ANMELDEN前に戻ってきたとき、柚香は和雄から預かった箱を母に渡し、伝言を伝えた。あのとき母はそれほど気に留めず、「部屋に置いておいて」と言ったきり、それ以上は何もしなかった。そのため、今になっても柚香はまだ答えを知らない。「嫌よ」安江は淡々と言った。まるで過去に未練などないようだった。柚香は頷き、通話ボタンをスライドさせて電話に出ると、そのままスピーカーに切り替えた。電話がつながると、和雄の優しい声がスマホから聞こえてきた。「柚香、おじいちゃんが忙しいところ邪魔してないか?」柚香は穏やかに答えた。「大丈夫です」「それならよかった」和雄はほっと息をつき、続けておそるおそる尋ねた。「この前、俺が頼んだこと……どうだった?」「神崎家の本宅のほうが、ここの庭よりずっと手入れが行き届いてます。おじいちゃんは、やっぱりあちらで暮らしたほうがいいと思います」柚香は少し黙ってから口を開いた。あまりにもはっきり断るのは気が引けて、わざと遠回しに伝えたのだ。和雄「……」執事が小さく咳払いをした。その言葉が何を意味しているのか、誰にでも分かった。和雄は、あの厚かましい昭彦を思い出し、自分も真似してみることにした。「安江に断られたのか?」柚香は「はい」と答えた。和雄はさらに尋ねた。「今、君は安江と一緒にいるのか?」柚香は安江に目を向けた。母の目を見て、その意図を察すると答えた。「いますよ」「安江に代わってくれ」和雄は落ち着いた口調で言ったが、実際には椅子を握る手に無意識に力が入り、全身から緊張が滲み出ていた。「少し話したい」柚香はスマホを安江の前に置いた。安江は相変わらず冷たい態度だった。「何?」「安江、俺が柚香に渡した箱、まだ見てないんだろ?」和雄は、自分の娘がここまであっさり断るとは信じられなかった。安江は正直に答えた。「見てない」「一度だけでいいから見てくれ」「興味ない」和雄は娘が頑固なのを知っていた。だが、自分も負けないくらい頑固だ。「一度だけでいい。見たうえで、それでも俺をここに住まわせたくないっていうなら、もう何も言わない。約束する」安江の表情が、一瞬だけ揺らいだ。かつては堅苦しくて厳しかった父が、いつからこんなふうになったのだろう。「……お願いできないか?」和雄がここまで変わ
だからこそ、拓海は株を手放したくなかった。柚香に渡してしまえば、間違いなく自分を狙い撃ちしてくる。自分の部下を切って、柚香側の人間に入れ替えるに決まっている。「でも、もう一つ考えてみてほしい」涼介は頭の中を整理しながら、冷静に続けた。「もしお父さんが株を柚香に渡したら、おじいちゃんはきっとお父さんを見直す。遺産を分けるときだって、お父さんの取り分が減ることはないと思う」拓海は言葉を失った。祖父が持っているほかの証券会社やIT企業の株、それにさまざまな不動産。全部合わせれば、確かに途方もない額になる。「少し考えさせてくれ」「ゆっくり考えて」涼介はそれ以上口を挟まず、席を立った。「俺はおじいちゃんのところへ行ってくる」拓海は引き止めなかった。承輝の件は、拓海にとってかなり大きな衝撃だった。もともと涼介を呼んだのも、柚香を狙っていることを拓哉に擦りつけるための計画を考えさせるつもりだったからだ。計画は賢すぎてもいけないし、あからさまでもいけない。何しろ、拓哉はそこまで頭が切れるわけではない。それがまさか、こんな話になるとは思わなかった。涼介が実家に着くと、ちょうど拓哉と鉢合わせした。いつも通り謙虚で穏やかな様子の拓哉は、涼介に声をかけた。「おじいちゃんに会いに来たのか?」涼介は軽く頭を下げた。「おじさん」「柚香の最初の案件の入金はもう済んだんだろ?何か計画はあるのか?」拓哉が気にしているのは、そのことだけだった。「何のことを言ってるのか、俺にはわからないが……」「君たちが裏で何か企んでるのは知ってる。言いたくないなら、おじさんも無理には聞かない」拓哉は思っていた。拓海の性格を考えれば、柚香に株を渡すなんて、まずあり得ない。涼介はそれ以上何も言わず、二、三言葉を交わしただけで、そのまま和雄のいる部屋へ向かった。部屋に入った途端、和雄と執事の会話が聞こえてきた。「もう二日も経つのに、なんで柚香から電話がかかってこないんだ?」執事は答えた。「おそらく、和雄様に気を遣っているのではないでしょうか」和雄はわざと怒ったような顔をした。「もういい、もういい!縁起でもないことを言うな。あれだけのものを渡したんだ。安江だって、昔は私たちが仲良くしていた頃のことを思い出してくれるに決まっている」「
