婚姻生活にさようなら、椎名さん

婚姻生活にさようなら、椎名さん

Par:  つき酔Mis à jour à l'instant
Langue: Japanese
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向井莉奈(むかい りな)は、世の中に大勢いる、痛い目に遭わないと立ち止まれない女性と同じように、椎名承也(しいな しょうや)という男に愛されたくて必死だった。 けれど三年間の結婚生活は、夫婦でありながら赤の他人同然。 莉奈が命の危機にさらされるほどの目に遭っていたそのとき、承也は昔の恋人のそばにいた。 彼女は歯を食いしばって手放す決意をした―― はずだったのに、あの雲の上の存在みたいな男は、なぜか執拗につきまとってくる。 一歩、また一歩と距離を詰め、彼女に寄ってくる男との縁を次々と断ち切り、逃げ道をすべて塞いでいく。 「そもそも俺と結婚したいと言い出したのは君だろ。俺が離婚すると言わない限り、君は一生俺から逃げられない」 莉奈は冷ややかに言い返す。「ごめんなさい、椎名さん。あなたはもう私の人生から退場よ。この結婚、私が離婚って言ったら、もう離婚は決まりよ」

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Chapitre 1

第1話

向井莉奈(むかい りな)が警察署を出たときには、既に深夜だった。

外は雪が降っている。

通りを行き交う人々は、顔に青紫の痣を残し、髪は乱れ、足を引きずるように歩く莉奈を、時折怪訝そうに見ていた。

けれど莉奈は、そんな視線もひそひそ声も、まるで耳に入っていない。

重たい足取りで、彼女はうつむいたまま、画面が割れてしまった壊れかけのスマホを虚ろな表情で見つめていた。

血に染まった指先が震えながら通話ボタンに触れ、十一桁の番号を打ち込む。

「……ツー」

「……ツー」

先ほど殴られたとき、必死でかけた緊急連絡と同じで、やはり誰も出ない。

一片の雪がまつげに落ち、莉奈はそっと瞬きをした。冷たい雪解け水が、そのまま目に染み込んでくる。

「……はは」莉奈は自嘲するように、かすかに口角を上げる。

――本当に、みっともない。

そう思って、力なく手を下ろそうとした。

その、最後の一秒で。

電話が、つながった。

「どうした?」

電話の向こうから聞こえてきたのは、少し冷たさを帯びた、男の低い声だった。

スマホを握る手が、ぴたりと止まる。莉奈の顔に動揺が走った。「し……」

言いかけた、その瞬間。

「椎名社長、桜井さんがお探しです」

彼女の言葉を遮るように、電話口から椎名承也(しいな しょうや)の助手の声が聞こえ、続いて彼が淡々と言った。「一旦、切る」

言いかけていた言葉は、そのまま通話終了音にかき消された。

誰もいない街角。高く立つ街灯の下で、雪がはらはらと莉奈の髪に降り積もり、細い体が小さく震える。

そのとき、ふいに、体温の残るコートが肩にかけられた。

莉奈ははっとして顔を上げる。そこに立っていたのは、杉村編集長だった。

男は痛ましげな視線で彼女を上から下まで見て、怒りを抑えきれない様子で言った。

「いったい、誰にこんなことされたんだ?」

口から白い息が漏れ、莉奈は小さく首を横に振った。

「殴られてる途中で、相手の髪を何本か掴みました。爪の中にも皮膚が残ってます。DNAが取れれば、警察はすぐに動けるはずです」

男は一瞬、言葉を失った。ここまでひどい目に遭いながら、なお冷静で、先を考えているとは。

やはり、この莉奈という女は、彼がもっとも評価している部下だった。

「この件は、必ず最後まで追う。もう遅いし、今日は君の家まで送るよ」

この場所はタクシーも拾いにくい。莉奈は少し苦笑し、男の車に乗り込んだ。

「杉村編集長、ありがとうございます」

「何言ってる。俺の部下がやられて、放っておけるわけないだろ。それに今夜は、みんな取材に出てて、オフィスにいたのは俺ひとりだったんだ」

