ログイン離婚から八年。荒井明弘(あらい あきひろ)は病院で思いがけず前妻・桑原奈々美(くわばら ななみ)と再会する。 かつては家事ひとつしたことのない深窓の令嬢だった奈々美は、今は医師となり、片足を引きずっていた。 七歳になる息子・荒井和紀(あらい かずき)が、彼女を見て尋ねる。 「お父様、あの人は誰ですか?」 明弘は立ち尽くし、長い沈黙の末に答えた。 「……昔馴染みだ」 明弘という男は、冷酷非道。 復讐のためなら手段を選ばず、ビジネス界の覇者として、その手は幾多の汚い仕事で汚れ、それでも彼は誰に対しても、何に対しても悔いなど持たずに生きてきた。 一度たりともだ。 ただ一つ、あの日の光景を除いては。 ガラスの破片を彼の肩に突き立て、泣き叫びながら「あなたが憎い」と言い放った彼女の姿だけが、脳裏から離れない。 八年前、親に捨てられ、愛する夫に裏切られた奈々美は、この街から逃げ出した。 そして八年後、彼女は再びこの街に戻り、明弘と巡り合う。 彼には子供がいて、薬指には新しい指輪が光っている。 彼女にもまた、新しいパートナーと子供がいた。 愛も憎しみも、すべては過去のこと。 そう思っていた。 しかし、奈々美は彼の隠された狂気を知った。 明弘が育てているその子は、死んだと思っていた彼女自身の子だった。 そして彼が大切に嵌めているその指輪は、八年前に奈々美が海へ投げ捨てたはずの結婚指輪だった。 彼は狂っていた。異常なまでの執着で、まだ過去の中に生きている。 孤児院の野良犬からビジネス界の覇者へと這い上がってきた。決して誰にも頭を下げず、誇り高く生きてきた男が、凍てつく冬の夜、すべてをかなぐり捨てて崩れ落ちる。 奈々美を引き留めるため、すべてを掻き乱し、狂気の果てに、明弘は奈々美の前に跪いた。 彼は悔いていた。 心から悔いていた。
もっと見る奈々美はミニパンをかじりながら、何やら考え込んでいた。「ねえ、合法的に人を殺す方法ってないかしら?」「……」奈々美がいつもの物騒な冗談を飛ばすと、蛍子は呆然と固まり、ちょうど備品を取りに入ってきた彰は、殺人現場でも目撃したような顔をして、脱兎のごとく逃げ出した。「おぉ……」蛍子が感心したように声を漏らす。「岩本先生、あんなに速く走れるんですね。確か、腰椎椎間板ヘルニアに膝関節炎、おまけにアキレス腱炎まで抱えてたはずじゃないんですか?」奈々美は不思議そうに首を傾げた。「そんなに怖かったかしら?」「いえ」蛍子は真顔で答えた。「今ので完治させちゃいましたね」蛍子はグッと親指を立てて見せた。「さすが桑原医長、名医です」「……」奈々美は無言でパンを食べ続けた。何があろうと、日々は淡々と過ぎていく。奈々美が次の手術のスケジュールを確認しようとした時、LINEに新しい通知が届いた。見知らぬアカウントからの友達追加。アイコンは白黒のストライプ。名前はただの【.】誰なのか、見当もつかない。その時、さっき逃げ出した彰が勢いよくドアを開けて戻ってきた。今度は弾んだ声を上げている。「ミュストンのトップ整形外科チームが来るらしいですよ!俺のヘルニアも関節炎もアキレス腱炎も、これで助かります!」「医長がさっき治したんじゃなかったんですか?」「……」蛍子の寒いツッコミに、自分も含めた三人は一瞬で言葉を失った。奈々美は席を立ち、院長とミュストンから来る代表団の面会について打ち合わせに向かった。このチームを招くために、病院側は一ヶ月半も前から準備を重ね、この日を待ちわびていた。退勤間際、三階の講堂で全体会議があるという通知が届いた。彼女は白衣のポケットにスマホを突っ込み、階段室へ向かうと最後列に腰を下ろした。会場は押し寄せるスタッフで溢れ返り、十数台のカメラが設置されるなど、物々しい雰囲気に包まれている。「やっぱり『神兵』降臨だわ。まさか本当にミュストンのチームを呼べるなんて。うちの病院、どこにそんな予算があったの?」「なんでも、相当な大物の紹介らしいよ」「一体どんな権力者なら彼らを動かせるんだ?」ひそひそ話が途切れた瞬間、外から重々しい足音が近づき、全員の視線が入
