婚姻生活にさようなら、椎名さん

婚姻生活にさようなら、椎名さん

By:  つき酔Ongoing
Language: Japanese
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向井莉奈(むかい りな)は、世の中に大勢いる、痛い目に遭わないと立ち止まれない女性と同じように、椎名承也(しいな しょうや)という男に愛されたくて必死だった。 けれど三年間の結婚生活は、夫婦でありながら赤の他人同然。 莉奈が命の危機にさらされるほどの目に遭っていたそのとき、承也は昔の恋人のそばにいた。 彼女は歯を食いしばって手放す決意をした―― はずだったのに、あの雲の上の存在みたいな男は、なぜか執拗につきまとってくる。 一歩、また一歩と距離を詰め、彼女に寄ってくる男との縁を次々と断ち切り、逃げ道をすべて塞いでいく。 「そもそも俺と結婚したいと言い出したのは君だろ。俺が離婚すると言わない限り、君は一生俺から逃げられない」 莉奈は冷ややかに言い返す。「ごめんなさい、椎名さん。あなたはもう私の人生から退場よ。この結婚、私が離婚って言ったら、もう離婚は決まりよ」

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Kabanata 1

第1話

向井莉奈(むかい りな)が警察署を出たときには、既に深夜だった。

外は雪が降っている。

通りを行き交う人々は、顔に青紫の痣を残し、髪は乱れ、足を引きずるように歩く莉奈を、時折怪訝そうに見ていた。

けれど莉奈は、そんな視線もひそひそ声も、まるで耳に入っていない。

重たい足取りで、彼女はうつむいたまま、画面が割れてしまった壊れかけのスマホを虚ろな表情で見つめていた。

血に染まった指先が震えながら通話ボタンに触れ、十一桁の番号を打ち込む。

「……ツー」

「……ツー」

先ほど殴られたとき、必死でかけた緊急連絡と同じで、やはり誰も出ない。

一片の雪がまつげに落ち、莉奈はそっと瞬きをした。冷たい雪解け水が、そのまま目に染み込んでくる。

「……はは」莉奈は自嘲するように、かすかに口角を上げる。

――本当に、みっともない。

そう思って、力なく手を下ろそうとした。

その、最後の一秒で。

電話が、つながった。

「どうした?」

電話の向こうから聞こえてきたのは、少し冷たさを帯びた、男の低い声だった。

スマホを握る手が、ぴたりと止まる。莉奈の顔に動揺が走った。「し……」

言いかけた、その瞬間。

「椎名社長、桜井さんがお探しです」

彼女の言葉を遮るように、電話口から椎名承也(しいな しょうや)の助手の声が聞こえ、続いて彼が淡々と言った。「一旦、切る」

言いかけていた言葉は、そのまま通話終了音にかき消された。

誰もいない街角。高く立つ街灯の下で、雪がはらはらと莉奈の髪に降り積もり、細い体が小さく震える。

そのとき、ふいに、体温の残るコートが肩にかけられた。

莉奈ははっとして顔を上げる。そこに立っていたのは、杉村編集長だった。

男は痛ましげな視線で彼女を上から下まで見て、怒りを抑えきれない様子で言った。

「いったい、誰にこんなことされたんだ?」

口から白い息が漏れ、莉奈は小さく首を横に振った。

「殴られてる途中で、相手の髪を何本か掴みました。爪の中にも皮膚が残ってます。DNAが取れれば、警察はすぐに動けるはずです」

男は一瞬、言葉を失った。ここまでひどい目に遭いながら、なお冷静で、先を考えているとは。

やはり、この莉奈という女は、彼がもっとも評価している部下だった。

「この件は、必ず最後まで追う。もう遅いし、今日は君の家まで送るよ」

この場所はタクシーも拾いにくい。莉奈は少し苦笑し、男の車に乗り込んだ。

「杉村編集長、ありがとうございます」

「何言ってる。俺の部下がやられて、放っておけるわけないだろ。それに今夜は、みんな取材に出てて、オフィスにいたのは俺ひとりだったんだ」

男はハンドルを切りながら、続ける。