「何事も絶対に不可能とは限らない」涼介は今、とても冷静だった。「一つ、ずっとお父さんに言ってなかったことがある。この前、お父さんに言われておじいちゃんに会いに行ったとき、俺、お兄さんにも会ったんだ」「蓮司に?」拓海は眉をひそめた。涼介は頷いた。拓海の胸に、嫌な予感がよぎる。「俺たちの計画を話したのか?」「話してない」涼介はいたって冷静だった。どうすれば父親が考えを改めるのかも分かっている。「でも、蓮司には気づかれた。それで、もしこのことで遥真に狙われるようになっても、自分は助けないって念を押された」「口ではそう言っただけだ」拓海はそう言って、わずかに表情を緩めた。「本当に見捨てるわけじゃない」涼介は、父親が楽観的すぎると思った。「もし、本当に見捨てられたら?」拓海の顔色が曇った。今日の涼介はいったいどうしたというのか。さっきから何かにつけて水を差してくる。承輝のことで、そこまで怖くなったのか?「お兄さんは昔から、お父さんやお母さんとはあまり親しくないだろ」涼介は家族の利益を守りたいと思っていた。だが、その利益のために家族の命まで危険にさらすくらいなら、そんなものはいらない。「お兄さんとお父さんたちの間に何があったのか、俺には分からない。でも、お兄さんが俺にあんなことを言った時は、本気だった」「怖くなったのか!」拓海の声に怒気が混じった。「そうだよ」涼介はあっさり認めた。「お父さんに危険な目に遭ってほしくない。俺だって、この家がバラバラになるのは嫌だ。前に俺が修司と話をしに行ったこと、覚えてるだろ?」拓海の顔はますます険しくなり、我慢も限界に近づいていた。「覚えてる」「その時、俺は修司に、遥真を一緒に潰すために手を組もうって持ちかけた。あいつが欲しがってるものを手に入れるのを手伝うってな」あの時のことは今でもはっきり覚えている。「修司は最後まで礼儀正しく接してくれたけど、明らかに俺を見下してる目をしてた」自分という人間を見下していたわけじゃない。自分ごときが遥真を相手にしようとしていること自体を、無謀だと思っていたのだ。食事の席が終わる時、修司はこんなことまで言っていた。「俺の弟は気性が荒い。兄の俺ですらあいつには敵わない。少しでも平穏に暮らしたいなら、あいつを敵に回さないほうがいい」あのとき涼介
承輝の件が片付いたことで、黒崎家からこれ以上柚香を狙ってくる可能性は低いだろう。奏汰は典型的な遊び人で、陰で何か企むようなタイプでもない。表立った手なら、柚香も簡単に対処できる。ほかの人たちについては。常和が戻れば、おそらく片付けてくれるだろう。そうなると、残る危険は神崎家だけだ。承輝が警察に連行されてから三十分もしないうちに、神崎家にもその知らせが届いた。拓海は涼介を呼び、今回の件について話した。「承輝が逮捕されたっていうのは本当か?」「本当」涼介の顔からは、さっきまでの余裕が消えていた。「啓介本人が指揮を執っている」拓海は眉をひそめた。「この件を啓介が担当するとなると、厄介だな」啓介は蒼海市の名家・藤堂家の跡取りだ。藤堂家は四大名門には及ばないが、その地位は決して低くない。そのため、名家が絡む事件を扱う時でも、彼は一切手加減しない。ほかの相手なら、多少口を利いてもらったり、ツテを頼ったりすることもできる。だが、啓介にはそれが一切通用しない。あの男の頭にあるのは、法律と正義だけだ。「承輝が最終的にどうなるか、分かってるのか?」拓海が尋ねた。「判決が出るまでには、まだしばらくかかる」涼介が答える。「ただ、聞いた話では、承輝の罪状なら死刑になる可能性がかなり高い」拓海「?」拓海は理解できないという顔をした。「あいつがやったのは、せいぜい殺人未遂を依頼したくらいだろ?なんで死刑になる?」涼介は顔を上げ、薄い唇を開いた。「遥真が事前に承輝の犯罪の証拠を提出してた。具体的にどんな証拠なのかは、まだ分からない。でも警察にいる知り合いの話じゃ、罪状はかなり多いらしい。死刑は免れない可能性が高い」拓海の目が険しくなった。いろいろな可能性は考えていた。だが、まさか遥真が承輝をここまで追い詰められるとは思っていなかった。「お父さん」涼介は蓮司からあの話を聞いて以来、ずっと考えていた。「俺たち、もう柚香と争うのをやめないか?」拓海は涼介に目を向けた瞬間、表情をこわばらせた。「今、何て言った?」争うのをやめる?まさか、あれだけのものを全部ただで柚香に渡せというのか。あれは神崎家のものだ。どうして柚香に渡さなきゃならない。「承輝がどうなったか、お父さんも見ただろ。このまま争い続けたら、次
