僕たちはその後、夕飯を取るために外へ出た。
町のほとんどの飲食店は閉まっているようだったが、中心地の通りを歩いて明かりの漏れている酒場を見つける。軒先の看板には『ミッドナイトドロップ』という店名が記されていた。
中に入ると、数組の客が静かに酒を飲んでおり、吊りランタンが店内を柔らかく照らしていた。
「悪くないな。メニューは……っと」
僕たちは空いていたテーブルにつく。ネイヴァンが店員を呼んで注文を始めた。
「羊肉のパイ、山菜とポテトのグリル、パンプキンスープ、それから俺は適当な地酒をくれ。お前は?」
「えっと、僕は黒果実のスカッシュを……」
「ノンアルだってぇ? つまらないこと言うなよ。いいから一緒に飲め。コイツには林檎酒《アップルブレイズ》を」
押し切られてしまい、結局僕の前には、グラスの縁が粉砂糖で装飾された焼きリンゴ添えの甘口リキュールが運ばれてきた。
『イバラの雫』なる辛口の地酒を手にしたネイヴァンと、二人でグラスを合わせる。
乾杯。
ネイヴァンは小さめのグラスに入ったそれを一気に飲み干し、すぐに二杯目を注文する。
「大丈夫ですか、そんなスピードで……」
「俺を誰だと思ってる。これくらいで酔うかよ」
誰だと、と言われても、ネイヴァンの飲酒事情など僕は知らない。知っているのは職業と性格と使える魔法くらいだ。
対して僕は、口を湿らす程度にしか飲まず、主に料理を味わっていた。羊肉のパイは香草が利いていて薫り高く、山菜とポテトのグリルは塩と油の加減が絶妙だった。冷たいパンプキンスープもクリーミーで喉越しが良い。すべて、ハッと目を剥くような劇的な美味さではないが、素朴で、優しい味わ
僕たちはその後、夕飯を取るために外へ出た。 町のほとんどの飲食店は閉まっているようだったが、中心地の通りを歩いて明かりの漏れている酒場を見つける。軒先の看板には『ミッドナイトドロップ』という店名が記されていた。 中に入ると、数組の客が静かに酒を飲んでおり、吊りランタンが店内を柔らかく照らしていた。「悪くないな。メニューは……っと」 僕たちは空いていたテーブルにつく。ネイヴァンが店員を呼んで注文を始めた。「羊肉のパイ、山菜とポテトのグリル、パンプキンスープ、それから俺は適当な地酒をくれ。お前は?」「えっと、僕は黒果実のスカッシュを……」「ノンアルだってぇ? つまらないこと言うなよ。いいから一緒に飲め。コイツには林檎酒《アップルブレイズ》を」 押し切られてしまい、結局僕の前には、グラスの縁が粉砂糖で装飾された焼きリンゴ添えの甘口リキュールが運ばれてきた。『イバラの雫』なる辛口の地酒を手にしたネイヴァンと、二人でグラスを合わせる。 乾杯。 ネイヴァンは小さめのグラスに入ったそれを一気に飲み干し、すぐに二杯目を注文する。「大丈夫ですか、そんなスピードで……」「俺を誰だと思ってる。これくらいで酔うかよ」 誰だと、と言われても、ネイヴァンの飲酒事情など僕は知らない。知っているのは職業と性格と使える魔法くらいだ。 対して僕は、口を湿らす程度にしか飲まず、主に料理を味わっていた。羊肉のパイは香草が利いていて薫り高く、山菜とポテトのグリルは塩と油の加減が絶妙だった。冷たいパンプキンスープもクリーミーで喉越しが良い。すべて、ハッと目を剥くような劇的な美味さではないが、素朴で、優しい味わ
西部の中心都市ヘロトスへ到着した僕たちは、夕焼けの中、乗合馬車に揺られてさらに二時間の道のりを進んだ。車輪の軋む音と小刻みな振動、半分開いた窓から流れ込んでくる草原の香りが眠気を誘う。 ひとつ、町を通過するごとに乗り合う客は減っていき、九人いた乗客はやがて僕たちだけとなった。セリカはヴェルミリオン帝国西端の町。御者の男によると、アクセスの悪さもあり、行き来する人は少ないらしい。 ようやくセリカの町に到着したころには、日は完全に落ちて、空はすっかり群青色だった。 セリカは小高い丘に囲まれた盆地にあるのどかな町で、木造の低い建物が並び、道は石畳ではなく土のままだ。家々の窓は早々に閉じられ、商店の軒先には、本日終了を示す札がぶら下がっている。歩いている人影もなく、町全体が静寂に包まれていた。「田舎町の夜ってのは、まるでゴーストタウンだな……」 ネイヴァンがぼやく。だが確かに、この静けさは都会に慣れた人間には少し不安を感じさせる。 僕たちは今日の宿を求めて、宿屋の看板を捜し歩いた。そして、青い満月の上に"ブルームーン"を意味する単語の浮き彫りがされた吊り看板を見つける。 木製の扉には閉店の札が掛かっていたが、駄目もとでネイヴァンが扉を叩く。「迷惑じゃないですかね?」「きみ、そんなこと言ってたら野宿する羽目になるぞ。この時間なら、さすがにまだ寝てはいないだろ」 時刻は午後七時を少し過ぎたくらい。確かにまだ就寝には早い。というのは、都会寄りの認識だが。 それからネイヴァンは諦めずに何度か扉を叩き続けた。僕も彼と一緒になって、「あのう」や「すみません」と加勢する。 十五分ほど続けて、ようやく扉の向こうから店主らしき初老の女が現れた。ネイヴァンが事情を話す
