幸せな結婚を望んだのに…。侯爵家の一人娘ヴィオレットは、伯爵家の一人息子セドリックに一目惚れ。結婚した二人の間に愛娘のリリアーナが生まれる。だが、セドリックには本命の愛人ミアがいた。 セドリックは当初からヴィオレットに冷淡。妾のミアとの間に男子が産まれると、ヴィオレットに無断で彼女たちを邸に連れ込む。夫の冷たい態度に疲弊した妻のヴィオレットは娘のリリアーナを連れて時折実家に里帰りする。兄のアルフォンスはとても優しくて、ヴィオレットは禁断の恋に落ちていく…。
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ルーベンス家の玄関前に、一台の馬車が滑らかに停まった。御者が手綱を引くと、木製の扉が開き、中から一人の少女が飛び降りる。
秋の始まりを告げる涼やかな風が彼女の金色の髪をそっと揺らし、木漏れ日が庭の石畳に淡い模様を描いていた。
ヴィオレットの娘、リリアーナである。
彼女は小さな靴で石畳を軽快に駆け抜け、玄関に立つ伯父アルフォンスの元へとまっすぐに走っていく。庭の端では、色づき始めた葉がちらほらと舞い、風に揺れるコスモスが秋の訪れを静かに告げていた。
「伯父様~!」
リリアーナの澄んだ声が庭に響く。アルフォンスはその声に振り向き、柔らかな笑みを浮かべた。
「リリアーナ、よく来たね」
その言葉に応えるように、リリアーナは両手を大きく広げて叫んだ。
「抱っこ! 抱っこ!」
アルフォンスは声を上げて笑い、軽やかに彼女を抱き上げる。その足元で、小さな枯葉が一枚、風に乗ってひらりと舞い上がった。
「もちろんだよ、リリアーナ姫」
「ふふっ、姫じゃないもん」
リリアーナは照れくさそうに笑いながら、伯父の首に小さな手を回した。その仕草はあまりにも自然で、子どもの純粋さと愛らしさに満ちていた。
「随分と大きくなったな。もっと頻繁に来てもらわないと、成長を見逃してしまいそうだ」
後ろから馬車を降りてきたヴィオレットは、二人のやり取りを見守りながら苦笑した。
「兄上、二週間前にも来たばかりですよ?」
アルフォンスは肩をすくめ、茶目っ気たっぷりに返す。
「それでも足りないさ。遠くないのだから、一週間ごとでも、いや、三日ごとにでも来てほしいくらいだ」
その冗談にヴィオレットは小さく笑ったが、リリアーナは真剣な顔で声を張り上げた。
「伯父様! 母上とばっかり話さないで。リリアーナの話を聞いて!」
「もちろん、ちゃんと聞いているよ。どうしたのかな?」
「リリアーナね、字をいっぱい書けるようになったよ!」
その無邪気な報告に、アルフォンスの目が優しく細められた。
「それは素晴らしいね。今度、私に手紙を書いてくれないかい?」
リリアーナは嬉しそうに頷く。
「いいよ! いっぱい書くね!」
それを見ていたヴィオレットが、娘の顔を覗き込みながら微笑む。
「私には手紙を書いてくれないの、リリアーナ?」
リリアーナは一瞬きょとんとしたが、すぐににっこり笑って答えた。
「母上にも書いてあげる!」
「それは楽しみね」
ヴィオレットは微笑みながら言い、屋敷の中へと足を向けた。
――
屋敷の玄関ホールでは、執事のクリスが深々と頭を下げて迎えた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいま、クリス」
ヴィオレットはわずかに表情を緩める。その微笑みは一瞬だけ続いたが、ホールの大理石に反射する柔らかな光が、彼女の影を淡く浮かび上がらせた。
――かつて夢見た夫婦の幸福。
その理想と現実との落差が、今も胸の奥に澱のように残っている。
アシュフォード家に嫁ぎ、信じた相手に裏切られた記憶は、過去になったはずなのに、ふとした拍子に疼き出す。
「はぁ…」
知らず、ため息が漏れた。
