LOGIN要は険しい顔で、天音の腕を掴んだ。天音はほとんど反射的にその手を振り払った。「先生、天音の体は持ちますか?」と英樹が心配そうに尋ねた。「臨月までは持たないでしょう。でも、七ヶ月なら大丈夫かと」と医師は答えた。「なら、七ヶ月まで待ちます」そう言うと天音は椅子から立ち上がり、診察室を出て行った。要が大股で天音の前に回り込み、行く手を阻んだ。「俺に相談もなしか?」天音はお腹をかばうように一歩下がり、冷たい目線で要を見据えた。「天音……」要が言い終わる前に、天音はそれを遮った。「私はあなたの妻じゃない。もう離婚したの!子供は私が引き取る。あなたの意見なんてどうでもいい!」要は呆然としていた。こんなにうろたえるのは初めてだ。彼は天音の青ざめた顔を見つめ、思わず抱きしめようと手を伸ばしたが、その手は天音に強く払いのけられた。パシン、という乾いた音は、まるで平手打ちのように要のプライドに響いた。天音はくるりと背を向けて歩き去った。要は、天音のか細い後ろ姿を見つめながら、目に暗い影を落とした。もう二十三日間、天音は自分を家に帰らせていない。英樹はすぐに天音を追いかけた。「天音、明日の佐伯教授と青木さんの結婚式、行く?」「式に出るのはちょっと遠慮しておきますが、お昼の披露宴には行くつもりですよ」龍一と夏美、あの二人のことを思うと、天音の口元には自然と笑みがこぼれ、声のトーンもずっと優しくなった。「佐伯教授は国内外に顔が広いから、きっとたくさん招待客が来るでしょ。式に出ないのは正解かもね」と英樹は言った。「それなら、お昼の披露宴は俺も一緒に行くよ」天音は、久しぶりに穏やかな笑顔を見せた。龍一と夏美の結婚式は、予想通り盛大なものだ。披露宴会場では、英樹が想花を追いかけ回している。一方で、大智は天音のそばでおとなしく座っていた。要がいないから、自分がママを守らなきゃ。大智そう思っていた。「大智、遊びに行っておいで」天音は席に座ったまま、大智の手を引いて言った。「ほかの子みたいに、お菓子をもらっておいで」「ママ?」「大丈夫よ」天音は微笑んだ。大智がその場を離れると、天音の目の前に威圧的な人影が現れた。落ちてきた影が、彼女の華奢な体をすっぽりと包み込んだ。天音は驚きのあまり立ち上がると、続け
「中川さん、いったい何を考えてるのですか?」「なんだと!」英樹は天音の携帯を奪い取った。画面に表示されていたのは、若い頃の恵梨香が淳に無理やりパーティーに連れ出され、様々な男たちと親密に話しているモデルデータだった。英樹はカッととなり、睦月の首を締め上げた。「モデルを完全に削除するコードを渡してくれ!」天音はすぐさま発表用のノートパソコンの前に進み出ると、『マインスイーパ』を起動した。「やめて!松田家の悪事をすべて世間に暴露してこそ、松田グループと松田家を完全に叩き潰せるのよ」睦月は英樹の腕を掴みながら、息を切らして言った。天音は睦月を睨みつけた。「あなたの罪悪感を晴らすために、また母を犠牲にするつもりですか?中川さん、あなたってどこまでも自己中心的なんですね!」天音が『マインスイーパ』を起動すると、モデルデータは少しずつ画面から消えていった。天音は涙で目を潤ませた。彼女は、自らの手で『転生AI-ReLife』を、母親のモデルデータを消去したのだ。でも、こうでもしないと、すでに拡散してしまったアプリ上のモデルデータを完全に消し去ることなんてできない。英樹は睦月を突き飛ばした。床に倒れ込んだ睦月は、ぜえぜえと息を切らしている。そして、英樹は言った。「松田グループの相手は、俺一人で十分です。松田グループの悪事の証拠なんて、とっくに山ほどあるんですよ。ただ……」英樹は、ひそひそと話す松田グループの社員たちを見下ろし、悲しそうな目をしていた。天音が言葉を続けた。「お兄さんは、大勢の社員たちを路頭に迷わせたくなかっただけなんです。それなのにあなたは、また母を利用して名誉を傷つけ、たくさんの人たちの生活まで壊そうとしたのですよ。松田グループで働く何万人もの社員に罪はありません。地獄に落ちるべきなのは松田家と、あなただけです。それなのに、今になって正義を振りかざすなんて。中川さん、おかしいと思わないですか?あなたの夫が私の母を木下部長に差し出した時も、雲霧山で多くの命が失われた時も、あなたは見て見ぬふりをしたのです。そんな重い罪を犯したあなたが、死ぬ間際に安心したいからって、母の名誉を犠牲にするなんて許せません」天音は目尻からこぼれる涙を乱暴に拭うと、叫んだ。「あなたがすべきことは一つだけです。今
