「桜、もう考えはまとまった?」とわこは問いかけた。桜は決心がついたら必ず知らせると言っていたのに、まだ何も言ってこない。「とわこ、あんたなんで私のこと一郎にバラしたの?あのクソじじいがどんな反応したか知ってる?私、めちゃくちゃ怒鳴られたんだから。もう最低」桜はベッドからガバッと起き上がった。「それに中絶しろって迫られたのよ!何様のつもり?私にそんなこと強いるなんて」とわこは一瞬固まった。「私が電話したの。桜が一人で手術に行くんじゃないかって不安で」「気持ちは分かるけど、完全に裏目に出たわよ。あんたの親友でも付き添わせた方がまだマシだったわ。一郎に頼むなんて、最悪の選択よ」桜は毒づいた。「うん」とわこには確かに私心があった。桜の子供は一郎のものかもしれない、そう思ったからだ。まだ若く未熟な桜よりも、一郎に知らせて一緒に決めてもらった方がよいと考えた。「もういいわ。あんたの親友には言わないで。私は誰の手も借りない」桜は再び横になった。「まだ産むかどうか、決められないんだから」「産みたいなら産めばいいわ。奏から生活費が毎月送られてるでしょ?足りなければ私が出すから」その言葉に胸が温かくなる。「なんであんた、そこまで私に優しくするの?奏はもう常盤グループの社長じゃないし、私は妹だって認めてもらってないのに」「妹であることは、彼の立場と関係ないの。言ったでしょ?助けられるならできる限り助けるって」「分かった。もう怒ってない」桜は子供っぽく言ってから尋ねた。「奏は今どうしてる?完全に落ちぶれて、人に会いたくない感じ?もしお父さんが知ったら、自首なんてしなければよかったって後悔するかもね」「まだ見つかってないの」「早く探してあげてよ!もし自殺でもされたらどうするの?ニュースでもよくあるじゃない、経済問題で富豪が命を絶つって」桜の口ぶりは呪いではなく、本心からの心配だった。彼と顔を合わせたことはなくても、奏が誇り高い人間だと直感できたから。「とわこ、私のことはもう気にしなくていいわ。冷静になったし、これは私にとってちょっとした出来事。人を煩わせることじゃない」「分かった。でも私はしばらく帰国できないから、急ぎのときは一郎に連絡して。どんなに口うるさくても、困っていれば必ず助けてくれるはず」「でも、あんたも奏にし
電話をかけると、案の定、冷たいシステム音声が返ってきた。とわこの胸が鋭く痛んだが、顔には何事もないように平静を装った。「結菜、お兄さんは今忙しいのかもしれないわ。少ししたら、またかけてみる」今、真実を告げる気にはなれなかった。せめて一日でも先延ばしにして、体調がもう少し落ち着いてからの方がいい。真はじっととわこを見つめた。彼女が事実を口にすると思っていたのだが、意外にも黙ってしまった。「そう」結菜の瞳に一瞬、落胆の色が走り、すぐに不安を滲ませる。「お兄さん、私を責めないかな?怒ってないかな?」「怒るはずないわ。結菜、彼はあなたに怒ってなんかいない。むしろ、とても会いたがっている」とわこはその手を握り、静かに言った。結菜はほっと息をつき、微笑んだ。「私、一番信じてるのはとわこと真、それからお兄さん」「しっかり療養して。退院したら、きっと驚くようなことが待ってるから」「うん少し眠くなってきた。お兄さんが来たら、絶対起こしてね」声はだんだん弱まり、やがて静かな寝息に変わった。病室を出ると、とわこと真は声を潜めて話した。「とわこ、退院まで隠し通すのは難しいかもしれない。一か月は入院するだろうし、一週間経っても奏が現れなければ、必ず疑う」「それなら、一週間後に伝えればいい。今の彼女はあまりに弱っている。この状態で真実を突きつけたら、回復に支障が出るかもしれない」とわこは自分の考えを述べた。「先生に言われたことがあるの。病気の時、気持ちが沈んでいると『治らなくてもいい』と無意識に思ってしまう。そういう時は治りが遅いの。逆に、気分が前向きなら回復も早い」「なるほど。じゃあ、今は黙っておこう。ただ、黒介と結菜が早く兄妹として再会できればと願ってる」真の目に柔らかな笑みが浮かんだ。「黒介は本当にいい人だ。僕を見るといつも笑ってくれる」「兄妹そろって優しくて穏やかね」「退院したら、きちんと落ち着ける場所を用意してやらないと」とわこは眉間を押さえた。「この数日ろくに休めてなくて、目がかすむの。ちょっと薬を買ってくる」「検査した方がいいんじゃないか?僕が一緒に行く」「いいわ。ただの寝不足よ。薬をもらえば大丈夫」「昨日も睡眠薬を?」「半分だけ。だから今朝は寝過ごさなかった」彼女は自嘲気味に笑った。「自然に眠るのと薬で