そのとき、小さな手がヴィオレットの頬に触れた。
「母上、つかれてる?」
「少しだけね。馬車の揺れがちょっと堪えたのかもしれないわ」
ヴィオレットは娘の頬にそっと触れ、柔らかな笑みを浮かべた。
「部屋で休んできてもいいかしら、リリアーナ?」
「いいよ~。リリアーナは伯父様にお手紙書くの! あとね、おやつも食べたい!」
アルフォンスはくすりと笑いながら応じる。
「リリアーナのために料理人が腕を振るっているよ。厨房に行ってみるか?」
「行く!」
リリアーナの声が弾む。アルフォンスは彼女を再び抱き上げ、そのまま厨房へと向かった。ヴィオレットはゆっくりと階段を上がりながら、背後から聞こえてくる二人の笑い声に耳を傾けた。
――この子がいるから、私は歩いていける。
そう思いながらも、胸の奥に沈む影は、まだ完全には消えてはいなかった。
窓の外では、色づき始めた葉が風に揺れ、陽光を受けて柔らかな輝きを放っていた。
その美しい光景に一瞬、心が和らぐ。
けれど――その光の下でも、過去の痛みはなお、彼女の心に影を落としていた。
◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆玉座の間には、重く張り詰めた沈黙が広がっていた。王の命を受けながらも、アウグストは答えようとしなかった。その代わりに、彼はゆっくりと天を仰ぐ。まるで全ての緊張を解き放つように、肩の力を抜き、深く息を吐いた。やがて、静かに視線を戻し、ヴィオレットを見つめる。その唇には、不気味な笑みが浮かんでいた。「……お前の母が全てを招いたのだ」その言葉に、ヴィオレットの眉がわずかに動く。「お前の母は罪深い」静かに呟きながら、一歩、また一歩とヴィオレットへと近づくアウグスト。異端審問官や貴族たちは、彼の行動を見守るばかりで、誰も動こうとはしなかった。しかし、ヴィオレットはその場を動かず、琥珀色の瞳をまっすぐにアウグストに向けた。「……何が罪深いというのですか?」「……貴様に理解できるものか」アウグストの声が低く響く。「イザベラは、私のものだった」その言葉と同時に、アウグストはゆっくりと手を動かした。彼は指輪の細工を外し、親指で軽く押し込む。カチリ、と小さな機械音が響く。その瞬間、指輪の内側に仕込まれていた毒針が飛び出し、鋭い光を放った。「っ……!」ヴィオレットは後退りが、アウグストの動きは速かった。彼の指先が、ヴィオレットの胸元へと伸びる。「ヴィオレット!」鋭い声とともに、飛び込んだのはアルフォンスだった。ヴィオレットの前に立ちはだかり、アウグストの腕を強く掴む。しかし、アウグストの手が動いた瞬間、毒針がアルフォンスの頬を掠めた。「っ……!」鋭い痛みとともに、赤い筋が彼の肌を裂く。「兄上!」ヴィオレットの叫びが響いた。「下がっていろ、ヴィオレット」アルフォンスはアウグストの腕をひねり、ヴィオレットから距離を取ろうとする。アウグストは抵抗を強めて、二人がもみ合いになる。その瞬間――鋭い蹴りがアウグストの脇腹に入った。「ぐはっ……!」アウグストは床へと吹き飛ばされる。蹴りを放ったのは、レオンハルトだった。「捕らえろ!」レオンハルトの声に応じて、王太子直属の兵たちが即座に動き、アウグストを強引に床に押さえつける。「枢機卿、観念しろ!」王太子アドリアンが冷然と告げる。だが――「……まだだ」アウグストは薄く笑った。動きを止めた兵士たちの隙をつき、素早く自由になった片手を動かす。指輪をはめたま
