性悪婚約者に見世物にされた私を連れ去ったのは、黒い噂の財閥会長でした

性悪婚約者に見世物にされた私を連れ去ったのは、黒い噂の財閥会長でした

last updateLast Updated : 2026-07-31
By:  東雲桃矢Updated just now
Language: Japanese
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高級ブランドデザイナーの百合は、仕事で成功している上に、政略結婚予定の婚約者・矢絃とも順調に愛を育んでいた。お腹の中には彼との赤ちゃんもいて順風満帆。 そんな幸せを壊したのは、送り主不明の手紙。封筒の中には愛する矢絃が、女性とラブホテルに出入りしたり、キスしたりしている写真。ショックで倒れ、流産してしまう。 そんな百合に追い打ちを書けるように暴言を浴びせる矢絃。百合は別れを切り出したが、弱みを握られているため、矢絃に従うしかない。 矢絃の命令で晩餐会に出席すると、見世物にされてしまう。そんな百合を会場から連れ出したのは、裏社会との繋がりを噂されている財閥会長で……!?

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Chapter 1

1話

 平日の昼下がり。スーツを着こなした女性が、長い黒髪をなびかせながら高級住宅街を歩く。彼女の名は宝生百合。有名ブランドのデザイナーとして成功した上に、大企業の副社長という肩書をもつ優しくて顔のいい婚約者がいる。

 セレブが多いこの高級住宅街の住人に身近な成功者を聞いたら、多くの人が彼女の名前をあげるだろう。百合は元々、高級住宅街に住めるような身分ではない。富裕層とは縁のない一般家庭で産まれ、物心付く前から、母とふたり暮らしをしていた。

 熊谷矢絃《くまがいやいと》という肩書も顔も完璧な男と婚約し、高級住宅街に住むようになった。彼とは政略結婚の予定ではあるが、矢絃は百合を大事にしてくれている。最近妊娠が発覚すると、少し鬱陶しく感じるほど過保護になった。

 誰もが百合を、「シンデレラのようだ」と羨ましがった。そんな百合が昼下がりに自宅に向かっている理由は、よくある話だ。仕事で急遽別の資料が必要になり、その資料を取りに帰路を歩いている。

 豪邸に着くと、百合はポストを確認する。昔から帰宅したらポストを見るのがクセなのだ。

「あら?」

 時間的にまだ何も入っていないだろうと思っていたが、1通の手紙が入っていた。不思議に思いながらも手紙を手に取る。どうやら百合宛のようだが、封筒に書かれているのは百合の名前のみで、送り主の住所や名前も書かれていなければ、切手も貼られていない。どうやら誰かが、直接ポストに入れたようだ。

「何かしら?」

 手紙の割には少し重さがある。それに、少し固い。入っているのは便箋の類ではないらしい。

 気になってその場で開封してみると、裏返しの写真が何枚か入っている。

(誰かが自分でデザインしたものでも入れたのかしら?)

 天才デザイナーと呼ばれるようになった頃から、デザイナー志望の人間が自分でデザインしたバッグや財布などのサンプルやラフ画、写真を送ってくるようになった。大半が百合がいる会社か、商品を取り扱っている店舗に送られてくる。

 自宅に送られてきたのは初めてだが、交流をしてみると、デザイナーや芸術家を夢見ていた女性がそれなりにいる。きっと彼女達の中の誰かがポストに忍ばせたのだろう。

 写真をめくり、頭が真っ白になった。そこに写っていたのは作品の写真ではなく、矢絃だった。写真の中の矢絃は、金草マキという女性と腕を組み、ラブホテルに入っていく。

 金草マキは社長令嬢で、芸術大学時代の同級生だ。自分が1番でないと気がすまないマキは、いつも教授に褒められ、特別講師として来た現役デザイナーにも認められる百合を毛嫌いし、嫌がらせをしてきた。

 大学を出て会うこともないと思ったが、矢絃と交際して社交界に顔を出すようになると、そこで再会し、会う度に嫌味を言ってきたり、足を踏んできたりする。挙句の果てにはこけたふりをして、食べ物や飲み物を百合にかけてきたりもした。

