登入会場の音楽や話し声は、依然として鳴り響いている。中でも、渉の声は特に際立って響き渡った。引き留めようとする直美の手によって、彼の袖口はクシャクシャで、固めていたはずの前髪も乱れていた。その瞳には、隠しきれない不安が満ちている。凪は、どこか遠い記憶の世界を見ているような気分になった。以前、渉がこんなふうに自分を諭そうとするのは、決まって直美の身体がどんなに脆いかを教え込み、自分に理解と譲歩を迫る時だけだった。今の彼は、直美の手を振り払ってまで、自分の前に歩み寄っている。今の自分は、直美よりも大事なのだ、とアピールでもしたいかのように。でも、今の凪にもうそんなことはどうでもいい。自分のことをただの浮気相手だと思い込んでいるような、浅はかな元カレを、ただ可哀想な人を見る目で見つめていた。「ここが、私の席だよ」彼女はそう言いながら、箔押しの文字が輝く招待状を取り出した。このタイプの招待状は、例外なく主催者が客のために一通ずつ個別に誂えるものであり、特別な席にのみ許される待遇だった。渉の瞳に激しい動揺が走った。空が、ただの浮気相手に対して、ここまで周到にお膳立てをするとでもいうのか。凪は手のひらでひらりとその紙面をもて遊ぶと、そっと膝へと下ろして、静かに笑った。「ご心配なく、私は自分の立ち位置を十二分にわきまえている。だから中島社長も、他人の心配よりも、自分の立場を確認したほうがいいんじゃない?」元の恋の炎は、もう決して燃え上がることはない。終わった恋にしがみつく必要などなかった。凪の冷たい表情が、完全に一線を画し、渉を拒み遠ざけている。「凪さん。渉は、ただ黒崎の奥さんにあれこれ言われないか、心配でお耳に入れていたの。お願いだから彼を責めないで」直美が機に乗じて間に入り込んできた。相変わらずどこか清楚で儚げなアピールをしており、薄グリーンの肌を見せた優雅なドレスが、彼女の顔つきをか弱く引き立てて見せていた。シャンパングラスを片手に、直美は身を乗り出して近づいた。「凪さん、前に渉さんが私のぜんそくを理由に凪さんを疑ったこと、ずっと謝りたくて……あぁっ」グラスが揺れる。半分近くまで注がれていたそのシャンパンは見事に放り投げられ、そのまま凪の純白のドレスにかかり、雫となって足元へ垂れてい
大輔は突然、人混みのなかに凪の姿を見つけた。凪と空はまだ結婚式を挙げておらず、K市のセレブの多くは彼女の顔を知らない。彼女は隆だけを連れて入場した。今季の新作である銀白のサテンドレスを身にまとい、繊細な銀の刺繍の花々に包まれている。美しい目元の目尻だけにうっすら施されたメイクが、彼女をいっそう俗世離れした美しさに引き立てていた。大輔は、引き寄せられるように彼女の方へ歩み寄った。「凪さん」「呼び方を間違えていると思うけれど」凪は冷ややかな目で、ちらりと彼を見た。彼女は大輔を相手にしたくなかったのだ。大輔は露骨に嫌がられても気に留める様子もなく、その熱い視線で彼女をじろじろと見つめ続けた。追いかけてきた葵は、ちょうど大輔が凪をうっとりと見つめているのを目にする。大輔、まさか凪に心を奪われてしまったというの?てっきり大輔が怒っているのは、彼が手がけていたプロジェクトを空に奪われ、二宮家に回されたことに対してだと思っていたが……けれど、凪だって同じ二宮家の人間だ。どうしてあの女ばかりが、大輔に気に入られるのか。もしかすると大輔が自分を放置しているのは、家のことではなく、自分を嫌っている凪が何か告げ口でもしたからではないか。一度そう考えると、疑念はどんどん深まっていく。葵はすべての恨みを、凪に向けることにした。彼女は早歩きで歩み寄る。「冷たすぎるわ、お姉さん。家族になる大輔さんなんだから、無視することはないでしょう?まさか、空さんに嫁いだからって見下しているのかしら」大輔は葵が近づいてくるのを見て、不快そうに口をへの字に曲げた。声を聞いた凪がそちらへ視線を向けると、ふと葵の腰まわりの状態が目に入り、少しだけ眉間にしわを寄せた。「あなた……」「立場からすれば、確かに大輔さんにとってお姉さんは目上かもしれないけれど。年の近い身内なのだから、お姉さんもそんな偉そうな態度をとらなくていいんじゃない?」「あのね、私が言いたいのは……」「お姉さん、何を言いたいの?大輔さんのことを見下してなんていないって……」いい加減にうっとうしくなった凪は、彼女の言葉をさえぎった。「あなたの腰元にあるファスナーが開いているわよ」「!」葵はハッとし、露出してしまった腰まわりを見て真っ青になった。
