来依は彼の手をパシンと叩き落とした。「自分のテーブルに戻りなさいよ」そう言ってくるりと向き直り、女子チームに呼びかけた。春香は棒付きキャンディーを一本渡しながら、ひそひそ声で言った。「海人のこんな姿、初めて見たわ。前は誰のことも目に入ってなかったし、氷みたいに冷たかったのよ。それが今や、こんな感じだもん」紀香も小声で同意した。「昔、私を助けてくれたときなんて、上から見下ろして『バカ』って一言よ。それっきり、会話らしい会話もなかったし、私が何言っても『うん』しか返ってこなかった」来依も海人の冷淡だった時期を知っていたので、聞いて笑みを浮かべた。「それはちょっと大げさでしょ?さっき、ちゃんと話してたじゃない」「それは、来依さんの顔を立ててくれただけ」「だって清孝にだって、あそこまでしないよ。私のこと助けたときだって、私が清孝の妻だって知らなかったんだから。あとで知ってから、すぐ清孝に借りを作ったもん。あの目に浮かんだあの計算高さ、今でも忘れられない。でもね、それを清孝相手にやれる人なんて、そういないの。だから私は、逆にちょっと嬉しかった」彼女たちはすぐ隣で話していたが、いくら声を潜めたところで、大した意味はなかった。何より、あの二人の男の耳はとても良い。けれど、傍目にはただ笑みを浮かべているようにしか見えず、その目にあるのはどこか甘く柔らかい光だった。――なるほど。どうやら本物の「嫁」ってわけね。この日の来依は、やたらとツイていた。配牌からして、抜群に良かった。とはいえ、あまり勝ちすぎるのも気が引ける。紀香は自分より年下の「妹分」だ。だからいくつかの局では、あえて良い手を崩してまで打っていた。いつの間にか、海人が彼女の後ろに立っていた。それだけでなく、彼は来依の打とうとした牌を押さえ、自分で別の牌を選んで捨てた。来依は彼をにらんだ。「じゃあ代わりにあんたが打てば?」海人は彼女の頭をぽんぽんと叩いた。「お前がミスしそうでな」――このクソ野郎、絶対に気づいてるな。あの腹黒さは伊達じゃない。「いいからほっといて、打てるから!」今回は彼女の言葉にも従わず、来依が崩そうとしていた手をそのまま育てた。紀香が振り込んだ瞬間、彼は来依より早く口を開いた。「ロン」紀
結婚三周年の当日。江川宏は、高額を支払って私が長い間気に入っていたネックレスを落札した。みんな口を揃えて言う。「彼は君に惚れ込んでいるよ」と。私は嬉々としてキャンドルライトディナーの準備をしていた。だが、その時、一つの動画が届いた。画面の中で、彼は自らの手でそのネックレスを別の女性の首にかけ、こう言った。「新しい人生、おめでとう」そう、この日は私たちの結婚記念日であると同時に、彼の「高嶺の花」が離婚を成立させた日でもあったのだ。まさか、こんなことが自分の身に降りかかるなんて。宏との結婚は、自由恋愛の末に結ばれたものではなかった。だが、彼は表向き「愛妻家」として振る舞い続けていた。ダイニングテーブルに座り、すっかり冷めてしまったステーキを見つめた私。その一方で、ネットでは今も彼の話題がトレンド入りしていた。「江川宏、妻を喜ばせるために二億円を投じる」この状況は、私にとってただの皮肉でしかなかった。午前2時。黒いマイバッハがようやく邸宅の庭に入ってきた。フロアの大きな窓越しに、彼の姿が映った。車を降りた彼は、オーダーメイドのダークスーツを纏い、すらりとした体躯に気品を漂わせていた。「まだ起きていたのか?」室内の明かりをつけた宏は、ダイニングに座る私を見て、少し驚いたようだった。立ち上がろうとした私は、しかし足が痺れていたせいで再び椅子に崩れ落ちた。「待っていたの」「俺に会いたかった?」彼は何事もなかったかのように微笑み、水を汲みながらテーブルの上に手つかずのディナーを見つけ、やや訝しげな表情を浮かべた。彼が演技を続けるのなら、私もひとまず感情を押し殺すことにした。彼に手を差し出し、微笑んだ。「結婚三周年、おめでとう。プレゼントは?」「悪い、今日は忙しすぎて、用意するのを忘れた」彼は、一瞬きょとんとした表情を見せたあと、ようやく今日が記念日だったことを思い出したようだ。私の頭を撫でようと手を伸ばしてきたが、私は無意識のうちに身を引いてしまった。――その手で今夜、何を触れてきたのか分からない。そう思うと、どうしても受け入れられなかった。彼の動きが一瞬止まった。だが、私は気づかないふりをして、にこやかに彼を見つめた。「隠し事はなしよ。あなた、私が気に入ってたあのネッ