「椎名承也の元カノが帰国したらしい。空港まで迎えに行ったのも本人だって話でな。みんなスクープ狙いで必死だよ」

莉奈の充血した目が、ぴたりと止まった。

頭の中で、ぶうんと音が鳴る。

――自分が路地裏に引きずり込まれ、殴られながら必死で承也に電話をかけていたそのとき、彼は、別の女のそばにいたのだ。

杉村編集長は、彼女の顔色が急に悪くなったことにも気づかず、話を続けている。

莉奈はうつむき、血に濡れた指で、皮膚が裂けたもう一方の手の甲を強く掴んだ。

誰も知らない。彼女が、承也の妻だということを。

……

杉村編集長に家の前まで送ってもらうことはせず、莉奈は近くの住宅街で降ろしてもらい、そこからタクシーで松風レジデンスへ帰った。

家に着き、玄関で靴を脱いでいると、物音に気づいた家政婦が出てきて、彼女の姿を見るなり驚いて駆け寄ってきた。

「奥様、どうされたんですか?いったい何が……!」

家政婦が支えようとして、うっかり彼女の腕の傷に触れてしまったが、莉奈はまったく反応しなかった。まるで感覚が麻痺してしまったかのように、瞳には一切の光がない。

「取材中に、殴られただけ」

さらりとそう言ったが、家政婦は背筋が寒くなる思いだった。社会部の記者の仕事が危険だとは知っていたが、ここまでとは思っていなかった。

以前、椎名家の祖母が今の仕事を辞めさせようとしたのも、あながち間違いではなかったのだろう。

莉奈の視線が靴箱に向けられているのを見て、家政婦は彼女の顔色を見る勇気が出ず、含みのある表情で言った。

「旦那様は……まだお帰りではありません。桜井さんが帰国されたそうで……」

莉奈は俯いたまま、ほつれた髪が半分ほど顔を隠している。目元の表情は読み取れないが、家政婦には彼女が傷ついていることだけははっきりと伝わってきた。

「たぶん……」

家政婦が何か言いかけたところで、莉奈は軽く手を上げて制した。

「先にお風呂に入るから、救急箱を私の部屋に持ってきて」

ふらつきながら階段を上っていく後ろ姿を見送り、家政婦は声を出さずにため息をついた。それでも言われたとおり、救急箱を取りに行く。

主寝室の前を通ったとき、中をちらりと覗いたが、案の定、莉奈の姿はなかった。

彼女がいたのは、主寝室の隣の部屋だった。

結婚して三年になるというのに、いまだに別々の部屋で寝ているなど、誰が想像しただろう。

浴室は湯気で白く曇っていた。鏡に映る、体中に広がった痛々しい青い痣を見て、莉奈の唇は小さく震えた。痙攣するようにこわばった指で服を掴み、力任せに引き裂くように脱いで、ゴミ箱に放り込む。

そして、全身の力が抜けたように、そのまま床に座り込んだ。

しばらくして、浴室の奥からかすかな嗚咽が聞こえてきた。家政婦が耳を澄ませたが、今度は水音しか聞き取れなかった。

入浴後、莉奈は家政婦の手当てを断り、ソファに座って適当に薬を塗ると、そのままベッドに横になった。

目を閉じた瞬間、殴られていたときの光景と、男の歪んだ笑い声が脳裏によみがえる。骨の奥が、じくじくと痛む。

寝返りを打ち、ベッドサイドの引き出しを開ける。指先が奥にしまわれた小さな薬瓶に触れた。蓋を開け、一錠口に放り込み、水も飲まずにそのまま飲み下す。

睡眠薬の効果で、莉奈はすぐに眠りに落ちた。

それでも眠りの中で眉はきつく寄せられ、額には冷や汗が浮かび、布団の端を握りしめた指は白くなって、震えが止まらない。

「……助けて……」

悪夢に囚われた莉奈は、顔色を失い、薄い体を震わせながら、固く閉じたまつげの間から涙をこぼした。

薄暗く、がらんとした部屋には、何の返事もなかった。

……

莉奈が目を覚ましたのは、翌日の夕方だった。

顔の痣はだいぶ薄くなっていたが、体の痛みはまだ残っていて、起き上がるときに転びそうになった。

昨夜は、通りがかった親切な人が大声で警察を呼んでくれたおかげで、あの連中は暴行をやめ、それ以上の被害を受けずに済んだ。でなければ、今ごろ両親のもとへ行っていたかもしれない。