数日後。黒崎グループの新作発表会が、いよいよ間近に迫っていた。会場にはそうそうたる顔ぶれが並ぶ。誰もが招待状を手に入れようと、裏で必死に動き回っていた。明里もその中の一人だ。数日前、明里は忍が大輔のプロジェクトを空に任せることにした、という情報を掴んでいた。本来なら中島グループが進めるはずだった仕事が、今では二宮グループの仕事に変わっている。二宮グループが中島グループの下に就かなくて済むのは良いことだ。しかし、このプロジェクトの黒崎側の責任者は空で、二宮側の窓口は凪なのだ。新婚夫婦がタッグを組んで主導権を握った結果、大地と明里が介入する余地はなくなった。それどころか、娘の葵までもが社内でどんどん追いやられていた。自分たちの立場は危うくなる一方だった。強い危機感を覚えた明里は、あの手この手でようやく黒崎グループの発表会の招待状を手に入れ、娘にきつく言い含めた。「今回こそ絶対に外せないわ!おしゃれして、跡継ぎ候補の大輔を何が何でも仕留めるのよ。じゃないと、凪にいいようにされてしまうわ。ねえ、私たちの未来はあなたにかかっているのよ」葵ももちろん、気合い十分で華やかにドレスアップして臨んでいた。鏡の前に立つと、ぴったりとした黒いドレスが、メリハリのある美しい体のラインを強調していた。ばっちりとメイクを決めた彼女は、少し首をかしげるだけで大人の色気を漂わせていた。葵は満足そうに微笑んだ。「安心して、お母さん。必ず大輔さんを捕まえてみせるわ。彼と早く結婚して、子供さえ産んでしまえば、子供もできない凪たちを、徹底的に見返してやれるんだから!」娘の頼もしい言葉を聞いて、明里はようやくホッとした。自分の娘なら、きっと大輔の心を掴めるはずだ。……発表会の当日、会場で。セレブやモデル、著名人たちが次々と現れ、きらびやかに談笑している。黒いのドレスを身にまとって現れた葵は、白い肌が一際引き立ち、多くの人の目を引いた。葵はプライド高そうに顔を上げて、人混みの中から大輔の姿を真っ先に見つけた。グラスを手に、しなやかな足取りで近づいていく。「大輔さん……」「すまない、まだ急用があるのでこれで失礼する」大輔は冷ややかに彼女を一瞥しただけで、つまらなさそうに目を逸らし、秘書を連れてその場を去っ
【もしも君が頭を下げて、渉さんにお願いさえすれば、これからの仕事はうまくいくと保証してやる】これが、実の父親が娘に言うべきことだろうか。実の娘を取引の道具にして、強請るなんて。厚かましいにも程がある。板挟みになった凪は、この状況を片付けるため、個人的な人脈を使うべきかと悩んでいた。それでも、絶対に大地に屈したくなかったし、渉の元へ頼み込みに行くなんて御免だった。突然、手元の画面がちかちかと点滅した。そこには、空の名前が表示されていた。凪はハッと胸をつかれ、近くにいた部下たちを下がらせてから、空の電話に出た。「下にいる」空の低く、穏やかな声が静かに響いた。凪はきょとんとした。「二宮グループのビルの下ですか?急にどうしたのですか?」話をしながらも、彼女は急いで席を立つと、すぐに階下へと駆け下りた。空はその問いには直接答えず、「待っている」とだけ伝えた。「今、行きます」凪は焦る気持ちのままエレベーターに飛び乗り、スマホを強く握りしめた。空がこうしてわざわざ二宮グループを訪ねてくるなんて、何か大きな事件でもあったのだろうか。息を切らせながら、ロビーの正面玄関へと進む。そこには、セキュリティゲートの脇で静かに佇む空の姿があった。深みのあるブラウンのスリーピース・スーツに身を包み、ピカピカに磨かれたアンティーク調の革靴が目を引く。