ジュエリー?私はそっと眉をひそめ、ちょうど洗面所に入ったばかりの宏に声をかけた。「宏、アナ姉さんが来てるわ。私、先に下に降りてみるね」ほぼ同時に、宏が勢いよく洗面所から出てきた。その表情は、これまで一度も見たことのないほど冷たかった。「俺が行く、君は気にしなくていい。顔を洗ってこい」いつも冷静沈着な彼が、どこか不機嫌そうで、まるで落ち着かない様子だった。私は胸騒ぎがした。「もう済ませたわ。あなたの歯磨き粉も、ちゃんと絞っておいたの、忘れた?」「じゃあ、一緒に行きましょ。お客様を待たせるわけにはいかないもの」彼の手を取り、一緒に階段を降り始めた。この家の階段は螺旋状になっていて、途中まで降りるとリビングのソファが見える。そこには、白いワンピースを身にまとい、上品に座っているアナの姿があった。彼女は音に気づいて顔を上げた。穏やかな微笑みを浮かべていたが、彼女の視線が私たちの手元に向けられた瞬間、手に持っていたカップがかすかに揺れ、中の液体がこぼれた。「……あっ」熱かったのか、彼女はとっさに小さな悲鳴を上げた。その瞬間、宏は、私の手を勢いよく振り払った。そして、まるで反射的に階段を駆け下りると、アナの手からカップを取り上げた。「何やってんだよ、コップひとつまともに持てないのか?」その声は、厳しく、冷ややかだった。だが、彼はそれ以上に、アナの手を乱暴に引き寄せ、洗面台へと連れて行った。蛇口をひねり、冷水を勢いよく流しながら、彼女の手を強引に押し付けた。アナは困ったように微笑んで、手を引こうとした。「大丈夫よ、そんな大げさにしなくても……」「黙れ。やけどを放っておくと跡が残る。わかってるのか?」宏は彼女の言葉を遮るように低く叱責した。彼の手は、決して彼女を離そうとしなかった。私は階段の途中で、その光景をただ呆然と見つめていた。心の中に、何かがふっとよぎる。――結婚したばかりの頃の記憶。私は、江川宏の胃が弱いと知って、彼のために料理を学び始めた。家には佐藤さんがいたけれど、彼女の料理はどうも宏の口に合わなかったから。料理初心者の私は、包丁で指を切ることもあれば、油が跳ねてやけどすることもあった。ある日、不注意で鍋をひっくり返してしまい、熱々の油が腹部に流れ落ちた。
私は思わず息を詰めた。まるで何かを確認するかのように、何度もメールの内容を見返した。間違いなかった。江川アナ。彼女がデザイン部の新しい部長に就任した。つまり、私の直属の上司になるということだ。「南ちゃん、もしかして彼女を知ってるの?」来依は、私の様子を見て、手をひらひらと振ってみせた。そして、私が何も言わないうちに、勝手に推測を始める。私はスマホを置き、小さく頷いた。「うん。彼女は宏の父も母も異なる義姉よ。前に話したことがあったでしょ?」大学卒業後、私たちはそれぞれの道を歩んだ。それでも、私は来依と「ずっと鹿児島に残る」と約束していた。「……まじかよ、コネ入社じゃん!」来依は舌打ちし、呆れたように言った。「……」私は何も言わなかった。――ただのコネ入社じゃない。特別待遇のコネ入社だ。「江川宏、頭でも打ったの?」来依は不満を隠そうともせず、私のために憤慨してくれる。「なんで?彼女の名前なんて、デザイン業界で聞いたこともないのに?それなのに、江川宏はポンッと部長の椅子を渡しちゃったわけ?じゃあ、あんたの立場は?4年間、ここで頑張ってきたのに?」「……もういいわ」私は、彼女の言葉を遮った。「そんなの、大したことじゃない。あのポジション、私にくれるなら、もらうだけ」くれないなら、他の誰かがくれるわ。この話を、社内の食堂で広げる必要はない。余計な詮索をする人間に聞かれると、面倒なことになるだけだから。食堂を出ると、来依が私の肩に手を回し、こそこそと囁いた。「ねぇ、もしかして、何か考えてる?」私は片眉を上げた。「どう思う?」「ねぇ、いいじゃん、教えてよ」「まあね、考えてはいるけど、まだ完全には決めてないわ」私は、江川グループで4年間働いてきた。一度も転職を考えたことはない。江川は、私にとって「慣れ親しんだ場所」になっていた。でも、本当にここを離れるなら、何か決定的な出来事が必要かもしれない。午後。オフィスに戻ると、年始限定デザインの制作に取り掛かった。昼休みを取る暇もない。本来なら、これは部長の仕事だ。だが、前任部長が退職したため、その業務は自然と副部長の私の肩にのしかかることになった。午後2時になる少し前。「南さん、コーヒーどうぞ」ア