走り出した列車の窓外には帝都サン=カディアの石造りの街並みが流れ、その屋根瓦が晴天の陽光に照らされてきらきらと輝いていた。 僕はネイヴァンに、先ほどエルドリスにも話したラシュトの正体をかいつまんで語った。双子が融合して魔物になったこと、そしてその記憶を識嚥《シエ》で辿ったこと。「なるほどなぁ。やっぱり魔物と人間ってのは、思っているより境界が曖昧なんだろうな」 ネイヴァンは面白がるように顎を撫でた。「ネイヴァンさんは黒魔法について詳しいですか?」 エルドリスに拒否された話題を持ち出すと、ネイヴァンの表情が少し曇った。「あー、まあ、多少は知ってるけどな。深入りしないほうがいい世界だぞ」「でも、実際に黒魔法を使って人間が魔物になるケースがあるなら、知っておいたほうがいいと思うんです」「知ってどうするんだ? きみが魔物になるつもりでもあるまい」「そりゃ、なりはしないですけど……」「まっとうな役人になりたいなら、やめとけ。黒魔法なんて口にするだけで、脛に傷のあるヤツだと思われる」「そうなんですか? あ、もしかしてネイヴァンさんは黒魔法、使ったことあったりして?」「ああ、一度だけな。でも、もうこりごりだ。二度と使うことはない」 ネイヴァンは軽く笑って肩をすくめ、「冗談だよ、それより」と巧みに話題を逸らす。「識嚥《シエ》だが、そんな危険な記憶ばかりじゃなくて、もっと面白いものの記憶を再生してみたらどうだ? 例えば、皇宮の執事が記録した"歴代皇帝の癖や好み集"とか、昔の詐欺師が詐欺電話に使ってた魔導通信機の記憶とか。それこそ、一つの番組になりそうじゃないか」 僕は眉をひそめて即座に首を横に振った。「嫌ですよ。それ僕、無機
往復十八時間の旅。ぼうっとしている時間はない。いや正確には、乗り物にさえ乗ってしまえば、あとはぼうっと本でも読んでいるしかなくなるのだが。 とにもかくにも、次のミラニア行きの高速船に絶対に乗りたい。僕は急いで寮の自室へと戻った。 監獄を離れるときにしか着ない私服は、生成りのシャツに、細身の紺色のパンツ、そして履きなれた革靴だ。それらに着替えて、旅用のバッグにシャツの替えと手回り品を詰め、港へ走る。出港間際の高速船に、なんとか滑り込んだ。 予定どおり二時間かけてミラニアに着き、そこからも駅まで走って、帝都行きの鉄道に乗り込む。帝都行きはいつも混むので大変だった。乗ってから一時間は席に座れず、車両と車両の連結部分でバッグを抱えて立っていた。 へとへとになりながら帝都へ到着し、西部行きの特急列車に乗り換えようと、セントラルステーションをまたもや走っていると、聞き慣れた声に呼び止められた。「おーっと、これは奇遇。新人君じゃあないか」 振りむくと、そこにはネイヴァンが楽しげな笑みを浮かべて立っていた。「ネイヴァンさん、偶然ですね。じゃ、僕は急ぎますので」 最短で会話を終わらせて立ち去ろうとすると、肩を掴まれる。「おいおいおい、それはないだろう。共に死線を乗り越えた俺と君の仲じゃないかぁ」 面倒だなと思いつつ、ここで適当にあしらっては余計に引き留められると思い、僕は正直に旅の経緯を話すことにした。つまり、三日間の休みが取れたのでエルドリスに何か街で欲しいものはないかと尋ねたところ、往復十八時間かかる田舎町でしか売っていない菓子を指定されて急いで買いに走っている、と。 ネイヴァンは腹を抱えて笑った。その無遠慮さがいっそ、すがすがしい。 ひとしきり笑うと彼は僕の両肩に手を置いた。
