LOGIN結婚して三年、片桐真琴(かたぎり まこと)がしてきたことと言えば、夫・片桐信行(かたぎり のぶゆき)の数えきれないほどの火遊びの後始末だった。 しかし、また彼のスキャンダルを処理したまで、彼が仲間と自分の結婚を嘲笑しているのを耳にするまで。 その瞬間、真琴の心は完全に折れた。 離婚協議を突きつけるが、信行は冷たく言い放つ。 「片桐家にあるのは死別だけだ。離縁はない」 そして、ある「事故」によって、真琴は信行の目の前で燃え盛る炎の中に消え、その身を灰にした。 彼の前から、永遠に。 *** 二年後、仕事で東都市に戻った彼女は、彼の差し出す手を握り返し、静かに名乗った。 「浜野市・西脇家の西脇茉琴(にしわき まこと)です」 亡き妻と瓜二つの女性を前に、二度と結婚しないと誓った信行は狂気に駆られ、猛烈な求愛を始める。 「茉琴、今夜、時間はあるか?一緒に食事でも」 「茉琴、このジュエリーはよく似合うよ」 「茉琴、会いたかった」 茉琴は穏やかに微笑む。 「片桐さんは、もう二度とご結婚なさらないと伺っておりますが」 信行は彼女の前にひざまずき、その手に口づけを落とす。 「茉琴、俺が悪かった。どうか、もう一度だけチャンスをくれないか?」
View More「あいつが俺に本気だとでも思ってるのか?あいつはお前とは違う。女がみんな、お前や紗友里みたいに単純なわけじゃないんだ」信行の言葉に、真琴は淡々と言い返す。「あの頃の私だって、あなたの目にはちっとも単純な女じゃなかったはずだけど」過去の話を持ち出され、信行はすぐさま真顔になって非を認めた。「あの時は俺が間違ってた。完全に俺の誤解で、考えすぎてたんだ」そう素直に謝られてしまっては、真琴もそれ以上言い争う気にはなれなかった。しばらく無言で箸を進めた後、真琴はようやく顔を上げて言った。「私たち、やっぱり少し距離を置いた方がいいわ。これ以上、中途半端な期待を持たせたくないから」だが、信行はこう返す。「お前は今まで通りでいい。態度を変える必要もない。俺がどう思うかなんて気にしなくていいから、ただの友達として接してくれればいい」そこまで言われてしまうと、真琴はもう返す言葉が見つからなかった。あのプライドの高い信行がここまで折れるのだから、相当なことなのだろう。話がそこで一段落すると、その後に信行が何を話しかけてきても、真琴はまともに取り合わなかった。食事が終わると、信行は真琴を車に乗せ、山頂へ夜景を見に向かった。まだ結婚する前、学生時代にはよく山へ行き、一緒に星を眺めたものだった。大勢で行くこともあれば、二人きりの時もあった。秋口の空気は少し肌寒く、山頂はさらに冷え込んでいた。車を降りてボンネットの前に寄りかかり、眼下に広がる街の灯りを見下ろしていると、真琴の胸にふと感慨深い思いがよぎった。知らず知らずのうちに、昔のいろんな出来事が思い出される。ゆっくりと歩み寄ってきた信行は、真琴の隣に寄りかかると、ミネラルウォーターのペットボトルをさりげなく差し出してきた。差し出された水を見て、真琴は信行の顔をちらりと一瞥してから、それを受け取った。その素っ気ない視線と態度に、信行は思わず口角を上げてふっと笑う。そして、真琴の方へわずかに腰をずらし、さらに距離を縮めてきた。こそこそと距離を詰めてくる信行を横目で見て、真琴は露骨に嫌そうな顔をした。「調子に乗らないで」すると、信行は気にせず尋ねてきた。「お前と貴博さんはどうなってるんだ?まだ続いてるのか?」ペットボトルのキャップをひねって一
「成瀬さん、メイク室はまだお使いになりますか?」メイクスタッフに声をかけられ、渚はようやく我に返り、慌てて椅子から立ち上がった。「いいえ、もう大丈夫です。ありがとうございます」引きつった笑みを浮かべてそう言うと、スマホを手にメイク室を後にした。自分のデスクに戻ると、何度も信行に電話して何があったのか問いただそうとしたが、最後にはどうにか理性が勝り、その通話ボタンを押すことはなかった。代わりに、別の番号へと発信した。電話が繋がると、渚は尋ねた。「信行さん、今日は忙しかったのかしら?」電話の向こうの男は答えた。「片桐社長は今日、一日中会議に追われておりまして、終業後は東央システムズへ向かわれました。西脇茉琴とご一緒です」最後の二言を口にする時、男の声は目立って小さくなっていた。その言葉を聞いて、渚は頭から冷水を浴びせられたような衝撃を受けた。信行が自分を鬱陶しがったのは、やはりあの元妻のせいだった。都合よく死んだままでいればよかったものを、どうしてまた戻ってきたのか。どす黒い感情で真琴を呪いながらも、渚は根本的な事実を自覚していなかった。今の自分の立場や身分、そして信行との浅い交際では、真琴と張り合う資格すらないということを。自分と信行の関係は、ただ見合いをして数回顔を合わせ、何度か食事をしただけの仲に過ぎない。由美との関係にすら、遠く及ばない。唐突に電話を切り、渚はオフィスでしばらく呆然と座り込んでいたが、やがてバッグを手に退社した。……一方、レストランに無理やり連れ出された真琴は、運ばれてきた料理を前に、相手には見向きもせず黙々と箸を動かしていた。強引に付き合わされたことへの苛立ちが、まだ腹の底でくすぶっている。向かいに座る信行はどこ吹く風で、せっせとこちらの皿に料理を取り分けてくる。山盛りにされていく皿を見つめ、真琴は顔を上げてジロリと睨みつけた。「もういいわよ。一人でこんな量、食べ切れるわけないじゃない」相手がこれほど図々しい態度に出る以上、真琴も容赦なく言葉を返すようになっている。そのそっけない態度にも、信行は箸を持ったまま悪びれる様子もなく言った。「ずいぶんと不機嫌だな。ただ飯に誘っただけで、取って食おうってわけじゃないんだから」真琴は箸を止め、淡