宏は、ほとんど迷いもなく、即答した。一切のためらいも、躊躇もなく。私は彼の首に腕を回し、唇をわずかに上げながら、まっすぐ彼を見つめた。「10%よ?それでも惜しくないの?」彼の瞳は澄んでいて、微笑みながら答えた。「君にあげるんだ。他人に渡すわけじゃない」この瞬間、私は認めざるを得なかった。お金というのは、忠誠心を示すには、これ以上ないくらい強力な手段だと。今日ずっと溜め込んでいた感情が、ようやく解き放たれた気がした。何かを確かめるように、私は笑ってもう一度問いかけた。「もし、それがアナ姉さんだったら?彼女にも渡せる?」宏は、一瞬だけ沈黙した。そして、はっきりとした口調で答えた。「渡さない」「本当に?」「……ああ。彼女にあげられるのは、今回のポジションだけだ」宏は私を抱き寄せ、静かで落ち着いた声で言う。「株式の譲渡契約書は、午後に加藤伸二に届けさせる。これからは、君も江川のオーナーの一人だ。他の人間は、みんな君のために働くことになる」私はいい気分になって、ふっと笑った。「あなたは?」「ん?」「あなたも、私のために働くの?」彼は失笑し、私の頭を軽く撫でると、ふいに耳元に囁いた。「ベッドの上でも下でも、たっぷりご奉仕してやるよ」……一気に顔が熱くなった私は、彼を睨んだ。彼は普段、冷たくて理知的で、近寄りがたい雰囲気を持っている。なのに、ときどきこんな破壊力のある言葉を放ってくる。そんな彼に、いつも振り回されるのは、私のほうだった。私が機嫌を直したのを見て、宏は腕時計に目を落とし、言った。「そろそろ会議の時間だ。今日は祝日だし、夜は一緒に本宅へ行って、祖父と食事をしよう。駐車場で待ってる」「わかった」私は迷うことなく頷いた。心が少しだけ揺れて――決断した。「ねえ、夜にサプライズがあるよ」数日前までは、彼に妊娠のことを話すべきか迷っていた。でも、彼が私と江川アナの優先順位をちゃんと分けて考えられるなら――もう隠す必要はない。「サプライズ?」彼は好奇心旺盛な性格だ。さっそく詮索しようとする。「何?」「仕事終わったら教えてあげる。だから、楽しみにしてて!」私は、つま先立ちで彼の唇に軽くキスを落とし、それ以上は教えずに背を向けた。彼が部屋を出
宏が私を迎えに来ていたことを知っていながら、彼女はただの「同乗」のはずなのに、堂々と助手席に座っていた。私は、その場を離れたかった。しかし――理性が私を引き留め、無言で宏に手を差し出した。「車のキー」宏は何も言わず、素直にキーを渡してきた。私は車の前方を回り込み、運転席に乗り込んだ。アナのぎこちない驚きの表情を横目に、にっこり微笑んだ。「何が問題なの?あなたは宏の姉でしょ?ちょっと車に乗せてもらうくらい、何もおかしくないわ」そして――車の外にいる宏を見上げた。「ほら、早く乗って。お祖父様が、きっともう待ってるわよ」車内は、異様なほど静かだった。まるで、棺の中のように。アナは、宏と会話を試みようとしていた。しかし、後部座席からでは、何度も振り返らなければならず、不自然になるのを嫌ったのか、諦めたようだった。私の気分が優れないことに気づいたのか、宏は突然飲み物のボトルを開け、私に差し出した。「マンゴージュースだ。君が好きだったよな」私は一口飲んでみた。しかし、すぐに眉を寄せ、彼に差し出した。「ちょっと甘すぎる。あなたが飲んで」最近、酸っぱいものばかりを好んでいた。以前なら、多少口に合わなくても、無駄にするのが嫌で無理して飲んでいた。でも今は、妊娠のせいか、自分の食の好みを少しも妥協できなくなっていた。「……わかった」宏は、特に何も言わず、スムーズにそれを受け取った。すると――「ちょっと待って。あなたが口をつけたものを、また宏くんに飲ませるの?口腔内の細菌って、すごく多いのよ?ピロリ菌も、そうやって感染するんだから」アナが、複雑な表情で口を開いた。私は、思わず笑ってしまった。「それを言うなら、私たち、夜は一緒に寝てるのよ? それのほうが、もっと危険なんじゃない?」「……」アナは、一瞬言葉に詰まった。大人である彼女が、私の意図を理解しないはずがない。少し間を置いてから、彼女は、わざとらしく感心したように言う。「意外ね。結婚してもう何年も経つのに、そんなに仲がいいなんて」「もしかして、嫉妬?」宏が、冷ややかな口調で鋭く突いた。時々――たとえば今のような瞬間、宏のアナへの態度を見ると、彼は実は彼女のことを結構嫌っているのではないかと思えてくる。でも、それが
