結婚して三年、片桐真琴(かたぎり まこと)がしてきたことと言えば、夫・片桐信行(かたぎり のぶゆき)の数えきれないほどの火遊びの後始末だった。 しかし、また彼のスキャンダルを処理したまで、彼が仲間と自分の結婚を嘲笑しているのを耳にするまで。 その瞬間、真琴の心は完全に折れた。 離婚協議を突きつけるが、信行は冷たく言い放つ。 「片桐家にあるのは死別だけだ。離縁はない」 そして、ある「事故」によって、真琴は信行の目の前で燃え盛る炎の中に消え、その身を灰にした。 彼の前から、永遠に。 *** 二年後、仕事で東都市に戻った彼女は、彼の差し出す手を握り返し、静かに名乗った。 「浜野市・西脇家の西脇茉琴(にしわき まこと)です」 亡き妻と瓜二つの女性を前に、二度と結婚しないと誓った信行は狂気に駆られ、猛烈な求愛を始める。 「茉琴、今夜、時間はあるか?一緒に食事でも」 「茉琴、このジュエリーはよく似合うよ」 「茉琴、会いたかった」 茉琴は穏やかに微笑む。 「片桐さんは、もう二度とご結婚なさらないと伺っておりますが」 信行は彼女の前にひざまずき、その手に口づけを落とす。 「茉琴、俺が悪かった。どうか、もう一度だけチャンスをくれないか?」
View Moreそう言って電話を切ると、真琴はもう茶碗お椀に手を伸ばすことなく、美雲と信行に向き直って言う。「お義母様、処理しなければならない仕事がありますので、先に失礼いたします」美雲が引き留める。「まだご飯も食べ終わっていないのに」真琴は微笑んで答える。「もうお腹いっぱいですから」「そうなの。じゃあ、先に行って仕事をしなさい。後で夜食が食べたくなったら、お義母さんに言うのよ」「はい」真琴が立ち去るのを、美雲は見送る。だが信行は一瞥もくれず、その態度は相変わらず冷淡なままだ。真琴が部屋に入ると、美雲はようやく信行に向き直り、不機嫌に口を開く。「真琴ちゃんがさっき言ったこと、全部聞こえたでしょう。何度言ったら分かるの。あまりやりすぎないで、調子に乗らないでと言ったはずよ。聞く耳も持たないの。あの子がもうあなたとやっていけないと言っているじゃない。内海家の娘のどこがいいっていうの?一人いなくなったら、また別の一人を引っかけて。どうしてそんなにあの家の人間に執着するの?」信行が口を開く前に、美雲は畳みかける。「真琴ちゃんがこの数年間、片桐家のため、会社のためにどれだけ尽くしてくれたか。あなたのために、どれだけ我慢してきたと思ってるの!あなたには目がないの?それが見えないの?人として、少しは良心を痛めなさい!」母親の長広舌に、信行は冷ややかに言い放つ。「あいつが尽くし、我慢してきたのは、自分なりの考えがあるんだろうさ」その言葉に、美雲の表情が険しくなる。じっと息子を見つめ返した。「その話、どういう意味?真琴ちゃんが片桐家の何かを狙っているとでも言いたいの?真琴ちゃんと長年付き合ってきて、あの子がどんな人間か、分からないはずがないでしょう?その言葉が、心に咎めないと思うの?」信行は無表情で言う。「分かったよ。一晩中、説教を聞くのはもうたくさんだ」美雲は言い続ける。「いいわ。じゃあ、説教はしない。今、あなたに求めるのは一つだけ。これからは、真琴ちゃんと仲良く暮らしなさい。そして年内に、真琴ちゃんを妊娠させること。さもなければ、今後二度と由美に会えると思わないことね」母の脅しに、信行は顔を上げて彼女を見つめる。美雲は一歩も引かず、ただ続ける。「本当に由美をそんなに愛しているなら、あの時、お爺様の