「これは個人的な仕事です」康平がすぐに説明した。「正式な任務とか、そういうのじゃないです」「じゃあ、二人が隊長に会ってから私に話して」柚香はあっさりと言った。康平と慎吾は頷いた。三人が話し終えたところで、リビングにまだ常和が座っていることに気づいた。常和は複雑そうで、申し訳なさそうな目で柚香を見ていたが、口を開いても一言も出てこなかった。しばらくして。ようやく柚香に声をかけた。「柚香……」柚香の態度は何も変わらない。「何でしょう?」「承輝があんなことをするなんて、俺は知らなかった」常和は本当に想像もしていなかったのだ。「すまなかった」「常和さんも大変だったでしょう」柚香は温かいお茶を一杯注いで差し出した。その口調はどこまでもよそよそしかった。「早めに帰って休んでください。承輝のことは、もう気にしなくていいです」常和は胸が詰まるような思いだった。もし承輝がここまで執念深い人間だと知っていたら、柚香を敵に回してまで彼を庇ったりはしなかった。せっかく少しずつ和らいでいた関係まで、こんなにこじらせることもなかった。「君が俺を恨んでいるのは分かっている」その瞬間の常和は、何歳も一気に老け込んだように見えた。「だが、君の父親は本当に君を大切に思っている。このところずっと、君のために俺と対立して、あちこちから証拠を集めて、君にきちんと説明しようとしていた。黒崎家に戻りたくないなら、それでもいい。だが、あいつとはちゃんとうまくやっていけないか?」ここまで来て、常和にはもう分かっていた。自分がこれまでしてきたことも、今していることも、あまりにも間違っていた。結末が決まってしまったのなら、せめて息子のためにできることをしてやろう。「他に用がなければ、もう帰って休んでください」柚香はその話題を避けた。「承輝が逮捕されたことは、もう黒崎家にも伝わっているはずです」常和は、柚香がそれ以上話すつもりがないことを察した。無理に話を続けようとはしなかった。「……分かった」「康平」柚香はいつものように淡々と指示を出した。「常和さんを送ってあげて」「送らなくていい」常和はさっきよりずっと疲れた顔をしていた。「車は外にある。自分で帰れる。今日は本当にすまなかった。まさか承輝が君にまで手を出すとは思わなかった」
「当ててみろ」康平は答えなかった。啓介は興味なさそうに言った。「興味ない」康平は顎を上げ、承輝を指差した。「こっちは興味あるだろ」「蒼海市警察署の藤堂啓介です。こちらは逮捕状です」啓介は淡々とした口調で逮捕状を取り出し、承輝に見せた。「あなたには、違法な資金集めによる詐欺や手形詐欺など、複数の容疑がかかっています。これより法律に基づいて逮捕します。こちらの指示に従い、無駄な抵抗はしないでください」「来るな!」承輝は、呆然としている間に自分が警察に囲まれていたことに気づき、声を荒らげた。「それ以上近づいたら、こいつを殺すぞ!」啓介は承輝の後ろにいる警察官に目配せした。承輝がこれで相手をひるませたと思った、その瞬間だった。刃物を握っていた手を、背後から素早くひねり上げられた。同時に、真正面に立っていた啓介も動いた。その動きはあまりにも速かった。五秒もかからないうちに、承輝の手には手錠がかけられていた。「さすが啓介隊長」康平は親指を立てた。「仕事が早いな」「あなたたちの隊長は、三日後に蒼海市へ来る」啓介の話し方は、慎吾と同じように抑揚がほとんどない。ただ一つ違うのは、啓介には表情の変化があることだ。「彼女から伝言を預かっている。まだ終わっていない任務があるなら、急いで片づけろ」康平「……」慎吾「……」「この人、俺たちの隊長と知り合いなのか?」慎吾は無表情のまま尋ねた。康平「聞いたことないな」慎吾「隊長の出張先は機密だろ。どうしてこいつが知ってるんだ?」康平「一つ、大胆な推測がある」慎吾「言ってみろよ」康平は、啓介のすっきりとした顔立ちと、光を弾くような白い肌を見ながら言った。「まさか、隊長が言ってた『顔だけはやたら綺麗なのに、感情がまるでない、幼なじみであり宿敵でもある男』って、こいつじゃないか?」慎吾「隊長は、幼なじみの宿敵について『俗世離れしているかのように淡々としていて、繊細な心の持ち主』って言ってた。目の前のこの人と、確かに少し似てる」康平「だろ?」康平が言うと、慎吾も頷いた。二人の会話を聞いていた啓介は、表情を変えることなく、淡々と一言だけ告げた。「撤収する」警察官たちは承輝を連れて、その場を後にした。外へ連れ出される間も、承輝はずっと喚き続けていた。







