妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。

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By:  楽しくお金を稼ごうUpdated just now
Language: Japanese
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十年の恋、六年の結婚。誰もが、風間蓮司(かざま れんじ)が加藤天音(かとう あまね)を深く愛し、何よりも大切にしていると信じて疑わなかった。 しかし、夫の不倫相手が現れるまで、天音は気づかなかった。その「深い愛」が、結局は戯れに過ぎなかった。 五年にも及ぶ不倫、隠し子の誕生。蓮司は不倫相手を天音のすぐ傍に置きながらも、表向きは愛妻家として完璧な演技を貫いていた。 「天音を愛している、心から、誰よりも」と蓮司は口にした。しかし、果たしてそれが本当の愛と言えるのだろうか。 分厚い愛情の仮面を被り、蓮司は周囲の人間すべてを巻き込みながら芝居を続け、甘美な結婚生活の幻想を作り上げていた。 自ら育ててきた息子さえも、天音を欺く共犯者となっていた。 裏切った夫と子供、不倫相手と本物の家族のように振る舞う。 絶望した天音は、朧月機關への復帰を決意した。もうこんな滑稽で虚飾だらけの人生には一切別れを告げると。 一ヶ月後、天音は完全に姿を消し、二度と蓮司のもとに戻ることはなかった。 ― 蓮司は天音を深く愛していた。妻を失う恐怖が、二人の結婚生活に綻びを生じさせた。 自分ではすべてを隠し通せているつもりだった。二人の結婚は表向き幸せで、愛する妻が真実を知ることなどあり得ないと信じていた。 しかし、天音が彼の世界から完全に消え去ったとき、蓮司は自分の過ちがどれほど愚かだったかを思い知らされた。 蓮司は狂気に囚われた。 彼はすべてを捨て、山を越え、海を渡り、世界中の仏を拝みながら、ただ天音がもう一度だけ振り向いてくれることを願い続けた。 目を赤く腫らし、必死に懇願した。「もう一度愛してくれ――」 だが結局は、遅すぎた目覚めには、何の価値もなかった。 天音の傍らには、すでに新しい誰かがいた。そこに、蓮司とその子供の居場所は、もはやなかった。

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Chapter 1

第1話

結婚して六年、天音は夫の深い愛情がすべて偽りだったことに気づいた。

男ってなんでこんなに演技が上手いんだろう。

蓮司は「愛してる、すごくすごく愛してる」と言ってくれた。でも、これが本当に愛なのか?

天音は彼のもとを去ることを決めた。

「隊長、すぐにチームに復帰させてください」

「天音、君が突然いなくなったら、きっと蓮司は狂うぞ」男の淡々とした声にはわずかな驚きが混じっていた。彼は天音と蓮司が六年の結婚生活を送り、一人の息子を育て、円満な家庭を築いていたことを知っていた。

夫の蓮司は彼女を深く溺愛していた。

「彼のことはもうどうでもいいです」天音は携帯をぎゅっと握りしめた。

「分かった。君を失ったことは組織にとって最大の損失だった。長くても一ヶ月以内に、すべてを手配する。その時『天音』はこの世から消え、『叢雲(むらくも)』がチームに復帰することになる」