◆◆◆◆◆血まみれの男が玉座の間に足を踏み入れた瞬間、広間の空気が凍りついた。全員の視線が、一斉に彼へと向かう。セドリック・アシュフォード。彼の顔にも手にも、鮮血がこびりついていた。赤黒い雫が床に滴り、大理石の冷たい表面を汚していく。貴族たちは息を呑み、異端審問官たちの顔色が変わる。しかし、セドリックはまっすぐに進み出ると、アウグストを指さした。「……アウグスト、お前が望んだ通り、俺は王の前で全てを証言する」低く、しかし確かな声だった。その瞳には、今までの迷いや苦悩は微塵もなかった。「だが、お前の思い通りには行かないぞ。俺はもう誰の支配も受けない」静かに、だが確かにセドリックは告げた。「誰の命令にも応じない。俺は自由だ!」彼の血塗れの手がぎゅっと拳を握る。「この手で殺してやった……!」ざわめきが広がる。「……父を」誰かが息を呑む音が響いた。「アシュフォード伯爵を……?」「ガブリエル・アシュフォードが死んだ?」貴族たちが動揺する中、セドリックは静かに続けた。「ミアを殺したな、アウグスト?」アウグストの目がわずかに揺らぐ。だが、セドリックはそのまま言葉を続けた。「ヴィオレットを貶めるために、お前はミアを殺した。ヴィオレットを異端者として裁くために!」王や王太子をはじめ、貴族たちの間に大きなどよめきが広がる。「ヴィオレットの異端さを俺たちに証言させようとしたんだよな?残念だったな。ヴィオレットは無実だ。ミアを殺したのはお前だからだ、アウグスト!」貴族たちの間に、静かな怒りが広がる。「枢機卿が証言を捏造しようとしたのか……?」「では、ヴィオレット・アシュフォードは無実だったのか?」「そんな……」騒然とする中、セドリックの声はなおも響く。「ミアは……馬鹿だったが、俺は愛していた。それに、ミアはルイの母親で……ルイは俺の子だ」その言葉に、彼の瞳が悲痛に歪む。「そうだ、あんなに似ているのに……俺の子供でないなんて、おかしい!ルイは俺の子だ!!」セドリックは叫ぶように言い放つ。「だけど、父はルイまで殺そうとした……だから、俺は父を殺した!」空気が張り詰める。「お前がミアを殺し、お前が俺に父を殺させたんだ! アウグスト!」その叫びと共に、広間がざわめきに包まれた。「枢機卿が人殺し?」「…神に仕えるも
◆◆◆◆◆「枢機卿、貴方の言い訳を聞こうか?」アルフォンスの冷ややかな声が、玉座の間に響き渡る。広間には重い沈黙が広がっていた。王の前に集まった貴族たち、異端審問官、教会関係者、誰もがこのやり取りを見守っている。その視線を一身に受けながら、アウグストは目を細め、静かに答えた。「……妹を救うためとはいえ、私に濡れ衣を着せようとは、あまりに罪深い。神への冒涜ですよ、ルーベンス侯爵」余裕すら感じさせる口調。しかし、その指先はほんのわずかに力が入っている。対するアルフォンスは微動だにせず、冷たい瞳で彼を見据えた。玉座の間には、張り詰めた緊張が漂っていた。アウグストとアルフォンスが対峙する中、ヴィオレットが静かに前へ進み出た。彼女の琥珀色の瞳には迷いがない。手には、一枚のハンカチ。「これは貴方の物ではないのですね?」ヴィオレットは静かに問いかける。アウグストは薄く笑った。「私の物ではない」「このハンカチは母が貴方に贈った物ではないのですね?」さらに問い詰めるヴィオレットに、アウグストは嘲るように唇を歪めた。「自分で工作しておきながら、私に尋ねるとは愚かしい。それは私のハンカチではない――この答えで満足したか、ヴィオレット・アシュフォード?」アウグストの言葉にヴィオレットは静かに応じた。「……そうですか」ヴィオレットは一歩引いた。「では、燃やしてしまっても構いませんね」玉座の間が静まり返る。貴族たちは目を見開き、異端審問官たちは動きを止めた。ヴィオレットはためらうことなく、踵を返し、蝋燭の燭台へと向かう。その歩みは揺るぎなく、迷いの影すらなかった。高位貴族たちが思わず息を呑む。アウグストの視線が鋭くなる。しかし、ヴィオレットは意に介さず、ゆっくりと手を伸ばす。蝋燭の炎が、小さく揺れた。ヴィオレットの指先がハンカチの端をつまみ、慎重に火にかざす。青白い炎が、柔らかな布地を舐めるように走る。金糸の刺繍がわずかに歪み、レースの端が焦げ始める。焦げた糸が縮れ、かすかな煙が立ち上る。炎は静かに、しかし確実に、母が愛した記憶の一端を飲み込もうとしていた。それが消えてしまえば、すべては闇に沈む。――燃え広がるには、あと一瞬。その瞬間だった。「やめろ!」アウグストの鋭い叫びが、玉座の間に響き渡った。彼は反射的に駆