まるで氷の底に沈んでいくようだった。血の気が引き、体の芯まで凍りつくようだった。一瞬、自分の耳を疑った。今まで、何度か「彼らの関係は何かがおかしい」と感じたことはあった。けれど、そのたびに、宏はきっぱりと否定してきた。たとえ血の繋がりがなかったとしても、宏は江川グループの跡取り、アナは江川家のご令嬢、一応名目上の姉弟だった。それに、お互い結婚もしている。宏のような、生まれながらにして選ばれた男が、そんな愚かなことをするはずがない。そう思っていたのに――数メートル先、宏は、アナを壁際に追い詰め、目を赤くしながら鋭く冷たい声を投げつけた。「俺のために離婚?君が最初に他の男を選んだんだろ。今さら、どの口がそんなことを言える?!」「……っ」アナは、何も言えなくなった。唇を噛み、涙が溢れるままに落ち、震える指先で、宏の服の裾をそっと握った。「……私が悪かった。宏くん、もう一度だけ許して?お願い……たった一度だけ。私だって……当時はどうしようもなかったの……」「俺は結婚してる」「結婚してるから何? 離婚すればいいじゃない!」アナは、悲しい顔で、ひどく執着した声で問い返した。彼の答えがNOだったら、彼女はその場で砕け散ってしまうような――そんな表情で。私は、彼女がここまで露骨に言うとは思っていなかった。まるで他人の家庭を壊そうとしている自覚など微塵もない。宏は、怒りに満ちた笑みを浮かべた。「君にとって結婚はそんなに軽いものなのか?俺にとっては違う!」そう言い放ち、彼は振り返り、歩き出した。だが、アナは、彼の服を掴んだまま、離そうとしない。本当なら――宏の力なら、振り払うことは簡単なはず。なのに。私は、ただ黙ってこの光景を見つめた。彼が何をするのかを期待して。彼が振りほどくことを期待した。彼がはっきりと線を引くことを願った。そうすれば、私たちの結婚には、まだ希望がある。そして彼は確かにそうした。「いい歳して、バカなことを言うな」それだけ言い残し、彼女の手を振り払い、背を向けた。これで終わり。私は、ようやく息をついた。これ以上、彼らの会話を盗み聞きする必要はない。だが、その瞬間。「あなたは南を愛してるの?私の目を見て答えて、宏くん!」アナはまるで
宏は、一瞬驚いたような表情を見せた。けれど、それ以上は何も言わなかった。私は唇を噛み、静かに問いかけた。「……じゃあ、結婚式の夜は?あの時、どうして私を置いて出て行ったの?」――今でも覚えている。私は、ベランダで一晩中、彼の帰りを待っていた。新婚初夜なのに、彼は私を家に残したまま、何の説明もなく出て行った。よほど重大なことが起きたのだと思い、彼の身に何かあったのではと心配した。 同時に――もしかして私の何かが気に入らなかったのか?と、不安と焦りで頭がいっぱいになりながらも、ただ彼が早く帰ってきてくれることを願っていた。 あの時、私はまだ23歳、長年片想いしていた人と、思いがけず夫婦になった。 そんな私が、この結婚に何の期待も抱かないはずがなかった。 ――だけど今日になって、ようやく知った。 あの夜、私が胸を躍らせながら彼の帰りを待っていた頃――彼は、別の女のそばにいたのだ。まるで、冗談のような話だ。宏は、今回も隠し立てせずに答えた。「……彼女が深夜に事故を起こした。警察から連絡があって、迎えに行った」そんな偶然、あるの?ちょうど私たちの結婚式の日に、彼女が事故を起こすなんて。しかも、深夜に。でも、その後の家族の集まりで、彼女の姿は普通にあった。傷ひとつなく、元気そうにしていたのを覚えている。私は、窓を少し開け、夜の風を浴びながら静かに言った。「……宏、もし、あなたの心の中にまだ彼女がいるなら、綺麗に終わりにしよう」――ギュッ!突然、車が急停止した。宏は、私を見た。その視線には、珍しく感情が宿っていた。彼はいつも穏やかで、冷静で、決して取り乱さない。けれど、今の彼は、私を直視しながら、わずかに動揺している。「俺は……そんなつもりは――」――ブブッ!スマホの通知音が、彼の言葉を遮った。宏は、苛立たしげに画面を見て、その瞬間、彼の表情が一変する。眉間に皺を寄せ、目つきが鋭くなった。ほぼ迷うことなく、彼は言った。「……アナが何かあったらしい。ちょっと様子を見に行ってくる」「……」胸の奥に広がる苦しさを必死にこらえ、乱れそうになる感情を懸命に抑えながら、路肩の灯りに照らされた彼の横顔をそっと盗み見た。かつて、心から愛した人。今、その人に、言葉にできない虚
