ログイン十歳の頃から、二宮凪(にのみや なぎ)の傍にはいつも中島渉(なかじま わたる)がいた。 彼女の青春時代の想いも、結婚への憧れも、そのすべては渉に向けられていた。 たとえ渉が他の女のために凪を蔑ろにし、傷つけても、凪はいつか渉と結ばれて幸せになれると信じて疑わなかったのだ。 しかし、結婚式の前夜、その信頼は脆くも崩れ去った。渉は別の女を抱き、二人の新居で夜を明かしたのだ。 この裏切りによって、凪はついに自分の幻想から目を覚ました。 彼女は渉との連絡を一切断ち、長年離れていた鬼の棲家――実家へと戻る。 そして、子供を授かりにくい体質の黒崎家の三男と電撃結婚を果たした。 自分を傷つけた者たちを、一人残らず見返した。 凪は、母が遺したものを一つずつ着実に取り戻し始めた。 さらには、狂ったように復縁を迫る渉を冷酷に突き放したのだった。 だがある夜、夫である黒崎家の三男にベッドに押し倒され、凪は衝撃の事実に気づいてしまう。 互いの利益のための、愛のない契約結婚だと思っていたこの関係が、まさか、この男による十五年にも及ぶ、ただひたすらな想いの果てに仕組まれたものだったとは。
もっと見る直美は、代表である琴音にではなく、なぜか凪に問いかけた。まるで、凪が裏で糸を引いたせいで自分が拒絶されたのだと言いたげな様子だった。凪は焦る様子もなく、ゆっくりと直美の方へ歩み寄った。「私一人にルナオーケストラのメンバー選定を覆す権限があると思ってるの?それに、さっきの演奏を聴いて、まだ自分に十分な実力があると思っているの?」隣にいた琴音が、思わずぷっと吹き出した。「凪の言う通りです。うちはメンバーを募集しているけれど、そこの直美さんは採用するつもりはありませんから」みるみるうちに青ざめていった直美だったが、渉が隣にいる手前、その場で食ってかかることもできず、ただ声を詰まらせて泣きながら、渉の手をギュッと握りしめた。「やっぱり、私みたいに育ちが悪い人間じゃ、幼い頃から音楽に囲まれて暮らしてきたお嬢様には敵わないんだね……渉、もう行こう。私の夢なんて、大したことじゃないんだから……」そう言うと、直美は目元に手を当てて涙を拭った。あまりにかわいそうな様子だった。琴音はこうしたあざとい態度が何より嫌いなので、あからさまに軽蔑の視線を向けた。渉も、凪がこれほどはっきりと、直美にはオーケストラに入る資格がないと突き放すとは思っていなかった。しかし、どうしても直美の願いを叶えてやりたかったのだ。「いくら払えば、オーケストラに入れますか?」「お金ですって?」琴音は唖然とし、凪と顔を見合わせると、人差し指を一本立てた。「ルナオーケストラに入るなら、一枠につき、20億円です」渉の瞳に、驚きの色がかすめて通り過ぎた。直美も、驚きに目を大きく見開いた。高すぎる……しかし、もしルナオーケストラに入ることさえできれば、中島家の人たちも自分のことを「田舎者」呼ばわりできなくなるはずだった。渉がすぐにそれほどの大金を用意できないと知っていた直美は、唇を引き結び、泣くのを堪えるようにしながら凪に向かって謝罪した。「凪さん、これまでのことは全て私が悪かった。凪さんやお友達に謝るわ。だからお願い、渉さんにそんなにふっかけて、お金を要求するのはやめてもらえない?」琴音の顔にはありありと嫌悪感が浮かんだ。さっきまで高飛車だったのに、高額な要求をされた途端にヘコヘコするなんて。その、態度が変わるのが早
凪は琴音の視線に気づくと、まもなく終わろうとしている楽譜へ目を戻した。ピアノを担当する自分のパートは、もうこれで終わる。ここからは、低音部バイオリンの出番だ。最後の一音まで、完璧に音を乗せると、怪訝そうに見つめる周囲をよそに、凪はドレスの裾を少し持ち上げると、急いで低音バイオリンの席へと移動した。「うそ!」「あの人、ピアノじゃなかった?なんでバイオリンを持ってるの?」「しー、静かに。ルナさんのオーケストラだからね、すごい人ばっかりだよ。おとなしく聴いていよう」観客席のあちこちから、小さなざわめきが起こった。だが、凪の優雅なバイオリンの音が響いた瞬間、会場は一気に静かになった。完璧だ。渉の頭の中に、その一言がはっきりと浮かんだ。聞き慣れた曲なのに、一つひとつの転調も音色も、不思議と胸を打つような輝きに満ちている。「私だって、いつかあそこの真ん中に立ってやるんだから」直美の声が、場違いなノイズのように、余韻を不意に壊した。