まるで前世紀から抜け出てきた紳士のようで、その際立った美しいビジュアルのせいか、すれ違う社員たちの視線が集まっていた。凪は足早に進み、セキュリティゲートを出て彼の目の前まで駆け寄った。「あらかじめ言ってくれれば、誰も入り口で引き留めなかったのに」当然ながら、二宮グループの全社員が空の顔を覚えているわけではないのだ。空は、彼女のほんのりと赤くなった頬をじっと見つめた。自分が急に来たために、彼女が走って来てくれたのが伝わってきた。その整った口元が、わずかに緩んだ。凪が自分のために全力で駆けつけてくれるのであれば、いつまで待っても構わないと思っていた。けれど、空はそ知らぬ顔で言った。「少し大事な用件があるんだ」「それなら、あちらの個室へ」凪は彼の案内役を務めて上階へと上がった。自身の執務室に招き入れると、空はバッグから、厚みのある茶封筒
渉が去った後、大地は、ようやくハッと我に返り、明里の腕を強く掴んだ。「お前は狂ったのか!自分が渉さんに何を言ったか分かっているのか!もしあいつが空さんのところに行って問い詰めたら、二宮家は終わりなんだぞ!」明里は、掴まれた腕の痛みに顔をしかめた。しかし、吐き出した言葉は、もう取り返しがきかない。彼女は痛む腕を強引に振り払い、怒りの目を向けた。「だったらどうするの?黒崎家が凪を甘やかしているのは明らかよ。もし渉さんが代わりに引き締めてくれなきゃ、彼女は黒崎家の権力をバックにのさばる一方じゃない!それに、渉さんと空さんは反りが合わない。二人が争って、凪がその板挟みになれば、私たちは扱いやすくなる。あなたの思うツボじゃない?」確かにその通りだ。だが、大地はこのことが大きくなって黒崎家の耳に入り、凪が追い出されたらすべてが水の泡になることを恐れていた。そう思うと、彼は激しく首を振った。「ダメだ!もし黒崎家に知られたらどうする。親である俺たちが、娘の元カレをそそのかして結婚をぶち壊そうとしたなんて……」「いつ私たちが渉をそそめかしたって言うの?」明里は大地を遮り、さらに近づいて安心させるように言った。「私たちは、あの二人が昔付き合っていたから、懐かしんで凪に話しかけたと思っただけ。ただ、昔のよしみで彼女を説得してほしかっただけで、他に何も強要はしていないわ。それにね、渉さんは凪と空さんの関係について聞いてこなかった。私たちが言わなかったんじゃない、彼が聞なかったのよ」つまり、知らなかったと言い張れば問題ない。大地は、これで急に気持ちが軽くなった。「確かにそうだな。俺たちが唆したわけじゃないなら、これから先、何が起きようと俺たちには関係ない。それだけじゃない。凪は簡単に黒崎家を追い出されたりしない。元カレの弱みを俺たちが握っておけば、いつでも意のままに操れるんだ」明里もそれに同調して笑った。二人は顔を見合わせた。まさに一石二鳥の妙案だった。……同じ頃、中島グループの支社。秘書の仁が、黒崎グループが手掛けるY市のプロジェクト企画書を渉の前に運んできた。「この企画書は何度か修正されました。大輔さんは、早く私たちの了承をもらってスタートさせたいようです」「急ぐ必要はない」渉はゆっく
何度思い返しても、頭に浮かぶのは凪に拒絶されたことや、冷たく傍観されたことばかりだった。以前の凪だったなら、自分が怒られるのをただ黙って見て、平気な顔をして食事をするなんてあり得なかった。それどころか、すぐに駆け寄って身を挺してかばい、泣きながら大丈夫かと聞いてくれたはずだ。でも今は、そんな気遣いすら一切なかった。そればかりか凪は、せっかく助けてやった後だというのに、他の男の車に乗り込んでいってしまった。そう考えると、渉はどうしても凪を見つけ出して、すべてを問いたださずにはいられなかった。大地は目を細めて渉を見つめ、この男がまだどれほど凪に未練があるのかを探っていた。すると隣から、明里がすかさず口を挟んできた。「凪は昔から主人のことを敬わなくて、病気だと知っても一度も見舞いに来ないんですよ。中島社長、凪と仲が良いあなたから言ってやってください。