あなたからのリクエストはもういらない

あなたからのリクエストはもういらない

last updateLast Updated : 2025-12-08
By:  美桜Completed
Language: Japanese
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ピアニストになる夢を諦めて愛する人の為だけにピアノを奏でる日々。 夫は彼女のピアノを愛していたが、彼女自信にはとても冷たかった。 結婚当初あんなにも彼女の為に働き、彼女の機嫌を取ることに心血を注いでくれたのに、あっという間に彼は彼女の代わりを見つけてしまった。 その日も浮気相手の義妹に傷つけられた彼女を彼は冷めた目で睨みつけ、置き去りにした。 そうしてやっと目が醒めた彼女が離婚を決意した直後、彼女は事故で命を落とした。 だが彼女は過去へと戻り、そして自分の人生を取り戻す事を決めた。 「希純、離婚しましょう」 彼女を閉じ込める籠はもうない。 優雅に翼を広げ、愉しげに自由を満喫するその姿に、彼女の夫は涙した。

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Chapter 1

①目醒め

脳腫瘍と診断された後、白石紗季(しらいし さき)は二つの事実を知ることになった。

一つは黒川隼人(くろかわ はやと)との婚姻届が偽物だったこと。もう一つは実の息子――黒川陽向(くろかわ ひなた)もその事実を知っており、他人を母親として望んでいたこと。

この時紗季は自分の家族を捨て、全てを彼らに捧げた七年間が、まるで茶番だったことを悟った。

そこで紗季は三つのことを実行し、この薄情な父子の前から完全に姿を消すことにした。

一つ目は、一ヶ月前に予約していた結婚七周年記念のキャンドルディナーをキャンセルし、陽向の幼稚園のクラスLINEグループと、父子の健康のために入っていた数十の健康関連のグループから退会すること。

二つ目は、医師からストレステストを受け、特効薬を処方してもらい、海外まで移動できる体調を確保すること。

三つ目は、七年間連絡を絶っていた兄の白石隆之(しらいし たかゆき)に電話をかけ、遠くへ嫁いだことを後悔して、帰りたいと告げること。

――

「紗季さん、がん細胞が脳神経を圧迫しています。早急な決断が必要です」

消毒液の匂いが漂う病院の廊下で、医師の言葉が今も紗季の耳に響いていた。

全身を震わせながら、しわくちゃになった検査結果の用紙を握りしめた。

最近頭痛や嘔吐に悩まされ、時々鼻血も出ていた。

寝不足による単なる体調不良だと思っていたのに、検査結果は恐ろしい事実を突きつけてきた。

医師は治療方針を選択する必要があると言った。

手術をして五十パーセントの生存確率に賭けるか。

それとも保守的な治療を選び、投薬と化学療法で髪の毛は抜け落ちるが、あと数年の命を繋ぐか。

紗季はその五十パーセントという確率に賭けることが怖かった。

幼い頃から注射さえ怖がっていた彼女にとって、冷たい手術台の上で生死を分ける選択をすることは想像もできないほど怖かった。

しかし手術をしなければ、脳の腫瘍は大きくなり、苦しみながら死んでいくという残酷な現実が待っている。

紗季は目を閉じ、隼人のことを考えた。

彼女は隼人と結婚してもう七年になる。彼女は彼を愛していて、まだ長い間一緒に生活したいと思っている。

そして何より、二人は頭がよく、優秀な息子――陽向を一緒に育てている。

人生で最も大切な二人のことを考えると、勇気が湧いてきた。

彼女は立ち上がり、医師の診察室のドアを開けた。

「先生、決心しました。開頭手術の予約をお願いします」

医師は厳かな表情で言った。

「五十パーセントの確率です。怖くないのですか?」

紗季は微笑んだ。「怖くありません。夫と子供が私の側にいてくれると信じています。二人がいれば、何も怖くありません」

医師はゆっくり頷いた。

「分かりました。一ヶ月後の手術を予約しておきます」

紗季は病院を出て、急いで帰宅した。夫と子供の慰めと支えが欲しかった。

家政婦は隼人が会社に行ったと告げた。

紗季は急いで黒川グループへ向かい、社長室の前まで来た。

中に入る前に、男性の声が聞こえてきた。

「隼人、紗季にお前が美琴を秘書にしたことを知られたら、怒るんじゃないか?」

紗季は凍りつき、ドアの隙間から隼人の親友――青山翔太(あおやま しょうた)の姿をはっきりと見た。

美琴?

美琴!