しかし、もう三年だ。美雲は疑わずにはいられない。あの人でなしのバカ息子は、真琴をまるで後家のように扱っているのではないか、と。美雲の問いかけに、一瞬、真琴はどう答えていいか分からなくなる。しばらく義母を見つめた後、口を開く。「お義母様、信行さんとは、離婚するつもりです」考えに考えた末、やはり本当のことを告げることにした。「離婚!?」美雲は一気に激昂する。「何かあったの?どうして、いきなり離婚なんて」畳み掛けるように、また真琴に尋ねる。「信行が言い出したのね。あのバカ息子……!」美雲が罵り終える前に、真琴は急いで割って入った。「お義母様、信行さんが言い出したのではありません。私から、切り出したのです」その言葉に、美雲は瞬時に静まり返る。しばらく真琴を見つめた後、尋ねる。「真琴ちゃん、由美が帰ってきたからなの?由美は帰ってきたけれど、お義母さんと片桐家は絶対にあなたの味方よ。あの子が何か騒ぎを起こせるはずがないわ。信行をしっかり見張っておくから」この三年間、真琴が耐え忍んできたことを、美雲は全て見てきた。彼女を不憫に思うと同時に、自分の息子に腹を立てていた。しかし、どうしようもない。何度信行を罵っても、彼は意に介さない。茶碗お椀と箸を手に、真琴は静かに美雲を見つめる。「お義母様、由美さんのせいではありません。ずっと前から、そう考えていました。だから、数日前に信行さんに話したのです」以前は、いつも「信行」と呼んでいたのに。いつからか、その呼び方をしなくなった。「彼」と呼ぶか、或いは「信行さん」と呼ぶ。その様子を見て、美雲は説得にかかる。「真琴ちゃん、感情的にならないで。もう少し様子を見て、考え直してみない?せっかく一緒になれたんだもの、簡単なことじゃないのよ。しばらく様子を見て、もし信行がまだ前と同じようだったら、お義母さんももうあなたを止めないわ。それで、いいかしら?」それを聞いて、真琴は穏やかな声で言う。「お義母様、結構長い間、様子を見てまいりました」深い溝は、一日にして成らず。信行を好きだったが、彼への想いは来る日も来る日も続く無関心の中で、少しずつ削り取られていった。美雲を見つめ、真琴は続ける。「お義母様、もうこんな風に続けるのは嫌なんです。
両手でハンドルを握り、信行は笑ってしまう。「なんだ?俺と一緒にいるのが、指折り数えるほど苦痛か?」真琴は説明する。「そういう意味ではありません。私自身の予定を立てて、今後の計画を考えたいだけです」数日前にアークライト・テクノロジーへ履歴書を送ったところ、先方からは社長自ら「いつでも入社してくれて構わない」と返信があったのだ。今は五月の上旬。今月中に退職手続きを済ませ、来月には出社するつもりだ。だから、信行にこれ以上、時間を取らせるわけにはいかない。信行は言う。「一ヶ月か二ヶ月ぐらいだろう」一ヶ月か二ヶ月ぐらいなら、先方との調整もできるはずだ。心の中で算段を立て、真琴は応じる。「では、分かりました」しばらくして、二人は会社に着く。信行は車のキーを警備マネージャーに投げ渡し、真琴と共にビルへと入っていく。「社長は今日、副社長と一緒に出社したんですか?」「今日は、社長が副社長とご一緒だなんて。また何か会社の広報活動の一環ですか?」「社長、副社長、おはようございます」「社長、副社長、おはようございます」社員たちの挨拶に、真琴は軽く頷いて応え、信行は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、視線だけで応じる。しかし、二人が揃って出社する光景は、やはり社内に大きな波紋を広げる。オフィスは、その噂話で持ちきりだ。さらには、二人が平穏を装っているのか、それとも時が経つうちに愛情が芽生えたのか、賭けをする者まで現れる始末。そして、ほとんどが平穏を装っているだけ、に賭けている。十時過ぎ、真琴が二つのファイルを手に別の副社長のオフィスから出てくると、前から由美の声が不意に聞こえてくる。