男はハンドルを切りながら、続ける。

「椎名承也の元カノが帰国したらしい。空港まで迎えに行ったのも本人だって話でな。みんなスクープ狙いで必死だよ」

莉奈の充血した目が、ぴたりと止まった。

頭の中で、ぶうんと音が鳴る。

――自分が路地裏に引きずり込まれ、殴られながら必死で承也に電話をかけていたそのとき、彼は、別の女のそばにいたのだ。

杉村編集長は、彼女の顔色が急に悪くなったことにも気づかず、話を続けている。

莉奈はうつむき、血に濡れた指で、皮膚が裂けたもう一方の手の甲を強く掴んだ。

誰も知らない。彼女が、承也の妻だということを。

……

杉村編集長に家の前まで送ってもらうことはせず、莉奈は近くの住宅街で降ろしてもらい、そこからタクシーで松風レジデンスへ帰った。

家に着き、玄関で靴を脱いでいると、物音に気づいた家政婦が出てきて、彼女の姿を見るなり驚いて駆け寄ってきた。

「奥様、どうされたんですか?いったい何が……!」

家政婦が支えようとして、うっかり彼女の腕の傷に触れてしまったが、莉奈はまったく反応しなかった。まるで感覚が麻痺してしまったかのように、瞳には一切の光がない。

「取材中に、殴られただけ」

さらりとそう言ったが、家政婦は背筋が寒くなる思いだった。社会部の記者の仕事が危険だとは知っていたが、ここまでとは思っていなかった。

以前、椎名家の祖母が今の仕事を辞めさせようとしたのも、あながち間違いではなかったのだろう。

莉奈の視線が靴箱に向けられているのを見て、家政婦は彼女の顔色を見る勇気が出ず、含みのある表情で言った。

「旦那様は……まだお帰りではありません。桜井さんが帰国されたそうで……」

莉奈は俯いたまま、ほつれた髪が半分ほど顔を隠している。目元の表情は読み取れないが、家政婦には彼女が傷ついていることだけははっきりと伝わってきた。

「たぶん……」

家政婦が何か言いかけたところで、莉奈は軽く手を上げて制した。

「先にお風呂に入るから、救急箱を私の部屋に持ってきて」

ふらつきながら階段を上っていく後ろ姿を見送り、家政婦は声を出さずにため息をついた。それでも言われたとおり、救急箱を取りに行く。

主寝室の前を通ったとき、中をちらりと覗いたが、案の定、莉奈の姿はなかった。

彼女がいたのは、主寝室の隣の部屋だった。

結婚して三年になるというのに、いまだに別々の部屋で寝ているなど、誰が想像しただろう。

浴室は湯気で白く曇っていた。鏡に映る、体中に広がった痛々しい青い痣を見て、莉奈の唇は小さく震えた。痙攣するようにこわばった指で服を掴み、力任せに引き裂くように脱いで、ゴミ箱に放り込む。

そして、全身の力が抜けたように、そのまま床に座り込んだ。

しばらくして、浴室の奥からかすかな嗚咽が聞こえてきた。家政婦が耳を澄ませたが、今度は水音しか聞き取れなかった。

入浴後、莉奈は家政婦の手当てを断り、ソファに座って適当に薬を塗ると、そのままベッドに横になった。

目を閉じた瞬間、殴られていたときの光景と、男の歪んだ笑い声が脳裏によみがえる。骨の奥が、じくじくと痛む。

寝返りを打ち、ベッドサイドの引き出しを開ける。指先が奥にしまわれた小さな薬瓶に触れた。蓋を開け、一錠口に放り込み、水も飲まずにそのまま飲み下す。

睡眠薬の効果で、莉奈はすぐに眠りに落ちた。

それでも眠りの中で眉はきつく寄せられ、額には冷や汗が浮かび、布団の端を握りしめた指は白くなって、震えが止まらない。

「……助けて……」

悪夢に囚われた莉奈は、顔色を失い、薄い体を震わせながら、固く閉じたまつげの間から涙をこぼした。

薄暗く、がらんとした部屋には、何の返事もなかった。

……

莉奈が目を覚ましたのは、翌日の夕方だった。

顔の痣はだいぶ薄くなっていたが、体の痛みはまだ残っていて、起き上がるときに転びそうになった。

昨夜は、通りがかった親切な人が大声で警察を呼んでくれたおかげで、あの連中は暴行をやめ、それ以上の被害を受けずに済んだ。でなければ、今ごろ両親のもとへ行っていたかもしれない。