いくら不満があっても、主人は実の父親なんです。あの子のことを心から心配していますよ。娘なんですから、いくらなんでも父親が病気のときは、一度顔を見せに来るのが普通ですよね」まずは、どうにかしておびき出せばいい。ここに連れて来れば、あとは大地の思うように説教できるはずだ。明里は心の中でそんな計算を巡らせていた。大地もすかさず相槌を打つ。「こんな出来損ないに育ててしまった俺の責任ですが、中島社長、凪と親しいあなたからも少しは言ってやってくれませんか?」彼はとにかく、凪の態度をねじ伏せる味方が欲しかったのだ。だが渉は、二人の算段に付き合うつもりはなかった。凪はあれほどきっぱりと自分を拒み、これまでの13年間の絆を無視してみせたのだ。自分へのあの態度からすれば、嫌いな父親や気に入らない継母の言うことをおとなしく聞くはずがなかった。凪がいない病院に長居をする理由もなかった。「彼女にも事情があるんでしょう。大地さんの容体も無事なようですから、俺はこれで失礼します」「待ちなさい!」大地は急いで引き留め、伺うように声を低くした。「中島社長、教えてほしいです。あなたは凪に対して、どのようなつもりなんですか?よりを戻したいのか、それとも……」渉はピタッと足を止めた。「別れるつもりはありません」「えっ!?」大地と明里は揃って声を上げ、きょとんとした
葵はその場に立ち尽くし、顔をこわばらせていた。一方、隆は凪を連れて特別席に座ると、後ろからどよめきが起こった。「本当に西村さんと一緒に前の席に座ったわ。彼女が黒崎夫人に間違いないわ!」「なによこのパーティー!特別席はほんの少しだけで、私たちをわざと立たせてるのかしら?」「なに言ってんのよ。前の席に座れる人たちは、私たちとは住む世界が違うの。後ろに立たせて顔を見せてくれるだけでも、ありがたいと思わなきゃ」葵も、その人たちと一緒に後列に立っていた。それにひきかえ、凪は、堂々と最前列に座っている。どうして。同じ父親を持つのに、どうして凪だけがいい思いをするの。葵は
凪は少し話し疲れたので、その場を離れることにした。空になったグラスをウェイターのトレイに置き、新しいグラスは手に取らなかった。手ぶらでいるのは、もう誰とも話すつもりはないという意思表示だった。どこか隅のほうで休もうとした、その時、突然、大輔が現れて行く手を阻み、赤ワインのグラスを彼女の前に差し出した。「俺は黒崎大輔です。よかったら、少しお話ししませんか?」「少し、休みたいですが」凪は相変わらず声のトーンを落としたまま、なんとか大輔をあしらおうとした。彼女は以前から、大輔の自分を見る目つきが、どうも気になっていた。今、彼は片手をポケットに突っ込み、ニヤニヤしながら
渉は眉間にしわを寄せた。「ただの染みで、たいしたことじゃないです」「弁償します」凪の声は低く、落ち着いていた。もとの彼女の声とは、ほとんど分からないくらいだった。それはそれ、これはこれだ。渉に恨みはあるけれど、弁償すべきものに対して借りを作る気はなかった。「いや、大丈夫です。楽しんでください」渉はそう言うと、直美を連れてその場を去った。スマホを取り出そうとした凪は、その動きを止め、ぽつりとつぶやいた。「まあ、お金が浮いたと思えばいいか」彼女は向きを変え、シャンパンを手に取った。すると、背後から見知らぬ男が近づいてきた。「すみません、後で俺と一曲踊っていた
悠斗は眉をひそめ、調査の指示をした。秘書が息を切らしながら走って戻ってきた。「K市の不動産ですが、渉様と山下さんが一緒に住んでおられるようです」「あいつが、あの女に家を買い与えただと?」悠斗はカッとなって怒りを爆発させた。直美という女を思うと、声が荒くなった。「直美とああいう関係なのに、渉は、出張を口実にK市へ行き、あの女のために私用を済ませるなんて!女のために私用を済ますだけならまだしも、黒崎家を敵に回すとは何事だ!すぐに黒崎家の機嫌を取らせろと、彼に伝えろ!今すぐだ!」言い終えると、悠斗は激しく咳き込み、病院に運ばれそうになった。だから、誰がこの情報を知らせてきたの