天音は要の腕の中から起き上がると、すぐにナースコールを押した。医師と看護師が駆けつけ、菖蒲を一通り診察した。「隊長、奥様、松田さんは脳死です」生命維持装置から「ピー」という音が鳴り響いた。天音は顔を真っ青にして、信じられないというように一歩前に出た。そして、菖蒲のまぶたに手を伸ばしてこじ開け、瞳孔の状態を確かめると、すでに開ききっていた。天音の手は菖蒲の顔から滑り落ち、力なく自分の太ももを叩いた。要は前に進み出ると、後ろから天音の腰を抱きしめた。そして天音を二歩下がらせながら、医師が菖蒲に呼吸器をつけるのを見て、天音の耳元で囁いた。「菖蒲は願いを叶えた。俺の妻になったんだ。天音、何かを手に入れるには、代償を払わなくちゃいけない。彼女の心臓が、その払うべき代償だったんだ。おとなしくしろ。お腹の子のことを考えるんだ」天音は要の腕にすがりつき、溢れる涙を止められないまま、こくりと頷いた。要は天音を抱きかかえ、病室を後にした。実は昨夜、要は医療チームに心臓移植手術の準備を指示した後、部下にも電話を入れていた。全てが計画通りに進むよう、手を打ったのだ。要の部下は、直接菖蒲の身柄を引き受けた。部下たちのやり方は、容赦なく、的確で、完璧だ。要はもとより、善人などではなない。「一晩中起きていたから、目の下にクマができている。先に家まで送るから、少しでも休んでて。医者が君とお腹の子の状態をみて、心臓移植の手術日を決めるだろう」要は天音の小さな顔をそっと両手で包み込んだ。「心配しすぎるな。菖蒲は本来なら、懲役30年の判決を受けていたはずだ。松田家の雲霧山のせいで多くの人が犠牲になった。菖蒲が刑務所で耐えられるわけがない。彼女は死ぬべくして死んだんだ」でも、どうして菖蒲の心臓は、あんなに丈夫だったんだろう?天音は下腹部を押さえた。それ以上考えるのが怖かった。あれは誰の息子や娘、あるいは誰かの親の心臓だったのだろうか。天音は悲しみに暮れた。医師の診断結果が出た。「胎児の状態が安定するのを待つ必要があります。少なくとも、一ヶ月は先になりますね」「それでいいか?」要はそっと天音の手を握った。天音は頷いたが、その手を振り払った。……二人は病院を後にした。それから一ヶ月。要は
「あなた……身体、熱すぎ……」天音がもがくと、要は彼女から離れた。「龍一に電話してくる」そう言って、要は部屋を出ていった。要が去った後、ようやく天音は張り詰めていた空気が緩んだのを感じた。危うく、理性を失うところだ。その時、天音の携帯が鳴った。美優は一晩中悩んだ末、やはり天音に全てを話すべきだと思い直したのだ。要は階下に降り、一階の部屋でシャワーを浴びた後、病院からの電話を受けた。携帯から医者の声が聞こえてきた。「隊長、手術は無事に成功しました。松田さんはまだ危険な状態ですが、この山を越えさえすれば、意識が戻って回復する可能性は高いです」要はひときわ冷たい視線を向けた。「菖蒲をこっちの医療チームに引き渡してください」「隊長、それは一体どういう……」「そちらの人はもう必要ありません」要は電話を切ると、すぐに自分の医師に電話をかけた。「明日、妻と菖蒲の移植手術を行う」電話の相手は、すぐに了承した。要は三階に戻った。「天音、写真は龍一が後で届けてくれる……」しかし部屋はがらんとしていて、天音の姿はどこにもなかった。……要は特殊部隊の隊員から電話を受け、病院に駆けつけた。病室に入ると、天音が菖蒲を見下ろしながら、医師から菖蒲の容態についての報告を聞いていた。「松田さんの手術は非常に順調でした。もし今夜、意識が戻れば峠は越えたことになり、少しずつ回復に向かうでしょう」と医師は言った。「ありがとうございます」天音は小声で礼を言うと、要の方を向いた。要は荒い息を整えると、先に天音を抱きしめた。「菖蒲の心臓だ。彼女が危険な状態を乗り越えられなければ、脳死と判定される。臓器提供の同意書には既に署名している。だから、君が彼女の心臓をもらうのは法的に何の問題もない」天音は力いっぱい要を突き飛ばした。怪我をしている手が痛み、彼女は息をのむ。それを見て、要は天音を離した。「私と離婚して、菖蒲さんと結婚するのも、法的に何の問題もないっていうの?」天音は目に涙を溜め、胸を押さえた。「天音……」要は、天音にどう説明すればいいのか、言葉に詰まった。しかし、天音は要の言葉など聞きたくもなかった。「菖蒲さんと取引したんでしょ。私と離婚して、彼女と結婚すれば、私が彼女の心臓をもらえるって!