 それだけでは飽き足らず、人気ブロガーでもあるマキは、ブランド品辛口レビューブログで、百合がデザインした商品を貶したり、パクリだと書いたりしている。

 矢絃はふたりの因縁を理解し、百合の味方だと言ってくれた。実際、会場でマキを見つけると、遭遇しないように離れたところへエスコートしてくれたりもした。

「なんで? どうして?」

 見たくないと思っても、写真をめくる手が止まらない。写真はどれも残酷な不貞行為を写している。路地裏や居酒屋でキスしている写真や、社内の会議室や休憩室などで性行為をしている写真もあった。

(なんで、よりによってマキとなんて……)

「ぐうっ!」

 ショックで真っ白になった百合を現実に引き戻したのは、尋常ではないほどの腹痛。手から滑り落ちた写真は地面に落ち、その上に倒れ込んでしまった。

「い、いたっ……。ああっ!」

「ちょっと、大丈夫!?」

 痛みに悶絶していると、買い物で通りかかった中年女性が買い物袋を投げ出して百合の元に駆け寄る。

「お腹が、赤ちゃんが……!」

「子供がいるの!? 待ってて、すぐ救急車呼ぶから!」

 女性はカバンからスマホを出し、救急車を呼ぶと、投げ出した買い物袋からミネラルウォーターを出す。

「飲めそうなら飲んで。大丈夫、救急車すぐに来るからね!」

 女性は救急車が来るまで、百合のそばにいてくれた。

(矢絃さん、どうして……。よりによって、マキとだなんて……)

 脳裏によぎるのは、先程見た写真の数々。救急隊員の呼びかけには上の空で、絶望しながら病院に搬送される。

 大学病院に運ばれると、治療を施され、病室のベッドに運ばれる。頭の中は不貞行為のことでいっぱいで、どんな治療を施されたのかはほとんど記憶にない。

 無気力で天井を見つめていると、医師が入ってきた。

「残念ながら、流産です……」

「そんな……!」

 百合にとって、お腹の中の赤ちゃんは希望だった。その希望が絶たれ、ショックで過呼吸になる。医師は看護師を呼び、吸入器を使って呼吸を落ち着かせてくれる。

「しばらく、安静にしていてください。なにかあったら、ナースコールを押してくださいね」

 医師はそれだけ言うと、病室から出ていった。

(赤ちゃんが、もういない……)

 流産という言葉と事実が、百合に重くのしかかる。受け入れられずに、動くことすらできない。

 廊下からガシャン! と派手な物音が聞こえ、我に返る。

「もう、気をつけなさいよ」

「すいません」

 新人がやらかしたと想起させる会話が聞こえてくる。

「連絡、しなきゃ……」

 サイドテーブルに置いてあったスマホを手に取ると、矢絃に電話をかける。彼はすぐに電話に出た。

「もしもし、百合? こんな時間にかけてくるなんて珍しいね。どうしたんだい?」

 いつもの優しい声は、今では凶器でしかない。この声でマキにも愛を囁いていたと思うと、胸が張り裂けてしまいそうだ。

「矢絃さん、私、私……!」

「百合? 落ち着いて。何があった? 今、どこにいる?」

「大学病院に……」

「なんだって? 赤ちゃんは、無事なのか?」

 赤ちゃんという言葉に、息が詰まる。流産を伝えたら、彼はどんな反応をするのだろう?

(怖い……)

 それでも、伝えなくてはいけないと分かっていた。不貞行為を問い詰めるためにも……。

「私、流産したの……」

「情けない女だ」

 返ってきたのは嘲笑うような声。その声に怒りが込み上げてくる。

「情けないですって!? 私がどうして流産したと思う!? あなたがマキと不倫してる写真を見たせいで……!」

「写真だと? くだらん。そっちには行ってやる。それまでに冷静になって、本当に悪いのは誰か考えるんだな」

 電話は一方的に切られてしまう。百合はベッドに身を預けた。ただでさえ心も体もボロボロなのに、怒りをぶちまけたせいで余計に悪化したような気がする。

「どうして。こんな……」

 百合は空になった腹部に手を添え、静かに涙を流す。

 30分も経たないうちに、矢絃が来た。彼は病室に入るなり、百合を平手打ちする。

「いっ……! くぅ……!」

 叩かれた頬は、痛みの後にじんわり熱を持つ。

「何が俺とマキのせいだ! お前が弱いから流産したんだろうが! 俺とマキに責任転嫁するな。この恥知らずが」

「なんですって……!」

 暴言を吐き捨てられ、再び怒りがこみ上げる。矢絃の言い分はあまりにも身勝手だ。彼が不貞行為などしなければ、百合は幸せのまま過ごせたし、赤ちゃんを失うこともなかったのだから。