渉はうっすらと眉をひそめた。直美の余計な感想などに邪魔されず、静かに演奏を最後まで味わいたかった。凪はそんな様子に気づくこともなく、完全に演奏へ没頭していた。そしてついに、一曲が終わった。静かに目を開けると、同時に会場を揺るがすような拍手が沸き起こり、心臓が高鳴った。琴音に続くように、凪も丁寧にお辞儀をした。仮面で顔は隠せても、少し持ち上がった口元までは隠しきれなかったようだ。舞台の袖に戻ってもなお、今の素晴らしい時間の興奮は、すぐには冷めそうになかった。バイオリンを抱えたまま、凪は琴音に向かって嬉しそうに微笑んだ。「もう最高、久しぶりにあの大歓声をあびられて本当にうれしい!」「凪の演奏、本当に息をのむほど素晴らしかったわ!」琴音は嬉しそうに言いながら、凪を優しく抱きしめた。二人は言葉を交わしながら、喜びを分かち合う。そこへ、大きな花束が届けられた。「こちらは中島様よりお預かりした花束です。後半の素晴らしいバイオリン演奏をとても褒めていらっしゃいました」渉。凪はそっと仮面に触れた。渉が自分の顔に気づいたとは思えない。きっとただ演奏そのものに心惹かれただけだろう。「すみませんが、その辺りに置いておいていただけますか?」やはり
「舞台のど真ん中、これ以上に良い席がある?」琴音は凪の後ろに立ち、シャンパンゴールドのドレスを見つめた。それから、その柔らかい髪に指を這わせた。「少し髪を巻いてみる?」凪が答える前に、琴音はすぐにスタイリストを呼び寄せた。「このままだとシンプルすぎるから、ステージの照明を浴びたら、凪の顔が完全に白飛びしちゃいますよ。せっかくの綺麗なすっぴんを活かすためにも、とびきり素敵に仕上げてくださいね」スタイリストの二人もやる気満々だ。ほんの少しして、ゆっくり姿を現した凪は、肩の髪を少しふんわりとさせ、小さくて可愛いお顔がさらに引き立っていた。メイクによってパーツの美しさがより際立っており、美しい目を細めてふっと笑う姿は、絵画から抜け出してきたようだった。「どうかしら?」「完璧よ!もし凪が表舞台に出る気になってくれたら、私、絶対にトップスターにしてみせるのに」琴音は惜しみない褒め言葉を口にした。一方、凪は顔をそむけて鏡の中の自分を見つめた。これほどしっかりとメイクをして舞台へ向かうのは、本当に久しぶりだった。渉と一緒にいた年月が、まるで色んなことを自分から奪い去っていったようだった。バイオリンを弾くときの、あの耳に残る微かな震え、ピアノの鍵盤を指先でしっかりと弾いたときの、美しい音の余韻。だが今、ステージ用のドレスを纏うことで、かつての感覚がじわじわと体へ戻ってきた。それがむしろ、心をほっとさせた。「それと、言われていた仮面も準備してあるわ」琴音は凪に仮面を手渡した。凪は小さくお礼を言い、顔を覆い隠した。琴音に導かれ、薄暗いバックステージを抜けてスポットライトのあたるステージへと上がる。明かりに照らされた場所に腰を下ろすと……すべてが昔のままだった。「いたたた……お腹が急に痛くなってきて」すぐ横のほうから小さなささやき声が聞こえた。凪がそちらへ視線を向けると、低音バイオリンを担当していた人が苦しそうな顔をしていた。「後半からが必要なパートね。先に抜けてて、後からこっそり戻ってきなさい……」琴音は冷静にテキパキと指示を出した。オーケストラのみんなも、特にそんなことを気にも留めなかった。そして、ゆっくりと幕が上がった。楽器たちの音が、優しく会場を包み込んでいく。凪がふっと客席
凪はキーボードを叩く手を止めた。「今夜、オーケストラがホテルで演奏するんだけど、ピアニストにちょっとトラブルがあって。出られなくなっちゃったのよ。K市には来たばかりだから頼める人がいなくて。代わりにピアノを弾いてくれない?」「でも、ピアノはあまり得意じゃないよ」本当に得意なのは、バイオリンのほうだった。凪は少し躊躇していた。だが、琴音は泣きそうだった。本格的なクラシックのステージではないし、とにかく約束を守って舞台に立つことが先決だという。でないと多額の違約金も発生する。信用を失うのが何より問題だった。凪は、プロジェクトの入札の期日を確認した。時間のゆとりは十分にありそうだった。「場所を教えて」「ありがとう!明日、お礼においしいものおごるね!」琴音は声を弾ませた。