この名前は彼女にとってあまりにも馴染みがあった。隼人が十年もの間、心の奥底に秘めていた初恋の人だった。

机に向かって座る隼人は目を伏せ、袖をまくり上げた。黒いシャツの襟元は少し開いていて、どこか冷たい既婚者の雰囲気を醸し出していた。

彼はいらだって言った。

「会社のことに口を出すな」

翔太は首をすくめ、苦い顔をした。

「まあね、俺はこの何年もお前の面子を立てて、紗季のことを奥さんって呼んできたけど、周りの人はみんな、お前たちが偽装結婚だって知ってるよ。それに婚姻届は俺が偽造したんだ。ハハハハ!」

これを聞いた紗季は、顔が真っ白になり、その場で凍りついた。

彼女は......何を聞いたのだろう?

隼人との結婚は......偽装だったの?

隼人はオフィスのドアに背を向けて座り、ドアの外に人が立っていることに全く気付いていなかった。

翔太は好奇心に駆られて尋ねた。

「隼人、なんで黙ってるの?今美琴が戻ってきたんだから、早く紗季と別れればいいじゃん?当時紗季がしつこく迫って、お前が酔っ払ってた時に誘惑して妊娠したから、子供の戸籍のために仕方なく偽装結婚したんだろ。その結果、美琴が傷ついて出て行って、今やっと戻ってきたわけだし」

紗季は息を飲んだ。

激しい頭痛が襲ってきて、紗季は口を押さえ、必死に吐き気をこらえた。

あの夜、バーに翔太も確かにいたはずなのに!

自分は隼人にお酒を勧めてなどいなかったのに、隼人はビジネスライバルに薬を盛られていた。翔太はそれを分かっていたはずだ。

自ら「解毒剤」になろうとして、隼人とホテルへ行ったのだ。

なぜすべての責任を自分一人に押し付けるのか?

翔太は軽く笑い、からかうような口調で言った。

「お前はいつ美琴と結婚するつもりだ?当時彼女は重い心臓病にかかって、お前の足手纏いになるのを恐れて去った。紗季にその隙を突かれたんだろう?美琴はもともとお前の妻になるはずだったのに!」

隼人は鋭い視線で翔太を見つめた。

その目は氷のように冷たく、警告が伝わってくる。

「俺と紗季には陽向がいるんだ......」

紗季は全身を激しく震わせ、立っているのがやっとだった。

彼女は彼らの会話に吐き気を催した。聞き続けられなくなり、そのままトイレに駆け込んだ。

そのため隼人が言いかけていた言葉を聞き逃してしまった。

紗季は洗面所で激しく嘔吐した。

残酷な真実に吐き気を催したのか、脳腫瘍による生理反応なのか分からなかった。

女性社員が入ってきて驚き、急いでティッシュを差し出した。

紗季は目を赤くしてティッシュを受け取り、泣くよりも醜い笑顔を作って言った。

「ありがとうございます......隼人には私が来たことを言わないでください」

彼女は振り返り、よろめく足取りで会社を出て、まるで生ける屍のように街をさまよった。頭の中では、隼人との初めての出会いが思い返されていた。

7年前、彼女は海外でも有名なデザイナーで、兄――隆之のジュエリー会社で重要なポジションを担っていた。その頃、隼人とは何の接点もなかった。

ある出張の際、紗季がホテルを出たところで突然スカートが裂けてしまったのだ。

彼女が露出してしまいそうになり、ひどく恥ずかしく慌てていた時、隼人が高級車から降りてきて、彼女の前に歩み寄り、スーツの上着を差し出した。

「腰に巻いてください」

適切な援助が、見知らぬ環境での彼女の窮地と不安を一瞬で解消した。

彼女は顔を上げると、かっこいい顔に一目惚れした。

それ以来紗季は彼のことが忘れられず、隆之を通じてコネを作り、あらゆる手段を尽くして隼人との仕事上の接点を作り、積極的に追いかけた。

隼人の心の中に忘れられない初恋相手がいることを知りながらも、彼女は決して諦めなかった。

その後、酒の席で偶然会ったことがきっかけとなって二人は親しくなった。紗季が妊娠したことで、自然な流れで結婚することになったのだ。

紗季は新婚初夜のことを覚えていた。彼女は隼人に尋ねた。

「私は責任を取れとは言わなかったのに、なぜ私と結婚してくれたの?」

いつも冷淡な隼人が、初めてあんなに真剣に彼女を見つめ、ゆっくりと答えた。

「お前に、そして俺たちの子供に、家族を与えたいんだ」

この一言のために、紗季はこの結婚に全てを捧げた。彼女は隆之の強い反対を押し切って自身のキャリアを捨て、国内に留まり、妻として母として全力を尽くした。

しかし今、彼女が全てを捧げた結婚は最初から最後まで偽りだったのだ!

隼人は最初から彼女を本当の妻とは見ていなかった!この7年間、彼の心には別の女性がいて、彼女とは夫婦のふりをしていただけだった!