来依は彼の手をパシンと叩き落とした。「自分のテーブルに戻りなさいよ」そう言ってくるりと向き直り、女子チームに呼びかけた。春香は棒付きキャンディーを一本渡しながら、ひそひそ声で言った。「海人のこんな姿、初めて見たわ。前は誰のことも目に入ってなかったし、氷みたいに冷たかったのよ。それが今や、こんな感じだもん」紀香も小声で同意した。「昔、私を助けてくれたときなんて、上から見下ろして『バカ』って一言よ。それっきり、会話らしい会話もなかったし、私が何言っても『うん』しか返ってこなかった」来依も海人の冷淡だった時期を知っていたので、聞いて笑みを浮かべた。「それはちょっと大げさでしょ?さっき、ちゃんと話してたじゃない」「それは、来依さんの顔を立ててくれただけ」「だって清孝にだって、あそこまでしないよ。私のこと助けたときだって、私が清孝の妻だって知らなかったんだから。あとで知ってから、すぐ清孝に借りを作ったもん。あの目に浮かんだあの計算高さ、今でも忘れられない。でもね、それを清孝相手にやれる人なんて、そういないの。だから私は、逆にちょっと嬉しかった」彼女たちはすぐ隣で話していたが、いくら声を潜めたところで、大した意味はなかった。何より、あの二人の男の耳はとても良い。けれど、傍目にはただ笑みを浮かべているようにしか見えず、その目にあるのはどこか甘く柔らかい光だった。――なるほど。どうやら本物の「嫁」ってわけね。この日の来依は、やたらとツイていた。配牌からして、抜群に良かった。とはいえ、あまり勝ちすぎるのも気が引ける。紀香は自分より年下の「妹分」だ。だからいくつかの局では、あえて良い手を崩してまで打っていた。いつの間にか、海人が彼女の後ろに立っていた。それだけでなく、彼は来依の打とうとした牌を押さえ、自分で別の牌を選んで捨てた。来依は彼をにらんだ。「じゃあ代わりにあんたが打てば?」海人は彼女の頭をぽんぽんと叩いた。「お前がミスしそうでな」――このクソ野郎、絶対に気づいてるな。あの腹黒さは伊達じゃない。「いいからほっといて、打てるから!」今回は彼女の言葉にも従わず、来依が崩そうとしていた手をそのまま育てた。紀香が振り込んだ瞬間、彼は来依より早く口を開いた。「ロン」紀
海人はちらりと清孝を見やり、冷たい視線を投げた。――子どもを騙してばかり。それでいて、かつては何年も音沙汰なしで放浪していたくせに。今さら離婚されても、自業自得だ。紀香はもう、昔のあの素直な少女ではなかった。清孝の数言で操られるような存在ではない。「来依さん、海人と仲いいんだから。二人はカップルでしょ?私が付き合う必要ないじゃない」清孝の目に、一瞬、打算の光が走った。「今回のコラボも、宣伝用の撮影が必要だ。ふたりが仲いいなら、きっといい作品になる。ここでは彼女も慣れてないだろうし、手を貸してあげてくれ」来依が口を開こうとしたが、海人が手でそれを制した。来依は彼に向かって、目配せで訴えた。――ほんと仲いいわね、まるで悪だくみコンビって感じ。海人「……」「撮影なんて、あなたいくらでもできる人いるでしょ」紀香は少し揺れたが、清孝の提案に乗るのはどうしても気が進まなかった。「でも君ほど上手くはない」――ナイス、ヨイショにおだて。まるで教科書のような甘言。来依は思わず拍手したくなった。「でも、私も他の仕事があるし……」清孝はやんわりと説得を続けた。「親友のために、少しだけ調整することもできるんじゃないか?」紀香と来依は、実は知り合ってからそれほど時間は経っていない。けれど気が合って、すぐに友達になった。それでいて、来依に九割九分の割引をしてあげるほどだ。紀香がそんなことをするのは、本当に稀だった。しかも、来依がやろうとしている「無形文化財+和風スタイル」ファッションには、彼女自身も興味を持っていた。来依は口を挟んだ。「紀香、やりたいことをやればいい。自分の気持ちを大事にして」清孝の目に、不満の色が浮かんだ。海人が口を開いた。「ひと言、言ってもいいか?」紀香はうなずいた。「あなた、私の命の恩人だから」「じゃあ、うちの嫁さんにちょっと付き合ってくれない?」「……わかった」海人は清孝を見た。その表情には、誇らしげな勝ち誇りと軽蔑が入り混じっていた。清孝「……」来依は実は、裏でずっと「恋バナ」を聞きたくてたまらなかった。でも、女の子がつらい思いをしているのを見るのは気が引けた。だから立場的に何も言わなかったが、本人が残ると決めた以上、
来依はすぐに耳をそばだてた。さっき階下で海人が清孝を紹介したとき、自分が驚いたのは――そう、彼が錦川紀香の十歳年上の旦那だったからだ。まさかこんなに早く会えるとは思っていなかった。佐夜子の話は断片的で、真相は曖昧なままだったが、自分はこの「先に結婚、あとで恋に落ちる」長くて複雑な愛の物語に、強く好奇心を抱いていた。ちょうど何か聞こうとした瞬間、個室の扉が勢いよく開かれた。怒りに満ちた見覚えのある顔がこちらへと向かってきて、そのままテーブルの酒をつかんで清孝の顔にぶちまけた。「卑怯者!」三十代の清孝は、藤屋家のトップに立つ男。その手腕と策略の深さは、言うまでもなかった。その積み上げられた威圧感、所作ひとつにも堂々たる風格が滲み出ている。