僕が、血文字から再生した記憶のすべてを語り終えると、エルドリスは深く息を吐いた。「なるほどな。ラシュトという存在は、実際にはラシュトとエンリオの双子の兄弟が融合したモノだったわけか」 エルドリスの表情にはわずかな驚きとともに、ある種の納得が浮かんでいた。「つまりあれこそが"元人間の魔物"。まるで人間と変わりなかった。ああいうモノがこの世に存在すると確かめられたことは、ひとつの大きな成果だな」「でも、まさか転生の魔法なんてものがあるなんて……」 僕の呟きに、エルドリスの目が鋭くなる。「それは黒魔法の類だ。深く知らない方がいい」 僕はその反応に興味を惹かれ、身を乗り出す。「黒魔法って、そんなに危険なんですか?」「いいから、もう聞くな。お前が知っても得することはない」「ですけど、転生の魔法がメジャーな黒魔法なんだとしたら、他にもそれを使って魔物になった人間が大勢いるのかも」「メジャーなわけがないだろう、黒魔法だぞ。その意味を知っているか? 禁忌だ。それについて知ろうとするだけで刑罰ものだ」 エルドリスは話を強引に終わらせるように、背伸びをして大きな欠伸をひとつした。「私はこれから仮眠を取る。お前も仕事に戻ったらどうだ」 このままでは追い出されると思った僕は、とっさに話題を探して口にした。「あ、あのっ! 実は僕、今日から三日間、非番なんです。何か欲しいものがあれば街で買ってきますよ!」 必死さが伝わったのか、エルドリスは僕の申し出を無下にはせず、しばらく考える仕草をしたあと、ふっと目を細めた。「それなら、『蜜月の琥
死刑か、それも悪くない。 死ぬまで生きるしかない僕たちを、ようやくこの世界が解放してくれる。 ああ。 この世界には寒い場所しかないと思っていたのに、この誰もいない島は、こんなにもあたたかい。 なんてあたたかい地獄なのだろう。 洞窟の最奥。 天井に開いた無数の小さな穴から雨のように降り注ぐ光は、向かい合って横たわった僕たちをあたたかく包む。 巨大な魔物に襲われた。 僕たちは右目が潰れ、左耳を千切られ、右腕は肩から先を失い、左脚は膝から下がなかった。 断面から覗く白い骨が、光に照らされて眩しい。 「僕たち死んじゃうんだね、エンリオ」 「うん。……ラシュトは死にたくない?」 「わからない。でも、もう少しこの島にいてもよかったなぁ」 「僕もそう思う」 「うふふ。やっぱり僕たち双子だねぇ」 「ラシュト、どうせ死ぬならさ、最期に試してみない?」 「何を?」 「先生がくれた本に書いてあった、転生の魔法」 「ええっ、できないよ。僕たち魔法使いじゃないもの」 「できるさ。本に書いてあったとおりにすればいい」 「でも、転生の魔法には"贄"が要るよ。ここには"贄"になるモノがいない」 「僕たち自身を"贄"にすればいい」 「それじゃあ僕たちやっぱり死んじゃうよ」 「ううん、"贄"にするのは僕たちの半分だけ。ふたりで半分ずつ"贄"になって、残りの半分ずつで新しい僕たちに転生するんだ」 「わぁ……それいいね。僕たちは体の半分を捨てて、もとのひとつに戻るんだ」 僕たちは泥と血で汚れた互いの手を取る。 「大好きだよ、ラシュト」 「僕もだよ、エンリオ」 ぼろぼ
目の前に星が散るとか、火花が散るとかいった比喩表現を、大げさだと笑う人もいるけれど、僕は笑えない。なぜなら、もうひとつの胃、識嚥《シエ》にモノを落とした瞬間、僕はその感覚を味わうからだ。 目を開けているのに真っ暗な視界の中で、星なのか火花なのかわからない光が明滅する。頭がくらくらして、とにかく気分が悪い。 そして、明転は唐突に訪れる。――――― 酷い寒さ。 指先が凍え、体の芯から震える。 飢え。 胃袋が自身を喰らい尽くそうとしている。 誰も僕らを守ってはくれない。 街の外れ、廃屋の壁に寄りかかり、冷えた背中を震わせてふたり、小さな硬いパンを分け合う。 盗みで生き延びるしかなかった。 失敗すれば大人たちに殴られ、追い回され、それでも生きるために再び盗んだ。 いつ終わるとも知れない飢餓と逃亡の日々。 鮮血の温かさを知った。 最初の殺人、火掻き棒が骨を砕く感触、鮮やかな血の赤。 殺したかったわけじゃない。 罪悪感はあるのに胸が昂った。 心臓が狂ったように鼓動し、全身に血が巡った。 ああ、これが「生きていく」ということか。 こんなことをしてまでも、死ぬまで、生きていかなきゃいけない。 ねえ、先生。 神は僕たちが、先生の両手足の爪を剥ぐのを許してくれるかな? そうして流れた血を熱い鉄棒で焼き止めるのを許してくれるかな? 足の裏に釘を刺すのを許してくれるかな? 必死に歩こうとする先生が転ぶたびに肌を焼くのを許してくれるかな? 熱い鉄棒で先生を犯すのを許してくれるかな? 先生、あなたが教えてくれた神は、あなたを助けなかったね。 先生は、無事に神さまのもとへ行けたかな?