杉村編集長は数日休みを与え、家でしっかり休むようにと言ってくれた。

階下へ降りる途中、主寝室の前を通り、彼女は立ち止まって中を一瞥した。

ドアは昨夜と同じように開いたままだ。

考えるまでもなく、昨夜も承也は帰ってきていない。

家政婦が温かいタオルを用意してくれたので、莉奈はソファに座り、頬に当てじんわりと温まるのを感じながら、スマホでニュースを開いた。

さすが椎名家の実権を握る人物だ。昨夜のニュースがトップを飾り、今もなお高い注目を集めている。

写真に写っているのは、夜の闇に凛と立つ、背筋の伸びた男の後ろ姿。たった一枚の写真、背中だけだというのに、放たれる圧倒的な存在感は否応なく目を引いた。

そして、彼が押す車椅子に座る女性は、上半身の後ろ姿だけが写っている。

――桜井美月(さくらい みつき)。

莉奈は黙ってニュースを閉じたが、手にしていたタオルをうっかり強く握りしめてしまった。

床に落ちた水滴を見下ろし、彼女は眉をひそめ、やがて目元がじわりと赤くなる。

情けない。三年も一緒にいて、まだ承也の心がわからないなんて。

その後、部屋に戻って着替え、気を紛らわそうと書斎へ向かい、何冊か本を探した。

承也の書斎はすっきりと整っていて、余計な装飾は一切ない。ブラインドボックスやフィギュアで溢れている彼女の書斎とは対照的だ。

デスクの引き出しが閉め忘れられていて、窓も半分ほど開いている。風にあおられて、引き出しの中の書類がばさばさと音を立てた。

そのうちの一枚が、床へと落ちた。

莉奈は近づいてそれを拾い、引き出しに戻そうとしたが、中身が目に入った瞬間、動きが止まった。

そこにあったのは、紛れもなく一通の離婚協議書だった。
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愛人の美月を 莉奈の家に住まわせる悪質さ 承也は莉奈に愛情ないなら さっさと離婚してあげなよ 美月も承也も地獄に落ちて欲しい 莉奈には莉奈に合った人と 幸せになって欲しい 誤解ってある作品は 復縁がほとんどですが 絶対復縁にはならないで欲しい こんな旦那不要
2026-03-22 11:14:18
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井上加代子
井上加代子
凄い、面白い、ドキドキしてつぎが読みたくなる...
2026-02-28 17:50:51
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ritsu
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美月を大切にする承也が莉奈を顧みなさすぎて 承也の側近の優しさにちょっと救われる 美月の弟が莉奈の命を奪おうとしてるが 承也は弟寄り?で莉奈は孤立無援 精神不安定になりながらも対峙しようと する強さに応援したくなる
2026-02-16 17:53:25
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100 Kabanata
第1話
向井莉奈(むかい りな)が警察署を出たときには、既に深夜だった。外は雪が降っている。通りを行き交う人々は、顔に青紫の痣を残し、髪は乱れ、足を引きずるように歩く莉奈を、時折怪訝そうに見ていた。けれど莉奈は、そんな視線もひそひそ声も、まるで耳に入っていない。重たい足取りで、彼女はうつむいたまま、画面が割れてしまった壊れかけのスマホを虚ろな表情で見つめていた。血に染まった指先が震えながら通話ボタンに触れ、十一桁の番号を打ち込む。「……ツー」「……ツー」先ほど殴られたとき、必死でかけた緊急連絡と同じで、やはり誰も出ない。一片の雪がまつげに落ち、莉奈はそっと瞬きをした。冷たい雪解け水が、そのまま目に染み込んでくる。「……はは」莉奈は自嘲するように、かすかに口角を上げる。――本当に、みっともない。そう思って、力なく手を下ろそうとした。その、最後の一秒で。電話が、つながった。「どうした?」電話の向こうから聞こえてきたのは、少し冷たさを帯びた、男の低い声だった。スマホを握る手が、ぴたりと止まる。莉奈の顔に動揺が走った。「し……」言いかけた、その瞬間。「椎名社長、桜井さんがお探しです」彼女の言葉を遮るように、電話口から椎名承也(しいな しょうや)の助手の声が聞こえ、続いて彼が淡々と言った。