「本当だ」要は手を伸ばして天音の手を握り、手のひらで包むように優しく揉んだ。天音は胸が高鳴った。もし心臓移植が成功したら、この子は産めるかもしれない……でも、あまり期待しすぎるのはやめよう。ドナーになってくれる人の悲しみの上に、自分の喜びを築くわけにはいかない。天音は小さな声で尋ねた。「その方は、どんな病気なの?」「脳出血だ」と要は答えた。「そんなにひどいの?」「ああ」「その人に、会うことはできる?」「会えるよ」要は天音の手を撫でた。「でも、会わない方がいいと俺は思う」「どうして?」「ご本人の意思を尊重しないと。その方は、脳の手術で髪を全部剃ってしまっているんだ。それに、骨と皮だけみたいに痩せこけて、顔も……誰にも会いたくない、と」天音は少し考えて言った。「もし私がそうなったら……私も、きっと誰にも会いたくないと思う」「君はそんなことにはならないさ」要は天音の小さな顔を、そっと両手で包み込んだ。天音は満面の笑みで尋ねた。「ねぇ、あなた。この子を産んでもいいの?」「ああ、手術が成功すれば、もちろんさ」要は天音の頬を優しく撫で、その唇にそっとキスをした。きゅるる――そんなロマンチックな雰囲気の中、天音のお腹が間の悪いことに鳴ってしまった。要は天音を解放したが、彼の吐息がまだ彼女の肌をくすぐるようだ。天音は恥ずかしそうに笑い、頬は夕焼けのように赤く染まっていた。それでも瞳はキラキラと輝いていて、その華やかな笑顔で頬がふっくらとしていた。要は、天音がこんな風に笑うのを一度も見たことがなかった。要は大きな手で天音の後頭部を支えると、深く絡み合うようなキスを落とした……「お腹すいた……」天音は呟きながら要の胸を押したが、逆にキスで声を封じられてしまった。夜になったが、昼間に寝すぎたせいか、それとも興奮しすぎたせいか、天音はまったく眠れなかった。一方、丸一日働きづめだった要は、早々にベッドで眠りについていた。天音は、自分の腰に回された要の手をそっと外して、ベッドから抜け出した。天音は携帯を取り出すと、ラインを開いて夏美とメッセージのやり取りを始めた。龍一は夏美にプロポーズを済ませ、結婚式の日取りも決まっていた。しかし、二人は一枚の写真をめぐって喧嘩の真っ最中だ。それは、九年
冷たい声で、要は一言だけ命じた。「サインしろ」要の冷たい視線を感じながら、菖蒲は震える手で婚姻届に自分の名前を書き込んだ。「手術がいつになるか、詳しいことはまた連絡する」周りの人間が全員いなくなると、要がぽつりと口を開いた。要が踵を返そうとするのを見て、菖蒲は慌てて起き上がろうとした。でも、力なくベッドに倒れ込んでしまった。その物音に、要は足を止めた。「抱きしめてくれないの?」菖蒲は、祈るような弱々しい声で尋ねた。要は見下すように、冷ややかに言った。「分かっているだろう。大輝を殺したのは俺だ。刑務所での一件も、俺の仕業だ」その言葉を聞いた菖蒲の顔は真っ青になった。体は震え、制御できない手で酸素マスクを掴むと、必死に息を吸い込んだ。要はふいに菖蒲へ一歩近づくと、彼女を覗き込むように屈んだ。その漆黒の瞳は冷たく、何を考えているのか読めなかった。それなのに、この瞬間、菖蒲の心臓はドキドキと大きく脈打った。要の声は氷のように冷たい。「残り少ない命を削ってまで、兄の仇と結婚するとはな。すべてが無駄になる覚悟をしておくんだな」菖蒲の心拍は異常をきたし、ショックのあまり白目をむいてしまった。モニターの警告音が、けたたましく鳴り響いた。要は、菖蒲に腕を強く掴まれた。酸素マスクの奥から、菖蒲のくぐもった声が聞こえた。「た……すけて……」要は、そんな菖蒲をただ二秒ほど見つめていた。やがて、ベッド脇のナースコールを押し、菖蒲の暗く青白い顔を一瞥した。医療スタッフが慌ただしく部屋に駆けつけ、菖蒲の救命処置を始めた。「遠藤隊長、松田さんの開頭手術で、脳内の血腫を取り除かなければなりません」医者は要に同意書を差し出した。「脳死や、植物状態になる危険性もあります。ですが、我々は全力を尽くします。このままでは、助かる見込みはもっと低くなります」要はそれを受け取ると、少しもためらうことなく署名欄にサインした。「心臓だけは、確実に助けろ」要のペンが走るのを、菖蒲は見ていた。彼女の心は、まるで無数の矢に貫かれたように痛んだ。いったい、自分は何を期待していたんだろう?菖蒲の頬を絶望の涙が伝った。要が去っていく冷たい背中を、ただ見つめることしかできなかった。……病院を出た要は、運転手から車のキーを受け