弥の顔がたちまちどす黒く変わった。「自分で世話すると言ったんじゃない。まさか、これくらいの苦労も耐えられないんじゃないでしょうね?」とわこは皮肉を込めた。「腎臓を一つ取っただけだろ?なんで尿管なんか挿す必要があるんだ?」弥は露骨に嫌そうな顔をする。「じゃあ、あんたも腎臓を一つ摘出してみる?」とわこは冷笑した。「もし我慢できないなら、ホテルへ戻ればいい。一週間後、黒介が退院してからまた来なさいよ」弥は黒介の世話をしたくはなかった。だが、とわこが必死に追い払おうとしていると感じたせいで、逆に意地になり病室に居座ることを選んだ。彼の態度を確認すると、とわこは病室を出た。黒介が退院するまでは、とりあえず安全だ。だが、このままでは弥に連れ去られる危険がある。必ず抜け目のない策を立てなければならない。とわこは医師のオフィスにいた真を訪ね、事情を話した。「弥、もう野心を隠そうともしないんだな」「ええ。黒介を連れて帰れば、常盤グループを手に入れるってはっきり言ったの。だから絶対に彼に渡すわけにはいかない」とわこは眉を寄せる。「日本から大勢のボディガードを連れてきていて、病院の近くに待機してるって」「心配するな。ここは病院だ、奴らが強引に踏み込むことはできない」真は落ち着いた口調で言った。「アメリカには接触禁止命令がある。その法令を適用させれば、弥は黒介に近づけなくなる」「接触禁止命令は知ってるけど、どうやって効力を発動させればいいの?」とわこは考え込む。「裁判官に、弥が黒介を害する意図を持っている証拠を提出すればいい」「でも、彼は黒介を傷つけたりはしない」「なら、傷つけようとしている証拠を作ればいい」真は穏やかに言い切った。「弥のような相手には、善良さや誠実さを捨てなければならない」とわこは小さくうなずいた。「真、そのやり方でいこう。結菜の様子は?」「まだ目を覚ましていない」重症病棟に付き添えない真は、医師のオフィスで知らせを待つしかなかった。「今日こそ目を覚ますはずよ。昨日より長く意識が保てると思う」とわこは断言した。「そうか。奏の行方は掴めたか?」真は心配そうに尋ねた。彼が案じているのは結菜ともう一人、とわこ自身だった。もし奏を見つけられなければ、とわこの生活は決して元に戻らないだろう。「株を譲
翌朝。とわこは起きると病院へ向かった。黒介は昨日よりずっと状態が良さそうだった。とわこを見ると、彼はすっと笑みを浮かべた。「とわこ、結菜はどうだ?」とわこは彼の点滴台のそばに腰を下ろし、買ってきた粥を手に取り、彼に食べさせた。「昨夜は一度目を覚ましたけど、すぐまた眠ってしまった。今もまだ寝ている」「そうか。良くなるかな」「大丈夫だと思う」とわこはスプーンですくった粥を彼の口に運びながら言った。「黒介、しばらくはアメリカにいて。結菜が退院したら、兄妹二人で一緒にいればいい。真が面倒を見てくれるから」「じゃあ君はどうするんだ?」黒介が訊ねる。「私は奏を探しに行く。見つけたら一緒に日本へ帰るってどうかな」とわこは相談するように言った。「いいね。そしたら妹がそばにいて退屈しないや」黒介は未来の暮らしを想像して顔を輝かせた。その笑顔を見て、とわこも自然に口元が緩んだ。朝食を終えると、とわこの携帯が鳴った。画面を見ると着信表示は「弥」だった。顔色が一瞬曇る。弥は昨夜メッセージを送っていたが、とわこは返事をしていない。だから今日は電話で詰め寄ってきたのだ。とわこは携帯を手にしてベランダの方へ出た。向こうで弥の声が響く。「とわこ、なんで昨日返事しなかったんだ?まさか姿を消すつもりか?」「もし消えるつもりなら、あなたの電話には出ないわ」とわこは眩しい朝の光を見ながら冷たく答えた。「まだその時じゃないから」「昨日返事がなかったから、飛行機に飛び乗って来たんだ」弥はそう言いながら、どこの病院か訊ねた。「今すぐそっちへ行って、ついでに黒介の面倒を見るよ」とわこは心がピンと張るのを感じた。「おかしいわね。あなた自身が人に面倒を見てもらわないといけないはずなのに、どうして人の面倒が見られるの?」「心配しているのは分かってるだろ?」弥は詰め寄る。「病院名を教えろ。もし今日黒介に会えないなら、君の家へ押しかける。家の場所も分かってるんだ」準備万端で来ている様子だった。とわこは数秒沈黙した後、病院名を告げた。ここはアメリカだ。とわこには弥に対抗できる自信があった。約半時間後、弥が病室にやって来た。黒介が目を閉じて休んでいるのを見て、彼は安堵を漏らす。「大したことはなさそうだな?」「軽度でも、今は退院できないわ」
