ログイン結婚して三年、片桐真琴(かたぎり まこと)がしてきたことと言えば、夫・片桐信行(かたぎり のぶゆき)の数えきれないほどの火遊びの後始末だった。 しかし、また彼のスキャンダルを処理したまで、彼が仲間と自分の結婚を嘲笑しているのを耳にするまで。 その瞬間、真琴の心は完全に折れた。 離婚協議を突きつけるが、信行は冷たく言い放つ。 「片桐家にあるのは死別だけだ。離縁はない」 そして、ある「事故」によって、真琴は信行の目の前で燃え盛る炎の中に消え、その身を灰にした。 彼の前から、永遠に。 *** 二年後、仕事で東都市に戻った彼女は、彼の差し出す手を握り返し、静かに名乗った。 「浜野市・西脇家の西脇茉琴(にしわき まこと)です」 亡き妻と瓜二つの女性を前に、二度と結婚しないと誓った信行は狂気に駆られ、猛烈な求愛を始める。 「茉琴、今夜、時間はあるか?一緒に食事でも」 「茉琴、このジュエリーはよく似合うよ」 「茉琴、会いたかった」 茉琴は穏やかに微笑む。 「片桐さんは、もう二度とご結婚なさらないと伺っておりますが」 信行は彼女の前にひざまずき、その手に口づけを落とす。 「茉琴、俺が悪かった。どうか、もう一度だけチャンスをくれないか?」
もっと見る会場には、嵐のようなフラッシュの音が絶え間なく鳴り響いていた。その端麗な容姿と圧倒的な気品は、会場の視線を一瞬で奪った。光雅の名は、東都市の財界にも広く轟いていた。その仕事ぶりは迅速果断にして冷徹。浜野市では誰もが彼に道を譲り、その機嫌を損ねまいと腐心しているという。若くして傑出した才を放ち、決断力も実行力も桁外れ。西脇家の先代が早々に全権を委ね、隠居を決めたほどの器だ。それでいて、これほどの男がいまだ独身を貫いている。浮いた噂一つなく、唯一聞こえてくるのは、妹との仲睦まじい様子ばかり。大股でステージへ向かう彼に、割れんばかりの拍手が送られる。その熱狂ぶりは、市の有力者を迎えた時ですら及ばない。客席の後方では、若い女性たちが目を輝かせ、「浜野市にあんな超ハイスペックな独身がいたなんて」と興奮気味に囁き合っていた。壇上の中央に立った光雅は、熱烈な視線を浴びながらも口元に余裕の笑みを浮かべた。片手を背後に回し、もう一方の手でマイクを引き寄せると、落ち着いた声で口を開く。「ご来賓の皆様、ならびに業界の各界を代表する皆様。本日はお集まりいただき、心より感謝申し上げます。この東都市を訪れ、市政府と協力して次世代エネルギーや半導体、無人運転といった最先端技術の開発に携われることを、大変光栄に思います。向こう五年にわたる計画の中で、東央システムズは浜野市の代表として――」光雅の淀みないスピーチに、会場の誰もが固唾を呑んで聞き入っていた。その若さと圧倒的なオーラに、拓真と司が顔を見合わせ、声を潜める。「浜野市からとんでもないキレ者が来やがったな。こいつには妹がいて、そっちも開発の現場じゃ相当なやり手らしいぜ」「西脇茉琴だろ。東央の技術部門を牛耳ってるって話だ。兄妹揃って表には出ないがな」「兄があのルックスだ。妹も相当なもんだろうよ」「まあ、そのうち拝めるだろ」……午前十一時、発表会は幕を閉じた。歓談の時間へと移ると、光雅は市の幹部たちと挨拶を交わした後、不意に会場の端へと手招きをした。呼び寄せられたのは、洗練された空気を纏った一人の女性だ。純白のシルクブラウスに、黒のワイドパンツ。黒髪を低い位置で束ねたその佇まいは、凛としていて美しい。自信と気品に満ちた、非のうちどころのない表情。「菊池市長、紹介さ
まるで、真琴がまだ生きているように。盆や正月には必ず墓地へ足を運び、真琴と哲男の墓前に、瑞々しい花を手向けた。紗友里は彼女なりのやり方で真琴の傍にあり続け、その面影を胸に刻んでいた。……二年後。空は低く垂れ込め、細い雨がしとしとと降り続いていた。真琴の墓碑の前に、信行は長いこと立ち尽くしていた。この二年間、彼はわずかな暇さえあれば、導かれるようにここへ来ていた。傍らで傘を差す運転手は、主の沈黙を乱さぬよう、静まり返っている。そこへ、電話を終えた祐斗が、雨を突いて小走りに駆け寄ってきた。「社長、発表会が始まります。これ以上は、定刻に間に合いません」彼が言うのは、東都市と浜野市によるハイテク分野の提携発表会のことだ。浜野市側からは、自治体の研究所に加えて、「東央システムズ」もこの提携に名を連ねていた。