Masuk結婚して4年。夫の初恋相手が帰ってきた時、谷口凛(たにぐち りん)はすべてを悟った。夫が自分に一切触れようとせず、今まで冷たくあしらってきたのは、彼の性格のせいではなかったのだ。 彼女に渡された生活費は月、たったの数万円。それなのに、彼の初恋がしている研究には、数千万円もの大金をつぎ込んでいたのだった。 その瞬間、彼女は愛される者とそうでない者の残酷な差を思い知った。 谷口智也(たにぐち ともや)は、「初恋の人を結婚で縛りつけたくない、その輝きを失わせたくない」と言う。それなのに凛には仕事を辞めさせて、自分のやりたいことや夢を捨てて家庭に入るよう求めてきた。 でも、智也は知らなかった。妻である凛が、ただのしがない会社員ではないことを…… この4年間、凛は国の最高機密レベルの研究プロジェクトを率いていた。その地位はあまりにも高く、智也の言う「初恋の人」でさえ、彼女の指揮下で働く一員でしかないのだ。 そして智也は、自身が何気なくサインした書類が、二人の関係に終わりを告げる離婚届だったということを更に知る由もなかった。 そして彼が離婚届にサインした1ヶ月後。 凛が天才科学者であることが世に知れ渡り、智也もそこで初めて、自分がすでに離婚していたことを知るのだった。 それを知った時、いつも物腰の柔らかい智也は信じられないという驚きから、みるみるうちに怒りに変わり、目を真っ赤にしながら悪態をついたのだった。 「俺と離婚して、彼女みたいなバツイチを誰が選ぶっていうんだ?」 しかし、後になって復縁を乞うようになったのもそんな強がりを言っていた智也だった。 一方、再び智也に会った凛は、すでに超名門グループの社長の傍に寄り添っていた。元夫を見る彼女の瞳には、もはや何の感情も宿っていなかった。 そして竹内社長もまた眉をくいと上げると、得意気に言った。「谷口社長、みっともないですよ。彼女は今……俺の妻です」
Lihat lebih banyak「社長室で待ってるから」柚葉は浩を追い越し、慣れた様子で社長室へと入っていった。浩は顔をしかめ、受付に内線をかける。「誰が通していいと言った?次から連絡もなしに、勝手に入れるな。凛さんを除いて、社長と面会する者には必ず事前予約と電話連絡を徹底させろ」電話を切った浩は、すぐに会議室へと向かった。智也はスノウ・セミコンダクターと打ち合わせ中で、プロジェクト開始日について相談していた。スノウ側は、この国の日取りを重んじる文化を尊重し、智也に好きな吉日を選ばせることにした。智也はそんな日取りなど待つ気はなく、何かが起きる前に、一日も早くプロジェクトを始めたかった。だから、智也は笑顔で言った。「既に日取りは決めてあります。なので、そちらの準備さえ整っているなら、明日、すぐにでも立ち上げの調印式を行いましょう」スノウ側の人間がソーレンに明日はさすがに急ぎすぎではないかと尋ねたが、ソーレンは昨日、凛と繋がった喜びで興奮しており、そのまま快諾した。智也はほっと胸をなでおろす。「では、ソーレンさん。また明日お会いしましょう」「ええ、また明日」ビデオ会議のモニターが切れた。浩が智也に近づいていき、報告する。「社長、小林さんがいらっしゃっています」智也の眉間にシワが寄り、機嫌が一気に悪くなる。「また何をしに来たんだ?」浩は首を振った。「社長室にいらっしゃいますので」智也は浩に鋭い視線を向けた。事前の確認もなく中に入れたことへの叱責だった。受付にはもう注意をした。しかし、上司からの叱責は黙って受け入れるしかない。智也がオフィスに入ると、柚葉が社長椅子に座り、写真立てを眺めていた。その写真立てに入っていたのは、写真ではなく、かつての智也と凛の婚姻届受理証明書と凛がつけていた結婚指輪だった。智也は近寄り、それを奪い取ると、浩に保管するように言った。「智也、凛さんとはもう離婚したのに、こんなのになんの意味があるっていうの?そんなことより、私とこのお腹の子を見てよ。子どもが生まれて、一番最初にパパって呼ぶ声が聞きたいと思わないの?」子どもというカードは確かに効き目があり、智也が柚葉の腹部を見る目は、少しだけ柔らかくなった。「そんなことは言われなくても分かってる。だからこそ、このことは絶対に口外するな。もしこのことでスノ