誰も彼と目を合わせようとせず、ましてや顔に酒をかけるなど、想像もつかないことだった。だが清孝は怒りの色を一切見せず、むしろその目には甘さが滲んでいた。顔を拭きながら、穏やかな声で言った。「来てくれて嬉しいよ」紀香はそのまま去ろうとしたが、清孝に手首を取られて止められた。「せっかく帰ってきたんだ。明日は一緒に本宅に帰ろう」紀香は拒んだ。だが清孝は相変わらず優しく、根気強く続けた。「家族の食事会だよ。君、両親に行くって約束してただろ」「……」紀香は清孝の手を振り払った。「明日、自分で戻るから」そう言って出ていこうとした時、ふと来依の存在に気づいた。「来依さん、なんでここにいるの?」来依は手を軽く振った。「ちょっとしたコラボの打ち合わせがあってね」「誰と?」紀香は目を丸くして清孝を指差した。「まさか……この男と?」来依はうなずいた。紀香はすぐに駆け寄り、来依の腕を取って引っ張った。「来依さん、藤屋清孝って男、あの人の話には罠しかないの。どうしてそんな人と組むの?いつの間にか足元すくわれて、後悔しても遅いよ!」「さあ、行こう!」来依の腕を引っ張るその瞬間、海人が来依の手を取って止めた。それを見て、紀香はようやく海人の存在に気づいた。「あなたもいたの?」海人は軽く頷いた。「来依は俺の婚約者だ」紀香は来依を見て、海人を見て、言いたげな顔をしたまま少し迷った末に口を開いた。「菊池様の人柄は問題ないと思う。
「あなた、前に根絶やしにするって言ってたじゃない。方法あるんでしょ?」海人の父はその言葉にため息をついた。「あれは、昔の話だ。藤屋清孝が新しい協力相手を見つけるなんて、一瞬のことだ。この世の中、河崎来依にしかできないって仕事でもない。たとえ俺たちが裏で何か仕掛けたとしても、藤屋清孝が正面から敵に回ってくるとは限らない。藤屋清孝なら、やる。俺の記憶が正しければ、彼は海人に借りがあるはず」海人の母は驚いた。「いつの話よ?私は聞いてない!」海人の父は彼女の肩をぽんと叩いた。「まずは落ち着け。俺も記憶が曖昧でな、確かじゃないんだが……どうやら、昔、藤屋清孝の妻が無人地帯で動物撮影をしてた時に、犯罪者に絡まれて、ちょうどその時、訓練中の海人が居合わせたらしい」海人の母は海人の訓練時期を思い返した。「その時って、彼女まだ学生だったでしょ?それに、当時はまだ奥さんじゃなかったはず」「今は妻だ」海人の父は海人の母をベッドの端に座らせながら言った。「それに、藤屋清孝は本気になってる」海人の母は枕を拳で何度も叩いた。「一体なんなのよ、これは……全部あなたのせいよ!「あなたが『高杉芹奈なら海人を繋ぎ止められる、河崎来依との関係を絶てる』なんて言うから、私も従ったのに……私、あの時……」「もういい」海人の父が遮った。「今さら何を言っても意味がない」本当に、何を言っても無駄だった。海人の母にできることといえば、二人が自ら衝突して別れるのを待つことだけだった。……海人はやはり、自分のジャケットを来依の肩にかけていた。その鋭い視線は周囲に飛び交い、来依を眺めていた者たちはバツが悪そうに視線を逸らした。今日の海人の働きはかなり大きかったので、来依も特に突っかかることはしなかった。清孝が一通りの挨拶を済ませて戻ってきた。「上に行くぞ」と海人を呼んだ。上の階にはまったく別の空間が広がっていた。下のフロアのように洗練された装飾とシャンパンが飛び交う宴会場とは異なり、そこは大型の娯楽スペースだった。ある個室には麻雀卓がいくつも並べられており、すでに対局が始まっていた。その脇ではポーカーが行われており、見たところ相当な金額が動いていた。来依がちらりと見ただけでも、その場の空気の重さを感じた。
来依は彼の相手をする気もなく、海人を押しのけて勇斗と一緒に食事をしながら話し始めた。海人も後を追おうとしたが、清孝に呼び止められた。清孝は秘書を来依のもとに向かわせ、いくつかの書類にサインさせた。そして、海人のグラスに軽く触れて乾杯の仕草をした。「頭の回転は早いな。俺を『婚約者の盾』に使おうとは。家族にバレたら怒りで倒れるんじゃないか?」海人は来依のいる方を見つめ、目に優しさと確固たる決意を宿していた。「今の俺の唯一の願いは、彼女と結婚することだ」清孝は海人とは長年の付き合いだったが、ここまで何かに執着し、手間を惜しまない彼の姿は初めてだった。その瞳にわずかに陰りが差した。「そうか。君にも弱点ができたわけだ」海人は淡々と返した。「彼女は俺の弱点じゃない」『弱点』とは、敵に利用され、脅され、自分を縛るものだ。