◆◆◆◆◆王城の一室にて、セドリック・アシュフォードは父であるガブリエル・アシュフォードと共に待たされていた。二人をここに呼び出したのは、枢機卿のアウグストだった。王の前でヴィオレットを貶める証人として、彼らは王城に招かれている。しかし、アウグストからの連絡はなく、時だけが過ぎていた。執務室には二人の息遣いだけが響き、重い沈黙が流れる。時計の秒針がカチカチと音を刻む。その音すら、ガブリエルの苛立ちを煽るようだった。「一体、いつまで待たせるつもりだ……」ガブリエルは杖で床を軽く叩き、不満げに眉をひそめた。「全く、あの男はいつもこうだ。人を呼びつけておいて、何の説明もなしに放置するとは……」その金色の瞳には怒りが浮かんでいる。しかし、セドリックは何も答えず、ただ虚ろな表情のまま暖炉の炎を見つめていた。その瞳には、感情の色が感じられない。「セドリック、お前も何か言ったらどうだ。これだからお前は頼りないと言われるのだ」父の苛立った声が執務室に響く。しかし、セドリックは微動だにせず、ただ暖炉の炎が揺れる様子を眺めるばかりだった。その様子に業を煮やしたのか、ガブリエルは杖を握り直し、怒りをあらわにする。「全く……お前がミアになど入れあげなければ、こんな事にはならなかったのに、馬鹿者めが!」「……私のせいだと仰るのですか?」ようやく、セドリックは静かに口を開いた。しかし、その声はどこか遠くを彷徨っているように聞こえた。「当然だろう!」ガブリエルは再び杖を握り直し、力強く床を叩く。その音が室内に響いた。「お前がミアやルイを邸に迎え入れなければ、こんなことにはならなかった! 妾との関係を整理し、アシュフォード家を守るべきだったのだ! だというのに、お前は……!」父の怒りに満ちた言葉が、執務室を支配する。セドリックは視線を下げたまま黙っていた。苛立ったガブリエルは、さらに声を荒げる。「アウグストの罪が暴かれたら私は終わりだ! だが、これで終わらせるわけにはいかん……!」ガブリエルはふと何かを思いついたように杖を置き、机の上の紙に手を伸ばした。「ルイの顔に焼きごてを押し、ミアと同じ傷をつける。そして、それをルーベンス家の門前に吊るすのだ。庶民どもに発見させれば、どうなるか分かるだろう?」「……何を言っているのですか」セドリックは驚いた
◆◆◆◆◆アルフォンスの手から、ヴィオレットはそっとハンカチを受け取った。指先で刺繍の施された布を確かめるように撫でる。――懐かしい感触だった。ハンカチの生地は上質で、手に馴染む柔らかさがある。細やかな金糸の刺繍が施されたその端を、ヴィオレットは指でなぞった。琥珀色の瞳が細められ、彼女の表情がふっと和らぐ。「……これは、母の手によるものですね」ヴィオレットの呟きが、静まり返った広間に響いた。貴族たちの間にどよめきが広がる。アウグストは、その言葉に眉をわずかに動かした。「母上がまだアウグストと婚約していた頃、彼のために刺繍して渡したのでしょう」ヴィオレットはそう言うと、ハンカチを掌の上に広げた。細やかな刺繍――そこには、王家の紋章と共に、アウグストの名が丁寧に刻まれている。ヴィオレットはゆっくりと目を伏せ、その一針一針に込められた思いを確かめるように指先でなぞった。