「ありがとうございます、隊長」

天音は携帯をしまった。

パソコンのモニターには、男と女が別荘のあらゆる場所で体を重ねあっている映像が流れていた。

その映像は天音の目を容赦なく刺した。

天音はこれまで思いもしなかった。十年の付き合い、学校で出会い結婚まで至った人が、まさか自分を裏切るなんて。

彼は息子の家庭教師と浮気していた。

書斎の床には色とりどりのコンドームが散乱し、いくつかは金庫中の結婚証明書の上にまで散らかっていた。

息子を産んでから、天音の体は消耗しきり、第二子を望んでいたが、もう妊娠することはできない。

だから二人はもうコンドームなど使っていなかった。

なのに、モニターの中の蓮司は次々とコンドームを開け、満足することがなかった。

蓮司はどうして天音にこんなことができたのか。

パソコンの画面に、突然チャットログが現れた。

蓮司のLINEはパソコンとスマホで同期されている。

【大智くんは、これから天音さんのことをお母さん、私のことをママって呼んでくれるって。旦那さん、あなたは?】

チャット欄の右下にすぐ返信が来た。

【嫁】

天音は「嫁」という言葉を見た瞬間、椅子に崩れ落ち、両手で胸を押さえた。

両手を握りしめ、爪が手のひらに食い込み、血が流れた。

でも、手の痛みよりも心の痛みのほうがそれを凌駕していた。

天音は無理に自分を落ち着かせて、数え切れないほどの破廉恥なチャット履歴を最後まで読んだ。

息子の風間大智(かざま たいち)が生まれてから、蓮司の浮気が始まったのだ。

五年の間。

それなのに蓮司は見事に全てを隠し通していた。

床に落ちている幸せそうな結婚写真は、山のように積もるコンドームよりもずっと目に刺さった。

天音は息子を思い出した。

今日は幼稚園の親子イベントの日で、大智が今、中村恵里(なかむら えり)と一緒にいて、彼女をママと呼んでいると思うだけで、天音の心はどうしようもなく痛む。

あの子は私の息子なのに。

天音は車の鍵を手にして階下へ向う途中、メイドたちのひそひそ話が耳に入ってきた。

「いやだ、何これ、どうして奥様の服の中に?」

「穴だらけの布きれだけど、これも服と呼べる?」

「しっ、恵里さんのだよ」一人のメイドが声をひそめた。

「彼女の部屋に投げ入れちゃえ」

「悪い女だね、他人の旦那を誘惑して天罰も恐れないなんて……」

天音は、メイドたちが一階のゲストルームの恵里の部屋を開け、セクシーな透け透けのナイトウェアを放り込むのを見ていた。そのあと彼女たちはくすくす笑った。

「天音奥様?天音奥様!」

メイドたちはリビングでぼう然と立ち尽くす天音を見て、慌てた様子でその場を去っていった。

結局、この別荘で騙されていたのは天音だけだった。

天音は心身ともに消耗し、幼稚園に駆けつけると、恵里と大智がふざけ合っていた。

「ママ、マンゴーケーキはどうしたの?」

手ぶらで来た母を見て、大智は不満そうに詰め寄った。

「ごめんね、大智くん」

「だったら、早く買ってきてよ」大智はふくれっ面で言った。「恵里さん、何度も食べたいって言ってたでしょ」

「気にしないで、大智くん。食べたくなったら、自分で買いに行くから」恵里は優しく微笑んだ。

天音は自分の愚かさに苦笑した。前は、恵里が大智をよく世話してくれていたから、いつもご褒美をあげていたのだ。

大智は恵里を喜ばせたくて必死だった。「恵里さん、あのお店すごく美味しいって言ってたよね?すごく人気で三時間も並ばないと買えないって」

「恵里さんは僕と一緒にいるんだから、三時間も離れちゃだめだよ。だから、お母さんが買いに行けばいいんだよ」

「天音さんに行かせるのはかわいそうだよ」

「お母さんって、僕のことなら何でもしてくれるんだよ。だって、お母さんは僕がいちばん大事なんだから」

大智の口調には、天音を支配しているかのような誇りがあった。

その言葉を聞いて、天音の心は締め付けられ、目には冷たい光が宿った。

そのとき、幼稚園の先生がやってきて、「二人三脚を、みなさん親御さんと一緒にやりましょう」と声をかけた。

天音は大智と遊びたくて、優しく声をかけた。「大智くん、ママと一緒にやろっか?」

「大丈夫だよ」大智はロープを手に取り、夢中で恵里と自分の足を結びつけ、振り向きもしなかった。「恵里さんの方がこのゲームに向いてるから」

「大智くん、私が本当のママなのよ!」天音はあきらめず、大智の手をつかんだ。

でも、大智はその手を乱暴に振り払い、鋭い声で、「お母さんうるさいよ。僕のために恵里さんに譲ってよ」

天音の心は鋭く刺された。「なんてことを言うの?」

天音は命を懸けて、大智を産んだ。

一つ一つ自分の手で大智を育て、毎日そばにいた。

なのに、恵里がたった三ヶ月の面倒を見ただけで、大智はこんなにも彼女に肩入れするなんて。

「天音さんって、大智くんのためなら何でもやっちゃうんでしょ?それにさ、体操選手みたいなママ、欲しくない子なんていないよね。私のほうが若いし、元気だし……それに、綺麗だしね」

