LOGIN十歳の頃から、二宮凪(にのみや なぎ)の傍にはいつも中島渉(なかじま わたる)がいた。 彼女の青春時代の想いも、結婚への憧れも、そのすべては渉に向けられていた。 たとえ渉が他の女のために凪を蔑ろにし、傷つけても、凪はいつか渉と結ばれて幸せになれると信じて疑わなかったのだ。 しかし、結婚式の前夜、その信頼は脆くも崩れ去った。渉は別の女を抱き、二人の新居で夜を明かしたのだ。 この裏切りによって、凪はついに自分の幻想から目を覚ました。 彼女は渉との連絡を一切断ち、長年離れていた鬼の棲家――実家へと戻る。 そして、子供を授かりにくい体質の黒崎家の三男と電撃結婚を果たした。 自分を傷つけた者たちを、一人残らず見返した。 凪は、母が遺したものを一つずつ着実に取り戻し始めた。 さらには、狂ったように復縁を迫る渉を冷酷に突き放したのだった。 だがある夜、夫である黒崎家の三男にベッドに押し倒され、凪は衝撃の事実に気づいてしまう。 互いの利益のための、愛のない契約結婚だと思っていたこの関係が、まさか、この男による十五年にも及ぶ、ただひたすらな想いの果てに仕組まれたものだったとは。
View Moreその一言で、リビングのざわめきはぴたりと収まった。……黒崎グループの本社ビルは、恒業グループの数倍もの大きさだった。午後四時。凪は最上階の社長室に立っていた。彼女の結婚相手は、黒崎家の三男。夜の生活に問題があると噂されている彼は、デスクで書類に目を通していた。渉の鋭さとは違い、目の前の男はとても穏やかな雰囲気をまとっていた。床までの大きな窓から差し込む光に包まれ、少しも威圧感を感じさせない。色白な肌が、その顔をいっそう際立たせている。すっと通った鼻筋の下で、輪郭のはっきりした唇が健康的なピンク色をしていた。凪の視線があまりに熱っぽかったからだろうか。男はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、彼の穏やかで人当たりの良さそうな雰囲気は、がらりと変わった。その瞳の奥から、言い知れぬ威圧感が放たれる。凪は思わず息を飲んだ。そして気づいた。あれは穏やかさなんかじゃない。何もかもに無関心なだけなのだと。「君は葵さんじゃないな」低く、魅力的な声が響いた。凪ははっと我に返ると、臆することなく背筋を伸ばした。「はい。二宮凪と申します。あなたと結婚しに来ました」空の目に、一瞬奇妙な光が宿った。目の前の美しい女性の姿が、十五年前の記憶の中の、あの少女とゆっくりと重なった。相変わらず強情で奔放そうだったが、幸せそうではなかった。彼は手の中のファイルを閉じると、低い声で言った。「結婚直前で相手を変えるだと?俺がそれを飲むとでも?」凪ははっきりと答えた。「葵が、あなたを嫌がったからです」ドアの前でノックして報告しようとしていた秘書の西村隆(にしむら たかし)は、その場で固まってしまった。二宮家は死にたいのか。よくもそんなことが言えるね。空は、世間の噂など気にも留めていなかった。ただ、軽く眉を上げただけだった。「君は嫌じゃないのか?」凪は笑みを浮かべると、正直に答えた。「お互い、利益のための結婚でしょう?恋愛感情は抜きなんですから、私が嫌がる理由なんてありません」恋愛感情、か。空は、無意識に指を丸めた。Y市にいるあの男が、凪の言った「恋愛感情」の相手なのか?彼女が幸せそうに見えないのも、あの男のせいか?空は三十秒ほど凪をじっと見つめた。その黒い瞳の奥には激しい感情が渦巻い
親戚たちは、皆首を横に振った。「長年、外で好き勝手にやってきたから、わがままになっちゃったみたいね。このまま嫁に出せば、二宮家の恥さらしだ」「誰かにつけて、しっかりとしつけ直すしかないな。しっかり躾ければ大人しくなる」「大地、黒崎家はK市一の富豪で、資産は数千億円を超えている。二宮家がさらに上の地位へ行けるかどうかは、全てこの縁談にかかっているのだ。黒崎家の御曹司に気に入られろとは言わない。だが、問題だけは起こさせんでくれ」大地の顔は、ひどく暗かった。「凪ちゃん、いい加減にしろ!早くこちらに来て、皆さんにご挨拶しろ」凪はスーツケースを引いて、彼らに歩み寄った。その視線は大地を通り越し、穏やかそうな顔つきの老人たちへと注がれた。二宮家のルーツはK市にある。先祖は名家だった。しかし残念なことに、子孫は無能で、その家業を受け継ぐことはできず、古臭いしきたりばかりが山のように残った。名家を自称し、凪の母親が孤児であることを見下していた。結婚式さえ挙げさせなかった。しかし、今ある二宮グループを築き上げたのは、他ならぬ自分の母の手腕によるものだ。昔、大地が明里と葵を二宮家に連れてきた時、凪はグループの取締役会にいる二宮家の親戚に助けを求めた。でも、彼らはこう言ったんだ。「お父さんほどの地位になれば、愛人の一人や二人、当たり前だ」なんて恥知らずなやつたち。