LOGIN◇
翌日の大学キャンパスは、不気味なほど平和だった。
春の日差しが降り注ぎ、学生たちが芝生で談笑している。 昨日のような「偽装学生(ヤクザ)」たちの姿も見当たらない。 だが、私は知っている。 この平和な風景の裏側に、ピリピリとした緊張感が張り巡らされていることを。「……千隼、ちょっと近すぎない?」「許容範囲です」 隣を歩く我妻千隼は、涼しい顔で答えた。 今日は「臨時講師」としての出勤日ではないはずだが、彼は当然のようにスーツ姿で私の通学に同行している。 私の腰に回された手には、昨日よりも強い力が込められていた。 まるで、少しでも気を抜けば、私がどこかへ消えてしまうのではないかと恐れているように。「首、痛くないですか」 彼が耳元で囁く。「……大丈夫よ。スカーフで隠してるから」 私は首元のシルクスカーフを無意識に押さえた。 その下には「でも……そんなことしたら、あなたは……」 「俺は、お前と、腹の中のガキを守らなきゃならねぇんだよ!」 龍之介の怒号が、狭い部屋に響き渡った。 桔梗は肩をビクッと跳ねさせた。 彼が自分に向けて、こんなに大きな声を出したのは初めてだった。 龍之介はすぐに顔を歪め、舌打ちをして頭を掻きむしった。 「……すまねぇ。大声出すつもりはなかった」 彼は、ちゃぶ台の上の札束を指差した。 「金がいる。お前につわりを我慢させて、すきま風の吹くこんなボロアパートで腹を冷やさせるわけにはいかねぇ。ガキが生まれたら、ちゃんとした病院で診せて、綺麗な服を着せてやらなきゃならねぇ」 「私は、そんなこと望んでいません。貧しくても、あなたがいてくれれば……」 「俺が望んでるんだよ!」 龍之介が、桔梗の手首を強く掴んだ。 その瞳は、血走っていた。 「お前は元々、何不自由ない場所で生きてきた女だ。俺のわがままで泥水すする生活に引きずり込んだ。……せめて、誰にも文句を言わせねぇだけの『力』が、俺には絶対に必要なんだ」 彼の言葉には、圧倒的な切実さが込められていた。 不来方の陰湿な圧力に屈しないための力。 愛する妻と、生まれてくる子供を、絶対的な安全圏に置くための力。 そのためなら、自らが鬼になり、血の海を渡ることも厭わないという、狂気にも似た決意。 桔梗は、彼の手首を掴み返した。 彼の脈拍が、異様な速さで打っているのがわかる。 「……本当に、後戻りできなくなりますよ」 「ああ。俺は今日から、本当の野良犬だ。……嫌なら、今すぐ俺を捨てて、あの屋敷に帰れ」 龍之介は、自嘲するように口の端を歪めた。 だが、桔梗は首を横に振った。 「帰りません。……私は、あなたと一緒に泥を被ると決めたんです」 桔梗は、彼の腕を引き寄せ、その分厚い胸板に再び顔を埋めた。 「あなたが地獄へ行くなら、私も一緒に地獄へ行きます。……だから、絶対に死なないでください。私たちを置いて、一人で勝手にいなくならないで」 龍之介の腕が、桔梗
そして、しばらくの間ためらっていた言葉を、静かに紡ぎ出した。 「……私のお腹の中に、小さな命がいます」 龍之介の身体が、ビクッと硬直した。 肩を掴んでいた彼の手の力が、一瞬だけ完全に抜け落ちる。 「……なんだと?」 「三ヶ月になります。……あなたとの、子供です」 沈黙が落ちた。 隙間風の音さえも遠のいたような、絶対的な静寂。 龍之介は、目を見開いたまま、桔梗の顔と、彼女の平らな腹部を交互に見つめた。 やがて、彼の喉仏が大きく上下し、ひどく掠れた声が漏れた。 「俺の……子供……」 彼は恐る恐る、震える右手を桔梗の腹部へと伸ばした。 まだ膨らみも感じられない柔らかな布越しに、彼の手のひらが触れる。 その瞬間、龍之介の分厚い胸板が、激しく波打った。 「……そうか。そうか……」 彼は桔梗の腹部に額を押し当て、そのまま彼女の腰に腕を回して強く抱きしめた。 「桔梗。……ありがとう。俺みたいなクズに……家族を、くれて」 彼の背中が、微かに震えているのがわかった。 桔梗は、彼の硬い髪を優しく撫でながら、静かに涙を流した。 だが、この新しい命の誕生は、ただの幸福な出来事では終わらなかった。 守るべきものが増えたという事実は、龍之介の中にある「飢え」を、決定的な形へと変質させてしまったのだ。 ◇ 数日後の夜。 アパートに帰ってきた龍之介は、作業着ではなく、どこかで手に入れた黒いスーツを着ていた。 肩幅が合っておらず、生地も安っぽい。だが、その背中から立ち上る気配は、これまでとは全く異なっていた。 「……その服、どうしたんですか」 ちゃぶ台の前で編み物をしていた桔梗が、訝しげに尋ねる。 龍之介は無言でスーツの上着を脱ぎ、乱暴に畳へ放り投げた。 シャツの袖をまくり上げると、彼の太い前腕には、生々しい刃物の切り傷が一本、真っ直ぐに走っていた。 「龍之介さん! その腕……」 「騒ぐな。かすり傷だ」 桔梗が慌てて立ち上がろうとするの
