隼人は瑠璃の顎を掴み、抵抗を許さずキスをした。右手で彼女の上着を乱暴に引き裂き、丸みを帯びた肩に噛みついて、歯型を残した。「っ……」瑠璃は痛みに眉をひそめた。隼人は動きを止め、瑠璃の屈しない瞳と視線を合わせた。「これがお前の言うか弱いってやつか?」彼は皮肉めいた声で言った。「俺はお前の夫じゃない。甘やかす気もないし、機嫌を取るつもりもない。いい子にして言うことを聞け。じゃなきゃ、辛い目に遭うのはお前だ」そう吐き捨てると、隼人はすっと身を起こし、彼女の上から離れた。瑠璃はドアの閉まる音を聞き、ふと、このベッドで隼人と恋華が共に寝た可能性を思い浮かべた途端、全身が嫌悪感に包まれ、すぐにベッドから降りた。ドアを開けて出ようとしたが、鍵がかかっていて開かなかった。また隼人は彼女を閉じ込めて、ゆっくり弄ぼうとしているのか?けれど彼女は、子供が傷つけられたと聞いて、怒りにまかせて直接ここに来てしまったため、スマホも持っていなかった。――子供。瑠璃の胸に不安がよぎった。まだ子供の容体がどうなったのか分からない。看護師は顔色が紫で呼吸もなかったと言っていた。隼人がさっき彼女の首を締めた時のあの冷酷さを思い出し、心がズキリと痛んだ。――隼人、恋華は一体あなたに何をしたの?どうしてこんな冷血で残酷な人間になってしまったの?瑠璃は長い時間部屋に閉じ込められていた。恋華が嫌がらせに来るかと思っていたが、日が暮れても彼女は現れず、代わりに隼人が来た。彼は部屋に入るなり、単刀直入に訊ねた。「決めたか?俺の調香を手伝うか?」瑠璃は彼を一瞥したが、無言で答えなかった。隼人は瑠璃の後ろに立ち、ひんやりとした手のひらをそっと彼女の首筋に這わせた。冷たい掌が彼女の肌に触れ、動きは優しく浅かった。「死ぬのが怖くないってわけか、ん?」彼の低く艶のある声が耳元で囁かれた。瑠璃が完全に無視しているのを見て、彼は首に置いた手にゆっくりと力を込めていった。瑠璃は微動だにせず、呼吸を奪われていっても驚きも動揺もせず、静かにそれを受け入れていた。隼人は瑠璃の冷たい横顔を見つめ、目に愉しげな色を浮かべた。彼はさらに顔を近づけ、薄い唇をそっと彼女の方へ下ろした。その瞬間、瑠璃が反応した。「触らないで」「俺が夫
隼人は、締めつけていた手にさらに力を込めようとした――だが、その瞬間。瑠璃の言葉が、彼の中にわずかな動揺をもたらした。涙に煙る彼女の瞳を見つめたとき、隼人は不意に呆然とした。彼女の涙が、そっと彼の手の甲に落ちた。その温もりが、肌を伝って心にまで染み入った。焼けつくような熱さが胸に突き刺さったとき、隼人はようやく正気に戻った。「俺を、お前の死んだ旦那と重ねるな」彼は冷たく言い放つと、喉元を締めつけていた手を放した。「コほっ、コほ……」自由を取り戻した瑠璃は、苦しそうに呼吸を整えた。首の痛みよりも、彼の冷たい目が心に突き刺さった。それでも、彼女は恐れることなく顔を上げ、まっすぐに言葉をぶつけた。「今、あなたが一番大事にしてるのは恋華でしょ?――なら、私の子に何かあったら、恋華にも同じ代償を払ってもらうわ」隼人は鼻で笑った。その視線には、侮蔑の色しかなかった。「お前に、そんなことができるのか?」瑠璃はまっすぐに睨み返した。「試してみればいい」その言葉を残して、彼女は踵を返した。だがその瞬間、隼人が彼女の腕を引き戻し、強引にその体を抱き寄せた。彼の気配が彼女を包む。「今日来たってことは、帰れると思ってるのか?」「へぇ……今度は私も殺すつもり?」瑠璃は少しも怯まずにそう言った。隼人が再び暴力に出るかと思いきや、意外にも彼は彼女の頬に手を当てた。「お前にやってもらいたいことがある。それができたら、帰してやる」その言葉に込められた命令のような威圧感――だが、彼の目はどこか本気だった。瑠璃は冷ややかに目を細めた。「あなたに協力するってことは、恋華のために汚い仕事を手伝うってことよね。そんなの、やるわけないわ」「ふっ――」隼人は鼻で笑い、少し顔を近づけた。「お前、何を想像してる?俺が頼むのはそんなことじゃない」声を低くし、耳元で囁いた。「お前は調香師だろ?俺に一つ、香りを作ってほしい」その要求は、意外だった。だが瑠璃は、即座に拒絶した。「絶対に手伝わない」隼人の眉がわずかにひそめられる。「これは命令だ」「悪いけど、私は脅しに屈するような人間じゃないの」「つまり……俺の命令を拒否するってことか?」彼の目に、冷たい光が宿った。瑠璃は、わずかに口角