凛のことを、ずっと見誤っていたのは自分たちだった。「凛さん本人と話したいんです」日和は鼻で笑って言った。「凛さんは竹内グループの大事な取引先であり、竹内家のお客様でもあるんです。あなたなんかが簡単に会えるわけないじゃないですか。今、こんなことしている暇があるなら、さっさと帰って、お金を集める方法でも考えたらどうですか?」柚葉は反論した。「返せないなんて言ってないじゃないですか。ただ、凛さんに会わせてほしいんです。こんな大ごとにする必要はないと思いませんか?彼女だって国際的な研究者なんだから、家庭の問題を裁判まで持ち込むなんてこと、彼女自身も困るはずなんです」「それは、素晴らしい」と日和は拍手を送る。「随分とご親切なんですね。その優しさは、谷口社長にもたっぷりとむけてきたんでしょうね。でも残念です。凛さんは谷口社長じゃないから、あなたのそんな『気遣い』は、これっぽっちも通用しませんから」そして、日和の顔から一瞬にして温度が消えた。「帰ってくれます?」まったく歯が立たなかった柚葉は、渋々その場を離れた。松田家の運転手が言った。「ご本人はいらっしゃらないみたいですね。もしいらっしゃったら、出てくるはずですから」柚葉もそう考え、次は竹内グループへと向かった。しかし、柚葉が竹内グループの本社ビルに近づいた瞬間、警備員たちが走ってきて、目の前を阻んだ。一人の警備員が冷たく言う。「弊社への立ち入りは固くお断りしておりますので」敬語を使いつつも、柚葉本人を排除しにかかっているのは、明らかだった。いかにも海斗が指示しそうなことだ。柚葉にはずっと解せなかった。若くして竹内グループを継ぎ、絶大な権力を握る海斗が、どうして離婚歴のある女にここまで執着するのか。正気の沙汰ではない。何か特殊な性癖でもあるのだろうか?それほどまでに、海斗は徹底的に凛を護っていた。裁判の日が迫る中、これ以上長引かせるわけにもいかず、さらには松田家の運転手の目もあるため、柚葉は渋々「凛さんに会わせてください」と告げるしかなかった。「博士はあなたに会う時間などありません」柚葉は奥歯を噛み締めて堪える。「それなら、佐野先生を」「佐野先生も同じです」手詰まりになった柚葉は、車に座って待つことにした。竹内グループの社員たちの昼休みに合わせ、誰か
まだ早い時間だったので、運転手は柚葉を連れ、まずは南山ヒルズへと向かった。以前、胡桃に連れられて登録済みだったため、11号棟の谷口家へ行くと言えば、すんなり入れた。しかし、彼女が南山ヒルズの敷地内に入った瞬間、海斗の元に通知が飛んだ。海斗はすぐさま美穂子に電話し、柚葉の動きを監視するよう命じる。折よく早起きしていた日和は、朝食中に外で物音がするのに気づき、外に出てみると、そこに柚葉の姿を見つけた。ダイトとコマキが両側から柚葉のロングブーツに噛みついている。そして真っ青になった柚葉が、「助けて!犬をどうにかして!早く!」と悲鳴を上げていたのだった。柚葉を送ってきた運転手が棒を持って飛び出そうとしたが、凛のボディーガードに凄まれ、そのまま追い払われてしまった。「どこの鶏ですか?もうとっくに夜は明けたっていうのに、今頃鳴き出すなんて」と言いながら、雪を踏みしめて近づく日和。「ほんと、使えない鶏ですね」皮肉だと気づいた柚葉だったが、今の状況では言い返す余裕もない。