「千璃、どうしてひとりで来たの?隼人とは再婚とはいえ、どうして彼は一緒に来なかったの?」夏美の問いに、瑠璃の胸がチクリと痛んだ。だが彼女は何事もなかったように笑った。「彼が来ようと来まいと、どっちでもいいわ。どうせ私、本気で彼と夫婦になりたいなんて思ってないから」「……」夏美の笑顔がわずかにこわばり、眉をひそめて困惑した表情を見せた。「千璃……何を言ってるの?」瑠璃はどこか虚ろな表情で黙り込んだ。そのとき、不意に玄関から聞き慣れた足音が慌ただしく響いてきた。彼女は指をぎゅっと握りしめ、背を玄関に向けたまま、冷たく言い放った。「言いたかったのはね、私が隼人と結婚したのはただの復讐。彼とやり直すなんて、最初から一度も考えたことなんてないの」語気はますます冷ややかに、不屑な態度を隠そうともしなかった。「若い頃の一番美しい時期に、あれだけ辱めを受けた相手よ?そんな男を、どうしてもう一度心から愛せると思うの?ふん……私はただ、彼をもてあそんでるだけ」その言葉を聞いて、夏美は信じられないというように絶句した。「どうして……千璃、あなた……」彼女が言いかけたその時、視界の端にもうひとつの影が映ったことに気づいた。「隼人!?」夏美は玄関に向かって名を呼んだ。瑠璃の心臓が大きく跳ねたが、表情には一切動揺を見せなかった。――やっぱり、彼だった。足音でわかった。瑠璃はわざと気づいたふりをして立ち上がり、険しい表情の隼人に冷たく笑いかけた。「聞こえてたんでしょ?よく聞こえたみたいだから、もうハッキリ言っておくわ」彼女は淡々と歩み寄り、彼の目の前で宣言した。「隼人、私ね、あなたにはもう何の感情もないの。今、私が愛してるのは瞬よ。あなたと結婚したのは、ただあなたの気持ちを弄ぶため。それだけよ。わかった?」冷たく美しいその顔を見つめながら、隼人の胸は締めつけられるように痛んだ。「そんなはずない」彼は彼女の冷ややかな瞳を見つめ、焦りながらその手を掴んだ。「千璃ちゃん、何かあったんだろ?瞬に脅されてるのか?彼に何かされた?催眠か?あいつに操られてるのか?」「催眠できる遥はもう死んだわ。私を操れる人なんて、もういない。私は正気よ。今言ったことは全部、本心よ」瑠璃は彼の手を振り払い、視線を鋭くした
瞬の言葉が終わるのと同時に、パソコンの画面が明るくなった。今回は監視映像ではなく、リアルタイムのビデオ通話が映し出された。瑠璃は、またもや見慣れない環境を目にした。すると次の瞬間、画面の中に映ったのは――あの純粋で可愛らしく、聡明で愛らしい人形のような顔だった。「陽菜!」瑠璃は思わず声を上げてしまった。画面の中の陽菜は、どうやら瑠璃の声を聞き取ったようで、澄んだ大きな瞳をぱちぱちとさせながら、無邪気にパソコンの画面に向かって叫んだ。「ママ~!ママ~!」その声――まさしく、陽菜だった。瑠璃は信じられないという表情で唇を手で覆い、涙が一気に頬を伝った。「陽菜……陽菜、ママが見える?本当にあなたなの?陽菜!」彼女は必死に問いかけ、まるで魔法でも使ってパソコンの中からあの子を引き出そうとするかのようだった。陽菜はまだ小さく、ビデオ通話というものを完全には理解していない。しかし、画面に瑠璃の顔を見て、そしてその声を聞いて、確かにママがいると感じ取っていた。「ママ、陽ちゃんね、ママに会いたいの。ママはいつになったら、陽ちゃんを迎えにきてくれるの?君お兄ちゃんにも会いたいし、あの綺麗なお兄ちゃんにも……」「陽菜……ママはすぐにあなたを迎えに行くから、待っててね……陽菜、陽菜!」瑠璃が言葉を続けようとしたその瞬間――瞬が突然、通話を切断した。彼女は怒りに満ちた視線で振り返った。瞬は冷酷な表情を浮かべていた。「瞬、いったい私の娘をどこに隠してるの?どうして、こんな残酷な方法で私と隼人の間に溝を作ろうとするの?陽菜が死んだと思っていたあの苦しみ、あなたにわかるはずがない!」瞬は唇の端をほんの少しだけ持ち上げた。黒い瞳をゆっくりと持ち上げて言った。「残酷?もし本当に俺がそこまで残酷だったら、君はもうこの世にいないし、陽菜だって存在しなかったはずだ」彼は一歩近づき、冷たい気配をまといながら瑠璃の目の前まで来た。「千璃……君は忘れているようだが、この世界で君に最も残酷なことをしたのは、隼人と、君の実の両親だ」「彼らは違うわ!彼らは少なくとも、真実を知らされずに他人に騙されていた。だから、無知のうちに愚かな行動を取ったの。でもあなたは違う。あなたはすべてを分かったうえで、意図的に罠を張り、対立を生んだ!」そ