紗季の心はまるで血を流すように痛んだ。最初から最後まで完全な笑い物だったことを痛感した。

彼女は決心した。

一ヶ月後、もし手術が成功して生き延びたら陽向を連れて出て行こう。

隼人は陽向のことを遠慮する必要はない。好きな人と結婚すればいい!

子供のことを考えると、紗季に少し力が戻ってきたような気がした。

彼女は家に駆け戻り、階段の入り口まで来たところで、陽向が執事――森下玲(もりした れい)と話しているのが聞こえた。

「パパとママの婚姻届が授与されてないって、ママが知ったらどうなると思う?」

陽向の幼い声が聞こえてきた。

紗季は目を見開き、その場に立ち尽くした。

玲は優しく笑って答えた。

「仕方がないですよ、坊ちゃま。ご主人様は奥様のことをお好きではないですからね、それはご存知でしょう」

陽向は子供らしく鼻を鳴らした。

「実は僕もママのこと、あんまり好きじゃないんだ。僕は美琴さんの方が好き!すっごく優しいんだよ。ママが僕をパパの会社に連れて行くたびに、美琴さんはいっぱいおいしいものとか、面白いものをくれるんだ。ママみたいに、お菓子を食べ過ぎちゃダメだとか、勉強しなさいとか言わないし。うるさくないんだよ!美琴さんがパパと結婚できたらいいのにな!」

