ログイン向井莉奈(むかい りな)は、世の中に大勢いる、痛い目に遭わないと立ち止まれない女性と同じように、椎名承也(しいな しょうや)という男に愛されたくて必死だった。 けれど三年間の結婚生活は、夫婦でありながら赤の他人同然。 莉奈が命の危機にさらされるほどの目に遭っていたそのとき、承也は昔の恋人のそばにいた。 彼女は歯を食いしばって手放す決意をした―― はずだったのに、あの雲の上の存在みたいな男は、なぜか執拗につきまとってくる。 一歩、また一歩と距離を詰め、彼女に寄ってくる男との縁を次々と断ち切り、逃げ道をすべて塞いでいく。 「そもそも俺と結婚したいと言い出したのは君だろ。俺が離婚すると言わない限り、君は一生俺から逃げられない」 莉奈は冷ややかに言い返す。「ごめんなさい、椎名さん。あなたはもう私の人生から退場よ。この結婚、私が離婚って言ったら、もう離婚は決まりよ」
もっと見る何回かコール音が鳴り続けた後、ようやく電話が繋がった。莉奈は相手が口を開くのも待たずに尋ねた。「白崎さん、病院で診てもらった?」「ええ、もう診てもらいましたよ」電話の向こうから聞こえてくる白崎執事の声は少し反響しており、階段の踊り場のような場所で話しているようだった。「どうぞご心配なく。季節性の風邪による咳だそうで、お薬を処方していただきましたから」どこまでも優しく穏やかな彼の声は、温かい手のひらで背中をそっとさすってくれるようで、莉奈の心をすっと落ち着かせた。彼女はようやく胸を撫で下ろした。「もっと早くお薬を飲んでいれば、咳も今頃治ってたのに」白崎執事は軽く笑い、ため息をついて言った。「こうして病院へ来たのも、お嬢様が戻られたからこそですよ。お嬢様に急かされなければ、まだ来なかったでしょうね」それを聞いた莉奈は、真剣な口調で釘を刺した。「これからは具合が悪い時に我慢しちゃ駄目よ」「はいはい、お嬢様の仰る通りにいたしますよ」白崎執事はまいったと言わんばかりに答えた。莉奈は満足そうに微笑んだ。「それでいいわ。白崎さん、絶対に体を大事にしてね。これからも小槌の世話をたくさん手伝ってもらわなきゃいけないんだから。白崎さんはあの子にとって数少ない祖父母世代の身内で、祖父も同然の存在なのよ。あの子が大人になるまで、ずっと見届けてほしいの」祖父も同然の存在……そのあまりにも重みのある言葉に、白崎執事の目元が赤く染まった。かすかに震える唇を引き結び、首筋の血管を浮き上がらせながら、彼は低い声で応じた。「……はい」電話の向こうで誰かが莉奈の名前を呼ぶ声が聞こえた。白崎執事は咳をこらえながら胸を震わせていたが、もう限界だった。彼は促すように言った。「お嬢様、どうぞお仕事にお戻りください。私もこれからお薬を受け取ってまいりますので」通話を切った途端、白崎執事はついに堪えきれなくなって激しく咳き込んだ。左手で階段の手すりを強く掴み、全身を震わせながらむせ返る。右手に固く握りしめていたスマホが震えた。しばらくして息を整えてから画面をスライドさせると、1通のLINEメッセージが届いていた――【叔父さん、検査は終わりましたか?】白崎執事は画面の上に指先をしばらく浮かせたままでいた。淡々とした表情で踊り場の窓へ目をやると、太陽は
直哉がどうしてそんな風に承也に対抗心を燃やすのか、莉奈には分からなかった。だが正直なところ、公平な目で見ても、二人のうちどちらのほうがかっこいいかなど彼女には選べなかった。直哉と承也は、そもそもタイプがまるで違うのだ。片や端正で冷ややかな威厳を纏う男、片や少女漫画から抜け出してきたような華やかなオーラを放つ男だ。比べようがない。それでも彼女は、少しおどけて答えた。「どうしても比べろって言うなら、うちの小槌が一番かっこいいわね」直哉はわざとらしくむっとした顔を作った。「大人気ないわよ。いい大人が見た目で張り合うなんて」莉奈はそう言いながら、彼のネクタイが少し曲がっているのに気づき、原稿を置いてネクタイへ手を伸ばした。直哉は目を伏せ、彼女のあまりにも自然な手つきを見つめた。莉奈には彼を異性として意識する様子など微塵もなく、それどころか息子か何かのように扱っている。それでも彼の喉仏はゆっくりと上下し、低い声が漏れた。「お前の顔を立てて、張り合うのはやめておいてやるよ」莉奈は彼のネクタイを一度解いて結び直した。指先が勝手に覚えているように、その手つきは驚くほど慣れたもので、あっという間に綺麗に結び終えた。「なかなかいいじゃないか」直哉は斜め向かいの鏡で自分の姿を確認した。莉奈は無言で原稿を手に取った。だがその脳裏には、かつてエージェント組織を離れて椎名家へ戻った頃、晩餐会に出席するため正装していた承也の姿が浮かんでいた。彼が正装しているのを初めて目にしたあの日、溢れ出す乙女心を抑えきれず、夜ベッドに寝転んで顔を真っ赤にしながら、電話の向こうの美月に延々と語り続けたものだ。彼女はいくつものネクタイの結び方を覚え、いつか自分の手で承也にネクタイを結んであげる日を夢見ていた。そして彼の目が見えなかったあの1年間、実際にその手で結んであげていたのだ。初めての時は、いくら悪戦苦闘しても上手く結べなかった。そんな時、承也が彼女の手を掴んで、緊張するなと声をかけてくれたのだ。目が見えないはずなのに、彼は迷いなく彼女の手を包み込み、一緒にネクタイを結び上げてくれた。ふいに額を指で弾かれ、莉奈はハッと我に返ってそこを押さえた。彼女の目元が赤くなっているのを見た直哉は、わずかに眉を寄せ、声もなくため息をつくと、彼女