奈々美は新しい生活にすぐ順応していた。頭にはいかにも野暮ったい茶色のニット帽を被り、ポニーテールを揺らしながら、男の子のためにパウンドケーキを切り分けている。男の子が「メリークリスマス!」と言うと、彼女は楽しそうに笑って、飴玉を一つプレゼントした。それだけではない。彼女は医療支援チームと一緒に、ホームレスの支援まで始めていた。湿り気を帯びた冷たい冬の夜、大雪が降りしきる中、奈々美は分厚いボアコートに身を包んでパン屋を出た。大きなパンの袋を肩に担ぎ、吹き付ける雪に抗うように小走りで橋の下へと向かい、ホームレスたちに配り歩く。明弘は少し離れた車の中から、その様子をじっと見つめていた。彼女に生気が戻り、時には笑顔さえ見せるようになったのを。パンをすべて配り終えた後、奈々美の手元には自分用に残した、一番安くて硬いフランスパンが一つ。それを必死に噛み砕いているうちに顎が痛くなってきたのか、奈々美は頬杖をついて溜息をついた。それからビッグタワーの下まで歩いていき、残ったパン屑で鳩に餌をやり始めた。あの日、そこに立ち尽くして彼女を見つめる明弘の姿を、白髭の外国人ストリートフォトグラファーがレンズに収めた。カメラマンは彼の肩を叩き、現像した写真を渡しながら、流暢な現地の訛りで問いかけた。「彼女は、君が見守っていることを知っているのかい?」明弘は写真の中の奈々美に目を落とした。「たぶん、知らない」「君の愛は、随分と臆病なんだね」愛、なのだろうか。明弘は、これが愛だとは思わなかった。自分は人を愛せるような人間ではない。十数年もの歳月をかけて奈々美の傍に留まり、愛しているふりをし続けてきた。そしてその後の八年をかけて、彼女のいない日常を受け入れ、奈々美を愛していないのだと証明してきたはずだった。だが八年が経ち、奈々美は戻ってきた。明弘自身も、自分の心がどうなっているのか、もはや分からなくなっていた。ただ一つ確かなのは、今の彼は奈々美の愛を、どうしようもなく必要としているということだ。奈々美の愛は明るく、まるで光そのものだ。機械的で冷え切った自分の人生には、その光が必要なのだ。欺瞞と偽装に塗り固められた前半生の中で、この時だけが、彼の剥き出しの「欲」が動いた瞬間だった。……帰宅した奈々美
あの日、明弘は奈々美を病院へと運び込んだ。医師の見立ては芳しくなかった。肉体的にも、そして精神的にも。彼女の体は、肺結核にまで蝕まれていた。明弘は背中で手を組み、病床の傍らに佇んで、月明かりに照らされた彼女を見つめていた。奈々美が逃げ出して以来、初めてその顔をまじまじと見た。蒼白で、ひどく疲れ果て、別人のようにやつれ果てている。誰がどう見ても、かつて蝶よ花よと慈しまれて育ったお嬢様だとは気づかないだろう。あの子を宿し、親しみを込めて自分の名を呼んでいた、あの「桑原家の令嬢」だとは。彼は医師に万全の治療を命じた。そして椅子に腰掛け、一晩中、身じろぎもせずそこにいた。夜が明けてようやく、どうしても外せない公務のために一度席を外した。その日の朝に戻ると、奈々美が逃げ出したという知らせが届いた。政彦が、すぐに連れ戻すかと尋ねた。明弘は立ち尽くし、彼女が眠っていた痕跡が残るベッドをじっと見つめてから言った。