紗季は掌を強く握りしめたが、気を失いそうになった。

育てた実の子供までもが、隼人と同じように、彼女にこれほど冷たく無情だとは予想していなかった。

紗季は過去の「母子の愛」「夫婦の睦まじさ」という温かな情景を思い出したが、今となってはそれが全て夢だったと感じた。

これは甘美に見えて、実は恐ろしい悪夢だった。

当時、隆之が結婚のことに強く反対したのは、彼女が苦労することを心配してのことだった。彼女は隆之の言葉に耳を傾けるべきだったのだ。

もし隆之が隼人のしたことと陽向の態度を知ったら、きっと怒り狂って刃物を持って殺しに来るだろう。

紗季は胸の痛みで目を瞬かせ、黙って階段を降りた。

彼女は夫と子供のために死を恐れずに、手術台に横たわることを決意したが、今ではその支えとなっていた希望も完全に粉々に砕けてしまった。

彼女はリビングに来て、電話をかけた。

「お兄ちゃん、隼人と離婚したい。家に帰ってもいいかな?」

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nocccoo
nocccoo
読み終わったあと、しばらく余韻に浸ってました。 笑いもありサクサクと読める作品です。
2026-01-26 16:41:26
6
1
nocccoo
nocccoo
面白かった! ポンコツで自分勝手な夫の希純に従い自分の人生を生きずに終えた美月。 今世では自分の意思を持ち歩んでいくので希純とどうなるかなーと思いながらサクサク読んだ。 秘書の中津との掛け合いも面白かった。出てこないと寂しく感じるほど(笑) 読み終わったあと、しばらく余韻に浸った。良かったー。
2026-01-26 16:16:36
3
0
華白川
華白川
回帰物なのにポップで面白い!本当は←ここ大事!妻が大好きなツン属性の恋愛残念御曹司と、常識人のデキタ秘書の掛け合い漫才が好き。ヒロインのあざとい実妹、ヒロインに好意を持つイケメン御曹司、これ最後どうなっちゃうんだろうとドキドキしながら60話現在読んでいます。良かったら、無料分だけでも読んでみてほしいです。多分それで相性わかりそう。
2025-11-26 07:32:24
7
0
ちょくさん
ちょくさん
このポンコツは治るのかなぁ、と思いながら読んでます。
2025-08-07 18:33:07
10
0
むに丸ナマケモノ
むに丸ナマケモノ
早くざまぁを見たいです!!糞ビッチも朴念仁のボンクラ糞野郎も纏めてぶった切って欲しい
2025-07-29 18:13:00
8
0
173 Chapters
①目醒め
「…?」不意に止んだピアノの音に、書類に目を通していた佐倉希純(さくらきすみ)はチラリと視線を上げた。そこにはレースのカーテンが柔らげた、大きな窓から入る陽の光を浴びて、妻の美月(みつき)が呆然と座っていた。「美月?」呼びかけてもまるで聞こえていないかのように無視されて、彼は不快感に眉を顰めた。希純は美月のピアノを聴きながら、落ち着いた時間を過ごすのが気に入っていた。今日も午前中の会議の内容に苛立ちを覚えて、すぐさま美月を呼びつけて彼の為の演奏を依頼した。その為に社内に特別な部屋を造り、彼はゆっくりとした時間を満喫していた。美月のピアノをBGMにすると不思議と心が落ち着いて、仕事も捗った。それなのにー。今、ピアノの前に座る妻はただ呆然と自分の両手を見つめ、微かに震える指を一本一本確かめるように動かして、その瞳を潤ませていた。希純は一つため息をついて書類をテーブルに置き、ソファから立ち上がると美月の側へと歩み寄って来た。「なにしてる?」「きゃ…っ」驚いたように立ち上がり、逃げようとしたのか膝裏に椅子が当たって大きな音をたてた。それに伴ってぐらりと傾いだ彼女の身体を、思わず伸ばした腕で支えた。「気をつけろ」「…ありがとう」「……」俯いて答える美月の声は小さく、そしてひどく遠慮がちだった。その理由がわからなくて、希純は益々不愉快になった。2人の間に気まずい空気が流れ、時間だけが流れて行く。だが、不意に…。「帰るわ」美月が楽譜を片付け出した。そこにはさっきまであった遠慮がちな雰囲気も、ただ呆然とした姿もなく、少しでも早く帰りたいといった彼女の気持ちが滲み出ていた。いつもは透き通るほど白い肌も僅かだがピンクに染まり、何かわからないが、彼女を興奮させる出来事がこの短い時間の中にあったのだと示唆していた。希純は、自分の所有物に理解の及ばないことがあるとわかって、とても腹を立てた。「誰が帰っていいと言った?」「用があるの」「駄目だ」今や希純の貴重な時間が台無しになっていた。その事にも、彼は腹を立てていた。今朝まで妻の美月は何を置いても夫である自分を最優先にし、彼が不快な気分にならないよう十分に配慮してくれていた。会議での苛立ちを宥めるような優しい旋律を奏で、自分の胸に柔らかい何かを染み込ませてくれていた。それがな
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②失望
