LOGIN婚約破棄され居場所を失った私は、冷徹と噂される彼との契約結婚を選んだ。 愛はなく、互いの利害だけで結ばれたはずの関係。 そうして始まったはずの生活だった。 彼の冷たい視線、無関心な態度に心を閉ざしながらも、ふとした瞬間に見せる優しさに、どうしても胸が高鳴ってしまう。 近づけば傷つくと分かっているのに、彼の言葉に救われ、彼の仕草に惹かれていく。 これはただの契約なのか、それとも本物の愛なのか──。 偽りから始まった関係が、やがて甘く危険な恋へと変わっていく。
View More今日は私の誕生日だった。
手の込んだものではないけれど、彼の好きな料理を作ってテーブルに並べていた。 朝は何も言われなかったけれど、誕生日だから早めに仕事を切り上げて帰ってきてくれるはず。 そのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震える。 何気なく画面を覗き込むと、差出人不明のメッセージ通知。 開いてみると、一枚の写真が添付されていた。 「…なにこれ」 そこに写っていたのは、私の婚約者だった。そして彼の隣には、別の名家の令嬢。 ヨットの上で、二人はためらうことなく唇を重ねていた。 指先から力が抜け、スマートフォンを落としそうになる。 頭が真っ白になる。 信じたくない。信じられない。 けれど、写真は残酷なほど鮮明で、私の心を容赦なく切り裂いた。 私は震える手で電話をかける。 「…もしもし」 「もしもし。どちら様でしょうか?」 受話器の向こうから返ってきたのは、聞き慣れない女性の声だった。 私は確かに彼の番号を押したのに。 「……すみません。間違えました」 そう言って、私は慌てて電話を切った。 胸の奥に広がるのは、言いようのない不安と恐怖だった。写真に写っていた光景と、今の女の声が重なり合い、私の心を容赦なく締め付ける。 二年間、私は彼を信じ続けてきた。 「家の事情」や「家族の圧力」と言われて、婚約していることを周りに打ち明けられなくても、私の心が揺らぐことはなかった。 彼を信じることが、私にできる唯一の愛だったから。 それなのに。 夕暮れ時、玄関の扉が乱暴に開く音が響いた。 肩にかけたジャケットを雑にソファへ投げ、私の顔を見ても一言の挨拶すらない。 「…亮介。これ、どういうこと?」 そう言って写真を突きつけると、あっさりと浮気を認めたうえで言い放った。 「あぁ、俺の婚約者だよ」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく凍りついた。 写真の中の光景はただの誤解であってほしいと願っていたのに、彼自身の口から肯定されることで、希望は無惨に打ち砕かれる。 私の存在は、彼にとって婚約者ではなかったのだと突きつけられ、足元の世界が崩れていく感覚に襲われる。 「婚約者…?じゃあ私は?」 自分でも情けないほど弱々しい問いかけだった。けれど、聞かずにはいられなかった。 二年間、彼を信じて待ち続けた私の立場は何だったのか。 「仕方ないだろ。親が勝手に結婚相手を決めたんだから」 仕方ない。その一言で、私との二年間を切り捨てるのか。 彼にとっては、親の決定がすべてで、私との時間はただの余白に過ぎなかったのだろう。 「どうして……私じゃだめなの?」 涙に濡れた声で問い詰めると、彼は冷酷に私の頬を打った。 「まさか、本気で俺と結婚できると思っていたのか?何もないお前が、俺と…?はっ。身の程知らずにも程がある」 頬の痛みよりも、心の奥に突き刺さるその言葉が、私を深い絶望へと突き落とした。 二年間、信じて待ち続けた日々が一瞬で嘲笑に変わった。 涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら、私は自分に問いかける。 「……じゃあ、私との二年間は何だったの?」 胸の奥から言葉がこぼれ落ちる。 医療研究の仕事に苦しんでいたあの頃、彼は優しく囁いた。 "仕事なんて無理して続けなくていい。それより、ずっと俺のそばにいてよ" あのときは、私を思っての言葉だと信じていた。 でも、それは愛からの言葉じゃなかった。 気づけば、仕事も居場所も失い、今の私は何も持っていない。 彼だけが支えだと思っていたのに、その支えすら幻だったのだ。 