「お前も、お前の母親も、うちに養われている身だ。自分の立場をよくわきまえろ」

 その言葉に、百合は唇を噛みしめる。あの豪邸に住めるのは、彼の言う通り矢絃のおかげではある。押し黙る百合を見て、矢絃は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。怒りが頂点に達した百合は、口を開く。

「あなたと別れる! 婚約解消よ。慰謝料も請求するわ。結婚してなくても、婚約関係にあるなら、請求できるんだから!」

 百合が婚約解消を言い渡しても、矢絃は笑ったまま。

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 平日の昼下がり。スーツを着こなした女性が、長い黒髪をなびかせながら高級住宅街を歩く。彼女の名は宝生百合。有名ブランドのデザイナーとして成功した上に、大企業の副社長という肩書をもつ優しくて顔のいい婚約者がいる。 セレブが多いこの高級住宅街の住人に身近な成功者を聞いたら、多くの人が彼女の名前をあげるだろう。百合は元々、高級住宅街に住めるような身分ではない。富裕層とは縁のない一般家庭で産まれ、物心付く前から、母とふたり暮らしをしていた。 熊谷矢絃《くまがいやいと》という肩書も顔も完璧な男と婚約し、高級住宅街に住むようになった。彼とは政略結婚の予定ではあるが、矢絃は百合を大事にしてくれている。最近妊娠が発覚すると、少し鬱陶しく感じるほど過保護になった。 誰もが百合を、「シンデレラのようだ」と羨ましがった。そんな百合が昼下がりに自宅に向かっている理由は、よくある話だ。仕事で急遽別の資料が必要になり、その資料を取りに帰路を歩いている。 豪邸に着くと、百合はポストを確認する。昔から帰宅したらポストを見るのがクセなのだ。「あら?」 時間的にまだ何も入っていないだろうと思っていたが、1通の手紙が入っていた。不思議に思いながらも手紙を手に取る。どうやら百合宛のようだが、封筒に書かれているのは百合の名前のみで、送り主の住所や名前も書かれていなければ、切手も貼られていない。どうやら誰かが、直接ポストに入れたようだ。「何かしら?」 手紙の割には少し重さがある。それに、少し固い。入っているのは便箋の類ではないらしい。 気になってその場で開封してみると、裏返しの写真が何枚か入っている。(誰かが自分でデザインしたものでも入れたのかしら?) 天才デザイナーと呼ばれるようになった頃から、デザイナー志望の人間が自分でデザインしたバッグや財布などのサンプルやラフ画、写真を送ってくるようになった。大半が百合がいる会社か、商品を取り扱っている店舗に送られてくる。 自宅に送られてきたのは初めてだが、交流をしてみると、デザイナーや芸術家を夢見ていた女性がそれなりにいる。きっと彼女達の中の誰かがポストに忍ばせたのだろう。 写真をめくり、頭が真っ白になった。そこに写っていたのは作品の写真ではなく、矢絃だった。写真の中の矢絃は、金草マキという女性と腕を組み、ラブホテルに入っていく。 金草
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2話
「何がおかしいの? 言っておきますけどね、私ひとりの稼ぎでも、母とやっていけるのよ」 更に言葉を続けるも、矢絃の勝ち誇った顔が崩れることはない。「出て行くだと? お前の母親は終身サービス契約にサインしている。違約すれば8千万だ」「8千万!? どういうこと……!?」 母の藤子は、矢絃が副社長を務める会社で清掃員として働いている。母は常々、「今の生活があるのは熊谷さんのおかげなんだよ」と言っていた。百合はてっきり、母は矢絃が自分を雇ってくれたことに感謝しているのかと思っていた。(そういえば、最近そういう言葉聞かなくなった……)「聞いてなかったのか? お前の母親が、契約書をまともに読まなかった話」 そう言って矢絃は、契約書のコピーを見せる。契約書には、藤子は熊谷の会社で清掃員として働き、家では使用人として働くこと、百合と矢絃を結婚させること。その代わり熊谷は、宝生親子の生活を保証し、父が大事にしていた会社を守ると書かれている。これは百合も知っていることだ。 