前世ー「佐倉美月。お前には本当に失望したよ。こうまで奈月に嫉妬して、卑劣な真似をよくもしてくれたな!お前に俺の妻でいる資格なんてない!離婚だ!!」「希純…」美月は血に濡れた両手を震わせて、涙を拭うこともできずに自分を憎々しげに睨みつける夫を見た。「大丈夫、お姉ちゃん?指、折れちゃったんじゃない?」そう言いながらくすくすと嘲笑い、奈月はピアノの蓋をわざと音をたてて閉めた。バタンーッ!!その瞬間、美月の身体はビクリと大きく反応し、恐ろしげに血濡れた手で耳を塞いだ。「あら、ごめんなさい?わざとじゃなかったの」奈月の目は弓形に笑いを刻み、ただ蹲ってふるふると頭を振る姉の不様な姿を見下ろしていた。「奈月、なにしてる。そんなのに構うな。時間の無駄だ!」「でも希純兄さん、お姉ちゃん、怪我してるし…」途端に弱々しく眉を下げた顔を彼に向けて、奈月はさも同情的に美月の手に触れた。「あっ…!」彼女は鋭い痛みに思わず奈月の手を振り払った。「キャア…!」奈月は2、3歩蹈鞴を踏んで、大袈裟に悲鳴を上げながら倒れ込んだ。「奈月!!」離れた所で2人のやり取りを見ていた希純はそれを見て、慌てて戻って来た。そうして美月の身体をドンッと突き倒し、急いで奈月を助け起こした。「大丈夫か?」その声音はとても心配げで、普段の彼を知る美月に衝撃を与えた。彼と結婚していた5年間、彼女は彼からこんな風に声をかけられたことがなかった。彼女がピアノの弾き過ぎで手首を痛めようが、貧血で倒れた時にテーブルの角で腰を打ちつけようが、彼の冷たい態度は変わらなかった。だから彼女は、彼は元々こういう冷血漢な人間なのだと思っていた。でも、違った。彼は優しい態度も言葉も持っていた。気遣いをすることもできた。ただそれを、妻である自分に向けなかっただけだった。今だって、自分は奈月がわざと強く閉めたピアノの蓋に手を挟まれて血を流している。両手とも赤紫色に変色して、ひどく腫れ上がっていた。それなのに彼はそれを無視して、足首さえ挫いていない奈月の心配をしている。こんなに不公平で、こんなに惨めなことってあるだろうか…。「希純兄さん…痛い…」奈月の涙に潤んだ声はとても可哀想で、聞く者に同情心を与えるに十分だった。「病院に連れて行く!」希純はその場で奈月を横抱きに抱え上げ、美月のこ
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③戸惑い
「奥様はまだお戻りになってません」会社での残業を終えたのは11時を過ぎた頃で、それから車で自宅に戻り、玄関を入ったところで出迎えに出てきた家政婦の花田美和にそう言われた。「なんだって?」希純は眉を顰め、腕時計を見た。主婦が出歩くような時間ではない。子供がいないからと、彼女はちょっと自由にしすぎじゃないか?普段彼の妻は彼が帰宅した時、家を空けていることなどない。それどころか何時に帰ろうが、特に言い伝えておかない限り、必ず起きて待っていた。そんな彼女が今日に限ってまだ帰っていないだと?希純は今日の昼間、会社の特別室で起こった彼と妻とその妹のいざこざを思い出し、彼女が怒って家出まがいのことをしているのだろうと思った。彼は携帯を取り出し、美月の番号を出した。だがすぐに連絡をするのは甘やかしのような気がして、そのまま画面を消し、携帯もしまった。ふんっ、少し躾が必要だな…。「旦那様?」「いや、なんでもない。彼女もたまには遊びたいんだろう。放っといていいよ」寛容な態度でそう言うと、何か言いたげな花田を残し、希純は階段を上がって行った。連絡がなくて不安になるがいい。いつまでも甘やかしてもらえると思うなよ、美月…。真っ暗な寝室に入り、不機嫌に脱いだ上着をベッドに投げ捨てた。ちっ!主婦としての自覚はないのか!?彼女がいないことで、彼は全てのことを自分がやらなければならないことに苛立っていた。俺は働いているんだぞ!ピアノを弾く以外、あとはなんでも好きにさせてやってるのに、一体なにが不満なんだ!?希純は昼間の出来事に腹を立てていたが、だがふと、美月が身体を震わせながら涙を流していたことを思い出し、胸がズキリと痛んだ。まさか本当に怪我をしたのか…?希純は彼女の真っ赤に染まった両手を思い出して、急に不安になった。だが事前に奈月から彼女の企みを聞いていたことも思い出して、その考えを振り払った。美月はわざわざ血糊まで用意して、わざとピアノの蓋を自分の手の上に落としたのだ。ただ夫である自分の関心を引きたいが為に、ほんの少しの高さからとはいえ、大切な手を傷つけようとする行為を躊躇いもなくするなんて、信じ難いことだった。でも実際、彼女はやってしまった!憐れを誘うように涙を流し、あまつさえ、それを奈月にされたのだと訴えるとは!自分の血を分けた妹に
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④絶望
中津は知っていた。3日前といえば、各部署のリーダーを集めランチミーティングという名の交流会をした日だ。この日奥様は午前中から社長が造った特別室に来て、ずっとピアノの練習をしていたはずだ。ミーティングを終えて社長が奥様の様子を見に向かわれて、その時に何かあったのか、いつの間にか来ていた奥様の妹の奈月さんを社長が抱きかかえて急いで出て行くところを見かけた。中津は不満だった。またあの女はなんの演技をしたんだ?いつもいつも社長にひっついて、慎みってものを知らないのか?社長も社長だ!なんであんなわざとらしいぶりっ子に気が付かないのか、不思議でしょうがない。デレデレして、みっともない!中津は憤慨していたが、彼は奈月の企みを見抜いていたので、この日たまたまランチミーティングに出ていた沢山の社員たちに彼らを目撃させない為急いで後を追い、社長専用のエレベーターから直接地下駐車場へと2人を案内し、無事、誰の目にも触れさせずに車を出させることに成功した。