「恵里さんなら絶対勝てるよ!」

恵里と大智は手のひらを合わせてハイタッチした。

恵里は大智の手を引き、天音を見上げる目には挑発の色が浮かんでいた。

天音は全身を震わせながら怒りをこらえた。

「何様のつもりだ。俺の妻に向かって無礼な口をきくとは」

蓮司は冷ややかな声で怒りをあらわにし、天音の腰を引き寄せた。「お前はただの大智の家庭教師だ。俺の妻に逆らうなら、すぐに出ていけ!俺の妻に謝れ!」

恵里はすぐに顔を伏せ、肩を小刻みに震わせて、怯えきったふりをした。「ごめんなさい、もう二度としません」

蓮司と恵里が結託して天音を欺くのを見た。

天音の心はすでに冷え切っていた。

天音は今、ただ大智がそばにいてくれることだけを望んでいる。大智を連れてここから出て行きたい。

しかし突然、大智は彼らに向かって狂ったように叫んだ。「パパ、どうして恵里さんに怒るの?だって、恵里さんの言う通りだよ、ママは本当にバカで年寄りなんだから!」

大智は恵里をかばい、天音を一切評価しなかった。

大智がなぜこんなふうになったのか?

天音は震える声で尋ねた。「そんなに彼女が好きなの?彼女にママになってほしいの?」

大智は目を見開き、極めて冷淡な声で言った。「そうだよ!」

その一言が天音を完全に崩壊させる最後の火種となった。

大智は恵里の手を取って、スタートラインへと駆けていった。

二人が寄り添い、コースを駆け抜け、楽しげに笑い合う姿を見た。

天音は絶望的な悲しみに襲われた。

「天音、子どもはまだ幼いからゆっくり教えてやって。無理して体を壊さないで、俺が後で母さんに言って、恵里を追い出すよう頼むから」蓮司は天音の耳元でささやいて慰めた。

