LOGIN「夏野さん、本当に中絶手術を受けられますか?」 ぼんやりとしていた意識が、医師の重ねての問いかけによってはっと覚めた。 夏野千晴(なつの ちはる)は大きく目を見開き、いま目の前で起きていることが信じられないといった様子だった。 さらに医師が促すと、ようやく自分が生まれ変わったことに気づいたのだ。 前世でもちょうどこの日、自分が妊娠していることを知り──そして、取り返しのつかない代償を払う選択をしてしまったのだ。 医師はあらためて問い直した。 「夏野さん?」 「はい!」 千晴の返答はこの上なく揺るぎなく、しかし声にはかすかな震えが混じった。 今度こそ、千晴は同じ過ちを繰り返すつもりはない。
View More診察室を出てきた裕の顔には、絶望が広がっていた。彼はすでに国内で不治の病と診断されており、ここでの治療が最後の希望だったのだ。だが、その最後の希望までもが潰えた。ふらつく足取りで病室へ戻ると、ちょうど戻ってきた翔と鉢合わせた。翔は弟の表情を見るだけで、彼がすべてを知ったのだと悟った。「裕、医者は言っていた。積極的に治療すれば、まだ希望はあると」だがこの言葉は、今の裕にはあまりにも空虚だった。顔を上げた裕の頬には、涙が溢れていた。「兄さん、俺……まだ死にたくない。まだ千晴を取り戻していないんだ。俺は……俺はどうしても諦められない!」裕は兄の胸にすがりついて声をあげて泣き、泣き疲れると病床に戻って休んだ。それ以降、彼はこれまで以上に治療へ必死に向き合った。この病院の医療水準はすでに世界最高峰だというのに、それでも足りないとばかりに、莫大な費用を払って世界的権威の医師を次々と招いて診断させた。さらに裕は、末期胃がんに効くという民間療法までも金に糸目をつけず探し求めた。治る可能性があるのなら、自分が持つ会社の株式を無償で譲っても構わないと思っていた。裕はまるで狂ったようで、千晴に「片時も離れずそばにいてくれ」と求め続けた。両手を強く握りしめたまま、必死に懇願する。「千晴、お願いだ、行かないでくれ。目を開けたときに……もうお前がいなかったら……俺は本当に耐えられない」千晴は困ったようにそっと手を引き抜いた。病というものは、この世で最も残酷な力を持つ。どんな冷静で決断力のある男であろうと、子猫のように脆くしてしまう。それでも彼女は離れなかった。翔の願いを受け、裕の最後の時を看取ると約束したからだ。空になった手のひらを見つめながら、裕は震える唇で問い掛けた。「千晴……本当に……もう俺を許してくれないのか……?」裕は必死に、最後の瞬間だけでも赦しを得たいと願っていた。千晴は目をそらさず、静かな声で答えた。「叔父さん、私は嘘をつきたくないの。許すことは、できない」裕は絶望したように目を閉じ、涙が静かにこぼれ落ちた。分かっていた答えのはずだった。だが、死にゆく自分の前でさえ、千晴は慰めの嘘すら口にしなかった。彼女の愛は、もう完全に消えてしまっていた。それでも、彼は諦めたくなかった。し
裕は、まっすぐに千晴を見つめた。――彼女はまた少し背が伸び、顔にもふっくらとした血色が戻っている。自分のそばを離れた日々でも、彼女はちゃんと幸せに生きていたのだ。そう思った瞬間、胸の奥にひどく苦いものが広がった。千晴はもう、かつてのようにまとわりつく小さな女の子ではない。手を伸ばして、昔のように千晴の頭を撫でたい。そう思いかけたが、その手は空中で止まり、結局そっと引っ込めた。「千晴、俺は……」「叔父さん、お久しぶり」千晴は軽く歩み寄り、いつもどおりに挨拶をして、続いて彼の背後にいる人物へ声を掛けた。「翔伯父さん」二つの呼び方は、何の区別もなく自然で、まるで同じ距離にいるかのようだった。その響きに、裕の昂ぶった心は一瞬で冷えた。だが、諦めるわけにはいかなかった。病を理由にここへ来られたのは、千晴を取り戻す最後の機会なのだ。「千晴、少し……二人だけで話したい。いいだろうか?」千晴はすぐには答えず、翔に視線を送った。翔は静かに頷き、スタッフを連れて入院手続きを整えるため病室を出ていった。室内には、二人きりの静寂が落ちた。「千晴……ずっとお前に伝えたかった言葉がある。ごめんなさい、あの時、俺は、お前が去って初めて、自分が後れ馳せに気づいた。俺が愛してたのは、お前だった。なのに、俺の臆病さでお前を深く傷つけてしまった。だがもう迷わない。千晴、俺はお前を愛してる。あの頃、お前が俺を想ってくれたのと同じように。だから……どうか、もう一度だけチャンスをくれないか。やり直したいんだ。千晴……お前のいない日々なんて、一日たりとも耐えられない。お前が戻ってきてくれるなら、何だってする。あれほど俺を愛してくれたお前が、心の底から俺を切り捨てたなんて、俺にはどうしても信じられない。今はまだ怒っているだけだ……そうだろ?俺は、本当に、自分の過ちを悟ったんだ。頼む、許してくれ……!」悲痛な声で懇願しながら、裕は心の底で覚悟していた。千晴がどれだけ怒り、どれほど罵り、どれほど泣き叫んでもいい。そのすべてを、受け止めるつもりだった。だが千晴は、ただ微笑んで静かに耳を傾け、裕の言葉が途切れたところでようやく口を開いた。「叔父さん、過ぎたことはもうどうでもいいことよ。人は前を向いて生きなきゃいけない。いま