鉄扉が開くと同時に、ふわりと清潔な石鹼の香りがした。 顔を見せたエルドリスは、いつもまとめている髪を下ろしている。服装も、先ほど別れたときの黒い狩猟服とマントとブーツではなく、上下オレンジ色の囚人服だ。部屋で過ごすならばこれが楽なのだろう。 肩まで伸びた艶やかな黒髪に、終身刑を示すオレンジ色の囚人服。 『30分クッキング』の調理人である彼女とは異なる顔を意図せず見てしまった気がして、僕は少しの罪悪感を覚える。そして、それとは異なる種類の胸の高鳴りも。「おい、そんなに顔を赤くしてどうした? ラシュトの正体について、何かとんでもないことでもわかったのか?」「あっ、その、そうじゃなくて……いえ、そうなんですが」 知らず、赤面していたらしい。僕は両手で顔を隠すように彼女の視線を遮り、「資料室に保管されているラシュトの資料を読みました。その件で話が」「なるほど。入れ」 エルドリスが扉を大きく開けてくれる。僕は頭を下げ、彼女の独房へと足を踏み入れた。 以前に来たときと同じように、僕とエルドリスは窓際の木製のテーブルセットに向かい合って座った。彼女がお茶を入れてくれ――普通のお茶ではなく、やはりカサリス・ビートル茶だ――それをひと口飲んでようやく顔の熱も冷えてきた僕は、資料室で知ったラシュトとエンリオのことをすべて彼女に話した。 守秘義務、という言葉が一瞬脳裏をよぎったが、関係ない。ナイトフィーンドの胆汁酒でエルドリスと同志の盃を交わした時から、僕の為すべきことの最たるは、刑務官としてのお堅いルールの遵守ではなくなった。 エルドリスは僕の話を黙って聞いていた。そして僕が話し終えると、しばらくの沈黙ののち、静かに口を開いた。「話はわかった。それで、お前はどうしてその話
それからというもの、ラシュトとエンリオは定期的に「獲物」を攫っては、廃工場や下水跡、墓地の地下納骨堂など、ひと気のない場所へと連れ込み、好き勝手に拷問して殺した。 記録に残っているだけでも、十八件。それらすべては凄惨を極めた。 両目を抉られ、手足の指を砕かれ、下顎を切断された老婆。 腹部を切り裂かれ、引き出した腸で首を絞められた酔いどれ男。 熱した鉄串を全身に突き刺された末、喉を裂かれた若い衛兵。 天井から吊られ、全身の数十か所を少しずつ炙られた女司祭。 手首足首をうっ血するほど固く縛られ、その先を切断された状態で豚小屋に閉じ込められた少女。 目を覆いたくなるような残虐非道の数々。 しかしそれも終焉を迎えることとなる。 十五歳の秋。 それはひとつの事件がきっかけだった。 ある令息の誘拐と惨殺。帝都でも知られた名家のひとり息子が、慈善事業と銘打って貧民窟へ足を運び、お忍びで売春宿へ出掛けたところを攫われた。そして翌朝、彼の頭部だけが、お付きの者たちが宿泊している宿の玄関に置かれていた。 その犯人は言わずもがな、ラシュトとエンリオの兄弟だった。彼らは身なりの良い、気取った若い男をいつものように軽い気持ちで誘拐し、いたぶって殺した。 だが、今回は相手が悪かった。被害に遭ったのが帝都の令息だということで、帝都から優秀な警察隊が捜査にやってきた。 数週間後、兄弟はついに捕らえられた。 ふたりは帝国内でも最も重罪人が収監される第七監獄《グラットリエ》へと送致され、正式に裁きを受け、死刑判決を下された。 十六歳の春、ふたりは死刑囚島《タルタロメア》へと転送される。 それが、ちょうど一年前の記録だった。&