彼女の胸が、鋭く痛んだ。けれど、その顔は淡々としていて、まるで何とも思っていないかのようだった。むしろ、どこか侮蔑すら感じさせる表情だった。――ちょうどいい。彼があの言葉を聞いたのなら、それでいい。……本当に、よかったと思った。「隼人、聞いたでしょう?見たでしょう?これが、碓氷千璃の本性なのよ!彼女があんたに近づいたのは、全部復讐のためだったのよ!隼人、目を覚まして!これ以上この女に騙されないで!」青葉は怒りと焦りをにじませながら、隼人に向かって声を張り上げた。瑠璃はゆっくりとした足取りで階段を下り続けた。隼人のそばを通り過ぎる瞬間、彼女はふと足を止めた。「隼人、さっき……」「わかってるよ。君が、わざと母さんを怒らせようとしただけだって」彼は微笑みを浮かべ、手にしていたカスミソウの花束を彼女に差し出した。「千璃ちゃん、君に……帰りに花屋で見かけて、買ってきたんだ」彼の差し出す花束を見た瞬間、瑠璃の胸の痛みはさらに強くなった。「出かけるの?どこに行くの?俺が送るよ」「必要ないわ」瑠璃は淡々と答え、その目には冷ややかな軽蔑の色が宿っていた。「これから、あなたの叔父さん――瞬に会いに行くの。ついてくるつもり?私と彼が愛を語るのを見に?」「……」隼人は愕然としたように瑠璃を見つめた。「千璃ちゃん……そんな冗談、やめてくれ」「冗談なんかじゃないわ。さっきお義母さんに言ったこと、全部本当よ」瑠璃は明るく笑った。「私はあなたを騙してたのよ、バカね。あなたへの愛なんて、四年前に全部消えたわ。あなたと結婚したのも、明日香への意地からよ。わかった?」明るく微笑みながらそう言い切り、彼女はきっぱりと背を向けた。けれど、その背を向けた瞬間――目に涙がにじんでいた。車庫に向かって歩いていると、隼人が追いかけてきた。彼は彼女の腕を掴み、不安と混乱に満ちた表情で問いかけた。「何かあったのか?千璃ちゃん、お願いだ、教えてくれ。君が俺を愛していないなんて、そんなはずがない。愛してないなら、昨夜あんなふうには……」「昨日の夜は、ただの一時の気の迷いだったのよ。本気にしないで」瑠璃は目の前に立ちふさがる隼人を突き飛ばし、彼の手から花束を叩き落とした。「隼人、昔あなたが私に言ったこと、今
瑠璃はもう、抗おうとはしなかった。これがもしかしたら、隼人に与えられる最後の喜びと幸せかもしれない――そう思うと、彼女はゆっくりと手を伸ばし、彼を抱きしめ、そっと自分から唇を重ねた……翌朝。瑠璃は深い夢の中から目を覚ました。隼人の姿はすでになく、彼の残り香と余韻だけが、まだ枕元に漂っていた。彼女は手を伸ばし、彼が眠っていた枕をそっと撫でた。隼人……あなたなら、きっと私と同じ決断を下すはず。子供たちが無事に、健康に生きていくことより大切なものなんて、ないのだから。瑠璃は洗面を済ませ、服を着替えて部屋を出た。すると、廊下の向こうから青葉が歩いてきた。彼女は瑠璃の顔を見るなり、不機嫌そうに鼻を鳴らした。「隼人はもう三時間も前に起きて、君ちゃんの朝ごはんを作って、食べさせて、保育園まで送って行ったのよ。なのに、あんたは奥さんでありながら、よくもまあ、そんなにのんびり寝ていられるわね?」瑠璃は余裕のある仕草でコートの襟元を整えた。「息子って、私ひとりの子なの?どこに妻は毎朝早起きしてご飯作って子供を送り出すべしなんて法律があるの?法律はないけどね、昔からそういうものでしょ。何百年もずっとそうしてきたのよ!」青葉は自信満々に言い返した。瑠璃は軽く笑った。「お義母さん、いつまで過去に生きてるつもり?」「あんた……」「六年前、私が隼人と結婚した時、朝も夜もずっとご飯を作ってきたわ。でも、あの人は何か感謝した?してないわよね。もういい加減、立場を逆にする頃合いでしょ?」「立場を逆にする?どういう意味よそれ?残りの人生を隼人に尽くさせるつもりなの?」瑠璃は、本当はもうこれ以上青葉と口論する気はなかった。だが、瞬からの脅しと要求が脳裏をよぎった。自分がまだ隼人に対して感情を持っていることは、もう否定できない。完全に彼を切り捨てる理由も見つからない。でも、今――もしかしたら、この人がその口実をくれるかもしれない。瑠璃は心を決め、鋭く尖った視線を青葉に向けた。「そうよ、彼に残りの人生、私のために尽くしてもらうつもり。過去七年間、彼が私に何を与えたかって?傷だけよ!私が十月十日かけて産んだ息子は、蛍に傷つけられて、私は母親でありながら汚名まで背負わされた。そして、やっとの思いで産んだ大切な娘も、あなたの息子のせいで命を