蓮司の優しい眼差し、長年変わらぬ甘い言葉は気持ち悪く感じるようになった。

天音の心は限界だった。

父子がそろって彼女を選ぶのなら、天音は誰もいらなかった。

天音にもう未練はない。天音は蓮司を押しのけ、幼稚園を後にした。

最長で一か月、天音はこの世から消える。

これからは、空も海も果てしなく広がっていく。

天音のそばに、彼らの居場所はもうなくなった。
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第1話
結婚して六年、天音は夫の深い愛情がすべて偽りだったことに気づいた。男ってなんでこんなに演技が上手いんだろう。蓮司は「愛してる、すごくすごく愛してる」と言ってくれた。でも、これが本当に愛なのか?天音は彼のもとを去ることを決めた。「隊長、すぐにチームに復帰させてください」「天音、君が突然いなくなったら、きっと蓮司は狂うぞ」男の淡々とした声にはわずかな驚きが混じっていた。彼は天音と蓮司が六年の結婚生活を送り、一人の息子を育て、円満な家庭を築いていたことを知っていた。夫の蓮司は彼女を深く溺愛していた。「彼のことはもうどうでもいいです」天音は携帯をぎゅっと握りしめた。「分かった。君を失ったことは組織にとって最大の損失だった。長くても一ヶ月以内に、すべてを手配する。その時『天音』はこの世から消え、『叢雲(むらくも)』がチームに復帰することになる」「ありがとうございます、隊長」天音は携帯をしまった。パソコンのモニターには、男と女が別荘のあらゆる場所で体を重ねあっている映像が流れていた。その映像は天音の目を容赦なく刺した。天音はこれまで思いもしなかった。十年の付き合い、学校で出会い結婚まで至った人が、まさか自分を裏切るなんて。彼は息子の家庭教師と浮気していた。書斎の床には色とりどりのコンドームが散乱し、いくつかは金庫中の結婚証明書の上にまで散らかっていた。息子を産んでから、天音の体は消耗しきり、第二子を望んでいたが、もう妊娠することはできない。だから二人はもうコンドームなど使っていなかった。なのに、モニターの中の蓮司は次々とコンドームを開け、満足することがなかった。蓮司はどうして天音にこんなことができたのか。パソコンの画面に、突然チャットログが現れた。蓮司のLINEはパソコンとスマホで同期されている。【大智くんは、これから天音さんのことをお母さん、私のことをママって呼んでくれるって。旦那さん、あなたは?】チャット欄の右下にすぐ返信が来た。【嫁】天音は「嫁」という言葉を見た瞬間、椅子に崩れ落ち、両手で胸を押さえた。両手を握りしめ、爪が手のひらに食い込み、血が流れた。でも、手の痛みよりも心の痛みのほうがそれを凌駕していた。天音は無理に自分を落ち着かせて、数え切れないほどの破廉
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第2話
天音は幼稚園を出た。執事は彼女の元気の無さに気づき、「奥様、どちらに行かれますか?車を出しましょうか」と提案した。どこへ行く?彼女にはもう家族がいない。行ける場所はただ一つしかなかった。「いらないわ」執事は遠ざかる天音を見送りながら、どこか違和感を覚えた。その時、携帯が鳴った。電話の向こうから、メイドの怯えた声が響いてきた。「奥様が蓮司様の秘密を見つけてしまったみたいです」メイドは、書斎に散らばる無数の乱雑さに怯えていた。執事はすぐにその知らせを蓮司の母親の花村千鶴(はなむら ちづる)に伝えた。天音はパナメーラに乗って、高速道路をひたすら走った。都市の喧騒を遠ざけ、山深くへと消えていった。その頃、東雲グループ社長の休憩室で。蓮司は恵里と絡み合っていた。するとベッドサイドの携帯が鳴った。蓮司は携帯を手に取り、アラームアプリを開いた。画面の赤い点がどんどん遠ざかっていく。「ねぇ、あなた、大智くんのボクシング教室、もうすぐ終わるんじゃない?」恵里が背後から蓮司を抱きしめ、甘い声で囁いた。蓮司は恵里を振りほどき、遠ざかる赤い点を見つめていた。「あなた」と呼ばれたその一言が、心に妙な痛みを残した。何か大事なものが失われていくような感覚だった。「俺のことを『あなた』と呼ぶな」彼の声は冷たかった。天音以外、誰にも「あなた」と呼ぶ資格はない。さっきは、ただの気の迷いだった。蓮司はスラックスを引き上げ、振り返りもせず休憩室を出ていった。蓮司が去ると、恵里の取り繕った笑顔は一瞬で消えた。彼女はベッドサイドに飾られている蓮司と天音のツーショット写真を手で払い落とし、そのままごみ箱に投げ捨てた。自分は天音より若く美しく、夜の営みにおいても蓮司に気に入られている。今では大智さえ自分に懐いている。それなのに、なぜ蓮司は天音のことばかりを気にかけているのか。きっと昔の情に縛られているのだろう。ならば、今度は自分が直接動く番だ。郊外の墓地には春の長雨が降りしきっていた。天音は墓前に長く立ち尽くしていた。かつて母に絶対に幸せになると約束したが、今はもうその約束を果たせそうにない。彼女は嗚咽まじりに口を開いた。「母さん、ごめんなさい。私、蓮司と離婚することにした。大智の親権は彼に渡すわ」「一緒に