「一旦、切る」言いかけていた言葉は、そのまま通話終了音にかき消された。誰もいない街角。高く立つ街灯の下で、雪がはらはらと莉奈の髪に降り積もり、細い体が小さく震える。そのとき、ふいに、体温の残るコートが肩にかけられた。莉奈ははっとして顔を上げる。そこに立っていたのは、杉村編集長だった。男は痛ましげな視線で彼女を上から下まで見て、怒りを抑えきれない様子で言った。「いったい、誰にこんなことされたんだ?」口から白い息が漏れ、莉奈は小さく首を横に振った。「殴られてる途中で、相手の髪を何本か掴みました。爪の中にも皮膚が残ってます。DNAが取れれば、警察はすぐに動けるはずです」男は一瞬、言葉を失った。ここまでひどい目に遭いながら、なお冷静で、先を考えているとは。やはり、この莉奈という女は、彼がもっとも評価している部下だった。「この件は、必ず最後まで追う。もう遅いし、今日は君の家まで送るよ」この場所はタクシーも拾いにくい。莉奈は少し苦笑し、男の車に乗り
Magbasa pa
第2話
引き出しの中に入っていた離婚協議書を見た瞬間、莉奈は凍りついたように動けなくなった。いくつもの考えが頭をよぎり、背筋がぞっとした。三年前、自分が承也と結婚できたのは、椎名家の祖母・椎名千鶴(しいな・ちづる)に気に入られていたからにすぎない。承也が自分を愛していないことは、自分自身がいちばんよくわかっていた。彼が結婚を受け入れたのは、椎名家での立場を固めるため。千鶴の支持を得られれば、野心を実現するにも都合がよかったのだ。この結婚は、言ってしまえば自分が奪い取ったものだった。それでも自分は自ら溺れる道を選び、いつか承也が振り向いてくれるはずだと信じようとした。自分を買いかぶりすぎていた。結婚前から承也は冷たく、結婚してからはもはや他人のようだ。離婚は、最初からこの結婚に仕込まれていた時限爆弾のようなものだ。三年のあいだ、承也がその言葉を口にしたことは一度もない。それだけに、この瞬間はあまりにも突然で、莉奈は完全に不意を突かれた。なぜ、今なのか。その答えは、すでに胸の中にあった。美月が戻ってきたからだ。目に焼きつく彼女の名前が、釘のように心の奥へ突き刺さる。莉奈は、どうしても離婚協議書を手に取って中身を確認する勇気が出なかった。もし今日、たまたま自分で見つけていなければ、承也は、いつこれを差し出すつもりだったのだろう。どれほどの時間、そうして立ち尽くしていたのか。階下から車のエンジン音が聞こえ、続いて家政婦が丁寧に「旦那様」と声をかけるのを耳にして、ようやく我に返った。莉奈が階段を下りたときには、承也はすでに家の中に入ってきていた。外は雪が降っている。彼は羽織っていた黒のロングコートを無造作に助手に渡し、仕立てのいい黒のスーツ姿でそこに立っていた。その姿は凛としていて、どこか近寄りがたいほど冷ややかだ。椎名家を率いる立場にある男。放つ空気そのものが、周囲を圧倒する。足音に気づいたのか、彼がふと顔を上げた。鼻筋にかかった縁なしの眼鏡が、知的で上品な印象をいっそう際立たせている。黒曜石のような瞳は、レンズ越しに感情を覆っている。それでも、その奥に潜む静かな魅力までは、覆い隠せない。気づけば莉奈は、彼のほうへ一歩踏み出していた。けれど、十三日間も顔を合わせていないこともあり、さらに一年前の子どもの死産以来、二人の距離はます
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第3話
子ども……胸をえぐられるような痛みが、一瞬で莉奈の全身に広がった。去年の春の終わりの夜、承也が酔って間違えて自分の部屋に入り込んだ。情に流されたその時、耳元で「奈奈」と呼ばれたことを、彼女は今でも忘れられない。あの夜、莉奈は承也の子を身ごもった。妊娠してから、二人の関係はどこか微妙に変わった。相変わらず承也は家に帰らないことが多かったが、彼は栄養士を手配し、毎日の食事まできちんと管理させた。莉奈は、それが幸せの始まりなのだと思っていた。けれど去年の冬、すでに八か月になっていた胎児は、お腹の中で命を失った。彼女はやむなく、手術を受けることになった。あまりに悲しませないようにと、医療スタッフは彼女に赤ちゃんを一目も見せてくれなかった。きちんとお別れもできず、小さな手に触れることすらできなかった。あの頃は誰も彼女の前で「子ども」という言葉を口にしなかった。それは、彼女の心の中の触れてはいけない場所になっていたのだ。そして今、再びその話題が出た瞬間、莉奈はまるで氷の中に突き落とされたような気分になった。