もちろん病院にも連絡して、誰にも見られないよう裏口から入れるように手配した。希純は彼の働きに満足そうだったが、奈月には睨まれた。ふんっ、お前の思い通りになどさせるものか!中津は美月の味方だった。彼女は美しく、控えめで性格も穏やかで優しい。人を身分で判断せず、奈月のように下品でもない。夫に対しての献身ぶりも素晴らしく、それを見た人らから希純はよく羨ましがられていた。だが希純はそれを当たり前のように享受していたので、中津はいつも美月が焦れったくて仕方なかった。美月。彼女は本当に亡くなったのだろうか…。中津は彼女の儚げな微笑みを思い浮かべて泣きたくなった。奈月のせいだ。そうに違いない。彼女がまた何かしたから社長は美月からの着信を無視したのだろうし、他のいろんな人からの電話も取らなかったのだ!自分も彼らを人目に晒さないよう努力するのに気を取られて、その時きっと一人残されていただろう彼女を気遣うことができなかった…。なんてことだ。結局怪我もなにもなくて、医者に大げさだと呆れられた奈月の面倒をみる羽目になっていたなんて!中津は未だにどこか事態を飲み込めていないような顔つきの希純に、恐る恐る尋ねた。「奥様のご実家にお知らせいたしますか?」「いや…。まず病院に行ってみよう…」覇気のない迷いのある声音に、希
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⑤すれ違い
今世ー美月は夫に離婚を突き付けたその足で彼らの家に戻り、2階の夫婦の部屋を片付け始めた。とりあえず身の回りの服や必要な日用品をスーツケースに詰め込み、携帯でタクシーを呼んだ。そして荷物を持って下に降りると、家政婦の花田に言った。「しばらく家を出ます。希純が帰ってきたら連絡をください」「かしこまりました。あの、どちらへ?」花田は美月の手にしたスーツケースをちらりと見て、不安になった。まさか、出て行かれるのだろうか…。そんなこと、絶対に駄目っ。旦那様がお知りになったら、どれだけ叱責されるかわからない!花田は想像するだけで恐ろしくて身体が震えた。すると美月はニコリと微笑み、優しく告げた。「希純に、なるべく早く離婚協議書を作ってもらうよう伝えておいてくださいね」「え…」「じゃあ、お願いします」そう言って、美月は軽やかに出て行った。花田はしばらく呆然と佇んでいたが、やがてハッとして急いで希純の秘書、中津に連絡をした。『もしもし、花田さん、どうされましたか?』呑気な口調に少し苛立った。「奥様が出て行かれました!どうしたらー」『ち、ちょっと…ちょっと待ってくださいっ。え?なんですか?奥様が出て行った!?なんでそんなことに!?』花田の剣幕に中津は驚いたが、それ以上に内容に驚きすぎて思わず立ち上がり、叫んでしまった。「私が聞きたいです!そちらで何かあったのではないんですか!?」『ないですよ!!』2人共、我を失っていた。だが周りの目に気が付いた中津がいち早く落ち着きを取り戻し、すぐにその場を移動すると小声で問い質した。「奥様は?何か仰っていましたか?」『いいえ…あ、旦那様に…』「社長に?なんですか?」言い淀む雰囲気に悪い予感がして、益々神妙に中津が尋ねた。『あの…旦那様に、なるべく早く離婚協議書を作るようにと…』「え!?」それを聞いた途端、中津の思考は完全に固まってしまった。だがー『中津さん?中津さん!私はどうしたら…っ』耳元で再び焦り始めた彼女に中津はかえって冷静になり、コホンッと咳をして落ち着くよう指示した。「とりあえず、社長には私から伝えます。花田さんは落ち着いて、いつも通りにしていてください。いいですか?」『でも、奥様は…』「それも私がなんとかします。奥様は車で出られましたか?」『いえ、タクシーを使われ
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⑥ポンコツな男
「美月の居場所、わかったか?」自分の中で、今回の妻の家出対策に納得した希純はオフィスに戻ると深く息を吐き、美月が何処へ行ったのか尋ねた。「はい。S市にある別荘に行かれたようです」「S市?」あそこは……。結婚して3年と少し。当初、希純は妻の為に景色の綺麗なS市に広大な土地を買い、そこに別荘を建て、音響設備を充実させたホールを造った。そこには美月がずっと使ってきたピアノが据えられ、いつでも好きな時に思い切り弾く事ができるよう手配していた。だがそうした環境は2人の時間を奪う結果となり、それに不満を覚えた希純が今度は社内に特別室を造って、ほぼ強制的に美月を自分の側に置けるようにしたのだった。別荘を気に入っていた美月は初め少しだけ不満気だったが、後で秘書の中津から、その部屋は夫が自分との時間を持ちたいが為にわざわざ造ったのだと聞いてその機嫌も直し、それ以来S市には足が遠退いていた。だが…。「おい、あそこはマズいんじゃないのか?」「ですね」「ですね、じゃないだろうっ。奈月と行き合ったらどうすんだ!」「……」希純の今更な言葉に、中津は明らかに白い目を向けた。「社長、ご存知なかったのですか?現在、奈月さんは別荘に住んでいらっしゃいます。ですから"行き合ったら"ではなく、確実に鉢合わせます。」「は…?住んでる?誰が許可した!?」「社長です」「……」ポンコツかっ。