かつて承也がオークションで競り落としたあのサファイアのブローチもそうだった。莉奈が受け取りを拒んでからも、思いもよらない形で何度も目の前に戻ってきたのだ。ふいに、莉奈の脳裏にある考えがよぎった。あのブローチは、サファイアのカットからデザイン、制作まで承也が自ら手掛けたものだった。だとしたら、この小箱の中の指輪も……莉奈は唇をわずかに引き結び、スマホをバッグにしまった。指先がその小箱に触れると、視界に入らないよう、バッグのさらに奥へとぐっと押し込んだ。記者会見の主なプログラムが終わり、後半の質疑応答は比較的和やかな雰囲気で進んでいた。かつて直哉がSNSで同性愛者だとカミングアウトしていたため、会場の記者たちも空気を読んで、恋愛事情や結婚の予定について詮索するような質問は控えていた。何しろ、直哉が男好きだということは誰もが知っているからだ。莉奈は一足先に会場を出た。直哉が独占インタビューの枠を彼女のために取っておいてくれたため、別室で待機している同僚と合流し、事前準備や機材の調整をしておく必要があったのだ。壇上で記者の質問に答えていた直哉は、さりげなく彼女の後ろ姿に視線を走らせ、マイクを握る指先にわずかに力を込めた。「莉奈、テレビ局に戻ってきてくれて本当によかったわ。みんなあなたの復帰を大歓迎してるのよ」機材を調整していた同僚が、莉奈の方を向いて声をかけた。インタビューの原稿に目を通していた莉奈は、顔を上げて同僚を見つめ、笑顔で答えた。「ありがとう。やっぱり職場に戻って仕事ができるのって最高ね」そう話していると、ドアが軽くノックされた。莉奈はドアを開けて姿を見せた直哉をちらりと見やると、視線を戻して再び原稿に目を落とした。「もう終わったの?」「残りはあいつらがいれば十分だろ。お前に早くインタビューしてもらいたくて飛んできたんだよ」これまで直哉には、仕事中の莉奈の姿を見る機会がほとんどなかった。いつも撮影やイベントに追われていたうえ、以前の彼は何より莉奈が最も信頼する親友という安全な立ち位置に留まることばかりを気にかけていたからだ。だが今や、彼はスクリーンの中のスターではなく、莉奈もまた承也の妻ではない。直哉は、原稿を確認しながら同僚と細かい打ち合わせを進める莉奈の姿を見つめた。数ヶ月間現場を離れてい
翌朝、承也は主寝室を出た。隣の子供部屋から物音がした時には、すでに目を覚ましていた。階下のダイニングへ向かうと、小槌がベビーチェアに座って茶碗蒸しを待っていた。片手にお気に入りの小さなスプーンを持ち、もう片方の手はぎゅっと拳を握りしめている。小槌はうつむいて自分の小さな拳を見つめ、眉間に皺を寄せ、怒っているように「んー、んー」と唸っていた。「何をしているんだ?」承也はそばへと歩み寄った。小槌は唸り声をピタリと止め、顔を上げて彼を一瞥すると、再び自分の拳に目を落とした。指を開いては握りしめる動作を2度繰り返してから、もう一度顔を上げて答えた。「ママ、きたえる!」昨日、莉奈が拳を握りしめながら、これは体を鍛えるための運動なのだと大真面目に小槌へでたらめを吹き込んでいたことなど、承也は知る由もなかった。承也が聞き取ったのは、「ママ」という一言だけだった。「彼女はどこだ?」それは白崎執事に向けた問いかけだった。熱くないよう冷ました茶碗蒸しを手にこちらへ歩いてきた白崎執事は、それを聞いて答えた。「お嬢様はお出かけになりました」「朝食も摂らずに?」「テレビ局で済ませると仰っておりました」職場復帰の初日から、随分と張り切っているじゃないか。承也は淡々と「ああ」とだけ返した。無表情な顔からは、何を考えているのかまるで読み取れない。白崎執事から茶碗蒸しを受け取ると、小槌に食べさせようとした。その時、悠斗が外から入ってきた。この日は平日で、パリッとした黒いスーツに身を包み、冷ややかな顔には一切の表情がなかった。ただ、小槌に近づく時だけは歩調を緩め、目元を和らげた。「社長、本日より直哉様が佐伯グループに正式に加わられるとのことで、佐伯家が記者会見を開いております。大手メディアはすべて招待されているようです」大手メディア。承也が茶碗蒸しをひとさじすくって小槌の口元へ運ぶと、スプーンが唇に触れるより先に、小槌は自分から顔を寄せて「あむっ」と一口で頬張った。「ゆっくり食べろ」承也はもう片方の手でナプキンを持ち、小槌の口元を拭いてやった。器いっぱいの茶碗蒸しをすべて食べ終えると、小槌は白崎執事に抱き上げられてダイニングを後にした。承也はゆっくりと手を拭きながら、黒い瞳に深い影を宿していた。――朝早くか
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