杉村編集長は数日休みを与え、家でしっかり休むようにと言ってくれた。

階下へ降りる途中、主寝室の前を通り、彼女は立ち止まって中を一瞥した。

ドアは昨夜と同じように開いたままだ。

考えるまでもなく、昨夜も承也は帰ってきていない。

家政婦が温かいタオルを用意してくれたので、莉奈はソファに座り、頬に当てじんわりと温まるのを感じながら、スマホでニュースを開いた。

さすが椎名家の実権を握る人物だ。昨夜のニュースがトップを飾り、今もなお高い注目を集めている。

写真に写っているのは、夜の闇に凛と立つ、背筋の伸びた男の後ろ姿。たった一枚の写真、背中だけだというのに、放たれる圧倒的な存在感は否応なく目を引いた。

そして、彼が押す車椅子に座る女性は、上半身の後ろ姿だけが写っている。

――桜井美月(さくらい みつき)。

莉奈は黙ってニュースを閉じたが、手にしていたタオルをうっかり強く握りしめてしまった。

床に落ちた水滴を見下ろし、彼女は眉をひそめ、やがて目元がじわりと赤くなる。

情けない。三年も一緒にいて、まだ承也の心がわからないなんて。

その後、部屋に戻って着替え、気を紛らわそうと書斎へ向かい、何冊か本を探した。

承也の書斎はすっきりと整っていて、余計な装飾は一切ない。ブラインドボックスやフィギュアで溢れている彼女の書斎とは対照的だ。

デスクの引き出しが閉め忘れられていて、窓も半分ほど開いている。風にあおられて、引き出しの中の書類がばさばさと音を立てた。

そのうちの一枚が、床へと落ちた。

莉奈は近づいてそれを拾い、引き出しに戻そうとしたが、中身が目に入った瞬間、動きが止まった。

そこにあったのは、紛れもなく一通の離婚協議書だった。
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第1話
向井莉奈(むかい りな)が警察署を出たときには、既に深夜だった。外は雪が降っている。通りを行き交う人々は、顔に青紫の痣を残し、髪は乱れ、足を引きずるように歩く莉奈を、時折怪訝そうに見ていた。けれど莉奈は、そんな視線もひそひそ声も、まるで耳に入っていない。重たい足取りで、彼女はうつむいたまま、画面が割れてしまった壊れかけのスマホを虚ろな表情で見つめていた。血に染まった指先が震えながら通話ボタンに触れ、十一桁の番号を打ち込む。「……ツー」「……ツー」先ほど殴られたとき、必死でかけた緊急連絡と同じで、やはり誰も出ない。一片の雪がまつげに落ち、莉奈はそっと瞬きをした。冷たい雪解け水が、そのまま目に染み込んでくる。「……はは」莉奈は自嘲するように、かすかに口角を上げる。――本当に、みっともない。そう思って、力なく手を下ろそうとした。その、最後の一秒で。電話が、つながった。「どうした?」電話の向こうから聞こえてきたのは、少し冷たさを帯びた、男の低い声だった。スマホを握る手が、ぴたりと止まる。莉奈の顔に動揺が走った。「し……」言いかけた、その瞬間。「椎名社長、桜井さんがお探しです」彼女の言葉を遮るように、電話口から椎名承也(しいな しょうや)の助手の声が聞こえ、続いて彼が淡々と言った。「一旦、切る」言いかけていた言葉は、そのまま通話終了音にかき消された。誰もいない街角。高く立つ街灯の下で、雪がはらはらと莉奈の髪に降り積もり、細い体が小さく震える。そのとき、ふいに、体温の残るコートが肩にかけられた。莉奈ははっとして顔を上げる。そこに立っていたのは、杉村編集長だった。男は痛ましげな視線で彼女を上から下まで見て、怒りを抑えきれない様子で言った。「いったい、誰にこんなことされたんだ?」口から白い息が漏れ、莉奈は小さく首を横に振った。「殴られてる途中で、相手の髪を何本か掴みました。爪の中にも皮膚が残ってます。DNAが取れれば、警察はすぐに動けるはずです」男は一瞬、言葉を失った。ここまでひどい目に遭いながら、なお冷静で、先を考えているとは。やはり、この莉奈という女は、彼がもっとも評価している部下だった。「この件は、必ず最後まで追う。もう遅いし、今日は君の家まで送るよ」この場所はタクシーも拾いにくい。莉奈は少し苦笑し、男の車に乗り
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第2話