内心で罵ることを忘れない中津だった。奥様、可哀想すぎる…。希純は秘書の冷たい視線に戸惑いながら、それでも「そんな覚えはない」と言った。実際、そんな風に言ったことはなかった。中津も憶えてる。でも「まぁ、拡大解釈されたんでしょうね。社長、別荘の鍵を渡しながら"使っていい"と仰いましたから」「それはピアノの話だ!」希純はダンッと机に拳を叩きつけた。えぇ、えぇ、わかってますとも。でもあの女にそれは通用しない。中津は一つため息をついて言った。「ですから私は申し上げましたよ。鍵を渡しては駄目だ、と」「もっと強く言えよっ」理不尽!中津はもう何も言いたくなかった。仕事はできるが私生活はポンコツな男。端から見たらある種の輩からは「可愛い〜」とか言われるのかもしれないが、実際部下の立場から言わせてもらえば「しっかりしてくれ!」て感じだ。「で、どうしますか?」「なにが」え
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⑦新たな一歩
久しぶりの別荘。美月は実は楽しみにしていた。結婚当初に贈られて、でもすぐに会社の方の部屋を使うように言われてから、もうずっと訪れていなかった。相変わらずの綺麗な景色とそれにマッチした建物。希純が彼女の為にデザイナーと一緒にデザインし、内装も何もかも彼女好みに設えられて、実に住み心地の良い、愛情溢れる場所だった。そのはずだったのに…。「どういうこと?」タクシーから降り立ち、玄関を開けた所で驚いた使用人から誰何され、美月は一気に不機嫌になった。「あなたは?」「わ、私はこちらの家政婦です。あなた様こそどちら様ですか!?」「……」その質問に、美月は黙って身分証を掲げた。「ここの持ち主よ。誰の許可を得てここにいるの?」「え…」目に見えて狼狽える使用人に、とりあえず美月は中へと歩を進めた。そしてその内装の変わりように、驚いて立ち竦んだ。「誰?」後ろをついて来た使用人を振り返り、静かに問うた。「誰が内装を変えたの?希純?」「い、いえ…奈月様…です……」徐々に小さくなっていく声に、美月の目が眇められた。そして徐ろに携帯を取り出すと、希純の番号を呼び出してタップした。『はい。奥様ー』出たのは彼の秘書を務める中津で、彼女は彼が悪いわけではないことを知りつつも怒りが抑えきれず、冷たい声音で応じた。「中津さん、S市の別荘のこと、説明して?」『……しばらくお待ちください』そう言われて待っていると、やがて向こうから希純と中津2人の会話が聞こえてきた。美月はそれを聞きながらリビングのソファに座り、ただ一点を見つめていた。『奈月さんを追い出しますか?それとも奥様を?』『決まってるだろう。先ずは美月だ!ー』そこまで聞けば十分だった。美月の瞳は冷たく部屋の中を見回し、そしてまたスーツケースを持って玄関へ向かった。「どちらへー」見知らぬ家政婦に、美月は静かに告げた。「出て行くわ。お邪魔しました」「……」呆然とする家政婦にはもう見向きもしなかった。外に出てもう一度タクシーを呼び出し、待っている間に希純に離婚協議書を請求した。あんな人、もういらないわ。到着したいつもとは違う会社のタクシーに乗り込み、美月はとある住所を告げた。ピンポーン!呼び鈴を押して待つこと数十秒。「は~い、どなた?」ガチャリと玄関扉を開けて出て来たのは、美
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⑧孤独
美月は眠気を散らすためにシャワーを浴びに行った親友の為に、夕飯を作ろうとキッチンに入って冷蔵庫を開けた。「へぇ~、結構揃ってるのね」確か前回ここへ来た時、この中には水とチーズ、それからなぜか化粧水が入ってるだけだった。誰か料理上手な彼でもできたのかしら?そう思いながら丁寧に中を見ていると、下ごしらえ済の食材がある事に気が付いた。あぁ、これは…。美月が一つの考えに行き着いた時、ピンポーン!と玄関チャイムが鳴り響いた。「は~い」パタパタとスリッパの音を鳴らしながら玄関に行き、ガチャリとドアを開けた瞬間、目の前にバッと突き出された花束に思わず美月は仰け反ってしまった。「校了おめでとう!」その声と一緒に彼女はふわりと抱き締められ、慌ててその腕の中から逃れようと厚い胸板を押した。「ち、ちょっと…っ」美月の声に相手の男が「ん?」と僅かに身体を離した。そしてそこにある見知らぬ顔にびっくりしたのか、そのまま固まってしまった。「あの…」固まるのはいいが、まわした腕を離してほしい…。美月が困っていると「ダーリン、人違いよ」と彼女の親友が笑いながら近づいて来た。お風呂上がりの彼女は仄かにピンク色の頬をして、まだ乾いていない髪の毛は湿って白いバスローブの襟元に散っていた。「尚…」ふわりと漂ってきたボディソープの香りに男は美月からそっと離れ、尚の手を取った。「ごめん…」「ふふ…。次はないわよ?」尚はいたずらっぽくそう言って、男の頬を軽く抓った。「美月、ごめんなさいね」「すみません……」気不味そうに頭を下げる男に、美月は微笑って言った。「大丈夫。私こそ、サプライズの邪魔をしてしまって、ごめんなさい?」「いえ……」男は美月の言葉に照れくさそうに笑い、改めて尚に花束を渡した。「校了おめでとう」男の瞳には恋人への愛情が溢れんばかりに宿っていた。彼女はそれを受け止め、綺麗に微笑った。「美月、紹介するわ。彼、真田聖人(さなだまさと)よ」「佐倉美月です」2人は握手を交わし、連れ立ってリビングに入って行った。「美月、ごめん。聖人にもお茶お願いしていい?私、着替えてくるわ」「いいよ。任せて」そう言って尚を部屋に戻すと、美月は早速キッチンで紅茶を淹れた。2人はさして話題もなかったが特に気にすることもなく、やがてカップを置いた。「さ