すぐに現場の調整を進め、曲の譜面を凪のスマホに送ってきた。自宅にピアノがないので、凪は、人目を気にせずに静かに練習できる近所のレンタルピアノルームに行くことにした。……ホテルの入り口はひっきりなしに招待客が行き交い、高級車がぎっしり並んでいた。琴音のオーケストラは非常に有名だ。世界的にも高い評価を受けていた。今回は、国内に戻って急きょ催されたものだった。だから客席は、K市の芸術家や名だたる資産家たちばかりだ。練習を終えると、凪はそのままホテルへと向かった。タクシーを降りると、すぐさま、見慣れた二人の姿を認めた。直美が渉の腕をしっかりと引き寄せていた。「ルナさんのオーケストラにはね、私ずっと憧れてて、一度バックステージに行ってみたいの。ねえ、渉さん、代表に知り合いがいるなら、取り持ってくれない?」言葉が終わらないうちに、直美はそばを通る凪に気づいた。なんて地味な格好。直美は自分の華麗な紫のロングドレスを見やり、得意そうに顔を上げた。「今日はルナオーケストラの演奏会だって知ってるの?どうしてそんな古臭い格好をしてるのかしら。衣装を買う余裕もないの?それとも、有名なオーケストラに恥をかかせにきたのかしら?渉、今から凪さんのための服を見つけてあげよう。三人で一緒に聴きましょうよ」凪は足を止めた。二人の相手をするのすら無駄な時間だけど、こうして直美がわざわざ突っかかってくるのなら放置はできない。凪はゆっくり振り
今回は文章はなく、写真だけだった。それは、眠っている渉の写真だった。男は後ろから直美を抱きしめ、腕の中にすっぽりと収めて、深く眠っていた。直美は恥じらうような笑顔を浮かべている。唇は腫れあがり、開いたネグリジェの襟元からは、キスマークがいくつも見えていた。昨夜、何があったかは言うまでもない。凪と渉は五年付き合って、一番深い関係には一度もならなかった。付き合い始めの頃、気持ちが抑えきれない渉は、凪を強く抱きしめてこう言った。「凪ちゃん、早く大人になって……」その後、渉はもうそんな風に凪を抱きしめることはなく、ただ、結婚してからにしようと、なだめるだけだった。凪はず
二宮凪(にのみや なぎ)はシルクのネグリジェを身にまとい、大きな窓の前に立っていた。外に広がる街の灯りをしばらく眺めた後、スマホを取り出して実家に電話をかけた。「例の縁談、受けるわ」電話の向こうは一瞬沈黙したが、すぐに凪の父親である二宮大地(にのみや だいち)の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「凪ちゃん、いつ帰ってくるんだ?父さんが迎えに行くからな」久しく呼ばれていなかったその呼び方に、凪は思わず鼻の奥がツンとなった。「来週の月曜」それだけ言うと、凪は電話を切った。母が亡くなった途端、この男は待ちきれないとばかりに、愛人と娘を家に連れ戻ってきた。あの二人を憎
忍はソファに深く腰掛け、目を伏せていた。その表情から感情は読み取れない。彼は、休んでいるようだった。凪は思わず足音を殺した。彼女が近づくと、忍は気配を察したように目を開けた。その深い瞳が、ゆっくりと凪に向けられる。「凪、怪我はなかったか?」「え?」凪は驚いた。忍に、目上の人に対して失礼だったと叱られると思っていたからだ。まさか、まず自分の心配だとは思ってもみなかった。凪が驚いているのを見て、忍の眼差しは和らいだ。「君が君のお父さんを怒らせて病院送りにしたとは聞いた。だが、事の経緯もちゃんと聞いているよ。君のお父さんが客人を招いたのは、彼の判断だ。それ
夕暮れどき、二宮家。凪は、夕日に照らされながら家路についた。玄関のドアを開けると、ソファに一人で座っている男が目に入った。渉はワイシャツにスラックス姿で、袖をまくり上げていた。そこからのぞくたくましい腕には、金の腕時計が光っている。彼は黙って凪のことを見ていた。窓から差し込む赤い夕日が、床に長い影を落とし、まるで二人を別々の世界に分断しているかのようだった。静寂が部屋を支配していた。大地が間に入り、凪をなだめるように優しく上着を受け取って、ハンガーにかけた。凪は父親のいつもと違う様子に、ポケットに片手を突っ込んだ。そして大地は、服をかけるふりをしながら、小さな声
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