「思い出してみろよ。俺が本気で未来を語ったことなんて、一度でもあったか?」 確かに、彼は未来を具体的に語ったことはなかった。けれど私は、彼の曖昧な言葉や優しい仕草を未来への約束だと信じていた。 「私は…言葉がなくても、隣にいてくれるだけで未来を信じられた」 信じたいから、信じてしまった。 二年間のすべてを、彼の一言一言に縋って生きてきた。 「未来を信じる?お前が勝手に夢見てただけだ」 「私は本気であなたを愛してた。あなたも、同じ気持ちだったと思ってたのに」 私が辛くて泣いていた夜、彼は黙って隣に座り、背中を撫でてくれた。その温もりに救われ、孤独から解放された。 過ぎ去った瞬間にすぎないけれど、確かに愛はあった。 「まさか。ただの遊びだよ。お前は俺の退屈を紛らわせてくれただけだ」 涙が頬を伝うが、必死に声を絞り出す。 「……あなたを信じていたのに」 未来が、音を立てて崩れていく。これほどまでに華やかで整った容姿を持ち、洗練されたオーラを纏っているのだから、俳優やモデル、若手起業家とか…世間に顔の知られた有名な人物であることは想像に難くない。それなのに、彼が誰なのか全く見当がつかない。相手が誰であれ、自分が知られていて当然という環境にいる人に対して、ぽかんと間抜けな顔を晒してしまったのは失礼極まりない。 私は慌てて頭を下げた。 「す、すみません……! 私、本当に世間知らずで……有名人の方だなんて全く知らなくて」 私の必死の謝罪に対しても、彼は気を悪くするどころか、どこか面白がるように肩をすくめた。 「有名人……まぁ、あの業界ではある意味有名人、かな」 「あ、じゃあその記事を見たということは…」 母が亮介の会社でアルバイトをしていると、面白おかしく書かれていたあの記事を…。 不安で押し潰されそうになっている私の様子を見て、彼はサングラスの奥の目を少しだけ細め、何かを察してくれたようだった。 「まぁ、ただの噂をそれっぽく書き立ててるだけの記事なんで、そんなに気に病む必要ないですよ」 彼がどこまで記事の詳しい内容を覚えているのかは分からないけれど、少なくとも目の前にいる彼自身は、そのゴシップを鵜呑みにして私を蔑むような人間ではないということが伝わってきて、少しだけ胸のつかえが下りた。 彼の言う通り、世間は面白おかしく脚色されたストーリーを好むし、週刊誌やゴシップ誌に書かれていることが全て真実であるわけがない。 とはいえ、たとえ嘘や憶測であったとしても、文字として活字になり、多くの人の目に晒されることの暴力性は計り知れない。智哉さんの完璧な経歴に、私という存在が泥を塗り続けている事実に変わりはないのだから。 「そう……ですよね。ありがとうございます」 私がか細い声で答えると、彼はふと視線を落とし、微かに自嘲するような笑みを口元に浮かべた。その瞬間、彼の周囲に漂っていた華やかで軽快なオーラが、急に薄暗く重たいものに変わったように見えた。 「ああいう人達
家から歩いて二十分ほどの距離に、そのカフェはあった。 アンティーク調のレンガ造りの外観は、スマホの小さな画面で見た以上に魅力的で、どこか隠れ家のような落ち着いた雰囲気を漂わせている。 重厚な木製のドアを押し開けて中に入ると、カランと控えめなベルの音が鳴り、同時に焙煎されたばかりのコーヒーの芳醇な香りがふわりと鼻先をかすめた。 店内は数人の客がまばらに座っているだけで、静かでゆったりとした時間が流れていた。 偵察のつもりで来たけれど、この空間なら少し羽を伸ばせそうだ。私はホッと息をつき、注文をするためにレジカウンターへと歩み寄った。 その時だった。 死角になっていた通路の角から、不意に大きな影が飛び出してきて。 「あっ……」 目の前に現れた背の高い男性と正面から思いきりぶつかってしまい、私は数歩よろめいた。 彼の手にはテイクアウト用の紙コップが握られており、衝突の反動で中に入っていたコーヒーが波打つように宙を舞った。 そして、茶色い液体が私の着ていたカーディガンの袖口からスカートの裾にかけて、バシャリと容赦なく降り注ぐ。 「うわっ、やば。すみません!」 ぶつかった相手の男性は、ひどく焦ったような声を上げて慌ててポケットを探り始めた。茶色く染まった私の袖とスカートを見て、完全にパニックに陥っているようだ。 彼が引っ張り出してきたのは、上質な素材の清潔なハンカチ。 彼はそれを無造作に広げると、私の服についたコーヒーの染みをどうにか吸い取ろうと、急いで手を伸ばしてくる。けれど、見ず知らずの若い男性に服を拭かれるのはさすがに抵抗があった。 私は彼の親切心を無下にするようで申し訳ないと思いつつも、咄嗟に一歩後ろへ下がり彼の手を避けた。 「あ、いえ……大丈夫です。お気になさらないでください」