「真琴ちゃん」顔を上げると、そこにいたのは由美だ。真琴は丁寧に挨拶する。「由美さん」由美は親しげに近づき、笑顔で言う。「真琴ちゃんにデザートを持ってきたの。デスクに置いておいたわ」真琴は言う。「ありがとうございます、由美さん。でも、これからはそんなにお気遣いなく」由美は手を伸ばし、真琴の顔にかかった髪を耳の後ろにかけてやる。「そんな他人行儀な言い方はやめてよ。私たちの仲でしょ?」そう言って手を離した時、真琴は彼女の薬指にプラチナのダイヤモンドリングがはめられているのに気づく。指輪はと
信行はその様子に気づき、低い声で尋ねる。「どうした?」と言いながら、両手をそっと拳に握り、頭の両脇に置く。真琴は静かに唾を飲み込み、信行の目を見つめながら、先ほどの話を真剣に続ける。「ちゃんと考えて、離婚を切り出すことにしたのです」信行の先ほどの説明など、何の意味もない。何も表してはいない。来る日も来る日も続く彼の無関心、嫌悪、そして冷たい態度こそが、紛れもない真実なのだ。離婚を固持する真琴に、信行は彼女の手首を掴み、身をかがめてその唇にキスをする。突然のキスに、真琴は目を見開く。体中が硬直する。驚きの表情で彼を見つめ、呼吸さえも止めてしまう。真琴の柔らかい唇に優しくキスをしながら、彼女が息もつけないほど緊張しているのを見て、信行はさらに丁寧にキスを重ねる。拓真の言う通りだ。やはりこいつの機嫌を取らないと、反乱を起こしかねない。滑らかな肌を撫でながら、信行がベッドから抱き上げた時、真琴は「んっ」とくぐもった声を漏らす。その声は、とても艶めかしい。そして、両手を彼の胸に当てる。その様子を見て、信行は彼女の両手を取り、自分の指と絡ませて拘束する。その時、真琴は少し震える声で尋ねる。「キスする相手を間違えていませんか?」真琴が尋ね終えた、その瞬間。信行は、途端に興ざめする。彼女の上から身を起こすと、メインライトをつけ、立ち上がってタバコに火をつけた。真琴は急いで身を起こし、服のボタンを留め始める。窓際に立っている信行は彼女を振り返る。真琴は……実はひどくつまらない女だ。テーブルの方へ歩み寄り、何事もなかったかのように腰をかがめてタバコを消すと、クローゼットからシャツとスーツを取り出し、平然と着替え始める。真琴はとっさに視線を逸らす。信行はそれに気づき、笑って尋ねる。「見る勇気もないのか?」真琴は彼を見上げるが、何も言わない。信行は彼女に手招きする。「こっちへ来い」しばらく彼を見つめていたが、やがてベッドから降りて彼の元へ向かう。信行の前に近づく。「ネクタイを締めるのですか?」男は笑う。「夜中に、ネクタイなんて締めるかよ」そう言って、ベルトを彼女の手に押し付ける。「締めてくれ」「……」真琴は言葉を失う。手の中のベルト
驚きのあまり、真琴は顔を上げて彼を見つめる。「まだ寝ていなかったのですか?驚きました」真琴は彼の問いには答えず、ただ立ち尽くしている。信行は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、冷ややかに彼女を見つめていた。その視線に、真琴はなぜか少し居心地の悪さを覚える。これまで一度も自分のことなど気にかけてくれたことなどなかったのに。彼の視線を避け、真琴は説明した。「携帯の電池が切れてしまったんです。紗友里が出張から帰ってきたので、一緒に食事をしていました」信行は「はっ」と鼻で笑う。「食事一回に六、七時間も費やすのか?」真琴も、同じように信行を見つめ返す。彼をしばらく見上げた後、口を開く。「私にも友人を持つ権利くらいありますし、自分の生活があってもいいはずです」真琴を見下ろし、信行は気だるげに言う。