引き出しの中に入っていた離婚協議書を見た瞬間、莉奈は凍りついたように動けなくなった。いくつもの考えが頭をよぎり、背筋がぞっとした。三年前、自分が承也と結婚できたのは、椎名家の祖母・椎名千鶴(しいな・ちづる)に気に入られていたからにすぎない。承也が自分を愛していないことは、自分自身がいちばんよくわかっていた。彼が結婚を受け入れたのは、椎名家での立場を固めるため。千鶴の支持を得られれば、野心を実現するにも都合がよかったのだ。この結婚は、言ってしまえば自分が奪い取ったものだった。それでも自分は自ら溺れる道を選び、いつか承也が振り向いてくれるはずだと信じようとした。自分を買いかぶりすぎていた。結婚前から承也は冷たく、結婚してからはもはや他人のようだ。離婚は、最初からこの結婚に仕込まれていた時限爆弾のようなものだ。三年のあいだ、承也がその言葉を口にしたことは一度もない。それだけに、この瞬間はあまりにも突然で、莉奈は完全に不意を突かれた。なぜ、今なのか。その答えは、すでに胸の中にあった。美月が戻ってきたからだ。目に焼きつく彼女の名前が、釘のように心の奥へ突き刺さる。莉奈は、どうしても離婚協議書を手に取って中身を確認する勇気が出なかった。もし今日、たまたま自分で見つけていなければ、承也は、いつこれを差し出すつもりだったのだろう。どれほどの時間、そうして立ち尽くしていたのか。階下から車のエンジン音が聞こえ、続いて家政婦が丁寧に「旦那様」と声をかけるのを耳にして、ようやく我に返った。莉奈が階段を下りたときには、承也はすでに家の中に入ってきていた。外は雪が降っている。彼は羽織っていた黒のロングコートを無造作に助手に渡し、仕立てのいい黒のスーツ姿でそこに立っていた。その姿は凛としていて、どこか近寄りがたいほど冷ややかだ。椎名家を率いる立場にある男。放つ空気そのものが、周囲を圧倒する。足音に気づいたのか、彼がふと顔を上げた。鼻筋にかかった縁なしの眼鏡が、知的で上品な印象をいっそう際立たせている。黒曜石のような瞳は、レンズ越しに感情を覆っている。それでも、その奥に潜む静かな魅力までは、覆い隠せない。気づけば莉奈は、彼のほうへ一歩踏み出していた。けれど、十三日間も顔を合わせていないこともあり、さらに一年前の子どもの死産以来、二人の距離はます
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第3話
子ども……胸をえぐられるような痛みが、一瞬で莉奈の全身に広がった。去年の春の終わりの夜、承也が酔って間違えて自分の部屋に入り込んだ。情に流されたその時、耳元で「奈奈」と呼ばれたことを、彼女は今でも忘れられない。あの夜、莉奈は承也の子を身ごもった。妊娠してから、二人の関係はどこか微妙に変わった。相変わらず承也は家に帰らないことが多かったが、彼は栄養士を手配し、毎日の食事まできちんと管理させた。莉奈は、それが幸せの始まりなのだと思っていた。けれど去年の冬、すでに八か月になっていた胎児は、お腹の中で命を失った。彼女はやむなく、手術を受けることになった。あまりに悲しませないようにと、医療スタッフは彼女に赤ちゃんを一目も見せてくれなかった。きちんとお別れもできず、小さな手に触れることすらできなかった。あの頃は誰も彼女の前で「子ども」という言葉を口にしなかった。それは、彼女の心の中の触れてはいけない場所になっていたのだ。そして今、再びその話題が出た瞬間、莉奈はまるで氷の中に突き落とされたような気分になった。階段からかすかな足音がして、使用人が下から上がってきた。「奥様」莉奈は我に返り、赤くなった目元をさっと拭うと、トレーを持ち直して部屋へ入った。室内の会話は、彼女の姿を見た瞬間にぴたりと止まった。千鶴は莉奈を見るなり、胸が痛むように眉をひそめる。――先に莉奈が二階に来ていると分かっていたら、子どもの話なんて出すべきじゃなかった。千鶴はすぐに承也の方を見て、声をかけるよう目で促した。だが承也は氷の塊のようにその場に立ったまま、ちらりと莉奈を見ただけで、何も言わずに部屋を出て行った。……千鶴が眠りについたあと、莉奈はもう一度体温を測り、熱が下がっているのを確認してから部屋を出た。今夜は、千鶴の指示で莉奈と承也は本宅に泊まることになり、執事に付き添われて、かつて二人のために用意された住まいへ戻るよう言われていた。その家は椎名家の敷地内にある、独立した一棟の小さな建物で、夫婦二人だけが暮らすために建てられたものだ。莉奈は、承也がどこへ行ったのか分からない。さきほど千鶴の部屋を出たあと、姿が見えなくなっていた。もともと彼は言うことを聞くタイプではないし、今では力も地位も手に入れている。そのため
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第4話