雨あられと降ってくる真琴の平手打ちに、信行は痛みのあまり息を吸い込み、ふと顔を上げた。視線がぶつかる。怒りに満ちた真琴の目をまじまじと見つめ、信行は唐突にふっと吹き出した。笑い声を上げられ、真琴は余計に腹を立てて、再び右手を振り上げると遠慮なく数発引っぱたいた。そして、声を荒げて問い詰める。「一体何がしたいの?どういうつもり?」優しく言っても厳しく言っても、これまで何度も言い聞かせてきたのに、どうしてこの男には一切通じないのだろうか。怒り心頭の真琴に対し、信行はどこか悪ぶった様子で、悪びれもせず言い放つ。「お前を抱きたい、欲しいって言ったら、大人しく抱かせてくれるか?」言い終えるが早いか、真琴がさらに怒り出す隙も与えず、今度はどこか甘えるような口調で話を逸らす。「手加減ってものを知らないのか。絶対に背中も腕も真っ赤になってるぞ」真面目なのかふざけているのか分からない極端な態度の急変に、真琴はすっかりお手上げだった。昔も今も、信行には到底敵わない。目の前に顔を寄せてくる信行を冷たく睨み下ろし、真琴は一言一句区切るように言い放った。「信行、いい加減にして。図々しいにもほどがあるわよ」信行はシートベルトを締め終えると、引っぱたかれた腕をさすりながら言う。「遠慮もしたし、紳士的にも振る舞った。試せることは全部試した。それでも駄目だったんだ。どうしてもお前を諦めきれないし、ちっとも楽しくない。だったら、このまま図々しくいくしかないだろ」「……」真琴は言葉を失った。呆れ果ててこちらを見る真琴に、信行は再び右手を伸ばしてその頬にそっと触れ、笑って言った。「なんだ、その顔と目は。無茶な真似はしないさ。結婚前みたいに、ただの友達として付き合えばいい」今この瞬間、信行の言葉など一言一句、これっぽっちも信じられなかった。なにしろ、ついさっき「抱きたい」、「欲しい」と本音を口にしたばかりなのだから。敵意むき出しの視線に、信行はふっと笑う。「分かったよ、そんなに警戒するな。飯を食ったらちゃんと送ってやるから」そう言って姿勢を正し、エンジンをかけて車を発進させた。しかし今、信行は痛感していた。いっそ図々しく開き直ってしまえば、精神状態も気分もずっと楽になるということを。両手でハンドル
この二日間、渚がもう少し大人しくしていれば。取り憑かれたように会うようせっつかず、空気を読んで目の前から姿を消していれば。二人の間にも、まだ一縷の望みは残されていたかもしれない。結婚という目的のためだけに、信行が彼女を選ぶ可能性だってあった。だが、執拗に押し付けられた重圧と、真琴にあっさり突き放された苛立ちとが相まって、今の信行は心底うんざりしていた。そもそも知り合って日も浅く、そこには感情の土台など微塵も存在しない。だからこそ、相手の顔を立ててやる義理などなく、容赦なく切り捨てた。電話の向こうで、頭ごなしに突きつけられた「縁がなかったってことで」、「連絡してこないでくれ」、「これきりにしよう」という無慈悲な拒絶の言葉。一瞬にして、渚の目の前が真っ暗になった。昨夜は一睡もできず、ベッドで朝まで寝返りを打ちながら、どうすれば信行の心を掴み、どう真琴を出し抜くかと思案を巡らせていた。何一つ始まってもいないうちに、信行の手であっさりと幕を引かれてしまった。顔からすっと血の気を引かせ、スマホを耳に当てたまましばらく呆然としていたが、やがてハッと我に返り、すがるように問い詰めた。「信行さん、この二日間で何かあったんですか?どうして急に……」その言葉を遮るように、信行はブツッと電話を切った。今のこの状況で、相手の女とまともにやり合う時間も気力もない。その目の前で、ひどく苛立った様子で電話の相手を突き放すのを黙って聞いていた真琴は、手に車のキーを握りしめたまま、すっと顔を上げて信行を見た。信行の気性が荒いことは、とうの昔から嫌というほど知っている。ただ、あれから二年が経ち、少しは丸くなって他の人には優しく接しているのだろうと思っていたが、結局相変わらずのようだ。あまりの豹変ぶりに呆気にとられるその視線を受け、信行は両手をズボンのポケットに戻し、ふいと横を向いてから再び真琴に向き直り、何でもないことのように言い放った。「そんなにまじまじと見て、どうした?俺の顔でも忘れたか?」言い終えるや否や、真琴が反応する暇も与えず、ポケットから出した右手でその首の後ろをぐっと掴み、そのまま自分のゲレンデへと連れ立って、有無を言わさず助手席に押し込んだ。これまでずっと紳士的に、礼儀正しく振る舞ってきたが、今この瞬間、そ
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