百合の父・誠二は、藤子の父、つまり、彼の義父が作ったジュエリーブランド・エテルネルを守っていた。だが、誠二が亡くなると、会社を守れる者がいなくなってしまった。社員達は経営の知識を持っていなかったのだ。藤子は専業主婦で働いたことがない。このままではエテルネルは潰れてしまうと危惧していた時に現れたのが矢絃の父親だった。(この人は、母さんが契約書をよく読まなかったって言った……。ということは、なにかあるはず……!) 目を凝らしてよく見ると隅に蟻よりも小さな文字で、無償労働すること、従わなかった場合、違約金8千万円と書いてある。しかも色は見づらい灰色だ。悪意を感じる。 こんな文字、藤子に読めるわけがない。「こんなの詐欺じゃない!」「ちゃんと読まなかったのが悪い。それに、お前との婚約は、公式発表していない。知ってる人間も身内だけだしな」「あなたには、人の心がないの!?」「黙れ。お前には選択肢も拒否権もない。母親がどうなってもいいっていうのなら、話は別だがな」「なんですって?」「来週、晩餐会がある。お前は必ず出席しろ。皆の前で、マキが俺の婚約者だと宣言してやる」「あなたって人は……!」 コピーを持っていた手に力が入り、穴が開く。それでも百合の怒りは収まらない。「出席して、お前も俺に従うと誓
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3話
 晩餐会当日、高級ホテルにあるきらびやかな会場には多くのセレブがいる。百合は暗い気持ちで壁の花を決め込む。 成功したデザイナーとはいえ、セレブの仲間入りを果たしたわけではない。矢絃がいなければ、このような場にはいられないだろう。(こんなところ、願い下げよ) 百合は矢絃から送られてきた日程を伝えるメールを思い出し、心の中で吐き捨てる。メールには日時と会場と、「本来はお前ごときが参加していい場ではない。晩餐会に出られること、感謝するんだな」という一文が添えてあった。 あれから矢絃はマキの家にでも転がり込んでいるのか、帰ってこず、母の藤子と数人の使用人と奇妙な同居生活をしていた。 藤子に契約書のことを聞きたかったが、流産のショックで聞く余裕がなく、仕事に打ち込んでいた。そのせいで藤子と距離が出来てしまった。(はやく終わらないかしら) 腕時計を見るが、時間は会場に着いてから17分しか進んでいない。時間の進みの遅さにイライラしていると、足音が近づいてくる。顔を上げると矢絃とマキが、性格の悪さが滲む顔でこちらに向かって歩いてくる。「あらぁ、ブランドデザイナーのくせに、安っぽいドレス。TPO知らないの?」 マキはそう嘲笑うが、百合が着ているシックなネイビーのドレスは、高級ブランドのものだ。マキが着ているのも高級ブランドではあるが、子供が好むような青みピンクで、フリルが多く、おゆうぎ会にでも着るようなドレスに見える。このドレスはデザイナーの間でも、ネットでも悪い意味で有名だ。 「でっかい園児用」とか「こんなの選ぶ人いるの?」と言われているようなもので、こういった場に着ていくものではない。 ブランド評価ブログをしているマキなら知ってるはずだ。百合の視線に気づいたのか、マキはドヤ顔をしてくるりと回る。「言いたいことは分かるわ。けど、どんなドレスもあわせる小物やメイクで変わるの」 そうは言っても、会場にいる人々は、こんなにフリフリのついたロリータに近いドレスなど着ていない。TPOについてマキに言われるのは心外ではあるが、言い返す気力などない。 黙って視線を少しずらしていると、矢絃が舌打ちした。「お前ごときが無視していい相手じゃないぞ。まぁいい。今日は晴れ舞台だ。お前はそこで見てるといい」 そう言ってふたりは壇上に上がっていく。もう矢絃には愛情も未練も興味
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4話