冷たく閉ざされた扉と、彼の言葉が頭を巡って、結局一睡もできないまま朝を迎えてしまった。 静まり返ったリビングのソファに、深く体を沈める。 智哉さんは朝早くに家を出ていった。足音が聞こえた時、顔を合わせる勇気が出なくて、思わずベッドの中でたぬき寝入りをしてやり過ごしてしまった。 「あんな簡単に吐き捨てられ……」 無意識にこぼれた言葉に、私は慌てて首を振った。 違う。あの大雨の夜、自分の劣等感から先に「向いていない」と逃げの言葉を口にしたのは、私の方だ。 売り言葉に買い言葉のようになってしまったけれど、まだ正式な書面を交わして契約を破棄したわけじゃないし。どのタイミングで荷物をまとめて出て行けばいいのかも分からなかった。 「……あ、そうだ」落ち込んでいる場合じゃない、昨日の夜、必死にバイトを探してたんだった。 もし本当に契約破棄になったら、智哉さんに肩代わりしてもらっている母の莫大な借金を返していかなきゃいけない。お母さんが亮介のところでバイトしていたとはいえ、とてもじゃないけどそれだけで到底返せるような額じゃない。それに、智哉さんと契約してたから、お母さんが亮介のところで働くのは辞めさせてしまったし。つまり、私がなんとかするしかない。 ベッドの中でその事実に気づいた途端、すっと血の気が引き、暗闇の中で急いで求人情報を漁った。 そこで見つけたのが、隣町にあるカフェの募集だった。 時給もなかなかいいし、お店の雰囲気も良さそうで。 今の私は、「婚約者の振り」をする役割すら失いかけた無職だ。冷静に考えれば、無職のまま莫大な借金を抱えて放り出されるなんて、絶望的すぎる。 けれど、すぐに「応募」のボタンを押すことはできなかった。 もし契約破棄をせずに婚約者の振りを続けることになった場合、無断でアルバイトなど始めれば「篠原家の体面に傷がつく」と彼をさらに怒らせてしまうかもしれないから。 とにかく、正式に
智哉さんは何も言わず、少し乱れた前髪の奥から私をじっと見下ろしている。怒鳴られるわけでも、冷たく突き放されるわけでもない。ただ、対処の難しい問題に直面して沈黙しているような、そんな静かな時間が流れた。あの大雨の夜、車の中で私が口走ってしまった言葉を、彼はどう受け止め、どう処理しようとしていたのか。やがて智哉さんは、小さく、自嘲するような乾いた息を吐き出した。「……契約破棄をすると言っていた人間が、俺のことを知りたいと?」彼の言う通り、自分から向いていないと突き放しておきながら、今になって相手の気持ちを探ろうとするなんて、あまりにも身勝手で矛盾している。「その事についても、話しをさせてください」私が落ち着いた声でそう返すと、彼は私の言葉を真っ向から受け止めるのを避けるように、小さく首を振る。「今日は疲れ……」「疲れていても、大事な話なので時間を作ってください」私は彼の言葉を遮ったことに微かな罪悪感を覚えながらも、できるだけ静かに、けれど引き下がるつもりはないという意思を込めて言葉を紡いだ。じゃないと明日も明後日も、同じように仕事という理由で避けられ続けるだろうから。「……そんなに」普段の彼からは想像できないほど、張りのない静かな声だった。「え?」私の小さな声に、智哉さんは一度だけゆっくりと瞬きをした。「そんなに俺との契約を破棄したいのか」私が深夜まで起きて彼を待ち伏せし、「大事な話がある」と引き留めたのは、彼との契約を正式に白紙に戻すためだと。彼は本気でそう思っているらしい。それを悟り、私は慌てて否定の言葉を口にした。「いえ、そういうわけでは……」 私が言葉を濁しながら否定すると、智哉さんはもう私の目を見ようとはしなかった。「したいのなら勝手にしろ」その言葉を残し、智哉さんは私の横を通り抜けていった。彼が自室のドアノブに手をかけ、
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