彼女の胸の痛みは、言葉にできないほどの苦しみを伴っていた。なぜ……ただ愛する人と平穏な生活を送りたいだけなのに、それがこんなにも難しいのか。瞬は遥の部屋に戻り、フロア一面の窓のそばに立ち、去っていく瑠璃の背中を見つめていた。彼の関節がはっきりとした指には、再び遥の髪紐が巻きつけられており、その瞳は徐々に深みを増していった。「千璃と隼人を応援してやれって言ったよな?でも、俺は嫌だ。もし止めたいなら、出てきて止めてみろ……聞こえてるのか?」彼は髪紐を見つめながら命じるように呟いた。だが、返ってきたのは不安に鳴る自分の心音だけだった。凍てつく冬の夜、再び雪が降り始めた。瑠璃は風呂を終え、静かにベッドの上で横になっていた。頭の中には瞬のところで見たリアルタイム映像と、彼の脅しの言葉ばかりが浮かんでいた。目を閉じても、どうしても眠りに就くことができなかった。瞬……どうして彼は、あんなふうに変わってしまったのだろう。心の中は悲しみに満ちていて、隼人がいつの間にか隣に来ていたことにも気づかなかった。彼がそっと唇の端にキスを落とした時、ようやく彼女は驚いて目を開けた。すぐ目の前にある男の瞳は、妖しくも魅力的な光を宿し、深い愛情を湛えていた。瑠璃は何かを言いかけたが、結局何も言えず、ただ静かに隼人を見つめ返すだけだった。どうすればいい……この男との関係を、完全に断ち切るなんて。もう……彼女にはできなくなっていた。静まり返った空気、交差する吐息、それらが少しずつ彼女の心拍を乱していった。「何を考えてる?」隼人がふいに口を開き、低くて心地よい声が耳元をかすめた。「別に……」瑠璃は何気ないふうに言った。「明日の朝は君ちゃんを学校に送らなきゃいけないし、早く寝ましょ」彼女は顔をそらし、それ以上彼を見ようとはしなかった。「明日の朝は俺が君ちゃんを送っていくよ。君は早起きしなくていい。それに……たぶん、起きられないと思うし」瑠璃は不思議そうに目を開いた。「なんで起きられないの?」「それは……」隼人は言葉を途中で切り、そして唇を瑠璃の唇に重ねた。そのキスのあと、彼は次第に、深く、沈んでいった。これまでの長い年月、彼女とこうして穏やかに同じベッドで過ごしたことは一度もなかった。それが彼の心に残った、唯一の後悔
瑠璃は机に駆け寄り、目の前のノートパソコンを抱き上げた。その様子を見た瞬は、彼女の激しい反応をよそに、落ち着いた笑みを浮かべた。「言っただろう?俺は君を傷つけるようなことは絶対にしないって——今になって、ようやく信じられたか?」画面の中に映る、元気に跳ね回る小さな人影を見た瑠璃の瞳には、うっすらと涙の膜が浮かんでいた。今のこの気持ちは、言葉では言い表せない。「瞬、これ……どこなの?」彼女は強い語気で問い詰めた。しかし瞬は、答えるつもりはなさそうだった。彼は瑠璃のもとへ歩み寄り、長くしなやかな指先でそっと彼女の頬に触れようとした——が、彼女は素早く身を引いた。その仕草に、瞬は一瞬不快げに眉をしかめ、それでも皮肉めいた笑みを浮かべた。「覚えてるか?昔、君は俺にこう言った。復讐が終わったら、陽菜と一緒にF国へ行って、平穏な生活を送ろうって。俺は、ずっとその日を待ってた。なのに——君は、約束を破った」瑠璃はまっすぐに瞬の黒い瞳を見つめ返す。「物事がこうなってしまったのは、あなた自身が一番よく分かってるはずよ」「フッ……」瞬は鼻で笑った。「俺がしてきたすべては、お前のためだった」「違う。あなたのため——隼人に勝ちたいという、ただそれだけのためよ」瑠璃は、彼の表情がだんだんと陰り始めるのを見ていた。「私、かつては本気であなたと余生を共にしようと考えてた。だから陽菜にお父さんと呼ばせた。でも——あなたには、もうがっかりしたわ」その言葉に、瞬の表情はさらに暗く沈み、瞳には深い闇が落ちていった。「瞬、場所を教えてちょうだい。このモニターに映っている場所がどこなのか!」瑠璃は再び追及した。彼は冷たく視線を上げた。「教えてやってもいい。だが条件がある。俺と一緒にF国へ来い。そして——隼人とは二度と会うな」瑠璃は即座にその条件を拒否した。「瞬、もしあなたが子供の頃の約束にこだわってるなら、はっきり言うわ。私、あなたのことなんて覚えていない。あの四月山で会ったのは——隼人、ただ一人だけよ」瞬の眉がぐっと寄せられた。「それでも、俺には分かる。あのときの小さな女の子——あの笑ったときにできる愛らしいえくぼ、絶対に忘れない」「えくぼのある女の子なんて、世界中に山ほどいるわ。遥にもあったでしょ