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第3話
恵里はどさりと天音の目の前にひざまずいた。「天音さん、お願いします、千鶴さんに私を追い出させないでください」後部座席の窓が下がり、大智が顔を出した。「お母さん、どうしておばあちゃんの前で恵里さんの悪口を言うの?」大智は天音を責め立てた。天音は泥にまみれてひざまずく恵里を見つめた。彼女は極度の無力さと弱さを装い、人々の同情を引こうとしていた。恵里が大智をここに連れてきたのは、天音と大智の関係を壊すためだった。「大智くん、お母さんに大声を出したらダメだよ。お母さんは誰の悪口も言わないから」蓮司の庇う声が響き、天音は彼の優しい眼差しを見返した。真実を知らなければ、天音はきっと感動していただろう。しかし今の天音には、ただ滑稽に思えた。「お母さんが告げ口しなかったら、どうしておばあちゃんが恵里さんを追い出すの?絶対お母さんのせいだ!」大智は全く納得せず、車から降りて恵里を引っ張り起こした。「恵里さん、早く立って。ズボンが濡れちゃうよ」天音は大智が恵里の濡れたズボンを心配するのを見て、自分が雨で全身ずぶ濡れになり、寒さに震えていることを全く気にかけてもらえなかった。天音の胸は強く痛んだ。恵里は口元に勝ち誇った笑みを浮かべ、わざと悲しげに言った。「大智くん、私は大丈夫。天音さんが私を追い出さない限り、どれだけひざまずいてもいいから」天音は大智に堪えながら言った。「大智くん、私は教えたよね。証拠もなしに人を勝手に疑っちゃダメだって」大智は不満そうに口をとがらせた。「じゃあ、おばあちゃんに恵里さんを追い出さないように言ってくれたら、お母さんのこと信じる」恵里さんはとても良い人で、パパも恵里さんのことが好きなのに、ママ以外誰も恵里さんの悪口なんて言うわけがなかった。天音は、大智が恵里のために自分にこんな要求をするとは思いもしなかった。天音は大智を甘やかしすぎていた。そのせいで、大智に自分の愛情を利用して好き勝手できると思わせてしまった。「大智くん、おばあちゃんが決めたことは誰にも変えられないよ。お母さんにそんな無理なこと言っちゃダメだ」蓮司は天音を守るように見せかけて、実は大智にヒントを与えていた。「じゃあ自分でおばあちゃんにお願いしに行く!パパ、早く行こう!」大智は恵里の手を引き後部座席に戻ろうとし、恵里は抵
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第4話
「どうした?」蓮司は疑問を覚えながらも、天音の言葉にはいつも素直に従い、車をUターンさせた。「自分の車に忘れ物をしたの」天音はその目の冷たさを隠した。「わかった」蓮司は笑みを浮かべて答えた。愛人が追い出されても冷淡だったくせに、今は天音にやたらと優しい。彼は完璧に潔白を演じており、微塵も隙を見せなかった。天音には、蓮司がどんどん他人のように感じた。車はすぐにガレージに着いた。「俺が取ってくる」蓮司がドアを開けた。「うん、ダークグレーのヘアピンだよ」天音は念を押した。蓮司が車を降りると、天音も、隣で泣き疲れて眠っていた大智をちらりと見てから車を降りた。後庭のホールに向かい、分厚いカーテンが彼女の姿を隠した。リビングでは、恵里が千鶴の背後に立って肩を揉んでいた。二人はまるで親子のように親しかった。天音の脳裏に、いくつもの光景が浮かんだ。千鶴は、病に伏す母の世話に苦労し、母の臨終の際には「天音のために、これからの苦難は全部私が背負っていく」と母に約束した。千鶴はずっと天音を守ってきた。天音を傷つけるはずがない、きっと何か理由があるはずだ。天音は顔色を失い、カーテンを強く握った。恵里は千鶴をマッサージしていた手をふいに止め、天音に気づいて、取り入るような笑みを浮かべた。「千鶴さん、必ずお言葉に従って、蓮司さんのためにいっぱい子供を産みます」「風間家は絶対にあなたのことを粗末にしませんわ」「天音さんって、本当に可哀想ですね。もう一人子供が欲しいだけで、いろんな薬や鍼治療までしたのに、さらに体調が悪化しただなんて。千鶴さん、どうか彼女を止めてください」「風間家に嫁いだ以上、子供を産むのは彼女の義務よ」千鶴は少し眉をひそめ、恵里がなぜ天音の話をしだしたのか不思議に思った。「もう彼女が産めないから、こんなに手を尽くしているというのに」「気にすることない」天音は長い治療の日々の苦しみを思い出し、涙が止まらなかった。ずっと千鶴を母のように慕ってきたのに、まさか千鶴が裏で自分を利用していたなんて思いもしなかった。もし母が千鶴の本性を知ったら、あの世にいても安らかに眠れないのだろうだろう。千鶴が突然、後庭のホールを見た。一瞬だけ、悲しげな視線が自分に向いている気がした。だが、そこには誰も