だが、瑠璃が本当に気にしていたのは――隼人の態度ではなかった。最初から最後まで、彼が一度もあの子を見なかったことだった。自分の血を引く我が子を、彼は一瞥することさえしなかった。血のつながりがあれば、ほんの少しでも何かを感じるはずなのに――彼からは、何も、まったく感じられなかった。「隼人……あなたの心の中には、今や恋華しかいないのね?」瑠璃は、虚しくも切ない笑みを浮かべた。保育器の傍に戻り、すやすやと眠る小さな命を見下ろすと、その胸は甘くもあり、同時に苦しくもあった。翌日、彼女は隼人が言った通りに別荘へは行かなかった。彼が本当に子供に手をかけるとは思えなかったし、そう信じたかった。だが午後、一時的に病室を離れて戻った彼女に、看護師が慌てた様子で報告してきた。「さっき部屋に戻った時、男の人がここから出ていくのを見ました。その後、赤ちゃんを確認したら……顔色が紫で、呼吸がなくて……今、集中治療室で蘇生中です!」その瞬間、瑠璃の心臓が誰かにわしづかみにされたように痛んだ。震える手でスマホを取り出し、画面を看護師に見せつけた。「この男だった?この人?」看護師はしばらく写真を見つめたあと、曖昧な口調で答えた。「は、はい……そうです。この人、すごく綺麗な顔立ちでしたから、覚えてます……」その一言で、瑠璃の胸は張り裂けた。そこへ賢と夏美が病室に駆けつけたが、瑠璃は返事もせず、その場から飛び出した。「千璃!どこ行くの!?」──郊外の別荘──隼人は一日中、瑠璃を待っていた。だが、彼女は一向に現れなかった。不機嫌な様子で、車に乗って探しに行こうとしたその時――玄関を出た彼の目の前で、一台の車が急停止し、その車から怒りに燃えた表情の瑠璃が駆け寄ってきた。隼人は面白がるようにその姿を眺め、口元に意味深な笑みを浮かべた。「ようやく来たのか――」その言葉を最後まで言い終える間もなく。パァン――!瑠璃は彼の胸ぐらを掴み、勢いよく平手打ちを食らわせた。その瞳は赤く染まり、怒りに震えていた。「目黒隼人――!私を忘れてもいい、子供を認めなくてもいい!でも、なんで、どうしてあの子を傷つけるようなことをしたの!?記憶を失っただけじゃなくて、人間としての心まで失くしたの!?まだ生まれて間もない、
瑠璃は視線の端で、黒い影が入り込んできたのを捉えた。男性の気配にすぐ反応し、とっさに身を引いた――が、次の瞬間、その男の顔がはっきりと見えた。隼人――。彼は無言でドアを閉め、そのまま鍵をかけると、ベッドに腰かけて授乳中の瑠璃に向かって、一歩一歩と近づいてきた。その整った冷たい顔立ち、深く鋭い瞳には、感情の欠片すらなかった。まるで氷のような眼差しで、彼はまっすぐ瑠璃を見つめていた。瑠璃は逃げずに、堂々とその視線を受け止めた。ただ、耳のあたりがじんわりと熱を帯びていた。「佐々木さん、何のご用?」そう呼びはしたものの、瑠璃は知っていた。彼の正体は、紛れもなく――隼人。彼は唇をうっすらと開いた。「お前が、俺の女を怒らせた。だから……俺もお前を不快にさせる」その一言に、瑠璃は腕に力を込めた。だが、この状況で無理に抵抗するわけにもいかなかった。彼女の胸元では、小さな命――プリンが、何も知らずに無垢な瞳を見開き、真剣な表情でミルクを飲んでいた。――本当なら、この子を一緒に育てていくはずだった。父親である彼と、並んでこの子の成長を見守るはずだった。だけど、神様はいつも、彼女に試練ばかり与える。瑠璃は寂しく笑って、胸元の赤ん坊を見つめた。その姿だけで、少しだけ心が癒された。けれど顔を上げると、隼人がじっとこちらを見つめていた。その視線に、彼女の頬は再び火照った。何度も見られた身体だというのに、こんなにもじっと見られると、どうしても居心地が悪くなる。立ち上がって位置を変えようとした瞬間、彼が急に手を伸ばしてきた。冷たい指先が、彼女の左胸のあたりにある小さな黒子をなぞった。一瞬、時間が止まったように感じた。――もしかして、この黒子に見覚えがあるの?だが、隼人の指はすぐに離れ、代わりに彼女の顎を掴んだ。そのまま冷たい顔が目の前に迫ってくる。感情の読めない瞳が、彼女の顔をまじまじと見つめていた。「景市の第一美女令嬢、ジュエリーデザイナー、調香師……」彼は瑠璃の肩書きを一つ一つ数え上げると、ふっと鼻で笑った。その笑みは、かつての優しさとはまるで違う。そこには皮肉と挑発、そして冷ややかで悪意のある色が含まれていた。「碓氷千璃、そんなに俺のこの顔が好きなのか?」彼が突然そう問いかけた。低く曖昧な声だった。