階段からかすかな足音がして、使用人が下から上がってきた。「奥様」莉奈は我に返り、赤くなった目元をさっと拭うと、トレーを持ち直して部屋へ入った。室内の会話は、彼女の姿を見た瞬間にぴたりと止まった。千鶴は莉奈を見るなり、胸が痛むように眉をひそめる。――先に莉奈が二階に来ていると分かっていたら、子どもの話なんて出すべきじゃなかった。千鶴はすぐに承也の方を見て、声をかけるよう目で促した。だが承也は氷の塊のようにその場に立ったまま、ちらりと莉奈を見ただけで、何も言わずに部屋を出て行った。……千鶴が眠りについたあと、莉奈はもう一度体温を測り、熱が下がっているのを確認してから部屋を出た。今夜は、千鶴の指示で莉奈と承也は本宅に泊まることになり、執事に付き添われて、かつて二人のために用意された住まいへ戻るよう言われていた。その家は椎名家の敷地内にある、独立した一棟の小さな建物で、夫婦二人だけが暮らすために建てられたものだ。莉奈は、承也がどこへ行ったのか分からない。さきほど千鶴の部屋を出たあと、姿が見えなくなっていた。もともと彼は言うことを聞くタイプではないし、今では力も地位も手に入れている。そのため
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第4話
承也はソファにもたれかけていた体を起こし、顔を強張らせたまま、部屋の隅で身を縮めている莉奈を一瞥した。そしてスマホを取り上げ、画面を滑らせてその電話に出た。電話の向こうで相手が何か言ったらしく、承也は口を開いた。「まずは自分の体をちゃんと休ませることが一番だ。他のことは、悠斗に連絡させればいい」声は穏やかで、驚くほど優しい。莉奈の前で見せる態度とは、まるで別人だ。そう言い終えると、承也は電話を切り、脇に放っていた眼鏡を手に取る。莉奈のほうを見ることもなく立ち上がり、スーツの上着をつかんだ。「……美月のところへ行くの?」莉奈の目は真っ赤だった。承也は振り返りもせず、言った。「君には関係ない」痛む右脚を押さえながら莉奈は立ち上がり、きちんと身なりを整えた彼と、自分とのあまりにも残酷な差を見つめて、胸の奥が冷え切っていくのを感じた。「承也!」ふらつきながら駆け寄り、後ろから彼の腰にしがみつく。振りほどかれないよう、全身の力を振り絞ったせいで、骨がきしむように痛んだ。引き出しの中の離婚協議書。美月の帰国。そして、もう取り戻せない承也の心……終わらせる時が来たのだ。莉奈は苦しげに目を閉じたが、心のどこかで、必死になっている自分を嘲笑っていた。「……あなたが私と結婚したとき、他に選択肢はなかった。だから知りたいの。本当は、どう思ってたの?」承也は細く骨張った指で眼鏡を持ったまま視線を落とし、冷たい目で莉奈を見下ろした。「今度は何を企んでる?」「企みだと思ってくれて構わない」 莉奈はゆっくりと腕を離した。顔を上げて彼を見つめる。澄んだ瞳には、迷いも濁りもなかった。一言ずつ、はっきりと口にした。「もしあの時、おばあちゃんが椎名グループの株を条件に出さなかったら……それでも、私と結婚した?」本当は、聞くまでもない質問だ。それでも諦めきれなかった。これが、彼に本音を問える最後の機会だと思ったから。今夜、承也が何を答えようと、もう二度とこの話はしない。承也は目を細め、莉奈を値踏みするように見つめたあと、ふっと笑った。けれど、その笑みは目まで届いていない。「それ、そんなに大事か?」――ああ。黒曜石のような瞳で彼女を捉え、一歩近づく。「あの頃は、どうしても俺に嫁ぐって言い
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第5話
莉奈は震える指をぎゅっと握りしめ、掌には爪が食い込み、血がにじんでいた。張りつめた沈黙が、かえって恐ろしいほどだった。「莉奈、莉奈……」杉村編集長は眉をきつく寄せ、何度も莉奈の名前を呼んだ。莉奈は、まるで微動だにしない氷の彫像のようだったが、しばらくしてようやくこわばった唇を動かし、何事もなかったかのような表情で言った。「……はい」泣きもせず、取り乱しもしないその様子に、杉村編集長は胸の奥で強い不安を覚えた。このまま思い詰めて、どこか変な方向に気持ちが傾いてしまわないかと。それでも、言うべきことは言わなければならない。どうするかは、最終的に莉奈自身の判断だ。そう思って彼は一枚の小切手を差し出した。「これは桜井家からの補償金だ」事を荒立てず、ここで収めたいという意志を示しているのだ。