 百合は秋明のオーラに圧倒され、言われるがままにキスをしてしまう。「あの女、妻夫木さんにキスをしたぞ!」「どういうことなの!?」 会場はどよめき、矢絃とマキは呆然としている。秋明は更に百合を抱き寄せ、人々に振り返る。「この女性は宝生百合といって、最近噂になっている高級ブランドのデザイナーであり、俺の婚約者でもある。そこの副社長のストーカーなどしていない」 秋明の言葉に、会場は更にどよめく。百合は何がなんだか分からず、固まっている。「なんだ、お前は! コイツに何をした!? お前もお前だ! 男だったら誰でもいいのか? このアバズレが!」 顔を真っ赤にして怒った矢絃が、ふたりの間に割って入り、秋明の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らす。「俺に手を出す前に、お前の父親が俺と敵対できるか、先に確かめてこい」「くっ、この……!」 矢絃は悔しそうに睨むも、舌打ちをして手を離す。 場の空気が一気に重く沈み、息苦しくなってきた。「お部屋の用意ができました。こちらへ」 スーツを着た童顔の青年が、この場とはあまりにも不釣り合いな笑顔で話しかけてくる。(だ、誰、この子……。いったい、どうなってるの?)「行くぞ」 秋明は頭の中がハテナでいっぱいの百合の手を掴むと、青年の案内で会場から出る。百合はそのままついていくしかなかった。 静かな廊下を進んでいると、少しずつ冷静さが戻って来る。百合は先導して歩く青年に目を向ける。後ろ姿で顔は見えないが、男性にしては低いように見える。「あ、あの、あなたは? というか、いったい何が……」 思い切って青年に声をかけると、彼は振り返って愛らしい笑顔を見せた。「私は小田巻紫苑《おだまきしおん》と申します。紫苑とお呼びください。詳しいお話は、お部屋でしましょう」「でも……」「お前は大人しく着いてくればいい」 他にも聞きたいことがあるが、秋明のオーラに圧倒されて何も言えなくなってしまった。 黙って紫苑についていくと、エレベーターに乗ることに。エレベーターは途中で止まることなく、最上階まで来た。(この階、スイートルームしかないんじゃ……) 困惑していると、紫苑は1室の鍵を開け、ドアを大きく開いてふたりが入りやすいようにしてくれた。 予想通りスイートルームで、広々とした部屋には高級な調度品が置かれている。「座れ」「は、はい
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5話
 百合は疲れ切った顔で家に帰る。あの後、秋明と情報を共有していて遅くなってしまった。彼は百合が矢絃の家に住んでいると知ると、新しい家を用意するからすぐに出られるようにしろと言っていた。 これは百合にとって嬉しい話だ。1秒でもはやく、この家から出たいと思っている。(色々話したいけど、母さんはもう、寝てるだろうな……) 腕時計を見ると、もう12時になろうとしている。早朝から仕事がある母はきっと寝ているはずだ。(私も、シャワー浴びてはやく寝よう……) 自室に戻ることを考えながら玄関の前に立つと、ドアが開いた。「母さん……!」「おかえり、百合」 パジャマにカーディガンを羽織った母・藤子が玄関を開けて出迎えてくれた。「母さん、起きてたの?」「矢絃さんが、他の子を婚約者として発表するって言ってるのを聞いてしまったの。そんなこと聞いたら、心配で眠れないわ」 藤子は力なく笑う。その笑みが百合の胸を締め付けた。「母さん。私達、近いうちにここを出ることになるわ」「どういうこと?」「詳しい話は、私の部屋でしましょう」 百合は家の中を見回す。寒々しい廊下には誰もいないが、どこで他の使用人達が耳をそばだてているか分かったものではない。「お母さんは先に部屋で待ってるから、お風呂入ってきなさい。着替えも用意してあるから、そのまま行って」「ありがとう、母さん。カバン、お願いね」 百合はカバンを藤子に預けると、浴室に向かった。温かい風呂に入ると、緊張して固まっていた心と体がほぐれていく。気に食わない男の家であることが腹立たしいが、足を伸ばして入れる浴槽が、百合を回復させた。 風呂から出ると、髪をざっと乾かして部屋に戻る。藤子が冷たいお茶を用意して待っててくれた。「喉渇いてるでしょ?」「ありがとう、母さん」 お茶を半分飲み干すと、冷たい液体が胃に落ち、体内が潤っていく感じがする。お茶を注ぎ直してテーブルを挟んで母の向かいに腰を落ち着ける。「実はね……」 百合は藤子に今日の出来事を説明した。矢絃がマキと婚約発表したこと、秋明が2年の契約結婚を持ちかけたこと。そしてその条件で藤子が自由になること。「私、この話に乗ろうと思う」「百合! ダメよ、そんなこと……」「どうして!? このままじゃ母さんは、一生あの人達の言いなりじゃない!」「それでいいの。百合
