物だった。(尤もジャンヌは此のような人物を恒に複数抱えていた。亜米利加で華々しく活躍出来たのも支援者達の協力有ってこそ、だった)ジャンヌがブロウドウェイ・シアターで活躍していることを切欠にどうやらジャンヌは娘がいるらしいこと、そして恐らく父親は自分であることを察しプラザホテルまでやって来た。

(私に子供が出来るだなんて……。この期を逃せば二度と此のような機会チャンスは訪れるまい)そう察するや否や、エドワアドは前妻とは何の未練もなく離婚をした。前妻は身体が弱くて子供の出来にくい体質であったことが長年エドワアドにとっての頭痛の種であったため、この離婚を拒否することが出来なかった。

 そして現在イレヱヌは一階のパームコートでその“パパ”と名乗る男性とジャンヌも交えて対峙していた。イレヱヌはステンドグラスの円蓋ドームや鏡張りの卓子テェブルの内装のパームコートが御気に入りだったのだが、この日は何時ものような高揚など少しも感じられなかった。

「もう五つになったと聞いたよ。大きくなったねイレヱヌ」

 此方の気持ちを解きほぐすような微笑わらいを向けてきたが、イレヱヌは相手に親しみを感じることなど出来なかった。突然見ず知らずの人物が目の前に現れて“パパ”を名乗るという状況には当然ながら困惑しか感じられない。背が高く艶のある黒髪、整えられた口髭がモンテスキュウ伯の肖像画を連想させた。

「君にもママにも随分と淋しい思いをさせてしまったね。本当に済まなかった。でももう大丈夫だよ。此れからは家族三人で仲良く暮らしていこう」

 (あたしの家族はママンだけだよ)

 心の奥でイレヱヌは返事をする。あくまでも口には出さない。出すことなど、出来はしなかった。其の言葉を口に紡いでしまったら目に見えない何かが決定的に壊れてしまうという恐ろしい直感が働いたからだ。淋しさなどママンが居たから感じたこともない、と反射的に反発したかったものの、やはり口には出来ない。ジャンヌが三人で生活をするということに前向きなことが解るからだ。そうでなければ母がそもそも目の前の男と態々三人で逢うことに了承するとは思えない。イレヱヌはむっつりと黙りこくった侭俯く。卓子テェブルの鏡にはステンドグラスの円蓋ドームが映りこんでいる。自分の世界は今にも粉々に踏み潰されて彼方此方へと破片が耀を放ちながら飛び散り、跡形も失くなろうとしているというのに何時も通りの美しい情景だった。其の事が一層イレヱヌの胸を締め付けた。

「大丈夫よイレヱヌ。パパは映画と劇場の社長さんだからお金持ちだしとっても優しいしの。イレヱヌの我が儘だってちゃんと聞いてくれるわ」

 ジャンヌはエドワードと同じ様に、イレヱヌの気持ちを解きほぐす様な微笑わらいを浮かべた。ジャンヌにとっては其れなりに娘の事を思っての結婚をしたつもりだった。

 (最初はきっと戸惑うわよね。でもエドと結婚するのはイレヱヌにとっても良いことのはず。ママンだけじゃなくパパもいないとやっぱり淋しい想いもさせるだろうし可哀想だわ。あたしが親に向いて無いことは最初から分かっていたし)

 しかし、ジャンヌの内心を知らぬイレヱヌは

 (ママンはあたしの味方じゃない)イレヱヌは打ちのめされていた。自分の味方など世界には何処にも居ない。大宇宙にたった独り取り残されるような、押し潰されてしまいそうな孤独感だった。      和やかな談笑が遠くから聞こえてくる。二人はイレヱヌの意思などどうでも良いのだ。未来はもう決まっていて、この決定事項をイレヱヌにも受け入れさせたいだけだ、ということを幼いなりに何となくイレヱヌは察しなければならなかった。

 イレヱヌは案の定新しい住まいを全く気に入る事が出来なかった。家は立地からして嫌いだった。窗からはセントラルパークもエンパイア・ステエト・ビルも見えない。建物は真っ白なモダニズム建築で、装飾の無い直線的で箱のような外観だ。庭があるものの、芝生は徹底的に刈り込まれ生垣はまるで定規を当てながら剪定をされたかのようだ。

 イレヱヌは庭があると聞いたときにモネの絵画のような色彩と耀に溢れる情景を想像したが、実際には墓地を想像させる寒々としたものだった。裏庭にプールとカバナが在ることをジャンヌは大変気に入ったようだが、イレヱヌはプールなどどうでも良かった。一切の無駄を削ぎ落として合理性のみで出来た家が自分の居場所とは思えなかった。