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第5話
個室の騒ぎがぴたりと止まった。全員が天音に視線を向けたその瞬間、彼らの顔には恐怖が浮かんだ。蓮司は恵里の手首を乱暴に掴み、彼女を床に突き飛ばした。「俺に頼んでも無駄だ。母親が決めたことは誰にも変えられない。それに、お前は大智に悪いことを教え、天音の心を傷つけた。俺が罰しないだけでもありがたいと思え」その声は冷たく、決然としていた。恵里はみじめに床に倒れ込み、手足の痛みに顔をしかめながら、天音を恨めしそうな目で見上げた。「そうだそうだ、お前が大智くんをダメにして、天音を怒らせた。蓮司に罰せられないだけありがたいと思え」皆が気を緩め、再び天音を庇う雰囲気になった。「大智くんに悪い影響を与えて、天音を傷つけたり、ほんとに許せない」「天音、気にしないで」「蓮司は天音のことを本当に愛してる。絶対に誰にも天音のことを傷つけさせない」健太はさらに恵里を力強く引き上げた。「天音、俺がすぐにこいつを連れて行く!」さっきまで持ち上げられていたのに、次の瞬間には谷底に突き落とされ、踏みにじられていた。恵里は激しく抵抗し、従う気はなかった。天音はこの人たちの偽善に強い嫌悪を感じ、吐き気すら覚えた。口を開いて遮った。「恵里、さっき蓮司にしがみついてたのは、本当にお願いするためだけだったの?」全員の怒りのこもった視線が一斉に恵里の顔へと突き刺さり、誰一人として彼女を擁護しようとはしなかった。まるで「天音を怒らせるな」と無言で脅しているようだった。恵里の顔色は青白くなり、歯を食いしばって天音を睨みつけた。もちろんそうじゃない。蓮司と楽しみたかっただけだ。愚か者め。でも、蓮司の前でそんなことを堂々と明かせるはずもなかった。蓮司は健太に目配せし、健太は突然恵里を突き倒した。「さっさと天音に謝れ」「そうだ、謝れ!」皆が囃し立てた。恵里は膝を床に打ちつけられ、痛みと屈辱で涙が溢れたが、誰一人として彼女に同情する者はいなかった。むしろ皆に責め立てられて、はっきりと「ごめんなさい」と言わざるを得なかった。なんでこんなことに。こいつらはさっきまで裏で天音の傲慢さを嫌っていたくせに。いざ天音が現れると猫のように大人しくなって、怯えている。恵里が悔しさで歯を食いしばるのを見ても、天音は許そうともせず、誰も恵
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第6話
大智の言葉は、目に見えない刃のように天音の心を深く突き刺した。息子が自分の家庭を壊し、夫を誘惑した女のために、目の前で膝をついている。天音は心の痛みで呼吸が乱れ、声も震えた。「今、何て言った?」「ママ、ママはアクセサリーがいっぱいあって、どうせ全部は使いきれないでしょ。恵里さんに指輪ひとつあげたって、別にいいじゃん」大智は唇を尖らせて甘えた。自分の過ちなど全く気づいていなかった。「それに、いつもママが言ってたでしょ。恵里さんは僕のことすごくよく世話してくれるんだから、お礼をしなきゃって」「だから、ママの代わりに僕がご褒美をあげたんだ」あの日、学校から帰ると、廊下に落ちていた指輪を恵里がとても気に入って、自分じゃ一生でも買えないって、可哀想そうに話していた。天音は普段から「身近な人には気前よくしなさい」と教えていた。なのに、今となって自分を責めるのはどうしてだろう。天音は洗面台を握りしめて、なんとか立ち上がり、大智を見下ろした。「ママの物を人にあげる時、ママに聞いた?教えたよね、無断で持ち出すのは盗みだって」「ママ、どうせママが死んだら、これ全部僕の物になるじゃん。ママの物は僕の物だし、それでも盗みになるの?」「誰がそんなことを教えたのよ?ママの物が全部大智の物だなんて。ママは『人は自分の力で生きるものだ』と教えたはずよ」天音は大智の当然の顔つきに、全く罪悪感のない様子を見て、言いようのない痛みが胸に湧き上がった。もし自分が突然消えたら、大智はきっと少しくらいは悲しんでくれると思っていた。けれど、彼は何も気にせず、むしろ自分が死んだ後のことばかり考えている。天音に叱られて、大智は唇を震わせ、涙目で悔しそうに天音を睨みつけていた。もちろんこれは千鶴が教えたのだ。自分は将来、東雲グループも両親のすべても受け継ぐ者だと。大きくなったら、恵里さんにたくさんジュエリーを買ってあげるつもりだ。その頃には、もう母は何も言えなくなる。「ママ、指輪はもうママの手元に戻ったんだから、恵里さんを許してあげてよ。恵里さんはもう家に来ないんだから、全部なかったことにしようよ」なかったことに?天音は大智の幼い顔を、失望とともに見つめた。自分の身に起きたことでなければ、痛みなど分からないのだ。「パパ