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6話
 ビルから出ると、リムジンが停まっていた。ボディガードのひとりがドアを開ける。秋明は何食わぬ顔でリムジンに乗ると、困惑しながら立ったままの百合に目を向ける。「何ぼさっと突っ立ってるんだ。はやく乗れ」「え、えぇ……」 おずおずとリムジンに乗り、百合は目を見開く。L字型をした革張りの座席があり、その向かいには小さなバーカウンターを想起させるテーブルがある。小型の冷蔵庫と食器棚もあり、食器棚の中には高そうなグラスが並んでいた。「お前は俺の隣に座るんだ」「分かったわ」 少し距離を作って座ると、秋明はあからさまに不機嫌になる。どうしたらいいか分からずにいると、秋明は距離を詰め、百合の肩に手を回す。「俺の隣に座る時は、この距離だ。いいな?」「え、えぇ……」「なんだ、不満か?」「いえ。ただ、近いな、と……」 秋明と体が密着し、彼の体温が伝わってくる。よく知らない男の体温は、居心地が悪いものだ。「生娘じゃあるまいし、今のうちに慣れておけ。契約書を読む時に再度言うが、公の場では妻として振る舞ってもらう」 契約書という言葉に、矢絃の父が母を縛っていた契約書を思い出し、顔をしかめる。「安心しろ、俺は契約書に妙な小細工をするような狡い男ではない。……だが、警戒心を持つのは悪くない。特に、これからお前が入る世界は、嘘で溢れているからな」 秋明の言葉に身を固くする。はやり、自分はとんでもない世界に飛び込まなければならないようだ。 怯えていると、顎に手を添えられ目を合わされる。オニキスのような黒く力強い瞳に見つめられ、声が出ない。「いいか、今からお前は俺の所有物だ。俺は所有物は大事にする。そう簡単に妙な奴を近づけさせたりしない。だが覚えておけ、守ってやる代わりに演技は最後までやり切れ」「えぇ、もちろんよ。やるからにはしっかりやるつもり」「そうか、期待しているぞ」「ところで、どこに向かっているの?」 外を見ると、リムジンは都会を離れ、寂しいところを走っている。てっきり都内にある彼の豪邸に行くと思っていた百合は、不安になって尋ねる。「この先にうちが所有してる山があって、山頂に別荘がある。目的地はそこだ」「そう……。ひゃっ!?」 不安でうつむくと、首筋を撫でられて妙な声を出してしまう。「いい声を出すじゃないか」 秋明は喉を鳴らすように意地悪く笑う。
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7話
「ごめんなさい、喉が渇いてしまって……」 百合は唾液を飲み込み、再び契約書を声に出して読む。契約内容を簡単にまとめるとこうだ。・秋明は百合と母の藤子の快適で余裕のある生活を保証する・あくまでも契約上の関係で、恋愛対象として見ない・熊谷矢絃をはじめとした敵からふたりを守る・百合は秋明に求められたら、時間や場所を問わず、抱かれる・公の場ではおしどり夫婦として秋明と接する・隠し事は禁止・秋明からの電話はメールには即座に対応すること。すぐに電話に対応できなかった場合は30分以内に折り返すこと・契約期間は2年・契約終了後、秋明は百合に5億と新たな身分を与え、安全に暮らせる場所と職場を提供する「5億って……」「足りないか? いくら欲しい?」「充分過ぎるわ」「なら、サインをしろ」「その前に、ひとつだけ聞かせて」「なんだ?」「どうして私なの? 適任者なら、もっと他にいると思うけど……」 それは契約を持ちかけられた時からずっと抱いていた疑問だ。矢絃との関係は大々的に公表されていない。知っているのは身内と、近所に住む人間くらいだ。大半の人間から見た百合は、天才デザイナーで羨む存在だろう。 だが、秋明からしたら取るに足りない存在なはずだ。彼は途方もない財力と名声を手に入れているのだから。 何より、容姿も完璧で財力のある秋明なら、相手など選び放題なはずだ。