莉奈はちらりと目をやる。一億円。自分の怪我が、こんな値段になるとは思わなかった。杉村編集長は、ほかにもいくつか言葉をかけ、少しでも彼女の気持ちが楽になるよう気遣った。「わかりました」莉奈は小切手を受け取ると、さっと立ち上がり、迷いなく編集長室を後にした。ドアが静かに閉まり、杉村編集長はその扉を見つめたまま、眉間のしわを解かなかった。これまでにも似たようなトラブルはあったが、莉奈はいつも真正面からぶつかり、相手と徹底的にやり合ってきた。こんなふうに金を受け取って引き下がるなど、今まで一度もなかった。だが今回は、相手が椎名家に守られている人物だ。彼がどれだけ助けたくても、その人脈では椎名家には手が届かない。もし莉奈が、このまま本当に手を引くのだとしたら――正直、失望せずにはいられない。彼女の、権力を恐れず、命がけで踏み込んでいくその姿勢を買って、あれほど難しい仕事を任せてきたのだ。社会の裏に潜む闇や汚れを暴くには、まさに莉奈のその気迫が必要なのだ。それなのに、金を受け取って終わりにするなんて……とはいえ、これも彼女自身の選択だ。生活に何か事情があるのかもしれない。両親を亡くし、後ろ盾もない若い女性だ。部外者の自分に、これ以上何が言えるだろう。……莉奈は自分のデスクに戻ると、以前の取材原稿の整理を始め、そのまま退社時間まで一歩もテレビ局を出なかった。翌日も、彼女は普段通り出社した。局内では
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第6話
この向井莉奈め、よくも俺の商売を潰しやがったな!切れ味の鋭い記事がネットに投稿され、瞬く間に大騒ぎになった。そのせいで、半年以上心血を注いだバーは摘発され、閉店に追い込まれた。この恨み、前からきっちり清算してやろうと思っていた。あの日は人を使って、莉奈を一発殴らせるつもりだった。仲間たちに囲ませて、好き放題やらせて、写真も撮って、あとで思い通りに操るつもりだったのに。まさか莉奈、運よく逃げ切るとはな。ところが今日は、まさかのこの女が自分から乗り込んできた。「命知らずにもほどがあるだろ」隼人はボディーガードから受け取ったタオルで、頭の傷を押さえた。――このクソ女、俺に酒瓶を叩きつけやがった!二発目は少し避けられたおかげで致命傷は免れたが、それでも大きな傷口から血が流れ、人前でこれ以上ないほど恥をかかされた。今日は何があっても、この女を生かして帰すわけにはいかない。隼人は身をかがめて莉奈に顔を近づけ、歪んだ笑みを浮かべた。「毎回、運が味方すると思うなよ」「俺を訴えるつもりだったんだろ?」莉奈を殴らせたのは、姉が帰国するその日を狙ってのことだった。最悪、承也に知られても、姉の顔を立てれば守ってもらえる――そう踏んでいた。だが莉奈は警察に通報し、捜査は自分にまで及んだ。それでも承也は、本当に自分をかばった。つまり、莉奈なんて承也にとっては取るに足らない存在ということだ。妻が殴られているのに、何もしない夫がいるだろうか。それだけ、承也は莉奈を嫌っている。そういうことだ。「姉が一言言えば、承也は俺を守る。じゃあお前はどうだ? 承也が少しでもお前を気にかけたことがあるか?莉奈、これは三年前にお前が姉の男を奪った、その報いだ」莉奈の表情が、ほんの一瞬こわばった。その様子を見て、隼人は陰険に笑う。「今日のこと、必ず後悔するぞ」胸の奥がチクリと痛んだが、莉奈は鼻で笑い、ゴミを見るような目を向けた。「後悔してるのは、力が足りなかったことね。あなたを叩き殺せなかったせいで、こんなクズがまだ元気に跳ね回ってるんだから」「くそが!」隼人の顔から笑みが消え、怒鳴り声が飛ぶ。「おい、そいつを押さえろ! ズボンを脱がせろ!今日は絶対に殺してやる!」死ぬ寸前まで来て、まだ強がる気か。テーブルの上には酒瓶
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第7話