 内装も全く持って気に入らない。エドワアドの趣味で採集コレクションされているライフルが厭だった。そして、室内に飾られている絵も堪らなく厭だった。男女が裸になっていて抱き合っている其の絵は極端に肉体が歪曲しており、骨張っている。人物が灰色がかっていながら、生々しい。筆跡が荒々しく少しも美しいとは思えなかった。恐ろしさに戦きながら目を離せないでいると

「イレヱヌはエゴン・シイレが気に入ったかい?」

とエドワアドが微笑わらいかけながら聞いてきた。

 イレヱヌはその|瞬間《とき》(パパがあたしのことを解って呉れる日は来ない)と悟った。

娘が何を感じているのか解らない。自分の良いように解釈をする。自分のパパとはそういう人なのだ、イレヱヌはそう悟る。耳の奥で、窓が軋みながら閉まる音がした。

 おまけに使用人達が皆英語しか話さない。イレヱヌは亜米利加に居るというのに英語が嫌いだった。シュウ・アラ・クレェムが何故か英語ではクリームパフなどどいう味も素っ気も無い不快な単語にされてしまうのかイレヱヌには解らなかった。元々は仏蘭西《フランス》で産まれたものだというのに。|パルフェがどうやら此方ではサンデー為るものと同一視されているらしいというのも嫌だった。イレヱヌからすれば全く違う。パルフェはもっと華やかで味わいも複雑だ。

 何もかもが気に入らない新居のため、イレヱヌはジャンヌの部屋に籠ることが多くなった。自分の住む場所の筈が何処にも居場所など見付けられ無かったからだ。ジャンヌの部屋はエミィル・ガレの家具が置かれている。壁にはロォトレックの赤い風車ムゥラン・ルゥジュの様子が描かれた平版画リトグラフ、ミュシャが描いたサラ・ベルナァルのポスターや黒い美神ヴィヰナスと讃えられたジョセフィン・ベイカーの写真などが飾られている。イレヱヌにとっては新居の中で唯一好きな空間だった。この部屋に入るといつも美しき時代ベル・エポックの空気を感じられるからだ。当時の赤い風車ムゥラン・ルゥジュとはどの様なものだったのか、ジョセフィン・ベイカーのダンスやサラ・ベルナァルの芝居は何れだけ素晴らしいものだったのか夢想するのは楽しかった。

 イレヱヌはジャンヌの部屋に来てはジャンヌのキモノ風の羽織ガウンを身に纏い、レコオドをかけたりテレビを観たりするというのがイレヱヌの家での過ごし方だった。

 ジャンヌは仕事で舞台に立ち、映画の撮影で映画スタジオであったり遠方を飛び回る日々だった。プラザホテルに住んでいた時よりも顔を合わせる時があからさまに減ってしまった。最近顔を合わせて話をする時間が一番長かったのは、ジャンヌの仕事で一緒に雑誌に出ることになった時だった。親子でお揃いの高級既製服プレタポルテを着られる事と、写真に写るのは堪らなく楽しかったが、本心では仕事ではなく家で会って話したかった。

 (若しもあたしにママンと同じくらい夢中になれる“何か”があれば、もっと毎日楽しいのかな、家の外に居場所があれば何かが変わるのかな)イレヱヌは果たして其れが何なのか、何処に其れが有るのか全く検討もつかなかった。

 稀に両親が揃って自宅に朝からいる時はパーティーが開催される日だ。イレヱヌはこのパーティーが大嫌いだった。何故か理由はイレヱヌにもはっきりとは理解わからない。ただ、自宅の“パーティー”は空気がどうしても厭としか言いようが無い。何か言い様の無い異様な空気が辺りを支配しているのだ。暗黙の了解というルールが絶対的に存在する。例えて言うなら舞台における脚本のようなものだ。そして出席者は皆其々が与えられた役割を演じなければならない。其れをしないと脚本が台無しになるからだ。イレヱヌもこの“パーティー”が自宅で開催される時には顔を出さなければならなかった。エドワアドが“美しい妻と愛らしい娘を持つ幸せな男”の顔で人前に出るために必要な道具だからだ。

 「妻のジャンヌと娘のイレヱヌです」と微笑わらうエドワアドとその隣に立つジャンヌは何かを演じている顔だった。出席者達は必ずと言って良いほど「何て可愛らしいの!」と大袈裟に褒め称えたが其れは本心なのかイレヱヌには判断がつかなかった。思わずジャンヌの後ろに隠れてしまう。「イレヱヌったら恥ずかしいの?」ジャンヌがくすくす笑いながらイレヱヌに話し掛けた。「ごめんなさいねベイブ、ビル。この子少し人見知りなところがあるから」そう目の前の夫妻に伝える。CBSネットワークの創設者ウィリアム・S・ペイリーと亜米利加社交界の華バーバラ・ペイリーだった。この二人のことはVogue等で見たことがあった。