わざわざ接点のない百合を指名する意味が分からない。それも、抱えていた問題を解決してまで。「お前は知らなくていい。と、言いたいところだが、お前とは信頼関係を築いておく必要があるか。詳細は話せないが、熊谷家とはちょっとした因縁がある。奴らを調べていたら、お前が出てきた。熊谷矢絃のプライドの高さは、お前も知っているだろう? キープしていた女と、人質にしていた母親を奪ったら面白いと思った。それだけだ」「それだけって……。まさか、あの写真って……!」 百合はポストに入っていた匿名からの写真を思い出す。差出人が秋明だとしたら、辻褄が合う。「さてな。それより、サインをしろ」「分かったわ……」 これ以上聞いても無駄だと悟り、震える手で契約書にサインをする。秋明は契約書を受け取ると、百合の名前を指先でなぞり、満足げな顔をする。「これで正式に、お前は俺のものだ」「そうね……」 秋明は契約書をしまうと
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8話
 秋明は百合の向かいに腰を落ち着かせる。沈黙が耳に痛い。(はぁ、気まずいわ……。だからって、雑談を持ちかけられるような相手でもないし……) ちらりと秋明を見ると、彼は仕事のやり取りでもしているのか、気難しい顔でスマホを見ていた。「お待たせしました」 お茶と大きな封筒を持った紫苑が、執務室に入ってくる。彼はふたりの前にお茶を置き、百合に封筒を手渡した。「宝生様、こちらを」「これは……?」「開けてみろ」 秋明に言われて封筒を開けてみる。中には紙束が入っており、1枚目は百合の会社を中心とした地図だ。会社の周囲にいくつかピンがついており、ピンには手書きでアルファベットがふられている。 2枚目以降は見取り図や家の写真で、右上にアルファベットがある。 今いるような豪邸もあれば、家具付きのマンションや戸建てもある。どれも快適そうではあるが、見取り図を渡された意味が分からない。「これは……」「俺が所有する別荘と、即日で住める家具付き物件をピックアップした。これからお前と同居する。その家と、母親が住む選べ」「なっ!?」 驚きのあまり、言葉が詰まる。契約結婚をするのだから、秋明と一緒に住むことは想定していた。だが、彼の家に転がり込む形になると思っていたため、物件を選ばされるとは思ってもみなかった。(本当に、とんでもない財力を持ってるのね……) 百合は改めて目の前にいる男が只者ではないと実感した。矢絃も相当な金持ちではあるが、規模が違う。「俺としては、お前の母と同居でも構わないが、お前が困るだろう?」 百合の脳裏によぎるのは、先程の契約書。彼と性行為をしなければならない。 矢絃の家に転がり込むようになったのは、妊娠が発覚してから。浮気が発覚するまで紳士的だった矢絃は、性行為をしようとしなかったため、母と同居でも気まずさなどはなかった。 だが、今回は違う。契約内容からして、性行為は断れないだろう。そう考えると、母は違う場所に住んだほうがいい。「本当に、いいの……? こんなに良くしてもらって……」 待遇の良さに恐怖すら芽生えてくる。百合にとって、あまりにも好条件だ。「そういう契約だからな。今決められないというのなら、持ち帰って母親と決めればいい」「ありがとう、そうするわ」 百合は胸を撫で下ろし、資料を封筒にしまう。ことがことなだけに、ひとり
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9話
 秋明は2階へ上がり、最奥の扉を開く。高級ホテルのような寝室だった。(え、もう……?) 抱かれる覚悟はしていたものの、こうも早急に抱かれることになるとは思わなかった。「ぼさっとするな。来い」 不安で立ちすくむと、秋明は苛立たしげに百合の腕を引き、彼女をベッドに押し倒す。(い、言わなきゃ……!) 抱かれる前に、秋明に伝えなくてはならないことがあった。言葉にしようとしても、恐怖で固まって、声を発するのも難しい。「さっそく契約を果たしてもらおうか」 百合の異変に気づいたのか、秋明は訝しげな顔で百合の顔を覗き込む。「何をそんなに怯えている? こういうことも契約のうちだと分かっていただろう?」