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第204話:安全圏の虚無感①

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-03-23 06:00:50

 フロントガラスを叩きつけていた雨は、東京の市街地へ入る頃には、ねっとりとした霧雨へと姿を変えていた。

 ワイパーがゴムの摩擦音を立てて、灰色の視界を規則的に切り取っていく。

 海辺のモーテルを出発し、深夜の県道を息を潜めるように走り抜けてきた軽バンは、都内に入る手前で乗り捨てた。代わりに私たちを拾い上げたのは、久遠組の息がかかった真っ黒な大型セダンだ。

「……三代目。若頭。検問はすべて、裏道を使って迂回しました。追手の車両は確認されていません」

 運転席でハンドルを握る若い組員が、ルームミラー越しに強張った視線を向けてくる。

 まだ二十代半ばだろうか。刈り上げられた襟足には汗がびっしりと浮き、ハンドルを握る指先は白く血の気を失うほどに力が入っている。

 無理もない。

 後部座席に座る私たちは、誰の目から見ても異様だった。

 私自身、泥と血の汚れこそ新しい服で隠しているものの、数日間の逃亡と極度の緊張で、頬はこけ、目の下には濃い隈が張り付いているはずだ。

 そして
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  • 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜   最終話:愛しき飼い主を逃がさない②

     千隼の顔が、ゆっくりと沈み込んでくる。 至近距離でぶつかる彼の吐息は、雨の匂いを消し去るほど熱く、濃密な雄の香りを孕んでいた。「どこへ行こうと、地獄の底だろうと、追いかける。俺の飼い主が地獄の火に焼かれるなら、俺はその火をすべて飲み込んで、アンタを涼しい場所へ連れ帰る」 彼の瞳が、狂気的なまでの独占欲を剥き出しにして私を射抜く。 私は、彼の腫れ上がった頬の傷に指先を滑らせ、不敵に微笑んでみせた。「知っているわ。……でも、もう逃げない。私も、あなたを逃がさない」 かつては、千隼の執着は、私を逃がさないためだけにあった。 けれど今、この瞬間にその意味は反転した。 私が彼を、この不条理な世界へ繋ぎ止める。 彼が自らを「盾」として使い捨て、孤独な死へ逃げ込もうとするのを、私が力ずくで引き戻したのだ。 死地へ逃げることも、誰かの身代わりに壊れることも、もう許さない。 一生かけて私の隣で、私のために血を流し、私のために生の喜びを謳歌し続ける。それが、私が彼に科した、最も甘くて過酷な刑罰だった。「……愛しています、俺の飼い主(ごしゅじんさま)」 千隼の唇が、私の唇を塞いだ。 地下の金庫室での人工呼吸のような焦燥ではない。 互いの傷の痛みを確かめ合い、その奥にある魂の境界線を溶かし合わせるような、深く、重い口付け。 彼の舌が口腔を蹂躙するたびに、鉄錆の味と、ベルガモットの香りが混ざり合い、脳の髄を痺れさせる。 呼吸が詰まり、頭の中が白く明滅し始める。 手すりの向こう側、東京の街並みは依然として冷ややかに瞬いているが、その無数の光も、今はこの腕の中にある熱に比べれば背景のノイズに過ぎなかった。「……ん……ふ……っ」 唇が離れた瞬間、千隼は私の首筋に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。 犬が飼い主の匂いを記憶の底に刻み込むような、熱心で深い吸気音。「アンタの体温が&hell