 「良いのよジャンヌ。知らない人ばかりで緊張しちゃうわよね」バーバラはにっこりと優雅に微笑んだ。ウィリアムもイレヱヌに|微笑《わら》いかけ、「はじめましてイレヱヌ。私たちは君のパパとママの友達だよ」と自己紹介をする。イレヱヌはこの感じの良い美しく着飾った夫妻にも何故か嘘を感じた。世間では間違いなく成功者の夫と美しい妻として知られる幸せな夫妻だというのに何故かそうは見えなかった。イレヱヌにとっては苦痛はこの“パーティー”の時間だけではない。最大の苦痛は他にあった。

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ー序章ー 1.硝子の城
イレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って駈歩させる。左右の拍子が非対称の三拍子で走る動きをしているため、軽く息が切れてきた。髪に太陽の陽が当たると、まるで稲穂の様な輝きを放つ。瑞西の瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良い。そうしていると悩みが総て風に乗って心の外へと流れ出ていくのを感じる。しかし、勿論此の瞬間は永遠には続かないことを知っている。何れだけ気に入ろうと此処は自分にとって終の棲家に出来る場所ではない。 ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌは凝と見つめていた。 (ママンは今日も一番きれい) 誰よりも美しい母ジャンヌはイレヱヌにとっては何よりの自慢だった。  女優である母ジャンヌ・スチュワアト(公には旧姓ジャンヌ・ゴーテンと名乗り続けた)とイレヱヌは、プラザホテルのヴェルサイユ宮殿をモティーフにした部屋で無造作に置かれたドレス、宝石、毛皮、そして噎せ返りそうなほどの芳香を放つ花々に囲まれながら生活をしていた。 イレヱヌが祖国である仏蘭西の土を踏んだのは戦後漸く経ってからだ。ジャンヌという女は自分の不利益になることへの嗅覚は優れていた。仏蘭西が第二次世界大戦に参戦することが決定されるや否や状国の未來は当分は見通しが暗いと見なし何の未練もなく祖国を後にしてしまった。プラザホテルで生活をする理由は身の回りの世話は昔から使用人や恋人に任せきりだったため、生活能力が無いことという自覚をしているからだ。私生活を守りたいという至極尤もな理由などその一つに過ぎない。イレヱヌが産まれる前も、産まれた後にも誰にも教えることなく一人で育てると決めたのもそのような明らかに必要なものが欠けているからこその決断だったのだろう。 「I」と微笑いかけられて抱き締められると何時もオォ・デュ・コロンと母の皮膚の匂いが交じった甘い馨りに恍惚した。 ジャンヌはイレヱヌを時々Iと呼んだ。 イレヱヌの碧眼は耀の加減によって紫色にも藍色にも見えること。極東では藍色は“ai”と呼ばれること。そして の
last updateLast Updated : 2026-07-21
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 サン=ポウル学院は瑞西のローザンヌの近くに存在する学院だった。建物は左右対称で赤レンガに白い装飾のあるエドワーディアン様式の外観で敷地は一つの町ほどもある。敷地内には孔球場や庭球試合場、しまいには映画館まで存在することには驚いた。 サン=ポウルの日常は基本的に規則正しい生活其の物だった。朝七時に生徒達は一斉に起床し、ビュッフェ形式の朝食を摂る。授業は一般教科の国語や数学の他、芸術、運動教科にも力を入れている。イレヱヌは運動教科では乗馬が好きだった。元々動物は大好きだったし、賢くて穏やかな馬はとても魅力的な生き物だった。サン=ポウルは自然豊かな環境に建てられているため、馬に乗って瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良かった。草と土の匂いを感じるとプラザホテルに住んでいた頃、時々セントラルパークでジャンヌとピクニックをした事を思い出した。亜米利加に居る間にパパに馬をおねだりしてみるべきだった、とイレヱヌは少し後悔をする。因みに乗馬は好きだが馬球は苦手だった。マレットは想像よりも重くて直ぐに腕が疲れてしまうし、馬を間違えて叩いてしまいそうで怖かった。  