その会社は、浜野市政府と地元最大の実業家一族である西脇家が、共同出資して設立した技術開発企業だ。政府が投資とリソースの供給を行い、経営の実務は主に西脇家が担っている。研究開発については、西脇家の次女が全責任を負っているという話だった。西脇家の兄妹は二人。兄の西脇光雅(にしわき みつまさ)は三十歳。妹の西脇茉琴(にしわき まこと)は二十五歳。妹の方は自動制御の博士号を持ち、ロボット工学の分野では向かうところ敵なしの天才技師だという。経営を司る兄と、技術を支える妹。若き二人の才能が、浜野市の勢力を一手に引き受けていた。祐斗の促しに、信行は墓碑の上の写真へ、静かに目を向けた。「……真琴。仕事に行ってくるよ。また数日中に、顔を出すから」写真の中の真琴は、眩しいほどの笑みを浮かべていた。まるで、この世にいた頃、何不自由なく幸せであったかのように。都心へ戻る車中で、信行は手元の資料に目を通した。祐斗は助手席から振り返り、発表会の段取りを淀みなく説明していた。この二年間、興衆実業のハイテク分野における進歩は飛躍的だった。家庭用ロボットやワイヤレス給電プロジェクトに加え、アークライトとは新たに2つの共同プロジェクトを立ち上げている。自前の研究所も立ち上げ、海外から多くの専門家を呼び寄せた。まもなく、車は東都市の会議センターに到着した。祐斗を伴って信行が会場入りすると、発表会はまさに始まろ
信行は後悔していた。この悔恨は、彼が生涯背負い続ける十字架となるだろう。あの何冊ものノートに、びっしりと書き込まれた自分の名前を思い出すたび、呼吸は苦しくなり、胸の奥を万力で締め付けられるような痛みに襲われた。駐車場に辿り着き、抜け殻のような後ろ姿を見せる信行に、紗友里は堪らず声をぶつけた。「真琴はあんたに誤解され、あんたに追い詰められて、心を壊したのよ。あの子が死んで……あんたは、これからも平気な顔をして生きていくわけ?」本当は、これ以上言葉を重ねて信行を追い詰めるつもりはなかった。けれど、真琴が耐え続けてきた三年の苦しみを、共に受けた健診で体に増生が見つかったあの時のことを、そして、あの重いうつ病と、信行のこれまでのあまりに無体な仕打ちを思うと、黙ってはいられなかった。あいつの心をなぶり殺し、取り返しのつかない後悔の中に叩き落としてやりたかった。真琴の病、そしてその命に比べれば、信行が今味わっている苦しみなど、あまりに軽すぎる。真琴が体面を守るために飲み込んできた言葉を、自分がすべて吐き出してやる。紗友里の容赦ない言葉に、信行は車のドアを掴んだまま、背を向けたまま立ち尽くした。反論する力さえ、彼には残っていなかった。結局、信行は振り返ることも、妹に言い返すことさえしなかった。ただ黙って車に乗り込み、一言も発さぬまま、静かにその場を去っていった。遠ざかる車を見送りながら、紗友里はぐっと目頭を熱くした。真琴はもういない。そして信行の人生も、二度と元に戻ることはないだろう。車が完全に見えなくなるまで見届けた後、紗友里は顔を背け、乱暴に涙を拭った。だが、信行にありったけの怒りをぶつけたところで、胸の奥の巨大な空洞が埋まることはなかった。……両手でハンドルを握りしめ、信行は一言も発さず車を走らせた。道中、スマホが何度も震えたが、画面を見る気力もなかった。心が限界を迎えていた時でさえ、真琴は自分の前でいつも無理に笑っていた。「ちゃんと話がしたい」と、何度も、何度も縋っていた。だが自分は、その手を一度だって掴もうとしなかった。どれだけ走っただろうか。気づけば、辻本の古い屋敷の前にいた。だが、もういくら待っても、満面の笑みで真琴が出てくることはない。赤くなった瞳で、あの日自分が家を出
紗友里は焦ったように、食い気味に言葉を継いだ。「この子のこと、教えてほしいんです。どんな状態だったのか」断られるのを承知で、彼女は必死に事情を打ち明けた。「この子の親友です……実は先週、彼女、亡くなってしまって。だから、本当はどういう思いでいたのか、どうしても知っておきたいんです」その言葉を聞き、医師は深く眉をひそめた。「……亡くなったのですか?」「はい。先週……火事で」紗友里が声を震わせて答えると、医師は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて悟ったように、静かに視線を落とした。まるで、その結末をどこかで予感していたかのように。