二人だけの、誰にも邪魔されない世界。 だが、そんなささやかな平穏が、いつまでも続くほど、外の世界は甘くなかった。 ◇ 数ヶ月が過ぎた頃から、龍之介の持ち帰る「匂い」が変わり始めた。 土と汗の匂いに混じって、生々しい鉄の匂い──血の匂いが、頻繁に嗅ぎ取れるようになったのだ。 ある夜、帰ってきた龍之介の右目の上に、パックリと開いた新しい裂傷があった。 「現場で資材が崩れただけだ」と彼は短く吐き捨てたが、桔梗にはそれが嘘だとわかっていた。 傷の形状は、どう見ても鋭利な刃物や鈍器で殴られたものだ。 さらに、彼が長続きさせていた工事現場の仕事が、次々と理由もなく打ち切られるようになった。 「……また、明日から別の現場を探さなきゃなんねぇ」 ちゃぶ台の前で、安酒の入った湯飲みを呷りながら、龍之介が忌々しそうに舌打ちをした。 「どうしてですか。あんなに、親方さんに気に入られていたのに」 「さあな。上の方から、俺を雇うなって圧力がかかったらしい。……どこのどいつの差し金か、見当はついてるがな」 龍之介の目が、ギラリと暗い光を放つ。 桔梗は、息を呑んだ。 白河の家か。あるいは、あの男──不来方玄か。 警察組織や行政の末端にまで影響力を持つ彼らなら、一人の名もない日雇い労働者を社会の底辺からさらにその下へと追いやることなど、造作もないことだ。 桔梗を自分の箱庭から連れ出した野良犬に対する、陰湿で徹底的な兵糧攻め。 「……私の、せいですね」 桔梗が膝の上で両手を固く握りしめると、龍之介は湯飲みをドンと音を立てて置いた。 「馬鹿言ってんじゃねぇ。お前のせいじゃねぇ。世の中の仕組みがクソなだけだ」 「でも、私が彼らの誘いに乗っていれば、あなたがこんな目に……」 「桔梗」 龍之介が、低い声で彼女の言葉を遮った。 彼が立ち上がり、桔梗の前に膝をつく。 両手が、彼女の華奢な肩を強く掴んだ。 「あの息の詰まる屋敷に戻りたいか? あの気取った検事の隣で、一生人形みたいに笑って過ごしたいか?」
六畳一間、隙間風の入り込む古い木造アパート。 それが、白河の家を捨てた桔梗と、スラムの野良犬だった龍之介の、最初の「城」だった。 天井の隅には雨漏りの茶色いシミが広がり、歩くたびに床板がミシ、ミシと甲高い音を立てる。共同便所の水が流れる音が、薄い壁を隔てて容赦なく響いてくるような、生活のノイズにまみれた空間。 かつて桔梗が暮らしていた、塵一つ落ちていない広大な屋敷とは、文字通り天地の開きがあった。 だが、桔梗は、剥げかけたちゃぶ台を水拭きしながら、不思議なほどの充足感に包まれていた。 雑巾を絞る指先は、冷たい水道水で赤く悴んでいる。爪は短く切り揃えられ、かつての白魚のような滑らかさは失われつつあった。 それでも、この狭い四角い部屋の空気は、あの豪邸の無菌室よりもはるかに呼吸がしやすかった。 ガラリ、と。 建て付けの悪い玄関の引き戸が、重たい音を立てて開いた。 「……ただいま」 低い、ひどく疲労の滲んだ声。 桔梗は弾かれたように振り返り、立ち上がった。 「お帰りなさい、龍之介さん」 上がり框に腰を下ろした男は、作業着の肩にべっとりと泥とセメントの粉を付着させていた。汗と土埃、そして安煙草の匂いが、狭い玄関にむわっと広がる。 龍之介は重い安全靴を脱ぐと、どさりと板の間に仰向けに倒れ込んだ。 「……あー、クソ。腰が痛ぇ」 「今日もお疲れ様です。お茶を淹れますね」 「いや、いい。……ちょっと、こっち来い」 龍之介が、太く節くれだった手を桔梗へと伸ばす。 桔梗は膝をつき、彼の傍らに座った。 伸ばされた大きな手が、桔梗の首の後ろに回り、ぐいと強引に引き寄せる。 「あっ……」 顔が、彼の熱い胸板に押し付けられた。 作業着の粗い布地が頬を擦る。土の匂いと、一日中肉体を酷使した男の汗の匂い。 ドクン、ドクンという力強い心音が、ダイレクトに耳を打つ。 「……龍之介さん、泥がついてしまいますよ」 「構うか。俺の女なんだから、俺の泥くらい被っとけ」 乱暴な口調とは裏腹に、背中を撫