一番好きな授業は芸術だった。オウケストラ、デッサン、彫刻、絵画。そして此処では大好きなバレエや演劇も授業で習えた。イレヱヌは授業以外の休日でも許可さえ貰えたら踊りの練習をし続けた。黒鳥のバリエイションの練習に熱中していたのに、何故か亜米利加の小学校で投げつけられた嗤い声が頭の中に響き渡る。此方を嘲笑う真っ黒な眼。まるで檻に入れられた動物を視るような眼だ。 (あんた達なんか)鏡には王子を誘惑しようとする妖艶な黒鳥ではなく、眼差しだけで射殺そうとする悪魔の娘が映っていた。 (あたしは、あんた達なんかの手には届かないところまで行ってやる)黒鳥の三十二回のフーチエを回りながら何度も何度も心の中で言い続けた。自分は二度とあんな奴等に敗けない。頭の中で泥で汚れ、ぼろぼろにされた雑誌が思い浮かぶ。(あんな惨めな思いは二度としない。あんな奴等入り込めない居場所を自分で作るんだ)  午前中は六つの一般科目を学び、休憩中にホットショコラを飲んだ後午後からは運動若しくは芸術科目を学ぶ。授業の後は個々で勉強をし、21~23時には就寝する。此れが毎
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ー第2章ー 1.l’aventure Ⅱ
夜が明けたら未蘭に着いていた。眩しい日の出で外の耀が透けた日覆いを開けると目の前には未蘭中央駅が見えてきた。石造りの巨大な建造物は駅というよりも神殿を思わせる外観だ。確かムッソリイニが権力の象徴で作らせたものだったはず、と朧気な記憶を辿った後にイレヱヌは慌てて写真を撮る。セシルはまだ夢の中だ。朝は弱い方なので当然だろう。イレヱヌはセシルが眠っている間に昨日の食事や買い物、オリエント急行の外観、内装等についてイラストと文で書いていく。完全に習慣だ。そうだ、廊下の写真も撮っておきたい、と思い部屋を出る。列車は連結部分の扉も桃花心木が使われ、各車両には各々の名前や由来、製造年が記されていた。窓から駅を眺めると、鉄骨と硝子で出来たアーチ屋根が見える。 (綺麗……)未蘭中央駅が非常に壮麗な駅である事は勿論知っていたが、間近でみると想像を超える感動があった。 イレヱヌは車内の探検に満足して自分達の部屋に戻る。「お早うイレヱヌ」何故か少しむすっとしたセシルが頬に接吻をして出迎えてくれた。「もう、どうして一人で何処かに行っちゃうの?」頬を膨らませながら不満を訴えてきた。イレヱヌはやや面食らいながら 「セシルは未だ寝ていたから起こしたらいけないと思って」と理由を答えた。「そんなに機嫌を損ねないで、ダアリン」イレヱヌはあやすように微笑いかけながらセシルの桜桃の様な唇に小鳥が啄むような接吻を落とした。「駄目、そんなんじゃ僕の機嫌は直らないよ」セシルは笑いを含んだ甘え声でイレヱヌの首筋に頬を擦り付ける。ルルがマアキングをする姿を彷彿とさせ、思わず笑いそうになった。首筋に顔を埋めてセシルは「さっきまで何してたの?」と訊いてきた。「落書きした後写真を撮ってたよ。」と擽ったさに笑い声混じりに答えた。 「落書き?」とセシルが不思議そうにするため、「絵日記みたいなものかな?」と首を傾げながらイレヱヌは答えた。実際は日記という程の内容も無いのだが。「ほら、このノオトに書いてるの」と部屋の卓子のノオトを見せながら教えた。大胆な波と青みがかった山の“浮世絵”と呼ばれる版画が印刷されたノオトだ。偶々メトロポリタン美術館で此の版画を見て、ジャンヌが「Iの眼の色に似ているわ
last updateLast Updated : 2026-08-28
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ー第2章ー 2.ヰタ・セクスアリス Ⅰ
ヴェネツィアは不思議で面白い街だった。昔ながらの街並みが其のまま残り、細い入り組んだ道があるかと思えば階段も出現する。まるで迷路を彷徨うようだ。ただ歩くだけでも冒険になる此の街にイレヱヌはすっかり虜になった。但しセシルは歩くだけでも疲れてしまうこの街の構造に不満を感じたらしくすっかりむくれてしまった。 「イレヱヌったらどうして目的地をヴェネツィアにしようと思ったの?」と不服そうなセシルに訊かれた。嫌なら付き合う必要無かったのに、と思いつつも「前々から来たかったの。水の都って浪漫チックで素敵でしょ?」と答える。 「確かにここは美しいよ。