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⑨味方
「社長」静まりかえるオフィスで明日の会議で使う資料に目を通していた希純は、秘書の中津の呼ぶ声に顔を上げた。「美月は見つかったか?」「はい」ようやく期待通りの答えが得られて、希純は無言で続きを促した。「奥さまは精華ホテルにご滞在されてます」「精華ホテル?」自分の答えに眉根を寄せて首を傾げる希純に、中津は苦笑した。わかりますよ〜。うちのホテルがあるのになんで?て思ってるんですよね〜。中津は積極的に美月を連れ戻そうとは思っていなかった。なぜなら今ー「希純兄さん」「!」「奈月…」この娘はなんで勝手に入って来るんだよっ。つい先ほど希純を訪ねて現れた彼女に、中津は確かにロビーで待つよう言ったはずだった。それがなんで最上階にある社長のオフィスに?そんな気軽に入れませんよ、ここは!?「奈ー」「出て行ってください」「え…?」中津の冷たい言葉に、奈月の笑顔がピシリと固まった。「ロビーでお待ち下さいとお伝えしたはずです。なぜここに?」「え…と……」問い詰められて奈月はちらりと希純を窺い見た。「おいー」「なんでしょう?」彼女に頼られて口を挟もうとしてきた希純を、中津は気にせずに問い返した。「ここには重要書類や機密書類等いろいろあります。そんな所へ部外者を簡単に入れてはいけません!」「……」正論を断固とした口調で告げられて、希純も二の句が継げなかった。そんな彼を見て奈月も自分の不利を知り、おずおずと口を開いた。「ごめんなさい。私はただー」「何ですか?また遅くなったから送ってほしくて、ついでに食事でもしませんか?とでも仰るつもりですか?生憎ですが、社長はそんなに暇ではありませんっ」「……」まさに中津の言った通りの事を言おうとしていた奈月は呆気にとられ、口をポカンと開けた。え?なんなの、この人?ちょっと前まですごく丁寧な人だと思ってたのに…。「おい、さすがに言いすぎだ」「…」はい!?正気か、この人っ。ほんの数時間前に起こった事を何も覚えてないかのように奈月を庇う彼の姿に、中津は呆れてしまった。アウトだな。もう手の施しようがない。間違いなくクズだ、この男は。中津は腹の底からはぁぁぁ…と息を吐き出し、「失礼します」と言い捨ててその場を後にした。「おい!!」背中から希純の怒声が聞こえたが、もう振り返りたくなかった。
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⑩夢
ハッー中津はもう何度目かの夢を見て、今もまた飛び起きた。心臓がドキドキと早鐘のように鳴り、額には冷や汗が滲んでいた。またこの夢か……。彼は額の汗を拭い、傍らのスマホの時計を見た。4:30 いつもこの時間に目が覚める。中津はキッチンに行き、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出してゴクゴクと喉に流し込んだ。冷えた水が身体の中を通る感覚に、彼の気持ちも次第に落ち着きを取り戻していった。いつも見る夢ー。それは美月の死に関するものだった。初めはなぜこんな縁起の悪い夢を…?と不思議に思っていた。だが夢は見る度に違う場面で、彼の上司で彼女の夫である希純が、彼女の墓の前で号泣しているものだったり、彼女の妹の奈月が泣きながら嘲笑っていたり。その他にも、彼女を取り巻くいろいろな人物の場面があった。そして、それらに共通しているのは〝美月の死〟であり、中津は夢を見た後いつも言いようのない不安を胸に抱えて、再び眠ることができなくなるのだった。「社長ー」翌日、中津がオフィスで希純の前に立つと、彼は手にしていた書類をバサリと置き、椅子の背もたれに背を預け、視線を上げた。「なんだ?退職願でも持って来たか?」「……ご希望でしたら準備します」そう言うとチッと舌打ちし、希純は皮肉げに嗤った。「嫌味も通じないのか?」「申し訳ありません」「……」頭を下げる彼に希純はしばらく口を閉ざし、やがて言った。「反省したのなら、もういい」彼にとって中津は替えの利かない存在だった。ただ単に付き合いが長いだけでなく、彼が今何を必要としているか言わなくても理解し、動くことのできるのはこの男だけで、言葉の足らないことが多い自分と他者が衝突したりしないように、細かい配慮を自然としてくれるのも、この男だけだった。だから、今回は許してやる。そう思っていたのに、目の前の男からはお礼の言葉も安心したような感じもなく、寧ろ呆れたようなため息をつかれてしまった。「〝反省〟とは、一体何に対してですか?」「わからないのか?」そんなはずはない。わざとだ。希純はおよそ初めての中津の反抗的な態度に、腹が立った。そしてその苛立ちを、デスクの上にあった書類を投げつけることで表した。バサッー中津は顔に投げつけられた書類を微動だにせず受け止め、そのまま床に落ちた物を静かに拾い上げた。「お尋ね
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