「ちっ!」まさかこんな偶然があるなんて。一郎はまるで弱みを握られたようで、一気に勢いをなくした。「私の同僚ね、あんたのこと使えない男だって言ってたわ」桜は眉を挑発的に吊り上げ、一郎の顔が赤くなったり青くなったりするのを面白そうに眺める。「しかもあっちの方も駄目な上に、チップすら払わない。ケチにも程があるって!」「その同僚の名前を言え!連絡先も出せ!」一郎は怒りで爆発寸前だった。「チップを渡すつもり?」「貴様!」「払わないなら別にいいのよ。これを言ったのは同僚を売るためじゃない。忠告のつもり。私は悪い女かもしれないけど、あんたも決して善人じゃない。今後また道徳ぶって私を罵ったら、この話を広めるからね」そう言い捨てて、満足げな笑みを浮かべた桜は武田家を後にした。アメリカ。とわこは真を見送ると主寝室へ戻り、枕の下から一枚の紙を取り出した。まず奏のLineにログインする。成功すると、未読のメッセージが山ほど現れた。自分が送ったものも、子遠からのものも。けれど奏は一つも開いていなかった。とわこは深く息を吸い込み、胸が痛んでアプリを閉じ、次に彼のメールにログインした。そこには最後にアクセスした日時とIPが残っていた。それは株式譲渡の前日。画面を見た瞬間、熱い涙が止めどなく頬を伝った。きっと彼は、株を手放した時に心まで死んでしまった。その気持ちの変化を思うと、息が詰まるほど苦しくなった。同じ頃、Y国。奏はふと、自分の携帯がなくなっていることに気づいた。その携帯は数日間電源を切ったままで、どこで落としたのか全く思い出せない。搭乗前だったのか、下りた後だったのか、記憶がすっぽり抜け落ちていた。優れた記憶力に誇りを持っていたはずなのに、こんな大事なものをなくした経緯すら覚えていない。今さら探そうとしても、干し草の山から針を探すようなものだ。もう彼は、かつてのように天下を操れる奏ではない。胸にじわりと敗北感が広がっていく。ふと、剛に連れられて行った猿園での話を思い出した。恋に傷ついた雌猿に施される記憶消去の手術。哀れではあるが、その後は新しい命を得たかのように生き直していた。あれは、ある意味で最高の治療なのかもしれない。今の彼には、その猿が羨ましく思えた。すべてを忘れ、
桜の言葉に、一郎は思わず笑い出した。この数十年の人生は無駄だったのかと思うほど、彼は初めてこんな愚かで滑稽な女に出会った。「脳みそ詰まってないと、そんな発言は出てこないな」一郎は目を細め、彼女を睨みつける。「妊娠ってどうやってするか分かってるか?空気吸ったら妊娠するのか?それとも君の腕をちょっと触っただけで妊娠するってか?」そこまで言うと、一郎はまた吹き出した。桜は頭の中でどうやって言い返してやろうか考える。「桜、高校出てるんだろ?アメリカの教育は悪くないと聞いてたがな。中学生の生物の知識すら分からないのか?それに、君みたいに遊び慣れた悪い子なら、他の人より早く知ってるはずだろ!」言葉だけでなく、軽蔑の視線まで浴びせてくる。その態度にカッとなった桜は逆に噛みついた。「そうね、あんたみたいに誰にも相手にされないオッサンが、どうやって子どもを作るのか不思議だわ。私の経験上、その年齢の男はもう大体ダメなのよ。女がいても、まともに子どもなんてできないんじゃない?」「桜っ!」「なによ?あんたは私を罵っていいけど、私は言い返しちゃダメ?私は奏の妹だけど、あんたの妹じゃない。あんたに私を罵る権利なんてないのよ!」桜はにらみつけた。「どうしても罵りたいなら、お金払えばいい。金さえくれたら、好きなだけ罵らせてあげる」その厚顔無恥ぶりに、一郎は怒りで水を汲みに行った。「もう用は済んだから帰るわ」桜はバッグを手にして立ち上がる。「待て!」一郎はすぐに戻ってきた。「まだ聞いてないことがある!勝手に帰るな!」「なら早く聞いてよ。答えたらすぐ寝に帰るから。昨夜あんたの家じゃどうにも寝られなかった。同じ屋根の下にいると思うだけで吐き気がしたんだから」わざと神経を逆なでするように言う。バンッ、と一郎はコップを茶卓に叩きつけた。「子どもの父親は誰だ!」「はあ?さっきまで野郎のガキって連呼してなかった?」「桜!いい加減にしろ、僕を怒らせるな!」「今もう怒ってるじゃない?それ以上に怖い怒りでもあるの?」彼女は好奇心いっぱいの顔で返した。一郎は血圧が跳ね上がるのを感じた。こいつが自分の実の妹じゃなくて良かった。もしそうだったら、絶対に叩き直してやったはずだ。「そんなに知りたいなら、仕方ないから教えてあげる」桜は恩着せがましく口