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第7話
「恵里は娘がいるの?」天音はマッサージチェアから立ち上がった。美月は天音が興味あるのを見て、机の上に写真の破片をきれいに並べながら小さな声で言った。「今日、恵里の荷物を整理していたら、この子の成長記録のアルバムがあったんです」「ショートカットの女の子で、ぱっと見て大智くんかと思ったくらいでした」美月は気まずそうに笑い、それが余計に天音の顔色を青ざめさせた。天音は美月の手を押さえた。「そのアルバム、見せて」ドアの外から蓮司の声が突然響いた。「天音、何を持って行くつもり?」天音はゆっくり振り向き、蓮司を見据えた。暖かい黄色の光の下、シルクのルームウェアが蓮司の鋭い輪郭を和らげ、柔らかい雰囲気を与えていた。クラブで着ていたあのスーツは、蓮司が天音の前で使用人に捨てさせると言っていた。それでも、天音は蓮司とこれ以上話したくなかった。「何でもない」天音は机の上の写真を払い落とし、下へアルバムを見に行こうとした。だが、蓮司が背後からアルバムを出して、天音の目の前に置いた。「これのことか?」蓮司はアルバムを一枚一枚めくりながら美月に合図を送り、美月はすぐに床の破片を片付けて部屋を出た。蓮司はその子供の幼い頃からの写真を天音に見せた。「これは孤児院の院長が勧めてくれた子だ」「数日前に届いたばかりのアルバムだ」「大智に少し似てるだろ?」蓮司は目尻を下げ、優しい父親のような表情を浮かべた。「さっき大智は友達ができたって言ってたのも、この子のことだ。その日、孤児院の子も『光の楽園』に来ていたんだ」天音はアルバムを受け取り、心が少し柔らかくなった。恵里は細身で、子供を産んだようには見えなかった。それに、二人のやり取りの中で子供の話題など一度も出たことがなかった。天音は先ほど、疑いすぎていたと自覚した。この孤児院は天音の母が生前所有していたもので、院長が天音を騙すことなどありえなかった。今はチャリティ財団がそれを管理しており、蓮司はそのことを知らない。蓮司は、天音がようやく安堵の笑みを見せたのを見て、そっと天音の肩を抱き寄せ、低い声でささやいた。「気に入ったら、この子を引き取って大智と一緒に育てていこう」この子は大智くんとどこか面影が似ていて、偶然にも友達になったし、きっと縁がある。だが、
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第8話
大智が階段を駆け下り、怒りを込めて睨みつけた。「僕はそんなこと絶対許さない!」「パパ、これはパパがデザインした家だよ」「僕のおもちゃも、滑り台も、プールも、それに庭で恵里さんが作ってくれたブランコも……僕、この家のすべてが好きなんだ。ママに壊されたくない」天音は無表情で大智を見つめた。その視線に大智は怯え、蓮司の背中に隠れた。天音の目はいつも優しく愛に満ちていた。こんなふうに大智を見るのは初めてだった。大智は胸がざわついた。まさか天音が放課後に恵里と会っていたことを知っているのか。「パパ、ママに言ってよ」大智は首をすくめて、小さな声で言った。蓮司は穏やかな笑みで大智の頭を撫でた。「見てごらん、ママが大智の誕生日に合わせて特別な印をつけてくれた。壊してリフォームするのは、大智の誕生日を祝うためなんだ。それに、もうすぐ家族が増えるから、家の間取りも変えるべきだろう。ママ、そういうつもりだったんだよな?」天音はそっけなく「ええ」とだけ答えた。大智は驚いた顔で天音の前に駆け寄り、首に抱きつき、頬にキスした。「ママ、僕が誤解してた。やっぱりママは僕のことを一番愛してくれてるんだ」昨夜、蓮司は「天音の大切な結婚指輪は、蓮司と天音の愛の象徴で、大智と同じくらい大切だ」と大智に話した。だから天音は怒って一緒に寝てくれなかったのだと気付いた。今朝、大智は謝るつもりだった。でも、今考えれば、心配など必要はなかった。ママはやっぱり大智が大好きで、どんなに大きな間違いをしても必ず許してくれる。怒ってもすぐ機嫌が直る。だから謝る必要はなかった。天音は大智のあどけない笑顔を見て心がほぐれ、手を伸ばして大智を抱きしめた。だが大智は天音の腕からすり抜け、食卓の向こうに行き、朝食を食べ始めた。天音の手はそのまま宙に残った。「でも、天音はなんで自分の愛車まで壊そうとしたんだ?」蓮司は天音の前にしゃがみこみ、手を握った。ひんやりした感触に、蓮司は少し驚いた。天音は蓮司の優しい眉と目を見つめ、昨夜の光景が脳裏に蘇り、目が赤くなった。「もう好きじゃないし、誰にもあげたくないの」蓮司は天音をじっと見つめ、唇を動かした。「分かった。天音の物は、たとえ好きじゃなくても他の誰にも触れさせない」「じ