「私が黒崎家に嫁いだら二宮家の恥になると思うなら、この縁談は葵に譲ります。それに、私は二宮グループに何の貢献もしてないとか、お母さんを二宮家から籍を抜けとか、言いましたよね?だから、親孝行だと思って、明日から二宮グループに出社します!」その言葉に、親戚の老人たちは返す言葉もなくなった。大地は怒りで顔を真っ青にしながらも、その感情を必死に抑えていた。「凪ちゃん、何を言ってるんだ。君はお父さんの長女だ。葵に君の縁談を奪わせるわけないだろう」「ふん!」凪は鼻で笑った。「K市に戻ることは滅多になかったけど、私だって黒崎家の三男さんの噂くらいは知ってるわ。可愛い葵を、子供のできない黒崎さんに嫁がせて、一生を台無しにしたくないだけでしょ?私の前で優しい父親のフリをするのはやめてくれる?」大地は、鋭く目を細めた。黒崎家の三男・黒崎空(くろさき そら)が子供
二時間半後、凪はK市の空港を出て、二宮家の車に乗り込んだ。その時、渉からメッセージがきた。【どこにいるんだ?なんでホテルに戻らない?先に役所に行ってて。俺もすぐ着く】凪は嘲るように口元を歪めた。そして、渉の連絡先を全てブロックした。しばらく待ったが、凪からの返事はなかった。渉は、眉をぐっとひそめた。いつもなら、すぐに返事がくるのに。最近、ますます気難しくなったな。彼は直接電話をかけたが、聞こえてきた機械的なアナウンスに思わず固まってしまった。以前も凪にブロックされたことはあった。だが、それはまだ二人がラブラブだった頃の話だ。恋人同士の痴話喧嘩の後、構ってほしくて拗ねてブロックする……そんな可愛げのあるじゃれ合いの一種だったのだ。今は直美がまだ意識不明なのに、機嫌をとっている余裕なんてない。スマホをポケットに押し込むと、渉はもう気にも留めなかった。せいぜい二日もすれば、凪の方からまた連絡してくるだろう。……K市、二宮家。凪の父親である大地は盛大な歓迎会を用意していた。身内だけだったが、二宮家の年長者たちが集まっていた。横山明里(よこやま あかり)は自ら玄関に立ち、凪を出迎えた。その佇まいは上品で、顔には優しい表情を浮かべている。意地悪な素振りは微塵も感じさせない。でも、この女こそが、母の初七日も済まないうちに、自分をプールに突き落とした張本人なのだ。自分は三日も高熱にうなされ、もう少しで死ぬところだった。「凪ちゃん、やっと帰ってきたのね。長いこと家を離れて、お父さんも私も、あなたのことをずっと心配してたのよ」そう言いながら、明里は凪のスーツケースを受け取ろうと手を伸ばした。凪はさっと身をかわした。「そんなに親しげに呼ばないで。あなたと親しくないから」凪はそう言い捨てると、まっすぐ家の中へ入っていった。明里の顔から笑顔が消え、表情がこわばった。彼女の二歩後ろに立っていた二宮葵(にのみや あおい)は、軽蔑したような顔つきだった。「本当に二宮家のお嬢様だとでも思ってるのかしら。随分と偉そうな態度じゃない」ちょうど葵の横を通り過ぎるところだった凪は、ぴたりと足を止め、氷のように冷たい視線を向けた。自分が高熱で死にそうになっている時に、この腹違いの妹が針で太ももを何度
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、逆に少し可笑しく思えてきた。メッセージを送りつけてはしゃいでいる直美が、まるで哀れなピエロのように思えた。凪は一度も返信せず、ただ後々のために、静かにスクリーンショットを保存した。……やがて月曜日になった。凪が買ったのは、午前11時半の飛行機のチケットだ。彼女は朝早くに起きて荷物をまとめ、朝食をとるために部屋を出ようとした。その時、渉がスペアキーでドアを開けて入ってきた。パリッとしたスーツを着こなしていたけれど、彼の表情はあまり良くなかった。凪はとっさにスーツケースを背後に隠し、一瞬、心が乱れた。彼女が渉のそばを離れることなど、今までほとんどなかったのだ。以前、二人が喧嘩をした後、酔っ払った渉が凪の手を掴んで言ったことがある。「もし俺から離れようとしたら、家に閉じ込めてやる。一生、誰にも会わせない」と。あの頃は、どんなにおかしい言葉でさえ、凪には甘く感じられた。愛していたから。でも今は、ただ嫌悪感しか残っていなかった。渉はしばらく凪をじっと見つめていた。この二日間、彼はずっとイライラを溜め込んでいた。なのに凪から連絡がなかったことで、渉は抑えきれない焦りを感じていたのだ。今、彼女が部屋でおとなしく待っているのを見て、重苦しかった胸が少し軽くなった。「荷物は置いていけ。後で仁に取りに来させる。さあ、行くぞ、婚姻届を出しに」かつてあれほど強く望んでいたことなのに、今はもう心に何の波も立たなかった。凪はリュックを背負い直し、差し出された渉の綺麗な手を見つめた。「急がないで。その前に、ちょっと付き合ってほし