彼はそんな状態を望んではいなかったし、来依をそんな危険にさらしたくもなかった。「彼女は、俺と肩を並べて歩ける愛しい人だ」清孝は若干引いたような顔をして、話題を変えた。「高杉家からは、娘の行方を探るために、何重にも人を通じて連絡が来てる君、高杉芹奈を石川に留めてるのは、『本命』のための盾にしてるのか?」海人は首を振った。「違う」「ただ、少し痛い目を見せてやってるだけだ」その目は冷たい光を放ち、鋭さを帯びていた。「全員に、だ」その頃、来依は書類にすべてサインを終え、藤屋家と暫定的にだが、がっちりと結びついた。菊池家がその情報を知ったときには、もう手遅れだった。「私、なんて言った?」海人の母は怒りで声を震わせ、普段の落ち着いた様子はどこにもなかった。「西園寺雪菜の一件があった以上、海人が高杉芹奈を受け入れるわけがない。タイプは違っても、手口は一緒。あんたでも騙されないのに、あんたの息子が騙されるわけがないでしょう!で、どうなったと思う?菊池家の掌握権まで渡しちゃって!河崎来依を藤屋清孝のビジネスパートナーに仕立てて、プロジェクトは藤屋家主導。私たちが手を出そうにも、もう動けない。「藤屋家を敵に回すわけにはいかないわ」海人の父の顔も、すっかり暗くなっていた。前回の雪菜の件では、道木家が介入し、菊池家にもそれなりのダメージが残った。だからこそ、
「君に必要だって分かってたよ。礼はいらない」「……」清孝は海人が酒を受け取らなかったことに特に気にする様子もなく、顔を来依の方に向けて言った。「この件は来依さんに一任するよ。きちんと進めてくれれば、特に注文はない。ただ、いくつか注意点があるから、それは後で秘書から送らせる」来依は軽く腰を折って礼をした。「信頼いただき、ありがとうございます」清孝は他の招待客へ挨拶に行く予定があり、海人に向かって言った。「まず来依さんに何か食べさせてあげて。その後、上の階で麻雀でもしよう。来依さんの先輩も一緒に残って参加してくれ。これから付き合いのある人たちとも顔を合わせる機会だ。ちょうどいい」勇斗は感激で言葉も出なかったので、来依が代わりに礼を言った。清孝が去った後、来依は勇斗の背中を軽く叩いた。「先輩、ビビらないでよ! 私は無形文化財とか和風とか全然分かんないんだから、ちゃんと説明して、あんたの強みを伝えて」勇斗は頭を掻きながら答えた。「来依の言う通りだ。ちょっと緊張しちゃっててさ」そう言われると、来依も納得した。彼女自身、清孝の存在を知ったときには、かなり緊張していたのだ。だから、それ以上は何も言わずに笑って声をかけた。「何か食べよう。あっちで座ろう」「うん」勇斗は食べ物を取りに行った。来依が歩き出そうとした瞬間、腰をそっと抱き寄せられた。振り返ると、海人の冷たくもどこか拗ねたような目がそこにあった。「感謝、いるんじゃないの?」確かに、礼は礼として言うべきだった。助けてもらったことは事実。「ありがとうございます、菊池社長。じゃあ、今度ご飯ご馳走するわ」海人は一歩近づき、声を抑えてささやいた。二人にしか聞こえないように。「ベッドでの『ごちそう』なら、受け取るよ」「……」ちょうどそのとき、勇斗が料理を持って戻ってきた。二人が今にもキスしそうな距離だったのを見て、ようやく気づいた。「この前の食事、お前もいたのか!来依の彼氏だったのか!」海人は来依の手を取り、眩い輝きを放つダイヤの指輪を見せた。「婚約者だ」勇斗は「うわー!」と声を上げた。「おめでとう、来依!そんな大事なこと、先に言ってくれよ。ご祝儀の準備もしてない。まあいいや、結婚式には招待してくれよ。
「……」結局、来依はジャケットを羽織らなかった。彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。「菊池家の若様の女か?」「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」「河崎来依だ」「そう、それ!」そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。「ふ、藤屋社長……」藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。彼に酒を一杯手渡す。「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。「藤屋清孝だ」来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。急いで頭を下げた。「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人