車椅子の女は、思わず両手で肘掛けを強く握りしめ、顔の表情が凍りついたまま、硬くなった首を持ち上げて、正面に立つ男を見上げた。「承也……隼人が殴った相手が、まさか奈奈だったなんて」承也は視線すら上げず、ただ手元で腕時計を軽く回しただけだった。いつの間にかパーティーの音楽は止み、数本のカラフルなライトだけが点滅している。彼は光が交差する場所に立っていたが、その表情は陰を帯び、何を考えているのかまるで読み取れない。美月は一度静かに息を整え、背後にいる付き添いの女性に合図を送った。車椅子を押され、隼人と莉奈のもとへ近づいていく。距離が縮まるにつれ、酒の匂いに混じった血の生臭さが鼻を突いた。まるで泥沼から立ち上ってきたかのような、吐き気を催す匂いだ。美月は思わず口元を押さえ、今にも息絶えそうな隼人に目を向け、眉をひそめる。「先に、隼人を病院へ連れて行って」だがその言葉が終わっても、莉奈は隼人の襟元を掴んだ手を離そうとしなかった。まるで、絶対に引き渡すつもりがないと言わんばかりだ。「奈奈……」美月の声はわずかに震えていた。「私よ」莉奈は微動だにせず、何も言わない。ただ、隼人の襟を掴む指に、さらに力を込めただけだった。やがて、美月の謝罪が続く。「ごめんなさい。隼人が殴った相手があなたとは知らなかったの。もし分かっていたら、きちんと叱っていたわ。でも……もう十分に懲らしめたでしょ?これ以上続けたら、本当に命を落としてしまう」――ふん。命を落とす?地面に膝をついていた莉奈が、ゆっくりと視線を上げて彼女を見た。「彼の命って、いくらの価値があるの?一億?それで足りる?」その一瞥に、美月は理由もなく強い圧迫感と、あからさまな皮肉を感じた。美月は分かっている。自分が父に、被害者へ示談金を渡すようお願いした。ちょうどその金額、一億円をあてつけているのだ。「私が事前に確認しなかったせいで、あなたにつらい思いをさせたわ。お願い、私の顔を立てると思って、隼人を放してくれない?」莉奈は口元をわずかに歪め、車椅子に座る美月を見つめた。三年ぶりに会った彼女は、ほとんど変わっていなかった。しいて言えば、以前まとっていた陰りが消え、立ち居振る舞いのすべてに、自然な優しさが滲んでいることだろう。――どうやら、自分の動かない脚とも、もう折
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第8話
浴室の中のものがぶつかって次々と床に倒れ、シャワーの水は止まることなく降り注いでいた。立ちこめる湯気が、広かったはずの浴室を息苦しいほど狭く感じさせる。莉奈の細い手首を、骨ばった大きな手がきつく掴んだ。「放して!今のあなたを見るだけで吐き気がする。私の部屋から出ていって! 放して!」男が間合いを詰め、空いた手で彼女の顔についた水を拭う。親指が、ガラスで切れた頬の傷に沿って止まり、低く掠れた声で言った。「松風レジデンスは全部俺のだ。どこに君の部屋がある?」「承也、あなたは最低!」だが男は罵声など気にも留めず、片手で彼女を押さえつけたまま、もう一方の手で水しぶきに濡れて曇った眼鏡を外し、床に投げ捨てた。莉奈の身体は承也に壁へ押しつけられ、両腕を無理やり開かされる。その瞬間、彼女の体に広がる無数の青紫の痣が、隠しようもなくあらわになった。眼鏡を外していても、承也にははっきりと見えた。左肩から腕にかけて、刺青のように不気味な青紫が白い肌に広がり、腰から背中にかけては目を背けたくなるほどの痣が残っている。承也は彼女の体を反転させ、片手で両手首をまとめて頭上に押さえつけた。視線は下へ落ち、最もひどく傷ついた左脚に向かう。紫黒く変色した痣が広がり、ところどころ皮膚が擦り切れ、靴跡のようなものまで残っていた。サイズの大きい、男物の靴跡。莉奈は彼に背を向けていて、その表情は見えなかったが、重く沈んだ笑い声だけが聞こえた。屈辱で胸が張り裂けそうになり、叫ぶ。「放して!」もがけばもがくほど、男の拘束は強くなる。承也の手が彼女の太ももへ下りた隙を突き、彼女は手首についたボディソープの滑りを利用して必死に振りほどいた。足を上げて蹴りつけようとした瞬間、ふくらはぎをがっちりと掴まれる。「その脚、いらないのか?」「折れたって、あなたには関係ない!」莉奈の瞳は怒りと憎しみで満ち、目の前の男と共に地獄に落ちてもいいとさえ思っていた。突然、顎を掴まれる。「莉奈、そんな目で俺を見るな」彼女の白と黒がはっきりした瞳が、まっすぐ承也を射抜く。抑えきれない涙が、頬を伝った。「じゃあ、どんな目で見ればいいの?前みたいに、好きでたまらないって目?それとも、前みたいにまだ何かを期待してる目で?」彼女は何度も「前みたいに」と口にし
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第9話