承也はソファにもたれかけていた体を起こし、顔を強張らせたまま、部屋の隅で身を縮めている莉奈を一瞥した。そしてスマホを取り上げ、画面を滑らせてその電話に出た。電話の向こうで相手が何か言ったらしく、承也は口を開いた。「まずは自分の体をちゃんと休ませることが一番だ。他のことは、悠斗に連絡させればいい」声は穏やかで、驚くほど優しい。莉奈の前で見せる態度とは、まるで別人だ。そう言い終えると、承也は電話を切り、脇に放っていた眼鏡を手に取る。莉奈のほうを見ることもなく立ち上がり、スーツの上着をつかんだ。「……美月のところへ行くの?」莉奈の目は真っ赤だった。承也は振り返りもせず、言った。「君には関係ない」痛む右脚を押さえながら莉奈は立ち上がり、きちんと身なりを整えた彼と、自分とのあまりにも残酷な差を見つめて、胸の奥が冷え切っていくのを感じた。「承也!」ふらつきながら駆け寄り、後ろから彼の腰にしがみつく。振りほどかれないよう、全身の力を振り絞ったせいで、骨がきしむように痛んだ。引き出しの中の離婚協議書。美月の帰国。そして、もう取り戻せない承也の心……終わらせる時が来たのだ。莉奈は苦しげに目を閉じたが、心のどこかで、必死になっている自分を嘲笑っていた。「……あなたが私と結婚したとき、他に選択肢はなかった。だから知りたいの。本当は、どう思ってたの?」承也は細く骨張った指で眼鏡を持ったまま視線を落とし、冷たい目で莉奈を見下ろした。「今度は何を企んでる?」「企みだと思ってくれて構わない」 莉奈はゆっくりと腕を離した。顔を上げて彼を見つめる。澄んだ瞳には、迷いも濁りもなかった。一言ずつ、はっきりと口にした。「もしあの時、おばあちゃんが椎名グループの株を条件に出さなかったら……それでも、私と結婚した?」本当は、聞くまでもない質問だ。それでも諦めきれなかった。これが、彼に本音を問える最後の機会だと思ったから。今夜、承也が何を答えようと、もう二度とこの話はしない。承也は目を細め、莉奈を値踏みするように見つめたあと、ふっと笑った。けれど、その笑みは目まで届いていない。「それ、そんなに大事か?」――ああ。黒曜石のような瞳で彼女を捉え、一歩近づく。「あの頃は、どうしても俺に嫁ぐって言い
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第5話
莉奈は震える指をぎゅっと握りしめ、掌には爪が食い込み、血がにじんでいた。張りつめた沈黙が、かえって恐ろしいほどだった。「莉奈、莉奈……」杉村編集長は眉をきつく寄せ、何度も莉奈の名前を呼んだ。莉奈は、まるで微動だにしない氷の彫像のようだったが、しばらくしてようやくこわばった唇を動かし、何事もなかったかのような表情で言った。「……はい」泣きもせず、取り乱しもしないその様子に、杉村編集長は胸の奥で強い不安を覚えた。このまま思い詰めて、どこか変な方向に気持ちが傾いてしまわないかと。それでも、言うべきことは言わなければならない。どうするかは、最終的に莉奈自身の判断だ。そう思って彼は一枚の小切手を差し出した。「これは桜井家からの補償金だ」事を荒立てず、ここで収めたいという意志を示しているのだ。莉奈はちらりと目をやる。一億円。自分の怪我が、こんな値段になるとは思わなかった。杉村編集長は、ほかにもいくつか言葉をかけ、少しでも彼女の気持ちが楽になるよう気遣った。「わかりました」莉奈は小切手を受け取ると、さっと立ち上がり、迷いなく編集長室を後にした。ドアが静かに閉まり、杉村編集長はその扉を見つめたまま、眉間のしわを解かなかった。これまでにも似たようなトラブルはあったが、莉奈はいつも真正面からぶつかり、相手と徹底的にやり合ってきた。こんなふうに金を受け取って引き下がるなど、今まで一度もなかった。だが今回は、相手が椎名家に守られている人物だ。彼がどれだけ助けたくても、その人脈では椎名家には手が届かない。もし莉奈が、このまま本当に手を引くのだとしたら――正直、失望せずにはいられない。彼女の、権力を恐れず、命がけで踏み込んでいくその姿勢を買って、あれほど難しい仕事を任せてきたのだ。社会の裏に潜む闇や汚れを暴くには、まさに莉奈のその気迫が必要なのだ。それなのに、金を受け取って終わりにするなんて……とはいえ、これも彼女自身の選択だ。生活に何か事情があるのかもしれない。両親を亡くし、後ろ盾もない若い女性だ。部外者の自分に、これ以上何が言えるだろう。……莉奈は自分のデスクに戻ると、以前の取材原稿の整理を始め、そのまま退社時間まで一歩もテレビ局を出なかった。翌日も、彼女は普段通り出社した。局内では
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