「ついでに言っておくわ。この監視映像、あなたたちが手に入れる前に、私はすでにレストラン側に頼んで確保していたのよ。盗人猛々しく私に罪をなすりつけなければ、公開するつもりなんてなかった。横坂さん、先に手を出した者が負けよ。自業自得という言葉、そのままあなたに贈るわ」「あんた……」零花は怒りで理性を失い、顔を真っ赤にして手を振り上げた。瑠璃を叩こうとしたその瞬間――パァンッ!乾いた音と共に、その手が空中で止まった。彰の父の平手打ちが、零花の頬を激しく打ちつけた。「恥知らずにもほどがある!自分のやったことを棚に上げて、無実の人間を陥れようとするとは……彰くんとの婚約は、今この場で破棄する!うちは、こんな女を嫁にもらうつもりは断じてない!」彰の父と母は顔を真っ青にして、怒りに満ちたままその場を去ろうとした。だがそのとき――青葉が一歩前に出て、きっぱりと道を塞いだ。「帰る前にやるべきことがあるでしょ。うちの嫁に、ちゃんと謝っていってもらうわ」彰の親は顔を赤らめ、気まずさを浮かべながらも、頭を下げて瑠璃に謝罪した。その後、彰を連れて早々にその場を離れた。彰は最後にもう一度、申し訳なさそうな目で瑠璃を見つめてから、黙って去って行った。一方、零花は混乱の中、慌ててその場を追いかけて出ていったが、通路では複数の見物人がスマホを向けて彼女を撮影していた。彼女は顔を手で隠しながら逃げるように姿を消した。一連の騒動に集まっていた見物人たちは、ざわざわと話をしながらも、瑠璃に向けて口々に謝罪の言葉を口にした。それを見た青葉は、手を振って彼らを制し、ドアを閉めた。――病室に残ったのは、彼女と瑠璃の二人だけだった。場の空気が落ち着くと、今度は青葉の方が少し落ち着かない様子になった。彼女は何事もなかったように振る舞いながら、持参したスープの入った保温ポットをテーブルに置いた。「……私、用事があるから、そろそろ帰るわね」そう言いながら、青葉は目を合わせずにドアの方へ向かった。その背中に、瑠璃が静かに声をかけた。「……ありがとう、お義母さん」「……っ」青葉の手が、ドアノブにかけられたまま、びくりと震えた。両脚に鉄を流し込まれたかのように、体が重くなる。その目には、にじむように涙が浮かんでいた。「お義
人々のざわめきの中に、ひときわ鋭く強い声が割り込んできた。その声に、瑠璃は思わず目を上げた。そして目にしたのは、保温スープポットを手に、怒りに満ちた表情で人混みをかき分けて病室に入ってくる――青葉の姿だった。彰の親は、過去のいくつかのビジネスパーティーで青葉と顔を合わせたことがあった。彼女が千璃のことを嫌っていたことも知っていた。それなのに、今――なぜか彼女が千璃を庇っている。やっぱり家族ね……心の中で軽蔑を込めてそう呟いた彰の親は、嘲るように笑った。「青葉さん、お宅の嫁がうちの嫁にこんな酷いことをしたのに、よくもまあ庇えるわね!」青葉は、冷ややかに零花を上から下まで眺めた。「へぇ……恥知らずな女をこれほど庇うなんて。じゃあ、私がうちの嫁を守って何が悪いの?うちの千璃は、優しくて賢くて、少なくともこの女より何倍も品があるわ」「……っ!」零花は言い返そうとしたが、周囲の人々の視線を意識して、必死に怒りを飲み込んだ。だが彰の親は我慢できなかった。「証拠があるのよ!あんたの嫁がうちの嫁の人生を壊したの!この動画を見てみなさい、あんたの嫁が何をしたか!」青葉はスマホの画面をちらりと見やった。瑠璃がワインを取り替えるシーンに、さすがに一瞬驚いた。だが今回に限っては、どうしても瑠璃の味方でいることを選んだ。彼女は聡明ではなかったかもしれない。だが、これまでに何度も瑠璃に命を救われた。そんな彼女の人間性を、簡単には疑えなかった。青葉は落ち着いて監視映像を見終えると、疑わしげに言った。「この映像、冒頭も最後もない中途半端なものでしょう?どこに薬を入れてる場面があるの?薬自体はどこにあるの?」青葉の指摘に、彰の親も、見物人たちも、零花さえも言葉を詰まらせた。このままでは疑いがまた自分に戻ってしまう――。焦った零花はすぐに言い返した。「じゃあ、碓氷さんがわざわざ物を落としたフリをして、なぜわざわざ私のグラスと取り替えたのよ?!」すると、瑠璃が一歩前に進み、堂々とした態度で答えた。「横坂さん、その質問は皆さんも疑問に思っているでしょうね。だったら今ここで、答えてあげるわ」そう言うと、瑠璃はスマートフォンを取り出し、フォルダから一本の動画を再生した。それは、レストランでの出来事の全貌を収めた――完全