莉奈はようやく目の前の男の顔をはっきり捉えた。水に濡れた髪が額に垂れ、黒曜石のような瞳を半分隠している。彼女の胸は締めつけられるように痛み、必死に涙をこらえたが、目の縁は赤くなるばかりだ。この数日間に積もった悔しさと怒りが一気に込み上げ、彼女は嗚咽をこらえきれず、承也の肩に思い切り噛みついた。口の中に血の味が広がっても、胸の奥のつかえは消えず、それどころか男の欲はさらに強まった。承也は片腕で彼女を支え、もう一方の手で後ろ首を掴み、無理やり顔を上げさせてキスをした。彼の指が、まぶたに残る水滴をそっと拭う。視線がぶつかると、そこにあるのはやはり、白黒のはっきりした、憎しみを宿した目だ。彼は低く笑った。その声は凍てつく雪原で砕ける氷のように冷たく、莉奈の体は思わず縮こまる。ざらついた低い声が耳に落ちる。「誰が俺を恨んでもいい。だけど、君だけはだめだ。君には、俺を恨む資格なんてない」彼が何度求めたのか、莉奈にはもう数えられない。抱きかかえられて浴室を出たとき、外はまだ真っ暗だった。そして、気づけば空が白み始めていた。男は再び覆いかぶさり、少し荒れた親指で彼女の目尻をなぞる。あのはっきりした憎しみの色は消え、意識の定まらないぼんやりとした瞳に変わっているのを見て、男は小さく笑い、彼女の頬に手を伸ばした。浴室からは水音が流れ続け、莉奈は半分夢の中のようなまま、いつの間にか眠りに落ちた。誰かが近づく気配に、体が反射的にびくっと縮む。半分閉じた目で見えたのは、下半身にバスタオルを巻き、ベッドの端に腰掛ける男だった。視線を上げると、拭ききれていない水滴の残る引き締まった腹筋、そこには新しい引っかき傷がいくつも走っている。承也はその場に座ったまま、莉奈を見ていたのかもしれない。あるいは、煙草に火をつけていたのか。けれど莉奈には、もう目を開ける力も残っておらず、そのまま深く眠りに落ちた。部屋のドアが開き、そしてまた閉まった。早朝、松風レジデンスは一面の霧に包まれていた。黒く背の高い男の影が本館から現れる。ポーチに灯る暖色の明かりが、眼鏡のレンズに遮られていない男の目を照らし、ほのかな冷たさを浮かべていた。車のドアが閉まり、運転席からすぐに悠斗の声がする。「社長、監視カメラの映像、手に入りました」承也はタブレットを
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第10話
窓の外では、雪と氷がすっかり溶けていた。莉奈が目を覚ましたのは、もう午後になってからだ。ここ一年、睡眠薬に頼らずにここまで長く眠れたのは、これが初めてだった。ベッドの上で体を起こし、散らかった部屋を見回す。昨夜の承也は、まるで正気を失ったみたいだ。そう思うと、自然と眉が寄った。体に不快な感触は一切なく、きれいに洗われたあと、さらりとしたパジャマに着替えさせられていた。昨夜ガラスで切ったところには薬も塗られていて、頬に触れるとひんやりしていて、ヒリつくような痛みはない。誰がやったのか、考えるまでもなかった。莉奈はぼんやりとベッドに座っていたが、次第に耳の奥がズキズキと痛み始め、体も熱っぽいことに気づき、数日前に医者から言われた言葉がすぐに頭をよぎった。「耳の強い痛みと発熱を伴う場合は、すぐに病院へ来てください。鼓膜穿孔に感染が重なると、決して軽い症状ではありません。重い場合は聴力に影響が出ますから、必ず注意してください」あの夜、殴られたあと、警察に付き添われて病院で診断を受けた。その結果のひとつが、鼓膜穿孔だった。ただ、穴の大きさがぎりぎりの範囲で、感染もなかったため、医者からは自宅で経過観察をするよう言われていた。自然に治るはずだったのに、結局、感染してしまった。莉奈は起き上がり、急いで着替えて階下へ向かった。「奥様、もうお目覚めですか?すぐ何かお持ちしますが……あれ?お出かけですか?」家政婦はそう言ってキッチンへ戻ろうとしたが、階段を下りきった莉奈がバッグを手にしているのを見て、声を止めた。「家では食べないわ。ちょっと出かけてくる」耳の奥の痛みはどんどん強くなり、キーンとした耳鳴りもしている。この状態で運転するのは無理だ。タクシーを呼ぼうかとも思った。ボディーガードに運転させたら、自分の行き先が承也に伝わるかもしれないのだ。しかし、ふと考え直す。――承也が、自分がどこへ行くかなんて、気にするはずがない。たとえ自分が死に行ったとしても、承也は気にも留めないだろう。「ボディーガードに運転してもらうわ」家政婦はうなずき、電話をかけた。一分も経たないうちに、黒いスーツ姿のボディーガードが莉奈の前に現れた。「奥様」莉奈は車の鍵を渡す。「中央病院まで」ボディーガードは一瞬、驚いたような
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