萎えていた裕は、まるで別人のように急に活気を取り戻し、兄に早く出国の手配をするよう急き立てた。その姿を見れば本来なら喜ぶべきところなのに、翔はただ苦笑するしかなかった。裕が自分の病状を知ったらどうなるか……翔は考えることすら出来なかった。病床の裕は、手の中の髪留めをいじりながら、低く千晴の名をつぶやき続けていた。弟のその深い想いに触れれば触れるほど、翔の胸には重苦しい不安が沈んだ。決意を固めた翔は、国外にいる千晴へ電話を掛けた。「もしもし、千晴、俺だ。伯父さんの翔だ。お前に話しておきたい重要なことがある」千晴は、ちょうど実験を終えたところで、彼からの電話に軽い驚きを覚えた。泰夫は亡くなるに際し、家族に対し、千晴に死亡の知らせを伝えるな、と厳命していた。あの二人はどう足掻いても腐れ縁であり、絶対に過去を蒸し返してはならない、と。千晴はてっきり、泰夫に何かあったのではと慌てて尋ねた。だが、すでに亡くなっていたと知らされた瞬間、彼女の目は赤く潤んだ。桜井家が知らせなかった理由は、すぐに察した。それでも、十年も自分をかわいがってくれた曾祖父の最期に立ち会えなかったことが、胸を刺した。泰夫は彼女の身内だったのだ。「千晴、実はもっと大事なことがある」翔は単刀直入に切り込んだ。「千晴、お前と裕に、復縁の可能性はあるのか?」「翔伯父さん、私と裕叔父さんは、もう無理よ」千晴は、裕がようやく諦めたと思っていた。ここ最近、彼は一度も姿を見せていなかった。だが、まさか今度は翔を使って説得してくるとは思わなかった。誰が来ようと、二人の関係は終わっている。千晴は眉を寄せ、わずかに苛立った。しかし、続いた言葉は、彼女を震え上がらせた。「千晴、俺はわかってる。お前の心を傷つけたのは裕だ。だがな、あいつはもう病んでる。末期のがんだ。国内では治療が出来ん。俺は、お前を国外へ迎えに行くついでに治療する、と嘘をついて、あいつを説き伏せた。お前が病気の裕を見に来てくれれば、きっと二人に和解の望みが生まれると、そう考えたんだ。千晴、俺は、お前に裕をもう一度受け入れてほしいとは言わん。ただ……せめて治療に協力するふりでいい。どうか、どうか一緒にあいつを騙してくれんか?」電話の向こうで千晴は黙り込んだ。「千
泰夫が亡くなって以来、裕はほとんど会社に住みつくようになった。桜井家にはめったに戻らなかった。戻れば悲しい出来事ばかり思い出されるからだ。裕は一瞬たりとも気を緩めようとはしなかった。仕事の手を止めれば、無限の思慕に沈んでしまうから。彼は短期間で会社をさらに高い段階へと引き上げた。だが、それは体を削って得た成果でもあった。半年後、彼はすでに人の形を保てないほど憔悴し切っていた。ある朝、幹部会議を終えた直後、裕は会議室で倒れた。次に目を覚ましたとき、すでに二日が経っていた。病床の上で、裕はとても長い夢を見ていた。――夢の中で自分は、十八歳の誕生日の日、千晴が告白してきたその姿を見た。そして思わず即座に承諾した。千晴はうれしさのあまり跳ね回り、そのまま胸に飛び込んだ。自分は千晴を強く抱きしめ、深く口づけた。――そのとき、突然ひとつの顔が目の前に割り込んできて、二人を無理やり引き離した。雅乃だった。裕はその瞬間、恐怖に打たれたように目を覚ました。目を開けると、兄の桜井翔(さくらい しょう)が、真っ赤に腫れた目で悲しげに見つめていた。「裕……ようやく目を覚ましたか。どうして自分をこんな姿にまで追い込んだんだ!」裕はまだ悪夢の余韻から抜けきれず、現実に戻っていた。「兄さん、どうして帰ってきたんだ?ただの持病だ、心配いらない」翔が心配しないはずがなかった。弟が倒れたと聞いて急いで戻ってきたのだが、半年でこれほど痩せ衰えた姿を見るとは思ってもいなかった。この半年、彼は地方で絵画展の開催に追われていた。家の執事から、祖父の死後、裕は会社に没頭していると聞き、それを祖父への思いだと受け止めていた。だが、こんな結末になると知っていたら、決して放っておくことはしなかった。まさか弟がここまで深く思いつめていたとは。一方には祖父の遺言、もう一方には愛する女性。どちらも捨てられず、彼にできたのは命がけで働き続け、痛みを忘れようとすることだけだった。そして、その結果、わずか半年で体を壊したのだ。医者の診断は――胃がんの末期。すでに全身へ転移しており、治療の意味も薄い状態だった。胃がんの末期、どれほどの苦痛だったことか。それでも裕は、倒れるまで一言も弱音を吐かなかった。兄として、唯一の弟を失うわけには