四十代半ばのその医師は、穏やかで情の深そうな面差しをしていた。彼が痛ましげに目を伏せるのを見て、紗友里はさらに畳み掛ける。「真琴の死は、あまりにも急でした……私たちは、真琴がそんな前からうつ病を抱えていたなんて、これっぽっちも気づかなかった。どんな苦しみを抱えていたのか、教えていただけませんか?」そこまで言うと、紗友里の目から再び涙が溢れ出した。激しい後悔が胸を抉る。あれほど仲が良かったのに。結婚してからの真琴が幸せそうじゃないことには気づいていたのに、まさか重度のうつ病にまで追い詰められていたなんて。もしもっと早く気づいてやれていたら。真琴の運命を変えられたかもしれないのに。彼女の悲痛な訴えに、医師は重い溜息を一つ吐き出すと、カルテを机に置いて語り始めた。「この方のうつ病は、もう二年以上にわたるものでした。去年からは心の問題が体にはっきりと出始め、主に激しい胃痛となって苦しめていました。催眠療法などで彼女の心の奥底を探っていくうちに、行き着いた答えは……やはり、彼女の『結婚生活』でした。治療を半年続けても良くならず、むしろ悪化していく一方で。私からは『一刻も早く離婚して、環境を変えるべきだ』と何度も勧めました。ですが、彼女はどうしても夫への未練を断ち切れず、一人でもがき、なんとか関係を立て直そうと必死だったのです。つい最近、ようやく吹っ切れたようで『離婚を切り出した』と報告を受けたばかりだったのですが……まさか、あんな最期になってしまうとは」医師はさらに、沈痛な面持ちで言葉を重ねた。「あんなに賢くて、才能に溢れた子が。本当にもったいないことをした……」医
ちょうど振り返ってその場を去ろうとした時、不意に後ろの首筋を掴まれた。慌てて振り返ると、信行が満面の笑みで数人の年長者と話している。しかし、その右手は、音もなく彼女の後ろ首を押さえ、捕らえている。まるで、これをやっているのが、同一人物ではないかのようだ。信行を見つめ、その手を外そうとした時、彼は真琴の首を放し、ごく自然に彼女の手を握ると、自らのそばに立たせる。真琴は彼を見上げ、手を振りほどこうとするが、その力はあまりにも強い。振りほどけない。ただ、信行の顔から視線を戻した時、人々のそばを通り過ぎて、一人でレストランに入っていく智昭の姿が見えた。瞬時に理解した。な
オレンジの皮を剥きながら、真琴はかすかに微笑んで言う。「家にはこんなにたくさんの人がいるの。彼は芝居をしないと。見せかけをしないと」夕食の時、彼はおかずを取り分けてくれた。病気の時、世話もしてくれた。でも、それも信行が由美を見た瞬間に、自分の手を振り払ったという事実を消し去ることはできない。真琴がそう言うと、紗友里ははっとした顔になる。「それもそうね。父さんと母さん、それに、お爺様とお婆様も、このところ、ずっと見張ってるもんね」真琴は笑って何も言わない。会議の時のこと、彼が自分の手を振り払ったこと、彼のシャツについていた口紅の跡のことは、詳しく話さなかった。今となっては
信行の皮肉に、智昭は彼が自分を当てこすっているのだと気づくが、意に介さず、大らかに笑って答える。「分かりました。では、まずはお礼を申し上げます、片桐社長」そう言って、また真琴の方を向いて言い渡す。「辻本さん、君に渡したあの数冊の本だが、もし分からないところがあれば、いつでも私に聞きに来ていい」その態度は、まるでまだ大学にいるかのようだ。「はい、高瀬さん。しっかり読ませていただきます」そう応えながら、真琴は信行の方を向き、彼がまだ智昭と張り合おうとしているのを見て、慌てて割って入る。「フライトの時間が、もうすぐではありませんか。そろそろ、皆さん車に乗りましょう」真
少し離れた主賓席の方で、由美はすでに長い間、真琴と智昭の姿を目で追っていた。二人が楽しそうに話し、広々としたテーブルに二人きりでいるのを見て、由美は信行の腕を軽く叩き、そちらを指差して言う。「ねえ、信行、見て。あれ、真琴ちゃんじゃない?真琴ちゃんと一緒に食事してるの、アークライト・テクノロジーの高瀬さんじゃないかしら?彼も交流会に来てたのね。真琴ちゃん、どうやって彼と知り合ったのかしら?」由美の一連の疑問に、信行は彼女が指差す方向へ視線を送る。真琴が真剣な顔で智昭の話に耳を傾け、その目がきらきらと輝いているのが見える。途端に、信行の顔がみるみるうちに険しくなる。まさか、あの
レビューもっと