僕が画家ならきっと何枚も絵に残してる」セシルは同意しつつも「でも僕は画家じゃないんだよイレヱヌ……」とセシルは悲嘆に暮れた。「もう、不満ならあたしの旅行に付き合う必要無かったのに」と呆れた声を出すと「イレヱヌは僕とずっと側に居たくないの?」と言いイレヱヌの前を歩き出す。すっかり拗ねてしまったようだ。性に関しては早熟なのに心は五歳児並みに幼稚だ。イレヱヌは溜め息を付きたくなった。(セシルに何かを論理的に説明すするには語彙だけでなく色んな色のクレヨンも用意した方がいい)イレヱヌは確信した。 街の散策をセシルは楽しんでいなかったため、カッフェ・フロオリアンで休憩をしてトラメッツィーニ、チョコラータ・イン・タッツァ、カフェラテ等の軽食を済ませた後に予約をしたゴンドラ遊覧に移動した。セシルはゴンドラに乗って「昔のヴェネツィア貴族みたいな衣装を着たかった!」と残念がった。「其の気持ちはちょっと分かるかも」とイレヱヌも同意する。ゴンドラで優雅に運河を移動し昔ながらのヴェネツィアの街並みを眺めていると、まるでタイムスリップでもしたような幻覚におそわれる。自分達が十七世紀頃の裕福な商人や貴族にでもなったような感覚になった。美しい街並みの中を愛する恋人と一緒に眺めるヴェネツィア貴族の娘とはこんな感覚だったのだろうか、と思いを馳せる。 「セシルと一緒に来れて良かったなあ」イレヱヌはしみじみと呟いた。「本当に?そう思う?」セシルは何故か目を丸くして尋ねた。どうして驚いているように見えるのかイレヱヌには分からない。「当たり前じゃない」イレヱヌはセシルの目を見て頷く。「好きな人とこんなに綺麗な街に来られるってとっても幸せじゃない?」セシルは瞬きをした
last updateLast Updated : 2026-08-31
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ー第2章ー 2.ヰタ・セクスアリス Ⅱ
部屋で二人は一糸纏わぬ姿になって向かい合った。これ程互いの生まれたままの姿をじっくりと見詰め合うのは初めての事だ。 「あたしはセシルに抱擁をされるのが好き」セシルをそっと抱き締めて首筋に顔を埋めながらそう言った。「堪らなく安心するの。心まで包み込んでくれている気がするから」イレヱヌが口を開くと「僕はイレヱヌが気持ち良くなってくれるのを見るのが好き」セシルもそっと抱き締め返しながらそう返す。「僕に一番心を開いてくれていると思うから」二人は視線を交わす。どちらともなく顔を近づけ接吻をしていく。最初は軽く唇を食み合う。お互いに相手の皮膚をなぞり合った。擽ったさに笑い声を混じらせながら接吻を続ける。次第に唇を深く重ね合って舌を絡ませた。セシルはイレヱヌの白い身体をそっと横たえる。指だけでなく唇を使って身体の輪郭を丁寧になぞっていくと、イレヱヌの身体は次第に桃色に染まっていく。イレヱヌは次第に息遣いが荒くなり、頬が薔薇色に染まった。 「イレヱヌ、可愛い」セシルが呟いた。 (可愛い) セシルの頭の中は其れだけが浮かぶ。こんな姿を見たのは自分だけだ。其の事実に頭は熱で浮かされる。悟性と理性が獣の本能によって掻き乱され情動の前に跡形もなくバラバラになりそうだった。(優しく……優しく……)セシルは自分に何度となく言い聞かせる。手が無様な程に震えだした。これ程緊張を憶えたことなど今までに無かった。「セシル、怖いの?」イレヱヌがセシルの頬を両手で包み込む。「|理解《わか》らない。何故か震えが止まらなくて」セシルが困惑していると、「セシル、あたしは大丈夫」イレヱヌが安心させようと微笑いかける。「相手がセシルだって理解っているから」「だから、大丈夫よ」イレヱヌはそっとセシルを抱き締める。セシルは聖母の胸に抱かれていた。其の後はお互いの身体に触れあい、熱を分け合った。次第にセシルは自分を抑制出来なくなる。自分の内の獣は唸り声をあげて飢えを訴えた。イレヱヌの身体を飢えが無くなるまで何度も啄む。此のまま二人ともどろどろに溶けて形が無くなり、一つになってしまいたい。セシルはそんな狂暴な欲望に頭が支配された。イレヱヌはセシルを優しく抱き締め続けた。 二人の頭が熔けそうな程抱き合った後にふと、にゃうにゃうという鳴き声と爪
last updateLast Updated : 2026-09-03
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