「……その必要はない」できること、すべきことはすべてやった。本人が去りたいというのなら、もう引き止めはしない。役に立たなくなった駒に、過度な執着は持たない。奈々美のことで、これ以上自分の心を乱すつもりはなかった。あの時の明弘は、確かにそう決めたはずだった。その夜、雁取へ戻った明弘は、それでも人を使って彼女の行方を探らせた。ただし詳細な報告は禁じ、ただ「生きているか死んでいるか」だけを知らせるよう命じた。その中途半端なこだわりが災いし、明弘は長い間、奈々美の詳しい境遇を知ることがなかった。それからしばらく経ったある深夜。明弘はふと、奈々美の不自由な足を思い出した。飛び降りた時の怪我が原因かは分からないが、生活に支障が出ているはずだ。目が覚め、会議へと向かう車中で、彼は政彦に淡々と命じた。ある財団を設立し、その名義で医療支援チームを組織して、クロックタウンのあの界隈で救済活動を行わせるように、と。政彦からは、彼女の結核が完治したとの報告があった。同時に、一枚の写真が届けられた。病院のロビーを写したものだ。患者が溢れかえり、廊下も通路も足の踏み場もない中で、彼女は床に上着を敷いてうつ伏せになり、手の甲に点滴を打っていた。その隣には、病に冒されたひどく痩せ細った黒い肌
奈々美はそのまま歩き続け、彼の言葉に足を止めることはなかった。「どうしてあんたなんかに脅されなきゃいけないのよ」「脅迫だと思わなければいい」明弘の声は静かだった。「俺を愛せば、そんな風には感じなくなるはずだ。かつて俺を愛していた時も、お前は幸せだっただろう?」その視線は重くのしかかるが、どこか淡々としていて、まるで普通に夕飯の相談でもしているかのようだった。奈々美は怒り心頭に発して、部屋を飛び出した。あまりの憤りに、あの小さなナイフさえ忌々しいとばかりに床に投げ捨てていく。一秒でも長く同じ空気を吸っていれば、彼の偏執的な狂気が自分にまで伝染しそうだった。去り際、彼にたった一言だけ強烈な罵声を浴びせた。それは間違いなく、明弘がこれまでの人生で耳にした中で最も汚い言葉だった。だが奈々美は、その言葉をあまりに流暢に吐き捨てた。おそらく心の中で、あるいは人知れず、何度も何度も彼を罵り続けてきたのだろう。奈々美が嵐のように去っていくと、入れ違いに空気の読めない人物が現れた。梓紗はもともと気が立っていたが、奈々美が来たことを聞きつけ、実際に明弘のオフィスから出てくるのを目撃して、ついに怒りが決壊した。「離婚できるって言ったじゃない!どういうつもりよ!」彼女は猫を被るのも忘れ、奈々美に詰め寄って声を潜めて詰問した。あんなに苦労して手に入れた出生証明書を渡したというのに、この女は何をしているのか。奈々美は無視して歩き続けようとしたが、梓紗がその袖を掴んで放さない。「……どきなさいよ」奈々美はその手を振り払い、その場にいる全員に平等に毒を吐いた。「あんたも、どいつもこいつも救いようのない馬鹿ね」罵られた梓紗が言い返す間もなく、奈々美はそのまま立ち去っていった。*奈々美が去った後、政彦が入室して床のナイフを拾い上げた。明弘はまた新しいタバコに火をつけていた。今日、あの追加資料も政彦の手によって元の場所へ戻された。クロックタウン行きのフライト記録はすべて本物だ。そして、あの数枚の写真も。七、八枚ある奈々美の隠し撮り写真は、毎年政彦が彼女の居場所を突き止め、撮影して送ってきたものだ。明弘は八年間、ことあるごとに奈々美を思い出していた。特に彼女が去った直後は、寝ても覚め
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