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第9話
蓮司の姿を見た瞬間、天音は顔色を変え、無意識に手を強く握りしめた。先ほどの話を聞かれていたのだろうか。しかし、蓮司の表情はいつもと変わらなかった。天音はやっと気づいた。自分のオフィスは蓮司が直々に設計したもので、社長室と同じ素材を使っているため、防音性も抜群だ。普段、オフィスで座っていると外の物音は一切聞こえなかった。天音は少し安心した。だが、杏奈が突然声を上げた。「蓮司と恵里、どういう関係なの?」天音は思わず顔面蒼白になった。「俺と恵里?」蓮司は眉をひそめ、感情を読み取らせない表情をした。天音は杏奈の手を掴み、先に口を開いた。「健太と恵里の噂、杏奈はもう知ってるの」「蓮司はいとことしてちゃんと恵里を躾けてるの?」杏奈は驚いた顔で天音を見ると、彼女の唇が震えているのに気づき、すぐに事情を察した。天音は、蓮司に不倫のことを知られたくなかったのだ。親友である杏奈は、その意図をすぐに汲み取った。「私たち一緒に育ったのに、誰の味方するつもり?」杏奈はわざと怒ったふりをし、天音に意味ありげな視線を送った。天音はほっとして、蓮司に抱き寄せられた。蓮司は天音の耳元で優しく囁いた。「俺はもちろん天音の味方だ。健太をどう罰しても、絶対何も言わない。天音、もう怒らないでくれ、な?」蓮司は天音をきつく抱きしめ、何度もなだめて、ただ彼女が笑顔を取り戻してくれることだけを願っていた。日々が積み重なり、年月が流れた。若い頃に出会い、心を通じた蓮司は、ずっと自分に優しくしてきた。蓮司は自分の青春を照らし、壊れた家庭から救い出し、母を失った絶望からも立ち直らせてくれた。だが蓮司は自分を裏切り、「一生添い遂げる」や、「永遠に変わらない」という誓いを破った。自分は蓮司が他の女を愛してしまったという事実を、どうしても受け入れられなかった。深い悲しみが抑えきれず、胸の痛みに耐えかねて、冷たい声でまさに叫ぶように言った。「彼女とは絶縁して、出て行かせて、二度と会わないで、彼女のことを忘れて」血走った目で蓮司をまっすぐ見つめ、その無力さが蓮司の心を深く刺した。なぜ天音がここまで苦しそうなのか。その言葉はまるで自分に言っているようだ。蓮司の目に、一瞬焦りの色がよぎった。何か大切なものが遠ざかっ
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第10話
蓮司は呆然と天音を見つめた。「天音、今日なんか様子がおかしいぞ?」いつもは別れのキスをしていた。車の中ではキスしづらいから、天音の額に軽くキスをするだけだった。「何でもない!」天音はティッシュで額の跡を拭きながら言った。「メイクが崩れるのが嫌なだけ」蓮司は素直にそれを信じた。そして身をかがめて言った。「気をつけて。会社に着いたら連絡して」腕時計を見て、「これから契約書にサインしてくる。仕事が終わったら一緒に大智を迎えに行って、実家に戻ろう」と言った。「母さんは、俺たちが戻ってくるって知ってすごく喜んでる。天音の好きな料理をたくさん用意してるってさ」天音はバックミラー越しに道端に立つ健太を見て、蓮司に「うん」と返事をした。蓮司は天音が車を発進させるのを見届け、それから脇のSUVへと歩いていった。健太も一緒に乗り込んだ。SUVは流れに沿って北郊の別荘地へと向かった。恵里は別荘の玄関前に立ち、満面の笑みで蓮司の胸に飛び込んできた。彼らを出迎えていた。そして恵里の後には、もう一人の女性がいた。彼らより先にレストランを出たはずの杏奈だった。皆で楽しそうに笑いながら別荘の中へ入っていった。天音もその後を追い、自分の目でその光景を目撃した。呆然とし、いつの間にかハンドルを握る手に力が入り、自分の目を疑った。なぜ杏奈がここにいるんだ?頭の中で、杏奈が自分のために怒ってくれた場面や、恵里を罵倒した言葉、「会ったら絶対に叩く」と言っていたことが次々に思い浮かんだ。天音には一番大切な親友が、なぜ家庭を壊した女と平然と一緒にいられるのか理解できなかった。きゅっと目を閉じた。涙はもう枯れているはずなのに、瞳は再び濡れていた。信じたくなかった。車を降りたが、全身が固まったままアスファルトに膝と手をついて転倒した。しかし痛みも感じず、すぐに立ち上がって別荘に向かった。別荘のリビングにて。「杏奈、教えてくれよ。天音、この二日間どうしたんだ?」健太は目を閉じて休む蓮司を見ながら言った。「蓮司、本当に心配してるんだ」「恵里と五年も天音に隠れて一緒にいたのに、今さら天音の気持ちを気にする必要がある?」杏奈は、蓮司が天音を気にかけている様子に思わず口を挟んだ。室内から健太の声が響いた。「何が分かるん
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