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第7話

Author: 甜菜一個
「え?今、なんて?」

彼女の声があまりにも小さくて、北都には何を言ったのか聞き取れなかった。

紅那は彼の腕の中から抜け出し、淡々とした声で言った。

「何でもないわ。今夜、私が夕飯を作るね」

二人の始まりは、18歳の夏だった。

北都が彼女に初めて手料理を振る舞ってくれた日のこと。

食事のあと、北都は照れたように聞いてきた。

「俺の料理、どうだった?」

紅那は思いつく限りの賛辞を並べ立てて褒めちぎった。

すると、北都は顔を真っ赤にしながら、どもりつつ彼女の手を握った。

「紅那、俺の彼女になってよ。これから毎日、君のためにご飯を作るよ」

その瞬間、紅那は世界で一番幸せな女の子だと感じた。

タイムカプセルに書いた願いが叶ったのだ。

18歳の頃はまだ幼くて、純粋で、甘いキス一つだけで何日もドキドキできた。

それからというもの、二人はずっと互いのそばにいた。

両親が交通事故で亡くなったときは、彼がそばで支えてくれた。

彼が会社を継いだとき、古参幹部たちに足を引っ張られたが、彼女は側で励まし、一緒に乗り越えた。

喧嘩もしたし、ぶつかることもあったが、別れを考えたことは一度もなかった。

でも。

紅那と北都の時間は、今まさに終わろうとしていた。

北都は満面の笑みを浮かべた。

「今夜は楽しみにしてるよ。俺も手伝うから」

紅那は首を横に振った。

「一人で大丈夫だから」

一時間後、料理を用意し、二人はダイニングで食べようとしていた。

ところが、北都のスマホがまたしつこく鳴り始めた。

何度か拒否したあと、結局彼は電話を取った。

そして顔色が変わり、紅那に向かって言った。

「紅那、会社に急用が......」

またこの言い訳。

でも紅那はあえてそれを咎めず、静かに微笑んだ。

「仕事が大事だから、行って」

北都はすぐに立ち上がり、玄関へ向かったが、途中で立ち止まって言った。

「紅那、待ってて。すぐ戻るから」

紅那は笑ったが、何も言わなかった。

彼の言う「すぐに」は、もはや彼女にとって何の信頼もなかった。

案の定、すぐ後に紅那のスマホに葉月から動画が届いた。

揺れるベッドの上で、北都は葉月を抱きしめ、激しく貪っていた。

葉月はふわりとした手つきで北都の肩を押しながら言った。

「旦那様、放して......奥様が家でご飯を待ってますよ......」

北都はさらに葉月を抱き寄せ、低く囁いた。

「待たせておけ。今はお前しか食べたくないんだ......」

「もう、やだぁ〜」

紅那は無表情でその動画を見終わり、静かに保存ボタンを押した。

その後、彼女は一人ですべての料理を食べた。

吐きそうになるまで食べ続け、ようやく箸を置いた。

残った料理はすべてゴミ箱に捨てた。

そして、電話で慈善団体に連絡し、自分の持ち物すべてを寄付するように頼んだ。

高級ジュエリーも、服も、一つも残さなかった。

物が消えていく空っぽの部屋を見渡しながら、初めて心の中に「解放」の感覚が訪れた。

翌朝早く、紅那はスーツケースを引いて空港へと向かった。

搭乗前、これまで保存していた動画や画像をすべてネット上にアップロードした。

飛行機が高度6000メートルへと上昇していく。

紅那は窓の外に広がる朝日に目を向けた。

光は眩しく、暖かい。

これから先、北都に関するすべてのことは、彼女にはもう関係ない。

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