雨が降り始めた夕闇の向こうから、腹の底に響くような低い声が聞こえた。 不来方が弾かれたように振り返る。 ガードレールの傍らに、両手をポケットに突っ込んだ龍之介が立っていた。 傘もささず、肩から雨の滴を滴らせながら、彼は不敵に口角を吊り上げている。「お前が、久遠……」 不来方の顔面が、怒りと憎悪で歪む。「よくもノコノコと姿を現したものだ。社会の底辺を這いずり回るダニが、彼女に近づくな」「小難しい理屈はどうでもいい」 龍之介は、不来方の言葉を完全に無視して、真っ直ぐに桔梗の元へ歩み寄った。 不来方と桔梗の間に、分厚い身体を割り込ませるようにして立つ。 そして、桔梗の手を、自分の大きな手でしっかりと握りしめた。「……行こうぜ、桔梗。こんな息の詰まる場所、お前には似合わねぇ」「はい。……龍之介さん」 桔梗が、初めて不来方の前で、柔らかく、温かい微笑みを浮かべた。 それは、不来方がどれほど望んでも決して引き出すことのできなかった、心からの笑顔だった。「待て! 行かせると思うか!」 不来方が激昂し、龍之介の肩を掴もうと手を伸ばす。 だが、龍之介がゆっくりと首だけを振り返り、不来方を睨み据えた。 その瞬間、不来方の動きが完全に凍りついた。 殺気。 ただの威嚇ではない。これまで数え切れないほどの修羅場をくぐり抜け、命のやり取りをしてきた本物の獣だけが放つ、絶対的な暴力のプレッシャー。 エリートとして机の上で「正義」を振りかざしてきた不来方の身体が、本能的な恐怖で金縛りにあったように動かなくなる。「……次、その汚ぇ手で彼女に触れようとしたら、腕の骨、根元からへし折るぞ」 静かな、凄絶な宣告。 龍之介はそれだけを言い残し、桔梗の手を引いて雨の降る闇の中へと歩き出した。 不来方は、伸ばしかけた手を空中で震わせたまま、ただ二人の背中が遠ざかっていくのを見送ることしかできなかった
不来方は、写真を握り潰すように手の中に丸めた。 許せない。 彼女は、私のものだ。私の正しく美しい人生を彩るための、欠かせない存在だ。それを、あんな汚らわしい男がたぶらかしている。「彼女の目を覚まさせなければならない。……あの男から、彼女を保護する。それが、私の正義だ」 歪んだ使命感が、不来方の胸の奥で黒い炎となって燃え上がった。 相手の意志など関係ない。自分が正しいと信じた方向に相手を強制的に矯正すること。それこそが彼にとっての「法」であり「愛」だった。 その日の夕刻。 桔梗が屋敷の裏門からそっと外に出ようとした時、目の前に黒塗りの車が滑り込んできた。 後部座席から降りてきたのは、不来方だった。「どこへ行くつもりだ、桔梗さん」 静かな、だが逃げ場を塞ぐような冷たい声。 桔梗は足を止め、鞄の持ち手を強く握りしめた。「……少し、散歩に」「嘘をつくのは感心しないな。君の行動は、すべて把握している」 不来方は一歩、彼女との距離を詰めた。 夕暮れの薄暗がりの中、彼の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のようにねっとりとした光を放っている。「あの男に会いに行くのだろう? 久遠とかいう、スラムのチンピラに」「……探りを入れたのですか」 桔梗の声音が、スッと低くなる。 不来方は悪びれる様子もなく、淡々と答えた。「君を守るためだ。君は騙されている。あんな男の傍にいて、君が得るものは何もない。ただ泥にまみれ、破滅するだけだ」「それは、あなたが決めることではありません」「いいや、私が決める。君は私の妻になる女性だ。……さあ、屋敷に戻りなさい」 不来方の手が伸び、桔梗の腕を掴もうとした。 だが、桔梗はその手を鋭く払い除けた。 パシッ、と乾いた音が鳴る。 不来方の目が、驚愕に見開かれた。今まで一度も彼に逆らったことのない、従順なはずの令嬢が、明確な敵意と拒絶をもって彼を跳ね除けたの