石川は大阪より少し暖かいとはいえ、年の瀬も近づき、また雪が降るかもしれなかった。どこが寒いのか?四郎は反論することもできず、おとなしくエアコンを入れた。設定温度は26度。来依は手で風をあおぎながら、わざとらしく言った。「この車、ダメね。なんかムシムシする」四郎も確かにそう思った。仕切り板すら付いていないのだ。海人が静かに笑った。「いいよ。お前の言うとおり、車を替えよう」「……」――来依はあるプライベートサロンに連れて行かれた。彼女は迷うことなく赤を選んだ。だが、海人は背中が大きく開いたデザインを見て、スタイリストに指示を出した。「ショールを足して。寒いから」スタイリストは少しためらった。「菊池さん、このドレスのポイントは背中の蝶モチーフのレースなんです。肩甲骨をあえて見せて、うっすらとウエストラインも……」海人の冷たい視線を浴びて、スタイリストはそれ以上言葉を続けられなかった。海人は石川の人間ではなかったが、石川のトップと繋がっている。このサロンは藤屋家の出資で運営されている。しかも、藤屋家からも海人とその奥様を丁重にもてなすよう指示が来ていた。とても粗末に扱える相手ではない。「ショールはいらないわ」来依は大きな姿見の前でくるりと一回転した。「すみません、アップスタイルでお願いします。この背中、しっかり見せたいの」海人の口元が、わずかに引き結ばれた。スタイリストはどちらを見ていいか分からず、動けなかった。来依が言った。「彼を見ないでください。着るのは私、決めるのも私ですよ」そう言って、回転式の椅子に腰を下ろした。「それと、メイクは少しレトロな感じにしてください。でも濃すぎないで。他人のパーティーですし、主役はあくまで他の人ですから」「かしこまりました!」スタイリストはすぐに準備に取りかかった。来依の要望どおりに仕上げた後、スタイリストの目が輝いた。「もしよければ、うちのモデルになってくれませんか?あるいはスタイリングのアドバイザーとして来ていただくとか……センスが抜群です!」来依は立ち上がってスカートの裾を整え、微笑んだ。「自分のことをよく分かってるだけですよ。アドバイザーなんて無理無理、そんな才能ありませんから」スタイ
来依は彼に白い目を向けた。海人の目には、深い笑みがじわじわと浮かんでいた。「ここで楽しんでて。俺は少し用事を済ませてくる。夜は一緒に宴会へ行こう」来依はむしろ、彼がいない方が気が楽だったので、手をひらひら振って追い払った。海人は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出した。傍らにいた若い女性が笑いながら言った。「彼氏さんと、すごく仲が良さそうですね」「……」来依は一瞬、弁解しようか迷ったが、まあもうこの場所に来ることもないかもしれないと思い直した。仮にまた来るとしても、その時に言えばいい。彼女は笑って言った。「刺繍、教えてもらえますか?」相手は快く頷いた。刺繍は集中力と時間を要する作業だった。来依は、その日一日ほとんどを刺繍に費やした。食事とトイレの時間以外は、ずっと座って縫っていた。ひとつの刺し方を習得し、小さな作品を一枚仕上げた。立ち上がって、固まった背中と首をほぐしていると、海人がゆっくりと彼女の前に現れた。「楽しかった?」来依は手に持っていた刺繍布を彼に放り投げた。「あんたへの誕生日プレゼントよ。ここに連れてきてくれたお礼」それだけ言って、さっさと更衣室へ向かった。海人はその手の中のハンカチを見つめた。そこには竹と竹の葉が刺繍されており、対角に彼の名前が縫われていた。「お兄さん」近くの女の子が笑いながら言った。「ハンカチって、告白の意味があるんですよ」海人はそれをしまいながら、にこりと微笑んだ。「これ、彼女が自分で刺したの?」女の子は大きく頷いた。「すごく真剣でしたよ。きっと本気で好きなんですね」海人の全身が、喜びに染まっていた。来依が着替えて戻ってきた時、遠くからでも彼が妙に浮かれているのが分かった。近づくと、彼の視線はあまりにも熱っぽく、彼女は鳥肌が立った。ふと視線をそらすと、さっきの女の子がニコニコしていた。だいたい察しがついた。彼の腕を引っ張って車に乗せ、乗車後に言い訳を始めた。「私は初心者だから、ハンカチが一番簡単だったの。ただの練習用よ。名前を縫うのって、一番最初に習う基本なの」海人は意味深に「へえ」と返事した。「……」来依は説明するのが無意味だと感じ、顔をそむけて車窓の外を見た。だが海人は身を寄せ、半ば彼女を包み込むよ