「これほど丁寧に縫われた刺繍……母は、確かに貴方を愛していた瞬間があったのでしょう」広間にいた貴族たちが、息を呑む音が微かに聞こえた。「ですが、母はルーベンス侯爵と出会い、そして恋に落ちた」ヴィオレットは静かに顔を上げた。彼女の視線の先にいるのは、アウグスト。彼は何も言わず、ただヴィオレットを見つめている。「それでも、貴方はこのハンカチを手放さなかったのですね」ヴィオレットの言葉は静かだったが、その響きには確かな問いが込められていた。「貴方は、このハンカチを何のために持っていたのですか?」広間の空気がさらに張り詰めた。アウグストの顔から、ついに笑みが消える。彼は静かにヴィオレットを見つめていたが、やがて低い声で呟いた。「……そんなハンカチは知らんな」アウグストの声は平静を装っていたが、わずかな揺らぎがにじんでいた。しかし、ヴィオレットは怯まなかった。彼が何を思い、何を捨てられなかったのか――その答えを、ヴィオレットはすでに知っている。「私の母を愛していたから、忘れないために持っていたのでしょう?」ヴィオレットの問いに、アウグストはゆっくりと目を閉じた。そして次の瞬間、再び瞳を開いたときには、冷たい光が宿っていた。「貴様が何を言おうと、罪は逃れられないぞ、ヴィオレット」アウグストの言葉に、広間が再びざわめく。しかし、ヴィオレットはわずかに
◆◆◆◆◆「家族であるヴィオレットの殺害を企てた人間を生かしておいたことには理由があります。彼は枢機卿の罪を暴く生きた証人だからです」アルフォンスの静かな声が広間に響いた。その一言で、貴族たちの間に緊張が走る。アウグストは、口元にわずかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。「ダミアンの父親はすでに亡くなっています。しかし、彼は生前に命の危険を感じていたのか、息子に宛てた遺書めいた手紙を遺していました」アルフォンスは封筒から一通の手紙を取り出し、それを高く掲げる。「この手紙には、ダミアンの父が過去に犯した罪が記されていました。そして、その罪を依頼した人物の痕跡も残されているのです」広間に息を呑む音が響く。アルフォンスは視線をアウグストに向けると、ゆっくりと口を開いた。「手紙にはこう記されています」静かな声で、彼は読み上げる。「“私はどうやら教会関係者に命を狙われているようだ。思い当たる出来事は一つしかない。それを手紙に記す。これを読んでどうするかはお前に任せるーー私はかつて、ある者の依頼を受け、ルーベンス侯爵夫妻が乗る馬車に細工を施した。そして、彼らは盗賊によって殺された”」広間がざわめく。「馬車の細工……」「ルーベンス侯爵夫妻が盗賊に襲われたのは、偶然ではなかったって事か……?」「そんな……」貴族たちが互いに顔を見合わせる中、アルフォンスは続けた。「手紙にはさらにこう書かれていました」彼は次の一文を読み上げる。「“馬車の細工を依頼した人間は、シクラメンの香水を身につけていた”」広間の空気が凍りつく。「シクラメンの香水……?」「教会関係者にしか使えないものでは?」異端審問官たちが互いに顔を見合わせた。「そうです」アルフォンスは静かに頷く。「教会の高位聖職者しか手にすることができない香水……それを身につけた者が、ヴィオレットの両親の死に関与していたのです」「だが、それが枢機卿である証拠はどこにある?」誰かがそう問いかけた。アルフォンスは一度、手紙を封筒に戻すと、新たに懐から別の封筒を取り出した。「ダミアンの父親は、その依頼者からある物を盗み取っていました」封筒をゆっくりと開け、中から取り出したものを掲げる。それは、一枚のハンカチだった。「このハンカチは、その依頼者の持ち物でした」
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