犬の牙は既にブーツを貫通し、足首まであと数センチに迫っていた。ここで噛まれたら、本当に大怪我をする。「この犬をどうにかしてください!お願いします。今日は凛さんに、大切な話があって来たんです」「大丈夫ですよ」日和は至って無関心だった。「だってそのままでも話せますよね?まだ出血もしてないことですし」柚葉は血の気の引いた顔で叫んだ。「客人に対してそんな態度を取るんですか?!」「客人?あなたが客人?」幼い頃から、日和は「善意には善意で、悪意には悪意で返せ」と教育されてきた。だから好きな相手にはとことん甘えられるし、嫌いな相手には一歩も引かない。「無断で敷地に入ってきた鶏を、番犬が捕まえただけですから。勝手に自分が客人だなんて、思わないでください」まさか鶏を使って相手を形容するとは思わなかった美穂子は、感心したように頷いた。強硬な態度の日和に対し、柚葉は最終手段に出た。「これ以上私を刺激して、犬に襲わせて……万が一お腹の子に何かあったら、責任は取ってくれるんですよね?」凛は裁判を起こすつもりだし、既に智也との離婚も成立している。今さら妊娠を隠す意味なんてない。ただ、祖父の運転手に聞かれるのはまずいので、少し声を落とす。日和は驚いた。「なんて人なんですか?
運転手はすぐに背筋を伸ばし、謝罪の言葉を口にする。「申し訳ありません。以後気をつけます」「ああ」海斗はそのまま続けた。「これ以上、凛を騙すようなことはするな。あいつは散々、嘘に振り回されてきたんだ」「森田にも伝えておけ」「かしこまりました」凛に傘を届けさせたのが、拓海と自分の共謀だと竹内社長には見抜かれていたらしい。運転手は背筋が凍る思いだった。……凛はベッドに横になり、部屋の灯りを消した。窓の外は、一面の雪。積もった雪が夜の光をやわらかく照り返し、白い明かりが静かに部屋へ差し込んでいる。それでも、眠気は少しも訪れなかった。康平はどこにいるのだろう、どうすれば見つけられるのか……そのことを考えていたはずなのに、気づけば脳裏に浮かぶのは海斗の姿ばかり。凛は身につけていた真鍮のペンダントを、細い指でそっと撫でた。これをもらった時、彼女は海斗には言わなかったけれど、この鍵の形をしたペンダントがとても気に入っていたのだ。たとえこの鍵が、物理的なドアを何一つ開けられないものだとしても、凛にとっての「家」の概念は、すべて鍵から始まっていた。小学校の頃、同級生が家の鍵の話をするのを聞いていた凛。ランドセルに入れている子もいれば、首からぶら下げている子もいた。あるいは邪魔だと言って、植木の底や窓枠の上、椅子に乗らないと届かないような場所に隠しているという子の話を聞いたりもした。自分の家の鍵は自分の家の玄関しか開けられない。スペアの鍵を無くしたら、玄関のドアごと取り替えなければいけない。新しい玄関になれば、また新たな鍵を持って出かける。彼らのそんな話を聞きながら、凛は自分の知らない「家」というものを、少しずつ思い描いていった。高校時代から大学時代、寮の鍵はいつも首から提げていて、卒業後も大切に保管していた。でも最近は科学技術が進歩し、玄関のほとんどがスマートロックになり、暗証番号や指紋で開けるのが当たり前だ。智也と入籍した時、凛はほんの少しだけ残念に思ったものだ。ようやく自分の家を持てたというのに、もうそこには鍵という実体がなく、ただ数字が並ぶだけだったから。雪明かりに包まれた部屋で、凛はゆっくりと眠りに落ちていく。みんなが家の鍵の話で盛り上がっていた、小学生のあの日の夢を見た。幼い自分は教科書の隅に、鍵のつ
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
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