「そう、だけど……。私……」 ようやく声を出せたが、本当に口にしていいのか不安になる。もしもこのことを言ったら、契約は破棄されてしまうのではないだろうか? そしたら矢絃がまたふたりを捕まえ、好き勝手するかもしれない。そう思うと、ためらってしまう。「なんだ、はっきり言え」「その……。私、流産したばかりで……」 鈍痛を感じ、腹部に手を添える。あの後、流産の苦しみを忘れようと仕事に打ち込んでいたため、まともに病院に行けていなかった。「そういうことは早く言え」 秋明は体を起こし、ため息をつく。(どうしよう、契約を白紙にされてしまったら……)「ごめんなさい……。あの、手と口でなら……」 秋明を引き留めようと必死に考え、出た答えがそれだ。手淫も口淫もそこまで経験があるわけではないが、秋明に捨てられたら終わりだ。手段など選んでいられない。「いい。そこまで飢えていない。だが、そうだな」 いきなり唇を重ねら、目を見開く。「んんっ……!」 舌がぬるりと侵入し、百合の歯列をなぞり、舌をすくい上げて絡めてくる。熱くねっとりした口づけは、百合の思考を溶かしていく。(これダメ……。すごく気持ちいい……) 味わったことのない極上のキスに、目眩がする。百合は無意識に自分からも舌を絡めていた。「これくらいで勘弁してやる」 唇を離され、酸素を取り込む。ぼんやりしていた思考が徐々にクリアになっていく。「どうして……」 百合は潤んだ瞳で秋明を見上げる。契約で上の立場にいるのは秋明だ。百合のことなど気にせず、抱くことも出来ただろう。そうしなかったのが不思議でならない。
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10話
 リムジンには紫苑と百合のふたりだけ。百合は思い切って紫苑に話しかけることにした。「ねぇ、紫苑さんだったかしら?」「紫苑でいいですよ、奥様」「奥様って……」 百合は複雑な気持ちになりながら、ため息をつく。確かに秋明と結婚する予定ではあるが、ふたりの間にあるのは愛ではなく、1枚の契約書だ。そんな結婚で「奥様」と呼ばれても、嬉しくない。「まぁいいわ。慣れないといけないもの。紫苑、あなたから見て妻夫木秋明は、どんな人なの?」「とってもお優しい方ですよ」「優しい? あれが?」 紫苑の斜め上の回答に素っ頓狂な声が出る。紫苑はクスクス笑った。「あはは、そう思うのも無理はないでしょう。あの方は、隙を見せませんから」「隙がどうとかいう問題ではないと思うけど……」 秋明との会話をいくつか思い返してみる。あの横柄で冷酷な態度が苦手だ。とてもではないが、好きになれそうにない。「実は僕も、ある財閥の息子で、妻夫木家とは家族ぐるみの付き合いがあったんですよ」「え、そうなの? 財閥の息子が、どうして使用人まがいのことを?」「僕の家は、財閥と言っても、妻夫木家と比べたらちっぽけだったんですけどね。それでも裕福だし、両親もおだやかな人で、幸せでした。 ただ、お人好し過ぎたというか、財閥の人間にしては警戒心が薄かったというか……。最重要書類を盗まれてしまいまして、そこから信用を失い、失墜しました。少し前まで裕福だったのが、あっという間に極貧生活。 贅沢好きの母は耐えられず蒸発。母を溺愛していた父は発狂して、僕に暴力を振るうようになりました。そんな地獄から救い出してくださったのが、秋明様なのです」 紫苑は凄惨な過去をにこやかに話す。愛らしい笑顔の裏に隠された過去に、心が痛む。だが、最後の1文だけ納得できない。「あの人が?」 どう考えても、秋明が人助けするようには見えない。 鵜呑みにするつもりはまったくないが、矢絃が言っていた「骨までしゃぶり尽くす男」のほうがしっくりくるくらいだ。「えぇ、そうです。あの頃、僕も秋明様も学生でした。それでもうちの異変に気づき、手を差し伸べてくださったのです。おかげで僕は快適な環境で勉強をし、大学まで行かせてもらえました。父も、今は小さなお店を任されているんですよ。 ま、母は別のお金持ちと再婚して幸せにやってるみたいですけどね。
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