「まだ離婚も成立していないのに、もう演技もできなくなったか?」演技?自分がいつ、何を演じたというのだろう?結婚して三年、外出したのはこの一回きり。今夜、彼が自分より早く帰ってきただけで、たまたま携帯の電池が切れただけだ。三年間、ずっとこうして過ごしてきた。三年間、ずっとこうして誰もいない部屋を守ってきた。信行を前に、真琴は是非を争う気にはなれなかった。結局、この道を選んだのは自分自身なのだから。ただ、淡々と告げる。「私たちは、もうすぐ離婚します」それは「もう私に関わらないでほしい」という、無言の宣告だった。真琴がそう言うと、信行はただ冷ややかに彼女を見つめる。自分を見て何も言わない彼に、真琴は背を向け、洗面所へ行こうとする。その時だった。ポケットから伸びてきた信行の右手が、ぐいと彼女の腕を掴む。「結婚したい時に結婚して、離婚したい時に離婚する。片桐家を何だと思ってるんだ?」数日前、離婚の話を持ち出した時、信行は取り合わなかった。今日また同じ話を蒸し返すとは。本当に、彼は堪忍袋の緒が長いとでも思っているのか?信行に引き戻され、真琴も一気に腹が立ち、相手を睨みつけて強い口調で言う。「もし結婚後の生活がこうなると知っていたら、あなたと結婚なんてしませんでした」少し間を置いて、続ける。「離婚が会社に影響するのではとご心配なのは分かります。手続きが終われば、この件は秘密
真琴は由美が帰国したのを気にして、揺さぶりの手口を変えてきただけだと思っていた。まさか、本当に離婚の許可を取り付け、秘密保持契約書まで準備し、挙句の果てにはここ数日で役所へ問い合わせまでしたとは。信行は、この事態が面白くなってきたと感じる。そして、離婚を口実に、彼女がどんな法外な要求を吹っかけてくるのか、この目で見てみたいとさえ思う。その言葉を聞き、真琴は目の前の男が信じられなくなる。信行の心の中で、自分が一体どれほど下劣な人間だと思われているのか、想像もつかない。話にならない。この人とは、もう話にならない。彼が自分に抱く偏見は、一生変えられないだろう。もういい。もう、どうでもいい。やがて、真琴は彼を見つめ、力なく告げる。「そう思うなら、それでいいです。それで、ご都合はいつがよろしいですか。手続きに行きましょう」真琴があっさりと認めたことに、信行の顔から笑みがすっと消える。そして、ただ冷ややかに真琴を見つめる。自分を見て何も言わない彼に、真琴は続ける。「休んでいてください。時間ができたら、知らせていただければ結構です」そう言って、真琴は振り返り、ドアへ向かう。右手を上げてドアを開けようとした瞬間、手首を突然掴まれた。反応する間もなく、信行にぐいと引き戻され、彼の目の前に投げ出される。よろめきながらも体勢を立て直し、信行を見上げる。こうして引き戻され、本来なら腹が立つはずだったが、炎の中から自分を抱き出してくれた時のことを思い出すと、その怒りも霧散してしまう。掴まれて赤くなった手首をさすりながら、尋ねる。「まだ何か御用ですか?」ずっと考えていた。何度も、何度も。どうしてこうなってしまったのか。信行がどうして自分をこんなにも嫌うのか、真琴には分からなかった。真琴は平然と佇んでいる。信行は両手をズボンのポケットに戻すと、顔をそむけて呆れたように笑った。一頻り笑った後、再び顔を戻し、真琴を見下ろして言う。「どこのどいつだ?俺に恥をかかせるだけの度胸があるやつは」「……」真琴は黙り込む。そう言うなら、自分だって一体いくつ恥をかかされてきたことか。真琴が何も言わないので、信行はテーブルに近づき、腰をかがめてタバコとライターを手に取り、また一本火をつける。
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