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     地上数十メートル、空へ向かって突き出したバルコニーを、夜の静寂が支配していた。 宝石箱をひっくり返したような、あるいは燃え尽きることのない火葬場の火が瞬いているような、東京の夜景。かつて分厚い前髪の隙間から、風景の一部として怯えながら眺めていた街の光は、今ではまだ終わらない夜の中で静かに瞬いている。 冷たい風が吹き抜け、重厚な黒留袖の袖を乱暴に揺らした。 腹部の縫合痕が、風の冷たさに反応してジンと疼く。内臓を直接冷やされるような鋭い痛みは、自分が今、確かにこの世界の土を踏んで生きているという何よりの証明だった。 痛みを逃がすようにゆっくりと息を吐き出すと、隣にある巨大な熱源が微かに動いたのがわかった。「……お嬢。風が、冷え始めています」 掠れた、それでいて深い粘着質を孕んだ低い声。 我妻千隼の大きな手が、私の肩にかけられたジャケット――先ほどまで彼が羽織っていた黒い羽織を、さらに強く引き寄せた。 生地越しに伝わってくるのは、火傷しそうなほどの彼の体温と、雨上がりの杉林の匂い、そして消えることのない微かな煙草の香り。 見上げると、その三白眼が、夜景の光を吸い込みながら真っ直ぐにこちらを見つめていた。その瞳の奥には、数時間前の血の惨劇も、不来方との決別も、すべてを過去の塵として踏み越えた者だけが持つ、凄絶なまでの安堵が揺れている。「……千隼」 私は手すりを掴んでいた指先を解き、彼の方へと向き直った。 千隼は、習慣のように、あるいは主に対する絶対的な儀式のように、その場に膝をつこうとする。大きな身体がゆっくりと沈み込み、大理石の床に膝頭が触れる、その寸前。 私は、彼の左腕の袖をぐいと掴み、強引にその動作を制止した。「あっ……」 千隼の喉から、間の抜けた音が漏れた。 驚きに見開かれた瞳が、私の顔を捉える。 私は掴んだ腕にさらに力を込め、彼を再び直立させた。「今日は、隣に立って」 短く、断定するような響き。 千隼の喉仏が、大きく上下に動いた。戸惑いと

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  • 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜   第378話:狂犬の帰る場所②

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  • 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜   第377話:狂犬の帰る場所①

     大広間から漏れ聞こえる喧騒を背に、私は夜の静寂へと踏み出した。 数分前まで繰り広げられていた、新秩序の宣言。久遠組の新たな幕開けを祝う男たちの野太い笑い声と、三味線の甲高い音色は、厚い石壁を隔てると遠い波音のように重たく空気に溶けていく。 一歩進むごとに、重厚な黒留袖の裾が砂利を深く沈ませ、腹部の縫合痕がジンと疼いた。不来方から受けた銃弾の傷は、まだ完全には癒えていない。歩くたびに内側から肉を冷やされるような鋭い痛みが走るけれど、その痛みこそが、私たちがこの凄絶な盤面を生き抜いたという何よりの証明だった。 夜の庭は、ひんやりとした静寂に支配されている。 雨上がりの名残である湿った土の匂い。生い茂る杉の葉の、鼻を突くような鋭い香り。 私は、ベルガモットの香水と白粉の匂いが纏わりつく自分の身体を、夜気に晒して深く息を吐いた。 池のほとりに、一際巨大な黒い影を見つけた。 月明かりの下、石灯籠の青白い光に照らされて、彼は縁石に腰を下ろしていた。 我妻千隼。 漆黒の羽織に身を包んだその背中は、普段の威圧感とは裏腹に、どこか頼りなげで、今にも夜の闇に吸い込まれてしまいそうな危うさを孕んでいた。右肩の包帯が羽織をわずかに押し上げているのが見える。彼は自分の身体を労わることも忘れたように、ゆっくりと、深く重い呼吸を繰り返していた。 私は音を立てないように近づき、その横顔を盗み見た。 膝の上に置かれた彼の手を見つめる。節くれ立ち、無数の傷跡と喧嘩ダコが刻み込まれた、暴力の結晶のような掌。 これまで、この手でどれだけの障害を排除し、どれだけの喉笛を締め上げてきたのだろうか。不来方の妄執を粉砕し、観音の論理を跳ね除け、私をこの玉座へと押し上げた最強の番犬。 役目は、終わったのだ。 久遠組は「恐怖」ではなく「責任」によって再編され、血の雨が降る抗争の時代は、私が先ほど発した宣言と共に幕を閉じた。 もう、彼が盾となって弾丸を受ける必要はない。牙を剥いて誰かを噛み殺す必要もない。 けれど、自由を与えられたはずの彼は、まるで出口のない檻に閉じ込められたままのように、途方に暮れていた。「&

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